仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要法話③

2023年09月21日 | 浄土真宗とは?
千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要法話③ 

 阿弥陀仏の無条件の救いは、全ての人間の多様性を認めていこうとするみ教えです。人間のもっとも虚しく愚かな状況は、死に際したときかもしれません。
私は40十代の頃、5年間ほど月に一度『産経新聞』夕刊「宗教.こころ」というコナーにコレムを執筆していたことがあります。新聞社がテーマを示し、そのテーマに沿って、色々な宗教家がコラムを寄せるという企画でした。
あるとき「死にざま」という題が示されました。浄土真宗では死にざまは問題としません。死ぬときは、阿弥陀仏の委ねて、死ねるように死んでいくというみ教えです。
 そのとき、次のような内容を書きました。
 死にざまではなく死に際について、一つ興味のあることがあります。
 五木寛之氏の著書に「大河の一滴」に、次のような話が紹介されています。『大河の一滴』(たいがのいってき)は五木寛之の随筆作品。1998年に幻冬舎より刊行。2001年に東宝で映画化された。 2020年に売り上げが急増し、単行本と文庫本合わせて重版13回、34万部増刷された
 あるおばあちゃんが亡くなったとき、医師が呼吸を調べ瞳孔を調べて「ご臨終です」と家族に告げた。家族は死に水を取ることを思いだし、あわてて脱脂綿はどこだと右往左往する。すると「ご臨終です」といわれたはずのおばあちゃんが、目をつむったままふっと「ダンスの上から三番目の左側」と言われたという話です。これはありえる話です。
人間の脳は、心臓が止まっても数分間は正常に活動し、心臓マッサージ等によって復活も可能です。これは心臓が止まってからの数分間は周りの声が聞こえ、脳細胞が活動しているということです。
 興味があるとは、心臓が停止してからのその数分間、あるいは数秒間、何を思いこの人生を終わってゆくかということです。もちろん、もしそうした状況が許されるならのことです。
 私は、消えゆく命の中で、こんなことを思って過ごしたいという希望があります。それは私を見送る人たちが、ベットの横で「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるのです。私はその耳から届く念仏を通して、「なぜ阿弥陀仏が、そのまま救うという大悲の如来となれれたのか。なぜ人間の生き方を示さず、無条件に救うという仏さまに成られたのかを味わいながら終わっていきたいということです。
消えゆくはかない命の中で、そのはかない命故に大悲して止まない阿弥陀仏に触れていく。それは消えゆくはかない命が、はかない命のままに、阿弥陀仏に出会うことのできた命として肯定していけるということでもある。
私たちは、すべてのいのちあるものが、かけがえのない存在であると、受け入れてくださる阿弥陀仏の智慧と慈悲を平和の礎として、戦争によって尊い命を失った方がたを偲びつつ、「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と仰せられた宗祖の言葉を胸に刻み、武力、権力、財力、知力といった力のあるなしをえらばず、愛憎を超え、すべての人に開かれている阿弥陀如来の願い、はたらき、み言葉に思いをよせ、ご一緒にお勤めいたしましょう。(終了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする