日本史に登場する絶世の美女は何人かいます。
どの美女も謎に包まれることが多いようで、例えば小野小町なども各地に伝説や墓も複数存在したりします。
勾当内侍も同様に複数の墓があるようです。
ただ内侍の場合、本当に実在したのかどうかも分かりません。
一般的には一条行房の娘、妹ともいわれ、また一条伊尹の娘ともいわれ、氏名は不詳です。存在の根拠は「太平記」だけで、しかも新田義貞のストーリーに組み入れられている脇役です。
内侍の墓としては、滋賀県の野神神社があります。
新田義貞が北陸へ落ち延びる途中、勾当内侍を堅田に残したまま越前で戦死します。この悲報を聞いた内侍は悲しみのあまり気が動転し、近くの湖水で投身自殺したという伝説です。
彼女を哀れんで墓が作られ、150回忌の室町時代になってから野神神社を建てて氏神としたようです。
しかし「太平記」には、「勾当内侍は嵯峨野の往生院のあたりの庵に入り、明け暮れ、仏道修行にはげむ身となった」とあります。伝説と矛盾します。
新田義貞の故郷にも内侍の墓があります。
上の画像がそうです。しかもここには義貞の首塚まであります。
ここでの伝説によれば、「太平記」の記述通り嵯峨野の庵に入ったのち、夫の義貞の故郷へ行き、儀源比丘尼として義貞を弔ったことになっています。
内侍の墓にはツツジの群生が見られ、後に
謎のコーボー少女(註:
アジアを旅する写真家)の故郷である館林の城主・榊原忠次がツツジを館林城の沼の畔に移し、現在のつつじが丘公園になったともいわれます。
後醍醐天皇が、鎌倉を陥落させ、建武の新政に貢献した新田義貞への恩賞として内侍を与えたとされます。そして一度は破った足利軍を最終的に追撃しなかった原因にもなっています。それは、義貞が内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとされているからです。結果的に義貞の滅亡の遠因を作った女性こそが勾当内侍であると「太平記」では描いているのです。
真相はどうであれ、内侍の墓に立つと、激動の時代を生きた男と女を思い描かずにはいられません。こんな思いを骨で聴きます。最新の特許技術を駆使した骨伝導技術により、平成の激動を生きましょう。
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