いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

匿名裁判と真実。 anonymous trial and truth

2013-09-18 19:47:48 | 日記
 (1)長崎ストーカー事件では、その前事件での判決文に個人を特定する条件の被害者名と現住所が記載されて被告に通知されて、これがもとになって後に被告加害者が被害者の現住所を探し当てて被害者母子の殺害に至った極めて執念深い悪らつ非道の事件だった。

 結果として、司法は権威性に頼って唯我独善の自己益絶対性の過信の中で、被告の安全、生命、権利を守ることが出来なかった。検察組織は他の事件で証拠のデッチ上げでえん罪をつくり上げ、被告を法の処分に落とし込めるものまであらわれたのは、その延長戦上の司法絶対性理念の錯覚によるものだ。

 (2)その反省から、司法は再犯の恐れがある犯罪事件に対しては被害者保護の見地から、起訴状に実名を記載せずに匿名(とくめい anonymity)にして被告に通知し裁判を行う方針で臨んでいる。

 専門家の見解は二分している。報道では「刑訴法上、起訴状は事件を『特定』できればよく、被害者の名前や住所の記載までは求められていない」とすべて被害者匿名を主張する説と、「被害者が匿名では被告が具体的に反論できなくなる」とする説だ。

 (3)司法、検察の司法絶対性理念の錯覚による堕落ぶりの中で司法検察改革が急がれている現状で、裁判の絶対性そのものが揺らいでいる。そもそも、司法裁判制度とは「人」が「人」を裁く不条理性(unreasonableness)の中にあるものだ。

 すべてが『特定』出来る事件の裁判という保証はなく、また裁判そのものが事件の概要、事実、真実を証拠にもとづいて解明し、相応の処分、量刑を判定する比較検証構造のものだ。

 (4)基本的には裁判における被告、原告関係は、当該事件の容疑にかかわる立場上のものであって、加害者、被害者の実利益、不利益、人格、権利をいまだ『特定』したものではない。

 むしろ双方公平、公正な裁判審理を通してその事実、真実を解明することが司法の使命であり、役割である。
 被害者相手が匿名で誰かもわからずに(仮に身に覚えのない嫌疑であれば)、被害者が匿名では「被告が具体的に反論できない」というのは当然の理論であり、これでは公平で公正な裁判審理は望みようもないことだ。

 (5)「人」が「人」を裁く不条理性の中で、「人」の生命、権利、財産、人格を大きく法律上、制約、制限、破棄しようという判断の意味、意義は「特別」のものだ。
 裁判当事者にとってはすべて「尽くされる」ことが必要であり、裁判審理にあたっては何かを想定して省略、便宜をはかるものではあってはならないことだ。

 (6)裁判審理が事実、真実であろうとなかろうと(ない場合は特に問題だが)被告、原告の関係からくる、それでは恨みなどによる原告被害者の安全、権利をどう保障するのかだ。

 米国では再犯の恐れのある犯罪確定者を衛星監視システムを使って日常把握する方式を採用している。これには再犯の恐れの範ちゅう、範囲の判断と対象者の日常生活、人権、人格無視の問題もある。

 (7)冒頭の事件例は、関係する警察、自治体間の緊密な連絡、連携、情報共有、協力がなかったことが主な原因だった。
 セクト主義を排除して司法、自治体一体となった被害者保護制度の確立が必要だ。

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