オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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セガのスロットマシンに関する思いつき話

2016年04月13日 23時03分41秒 | スロットマシン/メダルゲーム
1970年から72年の毎冬、ワタシは、両親とその仲間に長野県のスキー場に連れて行ってもらうことで、スキーを覚えました。

このうちの、おそらく1971年か72年のどちらかだと思うのですが、数台の車に分乗しスキー場に向かうその途中、休憩として入ったどこかのドライブインで、ワタシは、10円硬貨を投入し当たると10円硬貨が払い出されるセガ製のスロットマシンが数台設置されてるところを見ています。このドライブインには、他にもやはり10円硬貨を払い出すルーレット機(メーカー、機種名は不明)があり、一つ年上の「トシちゃん」と呼んでいたあんちゃんは、それでいくらか小遣いを増やすことに成功していました。

もちろんこれらは違法営業のはずですが、当時はこの種の機械賭博が横行していた時期だったようで、到着した宿の近くの食堂にも、やはり10円硬貨で作動するセガ製のスロットマシン1台と、当時でさえ古びた印象を受ける木製のキャビネットのゲーム機(それが「Winter Book(ウィンターブック)」という一世を風靡したギャンブル機であることを知ったのは、ずっと後になってからのことです)1台が設置されていました。

ウィンターブックそのものではないけれど、その類似機種。アメリカ製。日本ではこれを小型化した模倣品が多く製造され、「ダービーゲーム」という通称でアンダーグラウンド市場に広く普及した。

この時のスロットマシンの方は、標準的なフルーツシンボルではなく、動物のシンボルが使われており、左リールに一つ出現するだけで当たりとなるチェリーに相当するシンボルは、青いチンパンジーの絵柄だったことを覚えています。ワタシは、どこかよそのおじさんと仲良く一緒にこのスロットマシンを遊んでいたのですが、それは、違法賭博である点を除けば、むしろほほえましい言える風景だったかもしれません。

当時、日本国内にはびこっていたスロットマシンの多くは、セガの製品であったと思います。セガは、1950年代の初めころ、「マーティン・ブロムリー」という人物によって、日本でスロットマシンを製造販売するために設立された会社と言って良いと思います。セガ(当時はサービスゲームズ社)は、当時のスロットマシンメーカーの最大手であるミルズ社の、アジア太平洋地区のディストリビューターとなり、ほどなくして自社でミルズ製品のコピーを製造するようになったようです。これには、1952年にアメリカで成立した、スロットマシンやその部品を州を越えて運ぶことを禁じる「ジョンソン法」が関係しているものと思われます。

セガは、始めのうちはミルズ社の「ハイトップ」と呼ばれるキャビネットの機械を製造していましたが、1960年前後に、その姿から「ダルマ」と俗称されるオリジナルのキャビネットを開発します。ワタシがスキー旅行で見た機種もその「ダルマ」でした。「ダルマ」キャビネットのセガスロットは、日本を含むアジア地域の米軍基地に設置される以外に、ヨーロッパにも多く輸出されていました。ワタシは10年以上前から、この時代のセガのスロットマシンのフライヤーコレクションをweb上で公開していますが、それを見てメールを寄越してくる外国人は、アメリカよりもヨーロッパ方面の方々が圧倒的に多いところを観ると、セガスロットのコレクターは、アメリカよりもむしろヨーロッパに多いようです。


ハイトップ筐体。ミルズ社製のものは、戦後から60年代初めにかけてのアメリカで、たぶん最も普及した。


セガのオリジナル筐体。通称「ダルマ」。中身はミルズ社製のコピー。

1964年、米国バーリー社が革命的なスロットマシン「マネー・ハニー」を発表してからは、セガのスロットマシンも時代遅れとなっていきます。それでも1970年前後ころには、バーリー製品を髣髴とさせる新しいデザインのキャビネットを開発して展開を続けていたようですが、中のメカは従来からのミルズ製品から大きく変わるものではなく、それほど普及はしなかったようです。その新筐体の在庫は、日本国内でメダルゲームに転用されたり、パチスロの元祖である「オリンピア」シリーズの「マークIII」に流用されるなどしていました。


バーリーの筐体に倣い、胴の部分が大きく光ってアピール性を強めてはいるが、内部のメカは旧態依然で、ホッパーは搭載されていない。


パチスロの元祖、オリンピアのシリーズ3作目。一世代、及び二世代前のオリンピアのキャビネットは「ダルマ」筐体だった(右の筐体)。