オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き

2017年02月25日 14時33分33秒 | 歴史
■前回までのあらすじ
1978年、sigma社は、米国メーカーと技術提携し開発製造した、日本初となるビデオポーカー機「TV・POKER」を自社ロケに設置した。

「TV・POKER」は表示装置に白黒のCRTを使用していたが、米国では1970年頃よりリアプロジェクターを使用したビデオポーカー機を複数のメーカーが商品化しており、sigmaのビデオポーカーのゲーム仕様はそれらをなぞったものだった。


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前回の記事をアップした後、米国におけるビデオポーカーの変遷が気になり、ネット上を検索したり、古い資料をひっくり返していたところ、新たな興味深い話を発見してしまいました。

まず、前回掲載したRavenのリアプロジェクターによるゲーム機ですが、ビデオポーカーの方は「Bally Computer Poker」、ブラックジャック機は「Bally Computer "21"」と称するものでした。

当時、Ravenとバーリーは協業関係にあり、Ravenは他にも、バーリーの代表的リールマシンである「スーパーコンチネンタル」をリアプロジェクターによるビデオスロット機にした「Golden Eagle」を開発していたりします。Raven(ワタリガラス)がEagle(鷲)を産むというのもなんだかおかしい話です。


Golden Eagle(Raven、製造年不明)。「ネバダ・ギャンブリング・ミュージアム」の展示より。掲示の説明文には、「Ravenがデザインし、バーリーが組み上げた」とあった。ビデオスロットを作るに当たり、大会社のバーリーが筐体や基板などのハードウェアを持ち、ソフトウェアを下請けのRavenに振ったと言う図式が想像される。

余談になりますが、1974年末ころ、コナミ(当時はコナミ工業)が、このGolden Eagleとよく似たビデオスロット「スーパーゴールドスコープ」を日本で売り出そうとしています。


業界誌「アミューズメント産業」1975年1月号にコナミが打った「スーパーゴールドスコープ」の広告。

しかし、当時まだ弱小メーカーだったコナミが、国産メダルゲーム機の開発が始まって間もないこの時期に、ましてや払い出し装置にホッパーを搭載したメダルゲーム機をゼロから開発できたとは考えにくいです。と思っていたら、スーパーゴールドスコープの広告が掲載された同じ号の新製品情報欄に幾らかの詳細が紹介されており、そこには「フルーツ絵のリールをアメリカのレーベン方式(投影機)にかえている」との記述があることから、どうやらこれはRaven製の別タイトルと思われます。なお、ワタシは、日本のメダルゲーム場で他社製のリアプロジェクターのビデオスロットを見たことはありますが、スーパーゴールドスコープは見た記憶がありません。

話を戻して。ビデオポーカー発展の中心となるのは、「ウィリアム・サイ・レッド(長いので、本文では以降「サイ」と呼ぶことにします)」という人物であることは比較的良く知られています。その名前と、RavenやDaleといった言葉を主たるキーワードとしてウェブ上を検索していたら、「NewLifeGames.com」というウェブサイトに、「Sircoma IGT A brief History」というトピックを発見しました(立てられたのは2005年8月)。

そのトピックには、「このフォーラムが、私のようなコレクターにとって、断片的な歴史知識を復元する助けとなることを強く期待する」と述べられているので、お言葉に甘えることに致します。以下は、そのフォーラムの記述を主たるソースとして、不明な部分やつじつまが合わないように見える部分はワタシの従来の知識でできるだけ補って、おそらくこうであろうと推測したストーリーに整理したものです。

サイは、1960年代後半、バーリーの販社である「バーリー・ディストリビューティング社(以下、BD社)」で働いていました(別の資料では社長とされている)。この時代に、後に彼が「キング・オブ・ビデオポーカー」と称される土台が形成されていることは間違いないようです。

サイは、BD社に在籍している最中の1971年にRavenを買収した他、小さなゲーミング会社の買収に自分の資金をつぎ込みました。「Pokermatic」のメーカーであるDaleも買収しようとしましたが、応じなかったため、次善の策として、「Bally Computer Poker」の開発に携わったエンジニアたちを引き抜きました。しかし、この機種はRavenが作っていたはずですが、それだけ人材の流動が激しかったということかもしれませんし、あるいはひょっとすると、「Pokermaticの開発に携わったエンジニアを引き抜いた」の誤りかもしれません。なお、このトピックでは、Pokermaticの製造年は1967年だったとしています。

一方で、「スタン・ファルトン」と言う人物が、自身の「Fortune Coin」社で、マイクロプロセッサーを使用したゲーム機の開発に取り組み始め、1975年にはカラーモニターを使用した初のビデオスロットを作り上げました。そして1977年には、その前年にバーリーが開発したマイクロプロセッサーと白黒モニターによるビデオポーカーを、カラーモニターにコピーしました。

その頃、バーリーは、BD社でのサイの稼ぎに注目し(別の資料によれば、当時、ラスベガスに設置されていたスロットマシンの殆どはサイが売ったものだそうだ)、BD社を買い取って自らディストリビューションを行うことを決定します。

バーリーは、今後ビデオポーカーを含む電子ゲームのプロジェクトに注力するつもりがなかったので、サイはこれを契機にバーリーを離れて自分のマシンを持とうと考え、バーリーの話に合意します。ただし、その条件として、自分は今後バーリーのリールマシンには競合しない代わりに、ビデオポーカーを含むすべての電子ゲーム機に関する権利をサイが引き続き保有することを契約書に書かせました。それがいつの事であったかは、トピックには述べられていません。

サイはFortune Coin及びその頃あったビデオスロットメーカーをすべて買収し、その複合企業体を「A1 Supply」と命名しますが、1979年には社名を「SIRCOMA」に変え、更に1981年には「IGT」として株式を公開するに至りました。

NewLifeGames.comのフォーラムのトピックで述べられていた重要な部分は以上です。このトピックを立てた人は、サイが買収した会社の一つで働いていたとのことで、当時、ぼんやりしてサイにぶつかってしまったとき、サイは初対面の自分にまるで古い友達にするかのような親切な言葉をかけてきたそうで、彼が素晴らしい老紳士であることを知ったと、トピックの最後で言っています。

ここまでの話を整理しておきます。

1960年代 サイ、バーリー・ディストリビューティングで働く。
1971 サイ、Ravenを買収。
1970代初期 バーリー、Ravenとリアプロジェクターのビデオポーカー「Bally Computer Poker」開発。
70年代(詳細不明) サイ、Daleから開発スタッフを引き抜く。
1975 Fortune Coin、カラーのビデオスロットプロデュース。
1977 バーリー、白黒モニター+マイクロプロセッサーのビデオポーカープロデュース。
1978 Fortune Coin、バーリーのビデオポーカーをカラーモニターでコピー。
70年代(詳細不明) バーリー、サイのバーリー・ディストリビューティングを合併。サイはその代償としてビデオポーカー他電子ゲームの権利を保持する。
70年代(詳細不明) サイ、Fortune Coin他ビデオスロットメーカーをことごとく買収。
79年以前(詳細不明) サイ、買収した企業の複合体を「A1 Supply」とする。
1979 A1 Supply、「SIRCOMA」に社名変更。
1981 SIRCOMA、「IGT」として株式公開。

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ところで、sigmaの創立者である真鍋勝紀(敬称略・以下同)は、1977年(1976年かも?)に、(資料に確たる記述がなく、推測に基づくものであるため削除・2/27/2017)まだBD社の社長だったサイのもとを訪れ、歓待を受けています。このときに、sigmaへのビデオポーカーの供給についての話し合いが行われたのでしょう。SIRCOMAは1979年からの商号ですから、1978年に売り出したTV・POKERのフライヤーで謳われていた「シグマが自家使用目的で、米国メーカーと技術提携し」たその相手は、SIRCOMAの前身であるA1 Supplyとなるので、本シリーズの1回目で掲載したフライヤーのキャプションは修正しました。

これ以降、sigmaとサイの蜜月状態はしばらくの間続いていたようで、1980年(ひょっとすると1979年かも)には、sigmaとSIRCOMA両社の社名が象られたビデオ筐体が作られています。


1980年ころに作られた筐体。前面右上にsigma、下部中央にSIRCOMAのロゴが見える。全体のデザインは、1930年代に製造され、今もコレクターに人気のあるアンティークスロットマシンシリーズ「Rol-A-Tor(正しく発音されないという理由で後に「Rol-A-Top」に改名された)」を象っている。

かつてアメリカで刊行されていた「Loose Change Magazine」という雑誌に、「この筐体がどういういきさつでできたのかをサイにたずねたが、サイははぐらかすような答えをするだけだった」という内容の記事が掲載された号を偶然手に入れていたのですが、現在見つからず、確認できないのが残念です。

(つづく)