オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ウェストワード・ホー(ラスベガス)を懐しむ

2021年06月20日 21時05分10秒 | 海外カジノ

かつて、ラスベガスのストリップ沿いに、「ウェストワード・ホー(Westward-Ho)」
というカジノホテルがありました。いや、ホテルと言うよりもモーテルと言う方が適切かもしれません。宿泊棟はすべてモーテル棟のような2階建ての作りでした。

 

(上)ウェストワード・ホーをストリップ側から見たところ。夜になるとたくさんのカラフルな傘に仕込まれた電飾が美しく輝く。(下) 夜のウェストワード・ホー。当時頒布されていたスロットクラブのリーフレットより。

ワタシはこのホテルに、2004年の10月に一度だけ宿泊しています。タクシーの運ちゃんに行き先を告げたところ、ホテル名がなかなか伝わらず、「ウェストワード・ホーだす。うえすとわーどほー。え? わがんねすか? えとあの、うえすとわーどほー。サーカスサーカスの隣のホテルなんですけんど。それよりひとつ南側の」などと四苦八苦しながら説明していているうちにようやく思い当たったようで、「ああ、Westward-Hoのことか。わかったわかった」と、無事到着することができました。発音が難しい名前でした。

(1)ウェストワード・ホーの部屋の中。標準的なモーテルの部屋と変わらない。テーブル上のペプシの紙コップはウェルカムドリンクではなく、単なる掃除のし忘れ。 (2)洗面所の入り口。間口が広い。 (3)洗面台。コップが使い捨てなのは安い宿によくある。 (4)トイレ。壁の向こうに浴槽がある。

古いだけあって、部屋の鍵はカードキーではなく、昔ながらの金属のカギでした。

画像:ウェストワード・ホーの部屋のカギ。この当時でも珍しい、普通のカギだった。

このホテルは、以前からカジノ併設のデリで、巨大なホットドッグやストロベリーショートケーキ、シュリンプカクテルなどを格安で提供していることがよく知られていました。ワタシはこの時以前にも数回訪れており、その時はどれもたったの75セントという驚きの値段でしたが、今回はホットドッグとストロベリーショートケーキが1.49ドルに、シュリンプカクテルが99セントに値上がりしていました。それでも破格の値段ではあります。

デリで提供されている格安メニュー。価格は当時のもの。(1)ホットドッグ。他ではせいぜい1/2ポンドどまりだが、ここのは3/4ポンドある。1.49ドル。 (2)シュリンプカクテル。エビは小粒なうえにレタスの千切りで上げ底されており、これは値段相応かと思わされる。99セント。 (3)ストロベリーショートケーキ。大きなスポンジケーキから直方体に切り分けた一切れを皿に乗せ、果実がゴロゴロ入っているストロベリーソースをかけ、最後にスプレー缶に入ったホイップクリームをこれでもかと言うくらいかける。1.49ドル。 (4)ストロベリーショートケーキの断面図。

ホットドッグはシグネチャーメニューなので、大々的に広告していました。

 

(上)かつて公式サイトに掲載されていた画像。道路に面したマーキーに、3/4ポンド(約340g)の「MEGA」ホットドッグが1.49ドルとの広告を表示している。ホットドッグの絵には「almost Actual Size(ほぼ実物大)」と謳っている。(下)宿泊棟の壁にもホットドッグの広告が描かれていた。

ウェストワード・ホーは、ワタシが宿泊した直後にちょっと大きなリニューアルをして、デリは裏側(西側)に新設した棟の中の「ラウンドアップ・グリル」に移り、この時ホットドッグは2.49ドルに値上げされてしまいました。75セント時代を知る者にとっては3倍以上になってしまったわけで、残念に思ったものでしたが、それでも他と比べればまだ十分安いので、いつかまた来るときもあろうと思っていました。

だが、しかし。ウェストワード・ホーは、ワタシが宿泊した翌年、2005年の9月に突然その閉鎖を発表し、同年11月にはそのドアを閉め、その後建物は取り壊されてしまいました。リニューアルして間もないというのにいったい何があったのかと調べてみたところ、どこかのデベロッパーに約1億5千万ドルで買収され、跡地は再開発されるはずだったとのことです。しかし、2008年のいわゆる「リーマンショック」により土地のオーナーシップが変わるなど紆余曲折を繰り返したようです。最終的には、今月24日のオープンが予定されているリゾートワールド・ラスベガスの一角となることに落ち着いています。

ラスベガスの地元紙「ラスベガス・サン」紙は、2012年に、「ウェストワード・ホー」を「ストリップに戻ってほしい絶滅したカジノブランド」のリストに加えたそうです。しかし、実現に向けた話は、噂さえも聞きません。まったく残念なことです。

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ところで、この時の旅行の目的は、ゲーミング業界のトレーディングショウ「G2E」の見物でした。今でこそゲーミング業界では、「スキルベースド・ゲーミング」がモノになるのかならないのかわからず捨てるに惜しい鶏肋の状態のままなんとなく続いていますが、実はこの2004年にも一度、スロットマシンにビデオゲームを組み込もうとする試みが行われていました。この時は、Bally社が、ATARIの「PONG」や「BREAK OUT」をボーナスゲームで遊ばせ、成績によってボーナスを与えるというものでした。

 

G2E2004年にBallyから出展されたATARIの「PONG」。ボーナスゲームではPONGが遊べた。

ラスベガス(というか、ネバダ)では、スロットマシンのペイアウト率は75%以上でなくてはならないというレギュレーションがあります。しかし、ボーナスゲームはプレイヤーの巧拙によって払い出し率が大きく変わってしまう可能性があります。そこでこのゲームでは、ベースとなる通常ゲームのペイアウト率を75%とすることで、ボーナスゲームではどんなに下手な人がプレイをしても、少なくともペイアウト率が75%を下回ることはないように作られていたそうです。この機械は一部のローカルカジノにテスト稼働として設置されましたが、すぐに姿を消し、以降市場に再び出てくることはありませんでした。


ラスベガス・1991年から現在までの流れ。

2020年05月03日 14時34分43秒 | 海外カジノ

ゴールデンウィークと言えば、毎年女房とラスベガス(と、可能ならもう一都市)を巡礼するのが、結婚以来ずっと続くウチの習わしでした。本当なら今年も、今頃はラスベガスで女房と二人並んでギャースカ言いながらビデオポーカーやバッファロー(アリストクラート社のビデオスロット)を打っているはずだったのですが、折からのコロナ騒ぎのため、ラスベガスどころか家を出るのも食料品の買い物の時に限って、STAY HOMEを極力守っています。

愚痴はともかくとして、ワタシが初めてラスベガスに行ったのは1991年のことで、サンズ(現在、ヴィニーシャンとパラッソが建つところ)に宿泊しました。サンズと言えば、トウモロコシのようなタワー棟が有名な風景でしたが、奥の敷地には2階建てのアパートのような宿泊棟がたくさんあり、ワタシの部屋はそちらの方でした。これらの宿泊棟のうちの一つに、カプコンUSAが借り切っていると思しき棟があり、企業ロゴの立て看板が花壇に立っていたことを覚えています。

今回は、その時のラスベガスの風景の記録と、それから現在に至るまでのラスベガスの変化のワタシの認識を記録しておこうと思います。当時はデジカメなどと言うものはなく、いわゆるレンズ付きフィルムで撮影したものですが、ネガが行方不明となっており、僅かに発見された紙焼きをスキャンしたものです。


画像1:ファッションショーモールの前から南向きにサンズを臨む。ストリップを挟んだ向かいにミラージのマーキーが見える。ミラージがオープンしたのはこの前年の1990年およそ2年前となる1989年の11月。


画像2:画像1からストリップを横断し、北側を臨んだところ。左端にファッションショーモールが見える。この頃のファッションショーモールは規模が今ほど大きくはなかった。今はもうないフロンティア、デザートイン(現ウィン)、スターダスト(現在何かが建設中)も見える。このころはストリップエリアにも広い範囲で空が見えた。


画像3:サンズの前から向かいのシーザーズパレス。今はこの右手にフォーラムショップスが建っている。


画像4:シーザーズパレスの前から東を臨む。この時点ですでにクローズしているノブ・ヒル(現カジノロイヤル)があった。左にマーキーが見えるデニーズは今も健在。


画像5:画像4の一つ南隣には、リバーボートを模したホリデイカジノ(現ハラーズ)があった。


画像6:ホリデイカジノのエントランスの看板。バフェイが朝$3.49、昼$3.99、夜$4.49と見える。29年前の値段ではあるにしても、もともとラスベガスのバフェイはこんな程度のダイニングだった。


画像7:シーザーズパレスの前から南側を臨む。バーリーズとデューンズ(現ブラージョウ)が見える。


画像8:シーザーズパレスの前から北を臨む。手前にフラミンゴ・ヒルトン(現フラミンゴ)、その向こうにインペリアルパレス(現リンク)が見える。

こうしてみると、この頃のラスベガスはまだ空が広い時期でした。この2、3年後から、ラスベガスはファミリー客の集客に舵を取り、ラクソー、トレジャーアイランド、MGM、ストラトスフィア、モンテカルロ、ニューヨーク・ニューヨークなど、テーマ性が強い超大型ホテルが立て続けに建造され、風景が一変していきます。

しかし、ファミリー客は思ったほどお金を落としていってくれないことがわかってくるとともに、高級を謳い「子連れ客お断り」とするブラージョウが1998年にオープンし、これが大成功すると、ラスベガスは高級志向に舵を切るようになっていきました。

高級化によって客単価を上げたい各カジノホテルは、子供っぽい印象を与えるホテルのテーマ性を隠すようになりました。トレジャーアイランドは大きな髑髏のマーキーを外して名称を「ti」に変え、「オズの魔法使い」をモチーフとしていたMGM(あの緑色の巨大な宿泊棟はエメラルド・シティがモデルだった)はインテリアから映画テーマを消しました。ラクソーは、今さらピラミッドやスフィンクスを隠すことはできませんでしたが、インテリアから古代エジプトをモチーフとする装飾を極力無くしていきました。

こうしてホテル代や飲食料金は高騰していくのですが、それでも客が来るものだから、ラスベガスもかなり調子に乗って、さまざまな高級リゾートの建造計画が立ちました。しかし2008年、いわゆる「リーマンショック」が発生し、米国は未曽有の不景気となり、それら新たな計画の多くは立ち消えとなり、各ホテルの部屋代は高級志向以前のレベルに値下がりしていきました。このようにラスベガスが不景気にあえいでいる間、為替相場は極端な円高となったので、この時期、日本人にとってラスベガスは非常に安く楽しめる観光地でした。

何とか景気が回復した後のラスベガスのホテル客室の利用率は常時8割ほどだったそうです。そうなるとラスベガスはまた調子に乗って、「リゾートフィー」という新たな概念をひねり出しました。これは、部屋代とは別に徴収するサービス料で、予約段階ではなくチェックイン段階で課金されるものです。そのリゾートフィーも、はじめのころは1泊あたり5ドルとか10ドル程度と控えめでしたが、今では高いところだと50ドル近くもします。さらに現在のラスベガスは、それまで無料で当たり前だった駐車場でも料金を取るようになってきています。

そんな経緯があるため、今のワタシは殆どダウンタウンかローカルのカジノホテルに宿泊し、ストリップエリアには特に用でもない限り殆ど近付くこともなくなりました。さて、そのラスベガスも、このコロナ騒ぎで娯楽産業はことごとく休業させられています。昨日には、ついに従業員のレイオフに踏み切ったカジノオペレーターも出たという報道を見かけました。この難局が明けた時、ラスベガスはどう変化しているのでしょうか。


新ラスベガス半生中継2019年G2Eショウ(8) DAY 4~5: Extra Ball!(でも要らない)

2019年12月08日 15時17分07秒 | 海外カジノ
本来のスケジュールでは、
 (1)9時LAS発、10時40分SFO着
 (2)11時半SFO発、14時半NRT着(+1日)
のはずだった。しかし、(1)が大幅に遅れて出発したため、SFOに到着した時には既に(2)の国際線が出て行ってしまった後だった

とりあえずT本と二人で国際線の搭乗ゲートに行ってみたところ、事情を承知している地上係員と思しき人から「成田行き? ××(失念)に行ってください」と言われたのでそちらに行ってみるが、誰もいない。ユナイテッドのカスタマーサービスカウンターを探したが見つからないので、とりあえずどこでもいいやとセキュリティエリアの外(ランドサイド)に出て、ユナイテッドのチェックインカウンターで事情を話すと、すぐに端末を叩いて便を探してくれたが、「今日出発の成田行きの便はもうない。台北経由で8時間ほどの乗り継ぎを経て2日後に日本着の便ではどうか」と言い出した。この場合、日本着は月曜日の早朝となる。さすがにそれは厳しいので、大阪行きでもいいから今日出発の便はないかと食い下がるも、「それもない。香港経由東京行きの便ならある」と言われた。乗り継ぎ時間と日本着の時間はどちらもほとんど同じだった。

我々に与えられた選択肢は、「経由地を台北にするか香港にするか」のみで、月曜早朝の日本着は避けられないようだった。やむを得ず、過去に使った経験があり僅かなりとも見当がつくという理由で香港経由を選んで、搭乗券を受け取った。とんだエキストラボールだが、最終目的地が成田ではなく羽田になっていたのはむしろありがたく、せめてもの慰めになった

飛行機は確保したが、今いるところはランドサイドであるから、もう一度セキュリティを通らなくてはならない。しかし、セキュリティゲートの前には数十メートルに及ぶ長蛇の列ができている。どうやら列は大きく分けて2つあるようなので、ワタシとT本で別々の列に並んでみた。すると、T本の列はそれなりに進むものの、ワタシが並ぶ列は遅々として進まない。そうこうしている間にT本とは10メートルほども離れてしまったので、ワタシは列を離れてT本に合流することにした。それでも、この時点で出発まで1時間半ほどしかなく、間に合うのかと不安になった。

そこに、ラッキーと言うべきなのかどうなのか、ユナイテッドから携帯に、我々が乗る香港行きの便に「予期せぬオペレーション上の問題」が発生したため出発が20分ほど遅れるというメールが届いた。そしてその後も、搭乗ゲートが変更になった報せと、遅延がもっと長引くという報せが相次いで届いた。メールには、キャビンのドアが閉まらないトラブルとあったので、おそらく機材の変更があったのだろう。

大混雑のセキュリティを抜けてようやく搭乗し、機内で席に着くと、安心したせいかすぐに眠りに落ちた。そしてふと目覚めると、飛行機はまだ地上にいる。時計を見ると、出発の予定時刻を大幅に過ぎている。

またか

騒いでも仕方がない、こんな時はとにかく眠ってしまえと思い、再び目を閉じた。

機内食の配膳の音で目覚めたら、香港到着まであと2時間ほどだった。14時間ものロングフライトをこれだけ眠って過ごせたならおおいに上等だ。やはり現地最後の夜はカジノで徹夜に限る。


SFO-HKG間での機内食。たいていのモノがうまいと思えるおめでたいワタシにして恐れを感じてきたユナイテッドの機内食も、昔に比べれば随分とマシにはなっている。

機内食をいただいてからほどなくして香港に到着。現地時間は夜9時くらいで、次の乗り継ぎまでは3時間半ほどで済む。結果論ではあるけれど、出発の遅れもむしろ好都合に作用した。漢字が併記されている案内表示を頼りに結構長々と歩いて乗り継ぎのセキュリティチェックエリアに辿りつき、日本語を使う係員の指示に従って手荷物の検査を受ける。政治的、社会的な混乱が続く香港だが、少なくともこの日の空港内ではそんな雰囲気はまったく感じられない。

エアサイドに入ったワタシとT本はラウンジに向かったが、6年前に女房とこの空港に来た時にはアジア系の航空会社(社名は失念)だったように記憶しているラウンジは、「ユナイテッドラウンジ」になっていた。日本でも米国でも、ユナイテッドのラウンジの飲食物にはたいしたものはないので落胆しかけたが、いざ中に入ったら、女房と利用した時と同等のしっかりしたホットミールが数種類、ちゃんとあった。ビールもタダだ。


香港のユナイテッドラウンジで食べたもの。写真は豚肉の角煮、焼きそば、茄子の四川風炒め物。他にもグリーンカレーやフォーなどがあり、これらも食べてみたが、どれもおいしい。特に茄子の四川風は思わずうなるほどで、リピートした。加えて、青島ビールってこんなにおいしかったっけかと感心する。

ラウンジが閉まる時刻(深夜0時)が近づいてきたので搭乗口へ向かう。同便の乗客の中に、サンフランシスコ空港で出会った、我々と同じ目に合っていた日本人乗客もいて、お互い大変でしたねえといくらかの言葉を交わす。今回はANA運行便で、機内食もユナイテッドよりはおいしい。


HKG―HND間で出た機内食。ワタシは長年ユナイテッドのテリブルな機内食に鍛えられ続けてきたので、よその航空会社の機内食はどれも水準が高いと思えるようになった。

羽田に到着したのは早朝6時。ラスベガスで預けた荷物は、経路変更のタグが貼られて無事に羽田で受け取ることができた。出発は台風、帰りは飛行機のディレイで旅程が狂いまくった旅もようやく終わり。財布の中の現金は、出発時よりも120ドルくらい増えていた。

(このシリーズ終わり)

新ラスベガス半生中継2019年G2Eショウ(7) DAY 4:最終日(のはず)

2019年12月01日 17時30分57秒 | 海外カジノ
◆本日の主な行動予定
・ゴールドコーストをチェックアウトする。
・昼の1時、現地在住の友人Gさんと、空港の東に新しくできたラーメン屋で昼食。
・夕方の6時半、現地在住の友人Sさんと、オーリーンズのオイスターバーで夕食。
・深夜、どこかのカジノで出発まで過ごす。
・明朝7時にレンタカーを返却後、空港に行き帰国の途につく。
以上。

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いよいよ最終日。朝9時ころに目覚める。バフェイで朝食の後、部屋に戻り荷物を引き上げて車のトランクに詰めれば残りの帰り支度は昼までにゴールドコーストをチェックアウトすることのみ。以降、明朝の出発まで宿無しの身となるが、どうせ最後の夜は一晩中カジノで過ごすので大きな支障はないし、そうやって寝不足状態を作り上げていれば、帰りの飛行機では眠って過ごすことがし易い。

Gさんとの待ち合わせ時刻にはまだ早いので、カジノでゲームをして過ごす。Aristocratの、あまり見かけたことのない新しいスロットマシンがあったので試しに遊んでみたら、ボーナスゲームに頻繁に入ってくれて楽しい。最終的にお金はそれほど増えなかったが、十分に遊べた。

昼過ぎ、Gさんと待ち合わせている「HANA RAMEN」へ。場所は、マッキャラン空港の東端に隣接するウォルマート・スーパーストアのある辺り。横浜家系を謳うが、塩や味噌、カレーラーメンなどもある。ワタシは13.95ドルと少し高い、店一押しの「Meat Lover」ラーメンを注文。Gさんは別のラーメンの他に、「今夜の夕食用に」と、チャーハンと餃子を持ち帰りで注文していた。


(1)HANA RAMENの外観。 (2)店内。あまり広くない。 (3)卓上のメニューから、ラーメンの部分。 (4)Meat Loverラーメン。背脂もたっぷりの濃厚系は、ワタシの好むところ。

「Meat Lover」の厚切りチャーシューはさすがアメリカと思わされる。横浜出身だという日本人のあんちゃん店員もフレンドリーで良い。麺のゆで方が私の好みより柔らかめであったので、そこまで指定できればなおいいのだがと言ったら、Gさんは「言えばやってくれると思いますよ」と言う。リピートしても良いと思える店なので、次回来たときは「麺硬めでお願い」と注文してみよう。

Gさんと別れた後、「Pinball Hall of Fame」に立ち寄って1時間ほど遊んでからオーリーンズに行き、T本と合流する。ポーカープレイヤーのT本はポーカールームへ行き、ワタシはプログレッシブが溜まっているVPのトリプルプレイで、ディナーまでゲーム。しかし、どうにも良くない。お金が結構なペースでなくなっていく。

昨日も、ゴールドコーストに戻ってからいくらかゲームをしたのだがいいところがなかった。クラップスでは、最初にバイインした200ドルは4ゲームで全部溶け、リバイした200ドルもすぐに風前の灯火まで追い込まれた。その後は若干盛り返しもしたが、結局3時間ほど遊んで200ドルを失っている。それまでの収支は僅かにプラスだったのに、これ以降はずっとマイナス傾向となり、その趨勢を今日も引きずっている。そろそろ、25セントデノミではロイヤル様の降臨でもない限り一撃で取り返すことが難しいくらいへこんできた。

そうこうしているうちにSさんとの待ち合わせの時間が近づき、T本もやってきたので、オイスターバー「Big Al's」の前でSさんを待つ。Sさんがなかなか来ないと思ってSNSで連絡したら、「私も店の前にいますよ」と言うのできょろきょろしたら、数メートル離れたところにいた。お互い全然気づかなかったと笑いながら店に入る。


Big Al'sで注文したもの。(1)生カキ1ダース。 (2)ロックフェラー半ダース (3)クロウフィッシュ。大きくて食い応えがあった。 (4)ワタシが注文したクラムチャウダーは、ラーメンどんぶりほどの大きさの器に盛られていて、これだけで腹はかなり膨れる。

オイスターバーでの勘定は溜まりまくっているワタシのコンプダラーで支払い、SさんとT本にはチップ分だけお願いした。3人で生カキ1ダースロックフェラー(殻付カキにチーズ、ガーリック、ほうれん草などを乗せてオーブンで焼いたもの)半ダース、クロウフィッシュに、それぞれがアラカルトと飲み物を注文して120ドル弱はそれだけで安いと思うが、感覚的には実質タダなのでなおさらお得感がある。

Sさんと別れたのち、T本もワタシもゲームに戻る。T本が言うには、最近のラスベガスのポーカールームでは「ルーズ・アグレッシブ」スタイルのプレイヤーが多いらしく、そうなるとほとんど運任せのスロットマシンを引くようなゲームになり易く、ツイていないと簡単に軍資金が減ってしまうとのことだった。そしてT本も今のワタシ同様、良い流れに乗れずかなりお金を失っていると言う。

カジノで遊んでいられるのも残すところあと10時間ほどしかないので、いっそこの辺で勝負を大きくしてみようと思い立ち、$1シングルプレイのDDB・Aces & Facesに移動した。DDBは分散が大きい、ハイリスク・ハイリターンの機種だが、「Aces & Faces」はA及びJ~Kのクワッズにボーナスが付くので、同じペイアウトスケジュールなら、通常のDDBよりもPO率は高くなる。

それにしても、キャシーの世話になっていた頃は$1デノミのVPを打つのは当たり前だったし、だからこそコンプも比較的簡単に得られていたのだろうが、ローカルやダウンタウンを定宿とするようになってからは殆ど25セント機ばかり打つようになっていたので、若干緊張感が高まる。昔はよくこんなおっかないゲームを平然と打っていたものだ。もっともあの頃は、ニューヨーク・ニューヨークにも、その他のストリップエリアのカジノにも、フルペイのピッケムやDBが普通に転がっていたということもあったのだけれども。

運よく、最初に投入した$100ドルがなくなる前にレギュラーのクワッズが出てくれた。そしてさらにあまり間を空けずに再びレギュラーのクワッズが出て、クレジットは500ドルを超えた。これで少し楽になると安心しかけたが、その後は鳴かず飛ばずとなり、残りクレジットが200を切って不安が頭を持ち上げてきたころ、デルトストレートフラッシュが出た。


デルトストレートフラッシュ。ワタシがデルトストレートフラッシュを引くのはこれが生涯3度目だが、先の2回は最高峰であるロイヤルフラッシュで、レギュラーのデルトストレートフラッシュは初めての経験となる。そう考えると、ワタシはツイていると言うべきだろうか。

起死回生のストレートフラッシュで息を吹き返したと思ったのもつかの間、その後もクレジットは着々と減り、またもやクレジットが200を切ったところでQのトリップスが配られた。クワッズに発展すれば最低でも400ドル、キッカーが絵札以上なら800ドルになる手だ。祈る思いでドロウボタンを押した結果がこれ。


Qのクワッズ。キッカーがJなので800ドルになる。

しかし、クレジットが1000にわずかに届かなかったので、欲を出して続けていたらまた少し減ってしまい、結局800ドルでこのセッションを終える。それでも収支は原点を僅かに上回る程度に回復した。

資金の余裕ができたワタシは、プログレッシブ目当てで再びトリプルプレイに戻るが、依然として手に恵まれない。いや、それどころか、今回の旅で最悪のコールドストリークに突入し、さっきAces & Facesで得たお金の大半を失うと言うドイヒーな展開となってしまった。

カジノを発つまでの残り時間は3時間ほどに迫ってきた。ワタシは夢よもう一度と、再び$1のDDB・Aces & Facesに移ったところ、比較的あっさりレギュラーのクワッズがでて、更にその僅か2分後に、Aces & Facesならではのビッグハンドが降臨してくれた。


クズ手の場合、絵札を残すのはJB系ポーカー共通のセオリーだが、Aces & Facesではさらにそこからクワッズに発展する期待が膨らむ。このようなクワッズは、まさにAces & Facesに期待する結果の典型例。

二度の危機を乗り越え、もう残り時間も少ないのであとは流して過ごそうと思っていたところにT本がやって来て、全くつかず結局有り金を使い果たしたと言う。いくらか融通しようかと申し出たが、散々打ちのめされて心が折れたし時間もあまりないので、あとは24h営業のフードコートで夜食でも食べてのんびり過ごすと言うので、ワタシもハンバーガーのファドラッカーズでコーヒーを付き合う。

最後の1時間ちょっとでは、ワタシはトリプルプレイに最後の勝負をかけたが、結局ロイヤル様が降臨することはなく、若干お金を減らして時間切れとなった。それでも財布の中のお金は、この旅に出発した時よりもわずかに増えていた。T本と共にレンタカーセンターで車を返却し、シャトルバスで空港に向かった。

しかし、旅はまだ終わらなかった。飛行機に乗り込んですぐに眠りに落ちたワタシがふと目を覚ますと、飛行機はまだ地上にいる。いくらか寝た気がしていたのに束の間まどろんだだけだったのかと思って時計を見たら、出発予定時刻を1時間半ほども過ぎている。これが、この後に起きるもうひと騒動の前兆であったとは、この時点ではまだ想像できなかった。

(以下、最終回につづく)

新ラスベガス半生中継2019年G2Eショウ(6) DAY 3:キャシーと再会

2019年11月24日 22時05分37秒 | 海外カジノ
3日目。朝、ゴールドコーストの隣にあるリオ・スイートに行って、シーザーズグループのプレイヤーズカードを発行してもらう。今日は夕方4時にシーザーズグループのホストをしているキャシー(仮名)と会う約束がある。そのキャシーから、ワタシのカードを新しく作っておいたから取得しておいてねとSNSを通じて言われていたからだった。

キャシーとの付き合いは20年くらい前まで遡る。当時ラスベガスに駐在してい元同僚が、ワタシをニューヨーク・ニューヨークのホストの部屋に連れて行き、こいつのために部屋を取ってやってくれと頼んだ結果、部屋の中にジャクージが付いたやたらと広いスイートがタダで与えられた。まだラスベガスは数回目の駆け出しだったワタシはビビったものだった。

次にワタシがラスベガスに行くとき、前回世話になったホストに宛てて、部屋の予約をお願いするFAXを送った(まだFAXが現役だった時代だった)。すると、「そのホストは退職した。以降は私がお相手する」と始まるEメールが届き、部屋を確保した旨が書かれていた。そのメールの発信者がキャシーだった。

これをきっかけに、ラスベガスに行く計画が建つたびにキャシーに部屋の予約をお願いすることになった。キャシーの返信は常に素早く、1両日以上待たされたことは無い。その上、頼んだわけでもないのに空港からの送迎リムジンを手配してくれたり、こちらのつまらないリクエストにも親身になって対応してくれるので、2回目に世話になった時の帰り、部屋にあったコメントカードに、「キャシーは実に全く素晴らしい、ワタシが知る限りラスベガスで最高のホストである」と褒めまくるコメントを記入して、空港のポストから投函した。それが関係しているのかどうかはわからないが、キャシーはその後もずっと親切丁寧に、ワタシからのリクエストに何かと応えてくれた。

そのキャシーがストラトスフィアに移ったとき、ワタシに連絡をくれた。それ以降ワタシの定宿もストラトスフィアに代わり、4回か5回、ストラトスフィアのスイートをリムジンの送迎付きで利用させてもらった。

キャシーはその後アラジン(現プラネットハリウッド)に移った。この時も2~3度世話になったが、この期間は短かった。その後キャシーはしばらくカジノビジネスから離れたが、日本で大きな事故や事件が発生すると、安否を気遣うメールをくれたりはしていた。

それから数年経ち、久しぶりにキャシーから連絡が来たと思ったら、今度はヴィニーシャンのホストになっていた。今までで一番の高級ホテルであるが、このころのストリップエリアのコンプポリシーは、ワタシが初めてNYNYでコンプを受けた頃と比べるとずいぶんと渋くなっていたように感じていたし、そしてまた、ワタシのプレイスタイルが以前よりもお金を使わないようになっている自覚があるので、あまり図々しいお願いはできないなあと思ったものだった。実際、ヴィニーシャンでキャシーの世話になったのは1回だけ、実際に会うのもその時が最後になっていた。それが10年くらい前のことだ。

そのキャシーから、今はシーザーズ・エンターテインメントで仕事をしているので泊まるときには連絡をくれとメールが来た。今回は既にBoyd系で宿を取っていると返信したところ、ではシーザーズパレスのダイヤモンドラウンジに招待するから会いましょうと言われて約束したのが今日の4時だった。

成田空港で買っておいた手土産のカステラを持ってシーザーズの噴水前に約束の時間ちょうどに行くと、キャシーは既に待っていた。ほぼ10年ぶりの再会で、互いに長い無沙汰の挨拶をした後、ダイヤモンドラウンジに案内された。

ダイヤモンドラウンジは、プレイヤーズカードのステイタスが一定以上の上客に対するサービスで、本来ならワタシに受ける資格はないが、キャシーのゲストとして入れてもらった。中ではいくらかの飲食物がセルフサービスで揃えられており、ウェイターがテーブルに飲み物の注文を取りに来る点を除けば、空港の航空会社のラウンジのようだ。

ラウンジで、「500年前にポルトガルの宣教師が日本に伝えたトラディショナルケーキだ」と言って渡したカステラは、喜んで受け取ってくれた。その後、互いの近況を報告したり、ワタシのラスベガス仲間をキャシーに紹介するなどして1時間ほど過ごし、ワタシが次回ラスベガスに来るときはまた連絡すると約束して別れた。

キャシーと別れた後、せっかく来たのだから少しシーザーズのカジノを見物していくことにする。VPはやはり渋くて手を出す気にならないので、スロットマシンの新製品をいくつか遊んでみるが、もともと本腰を入れて遊ぶつもりがあるわけではないので気持ちのノリも悪い。小一時間ほどうろつき、僅かにお金が増えたくらいのところで帰ることにしたら、駐車場料金として15ドル取られた。キャシーには悪いが、昨今のストリップエリアのホテルの強欲は許し難い。

■本日の夕ごはん
リニューアルしてからまだ行ったことのないオーリーンズのバフェイ「medley」に行って見る。サファイアメンバーの17.99ドルは、他のBoyd系列と比較しても高い印象を受ける。オーリーンズのバフェイは、以前はクロウフィッシュが常に置いてあるのがウリだったが、リニューアルを機にやめてしまったのだろうか、今回はなかった。残念でならない。


medleyバフェで食べたもの。(1)プライムリブ、BBQスペアリブ、ローストビーフ盛り合わせ。 (2)中華めんがあったので、フォーの代わりのつもりで。 (3)デザートはスイカ多めに。

(DAY 4につづく)