旅限無(りょげむ)

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ダライ・ラマ法王が訪米 其の壱拾壱

2010-02-22 07:19:02 | チベットもの
■今回の1時間ばかりの会見を利用して、オバマ政権は自らの立場を過去の歴史を継承するものとして、改めて内外の人々に示そうとしたようです。

チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は19日、オバマ米大統領と18日にホワイトハウスで会談した際に、自身が少年時代に受け取ったフランクリン・ルーズベルト大統領の書簡の複製を贈呈されたことを明らかにした。ワシントンの議会図書館で行われた、非営利団体「全米民主主義基金」による民主主義功労勲章授与式の場で語った。

■同会場で行なわれたスピーチもなかなか毒のあるジョークを交えた興味深いものだったようですが、ここで授与された「民主主義功労勲章」はオバマ大統領が会見で語った内容と見事に連動していて地味な演出ながらも効果的だったでしょう。贈られた「書簡の複製」というのは1942年にルーズベルト大統領が書き送ったもので、目的は大日本帝国がビルマに侵攻してチャイナとインドとの軍事物資輸送ルートを切断してしまったので、チベット領内に新たなルートを作る許可を求めるためでした。日本にとってもチベットは重要な場所で明治以来、いろいろと面白い交流の歴史がありますが、この書簡が届いた時もチベットは連合国側に対して全面的な協力はしませんでした。


書簡は、1942年、当時7歳だったダライ・ラマが、チベットを訪れたルーズベルト大統領の特使から、贈り物の腕時計と共に受け取った。ダライ・ラマはこの時計を愛用し、2007年の訪米時にブッシュ大統領から議会黄金勲章を授与された際も持参していたが、書簡の方は長らく行方不明になっていたという。ダライ・ラマはオバマ大統領からの粋な贈り物について、「当時の私は時計にしか興味がなかったが……」と冗談を飛ばしながら、満足げな笑顔だった。
2月20日 読売新聞

■ダライ・ラマ14世の即位は1940年2月22日だったはずですから、ルーズベルト大統領からの親書を受け取ったのは即位2年後ということになります。映画になった『セブンイヤーズ・イン・チベット』や『クンドゥン』にも描かれていましたが、若き日の法王が機械類に強い興味を持っていたのは事実で、米国から送られたいくつかの贈上品の中から腕時計を特に気に入ったのでしょう。

■親書には大統領の写真が添えられていたそうで、それらを運んで来たのはワシントンの軍事戦略局が派遣したイリヤ・トルストイ大尉とブルック・ドラン少尉の2人で、ラサに1ヶ月間滞在した後、年が明けてからチベット人の護衛に守られて今の青海省・西寧市を経由してチャイナに入ったと記録されています。因みに14世の故郷は西寧市の近郊です。

■記事の中にある通り、大統領からの親書は「行方不明」だったようですが、その原因は1959年に起ったチベット動乱でしょう。着の身着のままで夜陰に紛れての亡命劇でしたから、外交文書など持ち出せなかった物が多かったはずですからなあ。でも、現物が失われても内容は記録されていたようです。文面には「……アメリカ合衆国においては大勢の人々が――私もその一人ですが、貴国及び貴国の住民に興味を抱いており……」と書かれていまして、使者の目的を「法王猊下もご承知のようにアメリカ合衆国民は現在27の諸国の人民と連合して、征服欲にとり憑かれ、思想、宗教、行動の自由を破壊しようと意図する国々によって仕掛けられた戦争に抗しております。……」だから、その正義の戦争に協力して欲しいという要請を言外に滲ませております。

■ダライ・ラマ14世の名で出された返書には、「サイン入りの肖像写真」と「月齢と曜日が表示される極めて精巧な金時計」に対する御礼の言葉が書かれております。そして文面には「チベットもまた歴史始まって以来、自由と独立を享受し、これらに重きをおいて来ました。……この戦いが速やかに終結し、世界の国々が自由と親善の原則に基づく正義の平和を恒久に享受できるよう強く祈願するものであります」と書かれておりまして、改めて「中立」の立場を伝えています。

■親書に出て来る「征服欲」「思想、宗教、行動の自由を破壊」などと糾弾されているのは北京政府ではありません。また中華民国の時代でしたし、連合国の敵は三国同盟を結んだ枢軸国で、チベットの協力を得て戦う相手は大日本帝国陸軍でありました。この親書がラサに届いたのは1942年の末でしたが、日本陸軍は1941年12月にタイ、翌1942年3月にはビルマのラングーンを支配下に置いています。この年の始めから大英帝国配下のインドと中華民国は日本によって切断された補給路の代替地としてチベット南東部を使おうと、ラサ政府を脅迫しておりまして、親分の英国公使も「将来の援助」を餌にして要求を呑まそうと図ります。しかし、チベット政府は飽くまでも「中立」を守り抜き、「非軍事物資」の通過のみを人道的に認めただけでした。

■1936年10月に始まった毛沢東の大逃走作戦でも、チベット東部に逃げ込んだ第2方面軍に対してチベット政府は、人道的に通過を黙認しつつも「早く出て行ってくれ」と要請していたくらいですから、ずっと中立を守って独立していたことが分かります。

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