旅限無(りょげむ)

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松山上陸作戦 其の八

2007-03-17 13:20:36 | 著書・講演会
■一夜が明けて、いよいよシンポジウム当日なりました。松山訪問が正式に決定した時から、生徒たちには「チベット服持参」を厳命?しておきましたので、起床・洗顔の後は自慢の民族衣装の着付け時間となりました。1人だけはチベット服を持たずに来日していたので、友人から借りた上着だけでしたが、残りの4人はしっかり日本のドテラに似た布製のチベット服を着ました。しかし、考えてみれば海外に留学する日本人学生の中で、一体、何人が和服を持って行くでしょう?否、持って行く以前に男女共に和服を着られないという問題も有りそうですなあ。それに比べればチベットの伝統文化はまだまだ元気とも言えそうです。

■大学近くの喫茶レストランで朝食を頂きました。話は先回りになりますが、この喫茶店で翌日も個人的に昼食を採ることになったのですが、その時、松山という場所が本当に海の要衝で文化の交差点になっている体験をしましたぞ!問題はお味噌です。注文した定食に付いて来た汁物が、関東人の目には洋食の豆スープにしか見えないのですが、これは立派なお味噌汁!麦味噌なので関東では「金山寺味噌」で味わえるほのかな甘みによく似た味わいが有ります。お味噌の銘柄を尋ねようと、マスターに声を掛けましたところ、こちらの聞き方が悪かったのでしょう。応対がちょっと喧嘩腰?なので吃驚してしまいました。「不味いん言うんやろお!」と低い声で詰め寄られて、どぎまぎしながら「トーンでもございません」と急いで否定しましたが、「どっから来たんね?」と畳み掛けられたので素直に答えますと、「ここの大学の先生の中にも、松山の食べ物は美味しいけれど味噌だけは勘弁してくれえ言う者んがおるんよ」と事情を説明して下さいました。

■マスターが仰る「東の者」というのは、「伊勢」どまりなのですが、松山の味噌は甘い過ぎてとても飲めた物ではない、という感想が多いそうです。関東から見れば伊勢あたりも西の文化圏のような気がしますが、松山からは立派な東国と思われているようです。こちらは新鮮な味わいに感動している事を伝えますと、マスターの態度が一変しまして、キッチンから未開封の味噌樽をテーブルまで持って来て頂きまして、「うちは今治の自家製しか使わんのじゃがのお」とお味噌の薀蓄を聞かせて下さいましたぞ。まあ、食えんこともない松山で入手可能な銘柄を教えて貰いながら、封を切ったばかりのお味噌に爪楊枝を突っ込んで、味見をさせて頂いた次第です。まあ、昔から嫁と姑との感情的な対立の主要な原因とされていた料理の味、そのまた中核となっていた味噌汁の味は、和食文化が滅びない限りは永久に解けない大問題なのでしょうなあ。オマケに、大学の宿舎で供された食事には、管理人さんの出身地の九州の味噌が使われていると聞き及びまして、味覚の東西対立が松山の地には潜んでいる事を学んだのでした。因みに喫茶店のマスターは、ちょっとテレながら「持って行くか?」と言いながら味噌樽の包装紙を土産に下さったのでした。

■閑話休題。午後のシンポジウムに使う辞書類を大学の控え室に預けて、正門で愛媛大学の学生達と落ち合い、松山城に登るリフト・ケーブルカー乗り場に向かったのでした。見慣れないチベット服を着た一行が歩いているのですから、遠目にも目立つので通行人が足を止めては何事かは話していましたなあ。幟旗でも掲げて歩けば良かったかも知れません。昨年5月にお邪魔した時には、数十年ぶりの大改修工事の真っ最中で、お城は白い工事用シートで覆われてその美しい姿を拝めなかったのですが、今回は改修成ったばかりのお城を堪能することが出来ました。歴史を振り返りますと、幕末の動乱期に佐幕派に組した松山藩は、長州征伐にも率先して参加して瀬戸内海の島で随分と活躍したのだそうです。ところが、鳥羽伏見の戦いに錦の御旗が出現して形勢が一気に逆転してからは、長州藩による復讐を心配しなければならない立場になってしまいます。情報網が発達していたからか、松山藩は自らの不利を早くから悟って恭順の意を伝えたお蔭で、お城も城下の町も焼かれずに済んだというわけです。長岡藩や会津藩など城も町も焼き払われた所とは違う歴史を持つ町なのですなあ。

■『坂の上の雲』にも、近代日本の陸軍で最初の騎馬兵団を創設した兄好古さんと、バルチック艦隊撃滅の立役者となった参謀の真之さんの兄弟も、海の薩摩と陸の長州には常に遠慮せざるを得ず、気詰まりだった話が出ています。考えてみれば、佐幕派中の佐幕派だった江戸東京の出身の漱石(坊っちゃん)が、同じ佐幕派だった松山に来て、意地悪を言い続けるのは奇妙な話ではあります。


…少し町を散歩してやろうと思って、無闇に足の向くほうを歩き散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。麻布の連隊より立派ではない。大通りも見た。神楽坂を半分に狭くしたぐらいな道幅で町並みはあれより落ちる。二十五万石の城下だって高の知れたものだ。こんなところに住んで御城下だなどと威張っている人間は可哀想なものだと考えながら来ると、いつしか山城屋の前に出た。

■「無闇に」歩いたと言う割には、今の市役所が有る区域を時計回りに一周しただけだと分かります。そこからは城を間近に仰ぎ見ることになるので、何かと東京の地名を引き合いに出して松山を貶(けな)して見せるのには無理が有るような気がしますなあ。本丸に登って内部の巧妙に設計された構造を見るまでもなく、平地に屹立する難攻不落の山城の威風は相当なものでありますぞ。ところで、「25万石」とはどれ程の分量なのか?『坊っちゃん』を翻訳する時にチベット伝統の古い度量衡を調べ直して見事に換算して見せた生徒が、偶然にも今回の旅行に参加していました。でも、実際にお城に登ってビデオ資料を見ていたら、本当は「15万石」だったことが分かりました。すると漱石はあれこれとイチャモンを付けながらも、10万石を上乗せしてくれていた事になるわけです。『坊っちゃん』という作品には、いろいろな謎が潜んでいるようですなあ。

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