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言葉と世界

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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精神世界や宗教関連の本を読むのは難しい。

変に生真面目で、妙に堅苦しい文体。

さらに、普段の生活の中で出会ったことのない言葉が、ところ狭しと並んでいる。

綴れれている「文章」以前に、そこにある「単語の意味」からしてわからないのだ。

ただでさえ意味の分からない単語が、さらに読み取りづらい文体で綴られているのだから、これらを読むというのは、「読書」というより、ある種「解読」という状態に近い。

そして、解読のすえ、ようやく掴みかけたその意味も、他の書籍を目にすることによって、さらなる混乱を呼ぶことがある。

一つの同じ「単語」の意味や解釈が、作者によって異なっているからだ。

別な書籍に「同じ言葉」があったとしても、その言葉で、同じ事を話しているとは限らない。

時に、同じ言葉で、正反対のニュアンスとなることだってありうるのだ。


言葉の齟齬。それはたとえば、僕と阿部さんのブログの間ででも存在する。

また、僕の発言だけをとってみても存在する。

かつて僕は、このブログや著書の中で、「人生の意味」について、色々なアプローチで話をした。

時には「魂の漂白」。またあるときは「学校」や「訓練所」であったり、「観光」と言ったこともあった。

が、しかし。

その様な言葉を残した僕自身でさえ、昨今のライブでは「人生には意味も価値も目的も存在しない」と言っていたりする。


だからといって、それは、「伝えたいことが変わった」ということではない。

言葉としては正反対、矛盾しているように見えたとしても、その言葉で指差している方向は、ずーっと一貫しているのである。



あらゆる言葉の中にある「ニュアンス」を掴み取るには、柔軟性が必要だ。

言葉の意味を「それはそれ」「これはこれ」と決めつけていればいるほど、解釈の幅が狭まってしまう。

「それ」を「それ」としてしか認識できない人と、「それ」が「あれ」や「これ」に置き換えできる人とでは、見えている世界が明らかに異なっている。


つまり、人は決めつけが多くなるほどに世界を狭めて自分を不自由にし、また逆に、柔軟性を高めるほどに世界は拡大し、自由を獲得していくのである。


今日のこのエントリを、「わかりやすい」と感じた人もいるだろう。「わかりにくい」と感じた人もいるだろう。

しかし、ここにある言葉に、違いはない。

人は皆、自分が解釈できる範囲をもって、「現実」と捉えている。

だからこそ、その「現実」は、「現実」といえど「リアル(ありのまま)」では、ないのである。


決めつけや思い込みは、人間から自由を奪う鎖である。

人が、真にリアルな世界に出会い、自由の本質を知るには、やはり「鎖取り(さとり)」が必要なのである。




な~んて言うことを、変に生真面目で、妙に堅苦しい文体で語ってみた。




←いつも違う事が書かれていても、ここに綴られる言葉で指差している方向は、ずーっと一貫しているのである。(押して!)
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