いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
言葉と世界
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
********************************************
精神世界や宗教関連の本を読むのは難しい。
変に生真面目で、妙に堅苦しい文体。
さらに、普段の生活の中で出会ったことのない言葉が、ところ狭しと並んでいる。
綴れれている「文章」以前に、そこにある「単語の意味」からしてわからないのだ。
ただでさえ意味の分からない単語が、さらに読み取りづらい文体で綴られているのだから、これらを読むというのは、「読書」というより、ある種「解読」という状態に近い。
そして、解読のすえ、ようやく掴みかけたその意味も、他の書籍を目にすることによって、さらなる混乱を呼ぶことがある。
一つの同じ「単語」の意味や解釈が、作者によって異なっているからだ。
別な書籍に「同じ言葉」があったとしても、その言葉で、同じ事を話しているとは限らない。
時に、同じ言葉で、正反対のニュアンスとなることだってありうるのだ。
言葉の齟齬。それはたとえば、僕と阿部さんのブログの間ででも存在する。
また、僕の発言だけをとってみても存在する。
かつて僕は、このブログや著書の中で、「人生の意味」について、色々なアプローチで話をした。
時には「魂の漂白」。またあるときは「学校」や「訓練所」であったり、「観光」と言ったこともあった。
が、しかし。
その様な言葉を残した僕自身でさえ、昨今のライブでは「人生には意味も価値も目的も存在しない」と言っていたりする。
だからといって、それは、「伝えたいことが変わった」ということではない。
言葉としては正反対、矛盾しているように見えたとしても、その言葉で指差している方向は、ずーっと一貫しているのである。
あらゆる言葉の中にある「ニュアンス」を掴み取るには、柔軟性が必要だ。
言葉の意味を「それはそれ」「これはこれ」と決めつけていればいるほど、解釈の幅が狭まってしまう。
「それ」を「それ」としてしか認識できない人と、「それ」が「あれ」や「これ」に置き換えできる人とでは、見えている世界が明らかに異なっている。
つまり、人は決めつけが多くなるほどに世界を狭めて自分を不自由にし、また逆に、柔軟性を高めるほどに世界は拡大し、自由を獲得していくのである。
今日のこのエントリを、「わかりやすい」と感じた人もいるだろう。「わかりにくい」と感じた人もいるだろう。
しかし、ここにある言葉に、違いはない。
人は皆、自分が解釈できる範囲をもって、「現実」と捉えている。
だからこそ、その「現実」は、「現実」といえど「リアル(ありのまま)」では、ないのである。
決めつけや思い込みは、人間から自由を奪う鎖である。
人が、真にリアルな世界に出会い、自由の本質を知るには、やはり「鎖取り(さとり)」が必要なのである。
な~んて言うことを、変に生真面目で、妙に堅苦しい文体で語ってみた。
←いつも違う事が書かれていても、ここに綴られる言葉で指差している方向は、ずーっと一貫しているのである。(押して!)
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
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精神世界や宗教関連の本を読むのは難しい。
変に生真面目で、妙に堅苦しい文体。
さらに、普段の生活の中で出会ったことのない言葉が、ところ狭しと並んでいる。
綴れれている「文章」以前に、そこにある「単語の意味」からしてわからないのだ。
ただでさえ意味の分からない単語が、さらに読み取りづらい文体で綴られているのだから、これらを読むというのは、「読書」というより、ある種「解読」という状態に近い。
そして、解読のすえ、ようやく掴みかけたその意味も、他の書籍を目にすることによって、さらなる混乱を呼ぶことがある。
一つの同じ「単語」の意味や解釈が、作者によって異なっているからだ。
別な書籍に「同じ言葉」があったとしても、その言葉で、同じ事を話しているとは限らない。
時に、同じ言葉で、正反対のニュアンスとなることだってありうるのだ。
言葉の齟齬。それはたとえば、僕と阿部さんのブログの間ででも存在する。
また、僕の発言だけをとってみても存在する。
かつて僕は、このブログや著書の中で、「人生の意味」について、色々なアプローチで話をした。
時には「魂の漂白」。またあるときは「学校」や「訓練所」であったり、「観光」と言ったこともあった。
が、しかし。
その様な言葉を残した僕自身でさえ、昨今のライブでは「人生には意味も価値も目的も存在しない」と言っていたりする。
だからといって、それは、「伝えたいことが変わった」ということではない。
言葉としては正反対、矛盾しているように見えたとしても、その言葉で指差している方向は、ずーっと一貫しているのである。
あらゆる言葉の中にある「ニュアンス」を掴み取るには、柔軟性が必要だ。
言葉の意味を「それはそれ」「これはこれ」と決めつけていればいるほど、解釈の幅が狭まってしまう。
「それ」を「それ」としてしか認識できない人と、「それ」が「あれ」や「これ」に置き換えできる人とでは、見えている世界が明らかに異なっている。
つまり、人は決めつけが多くなるほどに世界を狭めて自分を不自由にし、また逆に、柔軟性を高めるほどに世界は拡大し、自由を獲得していくのである。
今日のこのエントリを、「わかりやすい」と感じた人もいるだろう。「わかりにくい」と感じた人もいるだろう。
しかし、ここにある言葉に、違いはない。
人は皆、自分が解釈できる範囲をもって、「現実」と捉えている。
だからこそ、その「現実」は、「現実」といえど「リアル(ありのまま)」では、ないのである。
決めつけや思い込みは、人間から自由を奪う鎖である。
人が、真にリアルな世界に出会い、自由の本質を知るには、やはり「鎖取り(さとり)」が必要なのである。
な~んて言うことを、変に生真面目で、妙に堅苦しい文体で語ってみた。
←いつも違う事が書かれていても、ここに綴られる言葉で指差している方向は、ずーっと一貫しているのである。(押して!)
コメント ( 45 ) | Trackback ( )
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笑いをとる黒斎さんが好きだ(笑
さて ぽちっとな
真面目な文章も悪く無いYOU~!
いつも思うのですが…
ランキングボタンのコメント大好きです
押しました(笑)
さまざまな方向から映写される映像の集まっているところがどのようなものなのかを見極める、見出そうとすることも重要だし、見出せたとしても、必ずしも一致しているとも限らない。
でもだからこそ、自分を認めるということですかね。
という私見です。
理解できる範囲のものしか見えない。
「ない」と思っていたら、その人にとっては「ない」ことになる。
友達と街を歩いていて、視界にわずかに入った看板の文字を覚えていたりする。(見えたと思っている。)
でも、同じ方向を見て歩いていた友達の視界には入っていたと思われるのだが、その文字は覚えていない。(見えなかったと思われる。)
こんなカンジで理解していますが・・・。
人って生きていくうちに色々思いこみをしないと
いけないから偏見がうまれるのだと思います。
考えることは多くの人たちにとって面倒くさいことですし、
考えを改めることはある意味では今までの自分を
否定することにもつながりかねないのではないかと思います。
だからいちいちこれはどうだろうとか考えずに、
これはこういうことなどレッテルをぺたって
貼り付けるのだと思います。
レッテルだらけになると不自由になるのだということはよくわかります。
ですからある意味で人は不自由さを自分で選んでいるのでは、
と感じます。
以上、池田晶子さんの本の影響からのコメントでした(笑)
やっぱりわかりやすいな
コクサイさんが一番だな^^
黒斎さんの1つの文章からこれだけの真実を引き出すのですから。
そうおもいます。
まずもって、電気の仕組み、電波とは、電話の仕組み、液晶画面って何、電線、アンテナ基地局、インターネット、その他諸々、江戸時代には概念そのものが初めから無いものから説明しなくてはならないから。
現代人は、それを見、聞き、使用しているので、あたりまえになっていますが、概念の無い人々にそれらを説明するのは至難の業だとおもいます。
また、素人が説明するのと、その道のプロが説明するのとでは、内容が違ってくるでしょうし・・・。
では、解りやすく説明するにはどうすれば良いか?
それは時代に合わせた「たとえ」が最適です。
しかし、「たとえ」はあくまで「たとえ」であって、それそのものを説明しているのとは違います。
でも、解りやすく理解してもらうには、「たとえ」から入ったほうが理解しやすい。
説明されて、興味を持ったものは、本質を理解したくておのずと勉強するでしょう。
困るのは、「たとえ」を本質だと理解し、解った気分になり、間違った解釈を広めてしまうことだと思います。 ゆえに、色々な宗派、会派ができてしまうのもそれぞれの解釈によってだと思うのですが・・・。
黒斎さんもそこのところでジレンマがあり、「こうしたほうがよい。ああしたほうがよい」と言うのに抵抗があるんじゃないか?
どうするよりどうあるかだと。
だって、黒斎さんが見た、体験したモノは、この世には無い概念だから、この世にある概念でたとえるしかないですもんねぇ。
と、偉そうに解釈した僕は何もわかっていません。
みんな自由に成りたいのに、形のあるもの掴もうとしてる。
オレが思うに絶望するのが一番最短距離。
死というゴールを夢見てなりふり構わず走るだけ
褒美は完全消滅だ
あるよ、あるんだよ。。
みたいな・・・
PCの前でつぶやいております
深呼吸で柔軟性なのだ
最近、雲さんがブログに出てきませんね~雲さんと黒斎さんのやり取り好きなんですけど…
自分もいろんな方面の本を読んだり、気づきによって課題が最近、思い込みと思い上がりと劣等感に集約されてます
元々、このブログからスタートしましたが興味があったのが、エゴとカルマだったせいだからなのかも知れません
今後とも、ご活躍を期待してます
どすっ!押したよ~。
黒斎さんから書いていただいて初めて疑問を文章に変換できる気がしたので投稿しました
いつかでも、教えてもらえると嬉しいです
人生の意味を色々なアプローチで話していた→→今は人生に意味も価値も目的もないと語っている
のは、黒斎さんの語る視点が大元に向かって一段深くなったからであって、言っていることが全く矛盾しているようだが、それぞれの深さの段階ではそれぞれが真実ということでしょうか?
今、仏陀が5人の弟子に悟りを説いているところです。
この仏陀の「どう説明すりゃいいんだよ?」っていう戸惑いって、黒斎さんも日々感じているのかなって思いました。
たまたま最近ダ・ヴィンチの最後の晩餐の解説を別のブログで見ていました。
この時のイエスの気持ちが「弟子に何言ってもちゃんと伝わらねー!…ま、いいけどね」って言ってるように思えていたところでした。
こういう人達は心が広いからどんな状況も「いいよいいよ」と受け入れちゃうけど、でもやっぱりわかってもらえないのはちょっと悲しかっただろうな…なんて思ったり。
ストンと気づけなくてごめんなさいって思います。
話は変わりますが、あらためて黒斎さんの仏教入門!本当にわかりやすくて面白いです。
昨日は「正定」の所を読んで
「脳にリラックスと退屈を与えてひらめきを受け入れるための余裕をつくる」
っていう所に何だかガツーン!と来ました。
読み返す度にガツーン!の場所が変わるので面白いですね。
なんて思いましたが、良くわかりません(;^_^A
どっちを指そうが行く先は一つ。
分離してはいないのだから。
言葉と言葉の解釈についてですが、解釈の柔軟性も大切ですが、“表現努力”も大切ではないですかね。
スピリチュアルではこういう話が多いので、その影響か、“日本語として”非常に読みにくい文章を書いた上で「あ~、言葉じゃ表現できないから難しいなぁ」とか「言葉ではなく、感じとるんだ」といったことを言う方も出てきますよね。
つまり、文章としての稚拙さを差し置いて言葉の性質のせいにしていることがあるのでは?とたまに思います。
そういう発言を見ると、「いや、“日本語の表現として”もう少し改善の余地があるのでは?」と思うこともあります。
当然どんなに上手い文章でも、現象そのものではないことは承知していますが。
言葉の性質や限界は当たり前なことであると私は思っていますが、そのことと表現努力は別だと思います。
また、感じとることと頭で理解することが対立事項のように扱われることもありますが、大抵の場合、文章を読み頭で理解しながら何かを“感じている”、わけなので二者択一で考える必要もないだろうと思います。
私も人のこと言えないので表現努力していきますが、そんな風に思いました。
表現努力または表現戦略としては、阿部さんのように右と言えば左と言い、北を指せば南を指す、みたいな戦略も面白いかなと思ってます。
コクサイさんは、言葉を選ぶタイプなのかな?…分かりませんが。
言葉1つなのに状況だとかその時の状態で何通りにもなってしまう。
まるで言葉遊びの世界 笑
言葉を使わずにジェスチャーだけで1日過ごしてみたら面白いことになりそうですね(*≧艸≦*)
最近聞いた、石井裕之さんの「心のブレーキの外し方」って本に付録されてたCDの内容と重なるなぁって。
「先にいい訳しておきます。僕の説明する事は矛盾します。」って(ザクッとこんな感じだったと思う)
あと
ペンを説明する時、こっちから見たら丸だけど、横から見たら、ま、長方形。次に原価の話、などすると、聞いてる人の中には「さっきと違うじゃないか」って言ってくる人もいる。
3Dを2Dで説明するには限界がある。
なんか、勝手に自分の中で色々なものが繋がってきました(^○^)
ありがとうございます。
あと、仕方が無いのだと思うのですが、ポチッしたらページが飛んじゃうんですよねぇ。
それが嫌で押さない人がいるかもなぁ、なんて思いました。
ま、飛んでも、飛んだページから黒斎さんのところクリックすればいいんですもんね。
思い込みや決めつけが多い私に
気づきを与えてくれたと思います(=^ェ^=)
同じ職場の人は、そんな私のことを前から
「決めつけないで自分でどうするか考えて」
いつも教えてくれていて。
わかってはいるんだけど
なかなかに直らなくて。
そんな気づきを与えてくれる彼女も
出会うべくして出会ったような気がします。
(彼女にとって私もそうだと思っています。)
このごろ阿部さんのブログを
見てるんですが、
たまにシンクロしているような
気がします。
今日もそんな感じがします。
やっぱり
お二人は出逢うべくして
出逢ったのですねf^_^;)
なかなか、願いや望みを断ちきれないたまねぎですが、雑草を「さ」っと刈り「取る」ことが悟りだと感じます。気持ちいいだろうなぁ。。と
たまねぎのメーンの仕事は翻訳です。言葉の使い方の難しさが身にしみております。
固定概念をはずす大切さや、視点を変えて見ると全く違って見える事…いろんなアプローチで気付かせていただいてます(^○^)
以前、4分半ほどの時間、指揮者のタクトが一切動かない「無音」の演奏(?)をしたオーケストラの画像を観たのですが…
「演奏しない」(無)と捉えると、「お金を払ってるのに、けしからん」「フルオーケストラを遊ばせて、勿体無い」「なにか、哲学的な意味があるのでは」…と、観念の数だけ感想が出て来るだろうな~と思いました。
これを「演奏しないオーケストラ」と捉えると、急に密度のある静寂が伝わってきて、面白かったです(*^o^*)
「無」と「空」の違いって、こんな感じですかね~?
まだまだ人生の修行中の私ですが最近になって、「人生は自由だから」という解釈をするようになってきました。凝り固まった考えの中でこういう考えもあればこういう考えもあるんだと自分で自分を認められるコツが掴めてきているような気がします。
今回の記事を読んで改めてそう感じました。ありがとうございます。これからも雲黒斎さんを応援し続けます!
PS:最近、エヴァンゲリオンの最終回に感動しました。私もこんな感じに今まで悩んでいたのかなと思ったりして見ていました。勝手ながら貼らせて下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=FMxzavSqeQc
苫米地さんのHPで読める「空の定義」によれば、釈迦の仏教哲学では、あらゆる存在の上位概念が、「存在」し、それこそが、「空」である、らしいのです。
存在だけが存在する、と感じていたので、ちょっとびっくりしています。全く想像できません。 空は、存在しつつ存在しない。ということになりますよね(笑)
黒斉さんは、どう表現なさるのかな?バルーンの図がここでも使えるのでしょうか。
こちらのブログに導かれ(?)、黄色い本を拝読し、「鎖取り」はまだまだですが、絶望から少し脱出できつつあるように感じます。
今、「ニュー・アース」と「アミ 小さな宇宙人」を読みはじめました。
文体はすべて異なりますが、同じだ!と自分なりの小さな発見に驚き、自分が今までとは少し違う世界観を持ち始めていると感じます。
一時的にかもしれませんが、どうしようもないところから救ってくださり、ありがとうございます。
此処(三次元地球)は、
何でもあり~♪
なので、OKで~す!
(逆も真なり)ですから♪
時期が訪れると、
皆、理解できる…o(^-^)o
総ては
(魂)の年齢差…*
宇宙的時間では一瞬♪
Everything O.K. (≧∇≦)
総ては
うまくいっていますね♪
だから契約を交わすときに有効に働く。言い換えれば言うものと聞くものの齟齬が少ないということである。
日本語は契約には圧倒的にむかない。自由であいまいな言語だから。でもそうなったのは微妙なニュアンスまで伝えようと努力したから。日本語には、伝えるため工夫し続けて、伝えられないことを覚悟したという感じがある。
個人的な考えです。
映画や小説となると、また解釈はさまざま。
びっくりしてしまうくらい登場人物の言動の解釈は人により違う。
各個人の文化的なバックグラウンドや性格、状況を越えて、伝わるもの伝わらないものがあると感じます。
言語については昔から専門的に考えてきたのですが、コミュニケーションの形態として言語を越えた何かが、人間同士、人間と動物の間などでもあるのかも?
そうではなく「私の魂はもともと白い」というBeであるべき、なんですか?
そうであれば次に問題。「汚れている」という状態を見続けているにもかかわらず、どうやったら....。だからDoじゃないって言っているのに(自己ツッコミ)。
でもやっぱりDoが必要なのでは?
順序は 想念→言葉→行為→想念→言葉→行為で 「信じるものを見、見るものを信じる」という連鎖があり、最初の想念が「汚れている」と認識しているので永遠に「汚れている」を信じ行為してしまう。
しかし、言葉と想念の順序を入れ換えることは可能。言葉を発する行為はDoなので容易のように思います。
次に その言葉 とは?
魂の漂白はカルマの解放。
カルマとは、あらゆる記憶の集積、それに伴う行動指針。
明日重大発表って!
また何か楽しいことを企んでますか?
ツイッターより
明日、僕のブログで重大発表をいたします。
今日のおコメも覚醒とは関係が無い様に思われるかもですが、でもやはり関係あるんですョ.......ハイー。
何のことかと言いますと、今日のテレビで体の糖化ということに関して放送してまして、
で、最初の頃に出てきたのが62歳のじっちゃんで、自分は病気一つ無くってすこぶる快調で、健康診断で健康優良児と言われたそうです。20代前半と言われたそうで、診断書も見せてましたョ...................んなカバな(古っ)
ところで、体の糖化現象というのは最近話題に成って来た様で、酸化現象より怖いらしいです。
早い話が老化現象のことで、しみ、しわ、たるみ、動脈硬化、心筋梗塞、脳卒中、アルツハイマーなど等、挙げればまだ沢山出てきます。
発見するには、尿に糖が下りているかどうかでしょうかネ。
でも、それでは遅すぎるのかも、一番良いのは予防でしょう!?
で、どうすれば良いかと言いますと、グレープフルーツやミカンなどの柑橘類を食後のデザートとしてではなく、食前に採れば糖化を防ぐ事が出来るそうです。
で、このじっちゃんはお百姓さんのようでして、カモミールというハーブの栽培をしているとのこと。
そして、この根っ子や葉っぱ、花などを乾燥させて作ったハーブティーを毎日二度飲んでるそうです。
訪れた女性記者は、その甘さと芳しい匂いに、目を細めていた次第なのです........ハイ。
という訳で、覚醒もやはり健康あっての事になるのでしょうか.......ハイー
<ソフトパンク>
わくわく。
何の事かと思ったら重大発表!?
こりゃ聞き捨てなりましぇんわ.......同じくドキドキ
<NTTドーモ>
前に私も言葉(文語)解釈の疑問を投げ掛けた事がある私が言うのも何ですが…
今の状態(情況?何でもいいや、社会的な意味での)のあなたが言うかとしか…
そりゃあんたのエゴだよ、解釈の仕方だよ、不謹慎な、あんた日本語不自由でしょ、何とでも言えばいい、解ってて黒斎さんにコメしてるんだから。
というか、黒斎さんだからこそ、率直な意見をコメさせてもらいます(多分、他の人なら言わない。どうでもいいか、としか思わない。)
いやね…言いたい事は解ります、それにシンプルですよね。
全く同感なんですよ、確かに。
でもね…うーん、ニューエイジ系の思想にも様々ありまして、それをごちゃごちゃこねくり回すのが好きな人もいる訳で、それで救われる(んであろう←バカな私には解らないんです、すまん)人もいる訳で…
うーん…まぁ、いいですね、どうでもw(とどのつまりがそれかよ…)
人生の意味を説明してみたり、人生に意味なんかないと言ってみたり、そのくせ指している方向は一緒だと言う。
言葉の限界があるのはわかるけど、同じ言葉がまるで正反対の意味を持つとしたら、言葉の意味がなくなってしまうんじゃないですかね?
ニュアンスの違いくらいならわかるけど。
それこそどう解釈すればよいのか混乱してしまうというのが、僕のような凡人の感じるところじゃないですかね?
今までの実績があるから、次はなにがでるかな?的なファンの期待がおおきいんじゃないかなあ?
良い意味で、大いに裏切って下さい。応援してます。
(*⌒▽⌒*)
阿部さんは、サザンの桑田さん、黒斎さんは、ミスチルの桜井さんみたいな感覚で拝見させていただいております。
名古屋でもコラボして下さいね。
確かにまったく以っておっしゃる通りなんですけれど、
ブログ書いたり、本出版したり、講演会やったり、
「言葉」を生業にしてる人がそれ言っちゃうのって、
ちょっとどーなのよ?というのが率直な感想です。
それすらも「決め付けによる不自由」だとおっしゃいますか?
反対の反対なのだ~♪