goo

座禅和讃

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

********************************************


【白隠禅師座禅和讃】

衆生本来仏なり
水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり



【ゆるゆる現代語訳】

ホントはみんな、最初っから仏なんだよね。

それはさ、例えるなら水と氷の関係みたいなもん。

水がなきゃ氷ができないでしょ?

水と氷。結局その差は、溶けてるか凍ってるかっていう「状態の違い」だけなんだよね。

それと同じようなもの。

仏が水なら、僕たちは氷。

つまり、仏も僕たちも、結局は同じものってことさ。

それなのに僕らときたら、その事実を知らないまま、「仏にはどこに行けば会えるんだ?」って、あちこち探し回ってるんだ。

な、馬鹿馬鹿しいだろ?

それじゃあまるで、水の中に入りながら「水くれ!喉が渇いた!」って叫んでるようなものさ。

せっかく裕福な家の子として生まれついたのに、わざわざ貧しい里を彷徨い歩いてるようなもんだよ。

いいかい? そうやっていつまでも迷いの世界から抜け出せないのは、ひとえに「僕たちは本来ひとつの同じもの」ってことを見失っているからなんだ。

ワタワタ・オロオロしたところで問題は解決されないし、深刻な表情を浮かべててもしょうがない。

そんなんじゃ、いつまで経っても救われやしないよ。


「じゃ、どうすればいいんだよ」って?

うん。それにはまず、具体的な行動を起こす前に、一度リラックスすることが大事なんじゃないかな。

「そんな余裕ぶっこいてる場合じゃねぇ!」って?

でもさ、そんなに慌てたままでいても、結局問題解決できずにさ、むしろミス連発しちゃいそうじゃない?

落ち着かないまま「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」って騒ぎ立てても、混乱が大混乱になるだけさ。

だから、ね。大きく一つ深呼吸。肩の力を抜いて……ほらほら、その眉間の皺もゆるめなきゃ。

まずは一度落ち着こう。気持ちを静めて、ゆったりと寛ぐ。

でね、そのくつろぎの先にあるのが、俗に言う「瞑想」っていう状態だよ。

そうそう。瞑想は行為でも手段でもない。リラックスして、心が静まりきっているその「状態」のことなんだ。

ん?

ああ、そうだね。確かに君が言うとおり、本屋の精神世界コーナーにでもいけば、沢山の具体的なメソッドに出会えるだろう。

「これをすべし、あれはすべからず」っていう人生哲学や成功哲学も沢山あるだろうし、「線香は何本立てろ」とか「お月様に向かってお財布ヒラヒラさせなさい」なんて言う“まじない”もあるでしょう。

○○ヒーリングや○○クレンジングってのも沢山あるし、「『ありがとう』だけじゃ足りない、『ごめんなさい』と『愛してます』があった方がいいんだ」なんていう人もいるでしょう。

「君のここが悪いんだ」って指摘して、その改善のため、あれをしてみなさい、これをしてみなさいって色々な修行法や改善策を示してくれる本も沢山みつかるでしょう。

でもね、それらも結局、君が落ち着いていないことには何の役にも立ちはしないんだよ。

その本を読んだとしても、表層的な言葉ばかりを捉えて早とちりし、著者の思惑と違う解釈をしてしまいかねない。

人はどうしたって、自分の受け取りたいようにしか受け取れないからね。

だからね、まずはリラックス。何をするにせよ、結局はそこに帰るんだ。

一日のほんのひとときでいい。

心を落ち着けて、静かに座ることができたら、迷いや不安、高ぶった感情なんかも自然に消えていくよ。

「一大事だ!」って大騒ぎしていた人でも、いざ冷静になったら、「あれ?なんでこんなことで怒ったり、慌てふためいていたんだろ?」ってなったりするもんなんだ。

目の前にあるものを「どう解釈したか」がその人の「現実」として現れるわけだから、結局のところは「悪い出来事」ってのはどこにもないんだよ。

え?なに?

「そんなこと言ったって、彼のしたことは、私じゃなくたって許せないに決まってるわよ」って?

いや、だからさ。それは色々できる解釈の中の、一側面でしかないんだよ。

物事自体には、本来意味も価値もない。それらを与えているのは僕たち自身。もっと言えば、僕たちの「思考」なんだから。

そりゃ確かに彼のしたことに腹を立てることもできるよ。

でもさ、もう一方では、「君の心の奥底に眠っていた、未消化だったコンプレックスや感情、蟠り(わだかまり)なんかを思い出させてくれる切っ掛けを与えてくれた出来事」として捉えることも出来るんだ。

え? 「そんなこと思い出したくなかった」って?

でもさ、そうだとしたら、そのことは、ずっと君の心の奥底に残り続けるだけだからね。そのままにしていても決してなくなりはしない。ただ心に残り続けるだけだから、結局はそのうち何かの拍子で出てくることになるんだ。

それを引き出してくれたのが、たまたま彼だったってことだけさ。

いいかい? ホントの幸せってのはさ、遠くにあるんじゃないんだよ。「いまここ」にあるんだ。

ああ。ホントだよ。

たとえば今の話で言うとね、「彼がちゃんと詫びたら、私だって幸せな気持ちを取り戻せるわ」って言うなら、君の幸せは「彼の態度次第」ということになってしまう。

でもさ、幸せに対しての主導権をもっているのは、本当は君なんだ。

君が「いまここ」で、彼を赦すことができたなら、「いいわ、彼が謝ろうと、謝るまいと、私は幸せよ」って、「いまここ」で幸せになることが出来るだろ?

君は、今すぐに実現できる幸せよりも、腹を立てて嫌な気持ちで居続けることを選ぶの?

なに?それでも赦せない?

いや、そりゃ僕はそれでも構わないけどさ、それで嫌な思いをし続けるのは他でもない、君自身だからね。

でも、これだけは覚えておいてよ。

いま僕が話したことを聞き入れてくれたとしたら、必ず幸せになれるって。


そして、そのことを実体験を通して繰り返し経験することができたら、その幸せは徐々に本物になっていく。

つかのまの幸せではなく、君の中に永続的な至福をもたらしてくれるよ。

迷いや不安、未消化の感情たちを徐々に解放していった先には、「アタマだけでの理解」じゃなく、本当の意味で仏と一体となる事が出来るんだ。

僕たちの蟠りがほどけるほどに、氷は溶けて水になっていくのさ。

「本当の幸せ」を得る道は、そこにしかない。

事物そのものには、意味も価値もない。あるがままの姿は、すべて中立な存在としてそこにあるんだ。

幸せを探して行く道も、帰る道もない。それはいつだって「いまここ」にある。

いま君の心に残っている、その蟠りがほどけたら、何をするにも、最高のパフォーマンスを発揮出来るようになっているよ。

あらゆるこだわりや思い込みから離れた心は、あの大空のように果てしなく広がって、そこには月の輝きのように「さとり」という光が現れる。

そうなったらもう、「求めるもの」なんて、何一つないよね。

僕たちの心に静寂があれば、そこがすでに「究極の幸せ」だし、この身がそのまま仏なんだよ。




【トークライブ・インフォメーション】


札幌では2度目のソロライブ。
いよいよ来週です!

◎11月23日(水・祝) 札幌ソロライブ
 ※携帯からお申し込みの方は【こちら】

◎12月3日(土)阿雲の呼吸 in 東京(Thank you! Sold out!)
◎12月4日(日)阿雲の呼吸 in 大阪


第一部『EGO~偽の自分のメカニズム~』
第二部『他言無用の禁断トーク』

共に、お申し込みは、阿部さんのブログ「いまここ」からお願い致します。


←みんながちゃんと押してくれたら、僕だって幸せな気持ちを取り戻せるのに。(←黒斎くんに座禅和讃を教えてあげてください)
コメント ( 80 ) | Trackback ( )