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黒いもの

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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ここのところ、コメント欄に同じようなご質問が複数よせられておりますので、今日はそれにご返答する形でお話を進めていきたいと思います。


ご質問内容:なんで魂は黒くなったんですか?


書籍版『あの世に聞いた、この世の仕組み』の第3章、「魂の訓練所」がベースになったご質問です。

実はこれ、コメント欄に限らず、トークライブなどでも何度か聞かれているんです。


まず最初にお話しておきたいのは、僕の話は、そのほとんどが「例え話」であるということです。

ですので、その「例え」のレベルに留まって欲しくないと言うのが、僕の正直な気持ちです。

「例え」はあくまで「例え」であって、「そのものズバリ」ではありません。

「そのものズバリ」のことを、言葉で表現することが不可能なので、「致し方なくそう表現した」という方便にすぎません。

ですから、そこにある言葉や単語にとらわれすぎないようにしてください。

以前お話したことのある「月を指す指」と同じで、それらの言葉は「方向を指し示す」だけであり、僕がお話したい根幹はその指し示した方向の「先」にあるものです。

指先にとらわれている限り、それを見ることはできません。

かの有名な「Don't think! Feeeel!」の、あのシーンのセリフと同じです。




僕は確かに、この世の仕組みを話すために、以前「魂の訓練所」と表現したことがあります。

ですが、厳密には訓練所などではありません。

学校でもありませんし、観光でもありません。

ゲーマーでもなければ、プログラマーでもありません。


でも、「そのこと」を理解したときには、僕がこれまでお話した内容を「なるほど、このことをああいった例えで話していたのか」と納得していただけると思っています。


これからも、僕の話は全て方便にならざるを得ません。

まずは、それをご理解ください。


以上を踏まえまして、改めてご質問にお答えしたいと思います。

まず、なぜ黒くなったのかを話す前に、その「黒いもの」が何なのかをお話しますね。

多くの方がお気付きの通り、いわゆる「カルマ」のことを、そういう言い方で表現していました。

つまり、「魂の漂白」は、「カルマの解放」を意味します。

あの比喩の中でお話したかったことは「僕たち人間はカルマの解放をすべく、そのためのツールとして肉体や精神を得た」といったところでしょうか。(このことを説明するのはやはり一筋縄ではいかないので、「今のところの言い方」ということをご承知置きください)


では次に、その「カルマ」とは何なのか。

僕がお話しているそれは、「あらゆる記憶の集積(また、それに伴う行動指針)」のことです。

そこには「ポジティブ」や「ネガティブ」、また、「善悪」等の分別はありません。

いいも悪いもひっくるめた、「ありとあらゆる記憶」のことです。

そしてその記憶は、「今生」だけに限った話ではなく、いわゆる「過去世」などもひっくるめて、脈々と宇宙に引き継がれてきた記憶です。


では、その「記憶の解放」とは、いったい何のことなのか。

そのことを説明しようとする時に、あの「自我」というものが話の中に出てくることになります。


以前からお話しているように、本来僕たちは、一つの同じものです。

その存在形態は、精神世界でよく言われている通り「意識」として存在しています。

分け隔てのない、ひと続きの意識が、僕たちの本来の姿です。


そこにある時「(概念としての)壁」が生まれ、「ひと続きの意識」から分離して存在するように感じられる「個別の意識(自意識)」という状態が生まれました。

その「個別の意識」の意識と「ひと続きの意識」の意識は、質的には全く同等のものです。

質的には同じですが、状態が異なっています。

「質は同じだが、状態が異なる」というこれも説明が難しいのですが、仮にH2Oの状態変化になぞらえて考えてみてください。

ひと続きの意識が「H2O(気体)」として広大に広がっている中に、個別の意識「H2O(固体や液体)」が浮遊しているといった感じです。

H2Oが気体として拡散している状態を肉眼で認識する事はできませんが、液体や固体として存在していれば、肉眼で捉えることができるようになります。

質が同じでも、状態が違えば認識の仕方にも違いが生まれます。

空気と水と氷は、質は同じでも、状態が異なります。

『「個別の意識」の意識と「ひと続きの意識」の意識は、質的には全く同等のもの。質的には同じだが、状態が異なる』とは、そんなニュアンスのことです。


そして、その「個別の意識」が生まれたことで、「ひと続きの意識」とは違った認識の仕方が生まれました。

その認識で生まれた様々な歪みによって、カルマが形成されていきます。


ではなぜ、存在の根源(ひと続きの意識)は、自我(個別の意識)を創り出す必要があったのでしょうか。

これも、言葉で説明できることではありません。

でも、あえてそのことを言葉にするなら、その表現のひとつとして「意識が意識であることをより深く意識するために」と言うことができます。

これは、「神が神であることをより深く自覚するために」や「愛が愛であることをより深く知るために」など、他の色々な言葉に置き換えることもできます。


このことを、また別な例えでお話してみましょう。

もしアナタが、生まれてから一度も体調を崩すことがなく、また、周りの人々も全て健康だったとしたら、アナタは「自分が健康である」ということを実感することがありません。

健康を自覚するためには、「不健康」という、比較するための別な状態が必要となるのです。

自分が幸せであることをより深く実感するには、「幸せじゃない」という比較対象が必要になります。

よく言う『失って知るありがたみ』ってヤツです。


それと同じように、神が神であることをより実感するために「神じゃない」という比較状態が必要になりました。

それが「自我」です。

ですが、先日お話した通り、自我は実在しません。

神が神であることをより実感するために「神じゃないもの」が必要になりましたが、「神=存在のすべて」なので、神とは別に「神じゃないもの」を存在させることができなかったのです。

そこで「神(ひと続きの意識)」は「神じゃないもの」を作るために、「神じゃないもの」そのものではなく、「本当は神なんだけど、便宜上神じゃないものにしておこう」という概念・イメージを形成することにしました。


その概念・イメージが肥大化した結果、「便宜上神じゃないものにしておこう」の「便宜上」が、すっかり忘れ去られてしまったのが、「自我」です。


つまり自我は、神が神であることをより実感するために「必要なもの」として生まれました。

しかし、その「神が神であることをより実感するために」という役割は、もう既にやり遂げているのです。

それなのに、「まだまだ引退などしてたまるか!」と抵抗しているのが自我くん。


と、いったところで次は、「自我(個別意識)とカルマの関係」「記憶の解放」についてお話してみたいと思います。



【トークライブ・インフォメーション】


札幌では2度目のソロライブ。
今回は、『月刊アレ!』にて連載中の、最新ネタを中心にお話いたします。

◎11月23日(水・祝) 札幌ソロライブ
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平日のお話会「月イチ☆」の、12月開催分です。
(11月分は完売となりました。キャンセルが出た場合は、ツイッター等でお知らせします)

◎12月9日(金) 平日のお話会「月イチ☆」
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