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演技の達人

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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僕たちは普段の生活を営む上で、いくつものキャラクターを見事に演じ分けて暮らしています。

自分が演じている「自分」というキャラクターは、一つだけではありません。

それはそれは沢山の役柄を、上手に演じています。

その演技はもはや演技を超え、達人の域に達しています。

自分が演じている事を忘れてしまうほどの、迫真の演技。


色々と例を出してみましょう。

例えば、僕は今「ブロガー」を演じています。

ホントは、ここに何を書いたっていいんですよ。別にルールなんてないんだから。

でもね、「ブロガー」という役割を演じることによって、そこに制約が生まれます。

「折角たくさんの方が期待して訪れてくれてるんだから良いこと書かなきゃ」とか「これは書いちゃだめだよな」とか、色々考えちゃうわけです。

ブロガー・雲 黒斎としての「こうあるべき」「すべからず」っていうルールを、自分の中で作り出しちゃってる。

でもね、ホントは僕「ブロガー」じゃないの。

いま一時的に「ブロガー」という役割をしているけど、僕の存在の本質が「ブロガー」と言うわけではないの。

だって、仮に僕がブログを書くことを止めたって、僕は僕だもの。「ブロガー」じゃない僕が残るもの。

なんだけど、「ブロガー」であることに一生懸命になりすぎて、演じていることを忘れてしまうことがあるんです。

「僕、ブロガーです」って。「役割=自分」と錯覚してしまう時がある。

そうすると、「ブロガーとしての僕の考え方」と「僕自身」が混同されちゃって、「ブロガーとしての僕の考え方」を賞賛されると、「僕自身」を褒められているようで、嬉しくなります。「ブロガーとしての僕の考え方」を非難されると、「僕自身」を非難されているように感じられて苦しくなってしまいます。


で、演じているのは「ブロガー」だけではありません。

地下鉄に乗っているときは「乗客」を演じています。

コンビニにいるときは「客」を演じています。自分のデータベースにある観念を使って「客らしく」振る舞おうとしています。

この「客らしく」ってのも、僕のデータベースによる「客らしく」です。

それは人によって違います。

やたら卑屈な客もいますし、やたら横柄な客もいたりします。


会社にいるときも沢山の顔を使い分けています。

クライアントと向き合うときの顔。自分の会社の営業さんと向かい合うときの顔。上司と向かい合うときの顔。後輩と向かい合うときの顔。取引先のデザイナーさんと向かい合うときの顔。

クライアントのなかでも、お偉いさんと会うときの顔、同い年ぐらいの担当者と会うときの顔…

同性と向き合うときの顔。異性と向かい合うときの顔。

よくもまぁ、こんなにたくさん演じ分けているものだと、自分で感心してしまいます。


「この人にはこういう風に見られたい」だとか、「こういう風に見られたくない」だとか、「このシチュエーションでこういうことしたら格好いいだろうか」とか、「いまこんな事したら失望されるだろうか」とか、その場その場で対処しているうちに、どれが自分の「素」の状態なのかも分からなくなっちゃうほどに、沢山の顔ができてしまいました。


あ、別に演じていることが悪いって話をしてるんじゃないんです。

ただ、それって凄く疲れるよねって、演じていることを自覚できていないと苦しいよねって、それだけなんですよ。


苦しい時は、その状況に置ける役柄と、自分を混同している時です。

その状況・役割から一旦離れて、自分の素の状態を思い出せたら、心にゆとりが持てるんです。

状況は変わらないですよ。状況は状況です。

でも、その状況と自分の関係性が大きく変わるんです。


だからね、自分が今どういう状態なのか、観察してみるって事が大事になったりします。

「無理して何かを演じている?」って。

そこで「あ、いまこういう役を演じていたな」って客観的に顧みることができると、一度役割から離れて楽になることができます。

でも、この「観察」を「監視」にしてしまうと、また苦しみを生んでしまいます。

「ほら、また演じてる。無理するな。自然でいろよ、俺!」って、今度は「自然な自分」「素の自分」を演じようとしてしまう。

これでは本末転倒なんです。


今日の『阿雲の呼吸』のエントリを書きながら、そんなことを思っていました。



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