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絶望の向こう側

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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えー。

なんだかコメント欄がとても面白くなってきました。

沢山のコメントありがとうございます。とても勉強になります。

あ。「面白い」なんて言葉を使うと、それはそれでご立腹の方もおられるかも知れませんが…。


折角なので、一旦、話の流れをここで一度大きく変えて質疑応答的にお話を進めていこうかと思っています。

お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。


今日は、前回のコメント欄で癌患者さんからご質問のあった「絶望」について、少しお話させてください。


2008年10月24日投稿「失敗は成功のもと」コメント欄 癌患者さんより

*****
はじめてコメントさせて頂きます。
今回の内容とは関係無いんですがど~しても教えて頂きたい事があります。(黒斎さん以外でもわかる方はコメント頂きたいです)

僕は名前の通り癌患者なんですが預流果を迎えていない僕には「今の自分(=癌)があるのは、こういう理由(原因・条件)があったから」と言う原因がどうしてもわかりません。

黒斎さんがお話されてる事も頭では理解は出来ているんですが実感として何も感じる事はなくアハ体験も未経験です(-.-;)

癌になった原因は自分で預流果を迎え自分で解決しなければならない問題だとは思うんですが
黒斎さんが預流果を迎えたきっかけの「絶望(地獄を見る)」という経験をされた際、心の在り方としては地獄と向き合っていましたか?それとも希望(天国?)を見つめる事で預流果を迎えられましたか?

今自分は絶望的な状況です(>_ <)

絶望的な僕にヒントを下さい。

…(中略)…

絶望的な状況って書きましたがあくまで客観的な状況を書いたもので自分自身は病気に感謝しているくらいです。

癌は家族の大切さ、友達の大切さ、普通に生活する事の大事さや自分の体に対する感謝等様々な事を教えてくれました。

また、悲観的にならず病気を絶対治してやるって気持ちもあります。

そこで自然治癒で治った人の話を聞くと預流果を経験された黒斎さんと同じような在り方でいらっしゃる人が多く自分も同じ境地に到れればと思ってます。

黒斎さん、blogの内容と離れた書き込みしてしてしまって申し訳ありませんでした。

*****

コメントをお寄せいただいた癌患者さん以外にも、「病」に苦しみや悩みを感じて、このブログに辿り着いた方も多いと思います。

また、患われているご本人に限らず、看病する側でお悩みの方も多くいらっしゃると思います。

現実世界とは別次元の、奇跡や神秘などによる好転を求めて、宗教や精神世界の扉を叩いた方も多いかと思います。


ですが、残念なことに本当の宗教、精神世界は、現実社会以上に現実的です。

こと仏教においては、特に耳を塞ぎたくなる言葉に出会うことになります。

「一体何を考えているのか。 アナタは、自分が病気にならないとでも思っていたのですか? 死なないとでも思っていたのですか?」と。

そこには、一部の宗教や精神世界で語られる、奇跡を迎えるための方法論や、優しい言葉、慰め等はありません。

「徹底的に探してご覧なさい。病から、老いから、死から逃れ、延々と生き続けている人間などいるものですか。人間は、病に倒れて当たり前。死んで当然。だからこそ、“人生は苦だ(輪廻は苦の連鎖だ)”と言うのです。」


奇跡を夢見て相談したのにも関わらず、返ってくるのは受け入れがたい超現実的な言葉です。

お釈迦様に、「病気になったら、どう対処したらよいですか?」と聞いても、「医者に診てもらえ。」と返ってきます。


ええ。まさに「絶望的」です。

なのですが、本当の宗教は、「人間は、その絶望を超えることができるのだ」と説くのです。

身体の病みではなく、心の病みを改善するのが、宗教の仕事だからです。


人間は、絶望を超えることが出来る。

僕は、幸運にもこの言葉の意味を知ることが出来ました。僕自身が、実際に絶望を経験することによって。


人間は、絶望を超えることが出来る。

そうは言っても、やはり絶望を見ることは、あまりオススメしたくはありません。

ホントに痛いんです。辛いんです…。

自分からわざわざ見に行く必要はないと思います。

ですが、もし、今現在、正に「絶望的です」という人がいるのなら、どうか知ってください。

絶望は、超えることができます。「煩悩から離れる」ということによって。


人はよく、自分の苦境を「絶望的」と表現します。

絶体絶命の大ピンチ。にっちもさっちも行かなそう。

なのですが、人は、どんなに「絶望的」な環境に身を置いても、なにがしかの「望み」を抱いているモノなんです。

何か方法があるのでは…。誰かが助けてくれるのでは…。奇跡が起こるのでは…。

具体的な方法論は一切浮かばなくとも、どこかに光を探しているんです。

苦境の中で、自殺を選択してしまう人ですら、望みを持って死んでいくのです。

「死を選択したら、今より楽に違いない。」

「楽になるはず」という望みを持って死んでいくのです。それを信じて、死んでいくのです。


ですから、苦しみの中にいる時は、あくまで「絶望的」であって、「絶望」ではありません。「望み」は絶えていないのです。


「絶望」は、文字通り「望みが絶えた」状態です。

本当に望みが絶えると、人は、何も出来なくなります。(僕の場合、喜怒哀楽という感情すら、出すことが出来なくなっていました。)


それは、「悲観的な諦め」を通り越した、完全な「降参・降伏」という状態です。

そこまで行き着いてしまうと、後は「なるようになれ」という完全に無防備な態度しか残らない。


そうすると、どうなるかと言いますと…

「望み(欲)」はすでに諦めてますし、誰かや何かに八つ当たりして(怒りを発散して)何とかなるとも思っていません。

つまり「なるようになれ」となっている時、自分では意図せずに「欲」や「怒り」から離れていたんです。



「欲」や「怒り」は『煩悩』ですから、そこから離れてしまうと、ある瞬間…


「あれ?」


…ってなるんです。

不意に、気付いちゃうんです。「仕組み」に。


その頃は、仏教の「ぶ」の字も知りませんでした。精神世界にも興味も関心もありませんでした。

むしろ、嫌いな分野でした。

ですから、その時何が起こったのか、自分で理解出来なかったんです。

一体自分の身に何が起こったのか。

それを突き止めたくて、その後とにかく色んな勉強をしました。

信じていいんだか悪いんだかわからない、「インスピレーション」「自分のモノではない思考」の指し示すものに従って。

そこではじめて「煩悩」という言葉の意味を知ります。

「自業自得」という言葉の、本当の意味を知ります。


「ああ!あの時、僕の身に起きたのは、そういうことだったのか。」


偶然にも「欲」「怒り」という煩悩から離れることで、「智慧」が姿を現してくれたのだと、やっと理解できたんです。




どうでしょう。伝わりますかね。こんなんで…。



←ランキングは上がったものの、ちょっと寂しくなりました。


P.S.

病気でお悩みの皆様へ

今日お話した内容は、あくまで僕個人の経験を綴ったモノです。
ご覧になってどのような感想をお持ちになったかはわかりませんが、やはり、あまり参考に出来るようなものでは無いと思います。
本当は、もっと大切なコトをお伝えしたいのですが、一口に「病気」とは言っても、その方その方で状況が全く異なります。
それゆえ、具体的にあれこれと語るコトもできないのです。

ですが、このことだけは知っておいてください。
病気の原因は「天罰」でも、誰かの「怨念」でも、「祟り(たたり)」でも、「間違った先祖供養の仕方」によるものでもありません。
これまでの自分の生き方の中に理由の見いだせる、原因・条件によって発生する現象です。

「癌」においても、限られた方だけの病気ではありません。僕ら人間の誰もがなりうる可能性のある病気なのです。
癌患者さんは、「この原因がなにかわからない」とおっしゃいますが、ここ最近の日本を眺めてみれば、癌にならないことの方が不思議なぐらい、原因に溢れているのです。
あまりに原因が多すぎて特定できないぐらいです。

どうぞ、誤った宗教観や精神世界のあれこれに振り回されることのないよう、ご注意下さい。

また、仏教の解釈は「超現実的なもの」と書きましたが、それは「諦めなさい」という悲観的な話ではありません。「治りません」という話でもありません。

健康に健やかに生きるすべ、治癒力を向上させるすべ、病気を改善させるすべ等のお話も、シッカリと語られています。

病気になる人・ならない人の違い、治療に時間のかかる人・かからない人の違いなども、明確に示されています。

ですが、これも以前お話したとおり、「方法論」というよりも「存在論」なんです。

簡単に言ってしまえば「病は気から」という一言になってしまうのですが、その言葉を目にしても、その明確な理由や本当の意味を捉えるのは難しいと思います。

僕も未熟故、上手く説明できません。

一応、この後引き続きお話してみようかとも思っていますが、僕の表現の未熟さでは、的確にお伝えできないかもしれません。

なので、代わりにオススメの本をご紹介します。もし、病床にて本を読むことが出来る方であれば、この本を読んでみてください。(患者さんのお世話をされているご家族の方々にもお勧めです。)

こんな、拙いブログとは比べものにならないほど、確実に参考になるものと思います。

『まさか「老病死」に勝つ方法があったとは-ブッダが説く心と健康の因果法則-(アルボムッレ・スマナサーラ著/サンガ:1,680円)』

本屋さんでは宗教カテゴリー(仏教系)の棚付近に置かれているコトが多いかと思います。

コーナー自体もマニアックだし、なんだか難しいそうなタイトルだし、ということで、なかなか手に取る類の本ではないと思います。

ですが、これほど病と心の因果関係がわかりやすく説明されている本は、他に見たことがありません。

何となく取っつきにくいタイトルかもしれませんが、内容は決して難しいモノではありません。ご一読をオススメします。


皆様の一日も早い回復を、心よりお祈りいたします。

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投薬

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アルコール依存症の治療に使われるお薬が、どんなモノかご存知でしょうか?


前々回お話したとおり、この病は、アルコールの摂取を経つことでしか完治させることができません。

「病の元となっている原因を取り除くだけ」という、とても単純な理屈。

でも、この簡単そうに見えるこのことこそが、この病から逃れづらい一番の要因となってしまいます。

なぜなら、「病の元となっている原因を、自ら好んで摂取している」という、困った現象が起きているからです。

※この病気の仕組みを知ると、「アルコールを好んでいる」という自分の意思と思われることが、実は自分の意思ではなく、「アルコールの罠である」ということに気付けるのですが…(この話は追々)


さて、そんな特殊な病気なものですから、治療も他の病気の場合とは、ちょっと違うんです。

アルコール依存症の治療に使われるお薬には、「シアノマイド」と「ジスルフィラム(ノックビン)」という2種類があります。

こちらのお薬、実は「ウコンの力」や「ソルマック」のように、体調の改善を促したり、清涼感を与えてくれるようなお薬ではないんです。

お酒呑んじゃいけない人に対して、呑み易い状況にしてあげるなんて、本末転倒ですからね。

だから、その反対。

この2つのお薬は、「抗酒剤」と言って、お酒から離れるためのお薬なんです。

ぶっちゃけていうと、お酒を呑むと、めっさ具合が悪くなり、例え微量のアルコールでも、徹底的に悪酔い状態を満喫できるという代物。

これでお酒好きなアナタでも、思う存分苦しめます☆


「酒飲みが、酒を呑んで死ねるなら本望だ。」なんて言って治療を怠ってると…


(  ̄ー ̄)  『じゃ、そろそろ投薬治療始めましょうね♪』


って、ドクターから処方箋渡されるのでご注意ください。



←気合入れに、よく効きます。

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ウコンの力

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私たち人間が自分勝手な欲望にまみれ、私利私欲を追求し、煩悩三昧の生活を送ることは、いわば「病院で酒盛り」をしているのと同じことです。

お酒を止めるために入院したのに、そこで「酒が飲める飲めるぞ~♪酒が飲めるぞ~♪」ってワイワイやってるんです。

そりゃドクター(守護霊)もいい加減呆れるって話ですよ。


さて、そんな呆れ顔のドクターでも、患者の事をホントに大切に思ってくれています。

だからこそ、ベッドに縛り付けて無理矢理お酒を飲ませなくするなんてことはしたいと思っていません。

出来るだけ、自主的にお酒から離れてくれることを望んでいます。

無理に止めさせても、その反動で「呑みたい欲」がますます出てしまうことを知っているから。


でね。実は…

ドクターは患者を酔いから醒めさせるための「ウコンの力(悟り光線)」を持っているんです。

でも…

そう簡単にはその「ウコンの力」、飲ませてもらえません。

と言いますのも…

(  ̄Д ̄)担当医 『これ飲む以前にさ、まずはお酒控えてよ。お酒と一緒に飲まれても効かないんだよね。ましてや何度も渡してたら、ますます効かなくなっちゃうし。』

だからね、ずーっと、患者が自主的にお酒を控えてくれるのを待って、「ウコンの力」を渡すタイミングを窺っているんです。

_| ̄|○ 「ぁー…呑み過ぎて具合悪い…。せんせ~い、ウコンの力飲ませてよぅ。」

(  ̄Д ̄)担当医 『今これ渡しても、二日酔い治ったらまた酒呑み出すべ? だからまだあげない。』

人(ノДT )アゥゥ 「先生!そんな意地悪言わないで、どうか!どうかこの悪酔い(苦しみ)から救ってください!」

こうお願いしても、ドクターは

(  ̄Д ̄)担当医 『だからさ、酔うのがいやならお酒呑むの止めなさいって。』

って言うんです。当たり前ですよね。

それなのに僕たちったら

・゜・(ノД`;)・゜・ 「ちょ~だ~いょぉ…ウコンのちから~…。どうしてくれないの~!このままじゃお酒呑み続けられないじゃ~ん!!」

なんてバカな事を言い出す始末。

(; ̄Д ̄)担当医 『お酒で苦しんでるのに、まだ呑みたいって…なんだそれ? わけわからんわ。』



そんなこんながありまして、僕の場合、懲りずにずーっと飲み続け、数度にわたってオーバードーズを起こしてしまったんです。

オーバードーズ【over dose】
化学物質(多くの場合、薬品やいわゆるドラッグ)を、生体のホメオスタシスがそこなわれるほど多量にまたは集中的に摂取することによって起こる。深刻な症状を引き起こし、死亡する場合もある。本質的には生体における毒の作用の一例である。「薬の多量摂取」を意味する。

煩悩の多量摂取。つまり、自業自得の「地獄」を経験したんです。

それに加えて竹彩も生まれ、「あ、このままじゃホントにやばい…」ってなりましてね、

そこで初めて

<(_ _;)>  「ごめんなさい…もう懲り懲りです。本気で禁酒はじめます…。先生、よろしくお願いいたします。」

って観念したんです。^^;


と、いうことで、

「ウコンの力」を受け取れるのは、「ある程度準備が出来てから」ということになります。

その日のために今出来ることは、とりあえず自主的に禁酒をしておくこと、です。^^




《内緒話》

この、ドクターが持ってる「ウコンの力」。

実は僕らもある方法でズルをすれば、勝手に持ち出して使うことも出来る代物なんです。(大きな次元から見ると「担当医=患者」だから)

※勿論ズルができないよう、その方法は皆さんには内緒にしときます。

このズルをして手に入れた「ウコンの力」…自分で使うだけならまだしも、自分以外の人にも勝手に配布しちゃう人がいるんです。相手の担当医の許可も取らずに。^^;

※俗に「一斉遠隔○○○○○」なんて名称で頒布会が開かれてますね。
※実を言うと、僕も一度頒布会を開こうとして、雲さんにコッテリ叱られたことがあります。^^;

酔っぱらい相手に「ウコンの力」を配布するんですから、そりゃその人だって悪いことしてるつもりはありません。むしろ親切のつもりのはずです。

配布された側も一時的に二日酔いが弱まるから、「ありがとうーーーー!」って大喜びすることになるんですが…

これって相手の担当医にしてみれば、とても迷惑なことなんですね。

だってそうでしょ?

せっかく渡すタイミングを窺ってたのに、そのチャンスを棒にふることになっちゃうんだから。

それに、そんなことを何度も続けていると、そのうちドリンクの効き目も薄れちゃうし。

いやね、それが切っ掛けでお酒をやめられるって言うなら問題ないですよ。でもね、やっぱほら、相手は「依存症患者」だからさ…

体調が少し良くなったら、またすぐお酒呑み出しちゃうって。^^;



<本日のまとめ>お薬の用法用量・服用タイミングは、担当医の指示を守りましょう。



←1日1回の服用をお願いいたします。

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あの日

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今日は、新テーマ「アルコール依存症」にのせて、「あの日」のことを書いてみたいと思います。

「あの日」のことを書きますが…

お母さん、お赤飯を炊くのは早とちりです。そっちの「あの日」のことではありません。

僕の人生観が裏返ることとなった「あの日」のことです。



このブログをご覧の皆様の中には、僕の話している内容を見て、「こいつ何様のつもりだ?あれこれ知った風に偉ぶりやがって。」なんて感じで読まれている方も少なくないと思います。

「自分で自分のこと酔っ払いと言ってる割には、アレコレ偉そうに講釈たれてるじゃねーか。なんだその矛盾?」

とかね。

僕がこうしてこのようなBLOGを綴っているのは、「アルコール依存症」が完治したからではなく、自分が「アルコール依存症」であるという自覚を持てたからなんです。





これまで、僕が「覚醒体験」と呼んでいる経験のことを、どのように説明したらいいか、ずっと考えていたんです。

僕が「覚醒」と呼んでいる「それ」は、何か特別な能力を身に付けるわけでも、ありがたい知識を得ることでもないんです。

単に、「酔いから醒めた」だけなんです。(前は、「目が覚めた」という言い方もしていました。)

それだけのことなのですが、この経験は、僕の人生を大きく動かすほどの影響力がありました。



あの日、僕は生まれて初めて、「酔いから醒める」という出来事に遭遇しました。

それまで、「自分が酔っている」などとは微塵も思っていなかったのです。

だから、何の前触れもなく、不意に「酔いから醒める」ということに遭遇したのは、それはそれはびっくりな出来事でした。

びっくりしましたが、「酔いから醒める」ことで、それまでずっと、自分が「酔っていた」ということに初めて気付くことができたのです。


ちょっと想像してみてください。

物心ついた時からずっと泥酔状態で、それが自分の「健康な状態」だと思い込んでいる酔っ払いの姿を。

身体は重く、頭は朦朧とし、真っ直ぐなものも歪んで見え、慢性的に胸焼けで、五感は全て麻痺し、何かを理解しようにも正常な判断が出来ない泥酔者。

そんな男がある日突然、「初めて“ウコンの力”を飲んだ時のようなスッパリとした軽さ」を経験したとしたら…。


おいおいおいおい!なんだよこの爽快感!!!!

なにこれ!なんでこんなに身体が軽いの!?

なんでこんなに頭がパッキパキに冴えてるの!?


…ってなると思いません?


例えは変だけど、そんな感じなんです。


初めて「酔いから醒める」という経験をした僕は、その経験ゆえ、「自分が酔っていた」ことを思い知らされます。


すると、その爽快感による高揚のあとには、大きな罪悪感が襲ってきます。

自分が酔っていた時にしでかしたあらゆるトラブルを振り返って、後悔が山のように迫って来るんです。

ペロンペロンに酔っ払って理性が飛んだ次の日の

ヾ(ノДT)ノ 「あーーっ!!! やっちゃったーーー!!」

っていう、あれの大きいやつだと思ってください。


爽快感と罪悪感の繰り返し。

しばらく、そんな感じが続きました。


そして、ちょっと落ち着いてきた時、周りの世界を見て大笑いすることになります。

「あーー! やっちゃったーーー!!」って思ってたけど、なんてことはない、

見渡す限り、そこらじゅう「酔っ払いだらけ」だったんです。^^;


「あ、そーか。周りのみんなも僕と同じように自分が酔っ払っていることに気付いていないんだな。」ってことが分かりました。

面白いもので、自分が酔いから醒めると、周りの酔っ払い様が、手に取るようにわかるのです。

「この人は笑い上戸だな。」とか、「あの人は泣き上戸だな。」とか、「あ、あの人はあんまり酔ってない!」とか、「あの人はやたら絡んでくるぞ」とか、「やべぇ!あの人すでにオーバードーズだ!」とか。


(結婚式の3次会から参加して、会場についてみたらそこらじゅう出来上がっていて、シラフでいるのが自分だけ、みたいな状況を想像してみてください。)


もし、友達がヘベレケに酔っ払って、ぐちゃぐちゃになってたら、介抱してあげたくなりますよね?

そんな感じなんです。

で、

「もしもし、あなたかなり酔ってますよ。」って声をかけるんですけど…

ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「なんらとぉ、このやろー!人を酔っ払い扱いしやがって!ヒック!」

って感じで逆切れされるんですわ。^^;

相手も、いかんせん酔ってる自覚がないから。

自分もついさっきまで同じ状態でいたから、相手が逆切れする気持ちも良く分かるんです。^^;

でも、やっぱりこのまま呑み続けてたら大変なことになりそうだから、どうにか教えてあげたいと思うんだけど…

そんな中、「さあみんな!自分のために、禁酒しよう!」なんて声を大にして運動を起こしたら、

ヾ(`⌒´メ)ノ″ 「あのやろう!俺らの幸せを奪うつもりだ!酒を取られる前にやっちまえ!!」

なんて感じでお酒好きの方々から猛烈な弾圧を受けることにもなりかねませんし…。


そんなこんなで、どうしていいか分かんなくなっちゃいましてね。^^;


試行錯誤しながら、こうしてキーボードを叩いています。。。




ってことで、もう少し「アルコール依存症」シリーズを続けてみます。

偉そうになってしまい申し訳ありませんが、お付き合いいただけると幸いです。<(_ _;)>

一緒に依存症克服を目指しましょう。



←あ、お母さん! お赤飯がわりに。

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inside out

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ある日突然雲さんとのチャンネルが繋がってしまったり、「ああ!目が覚めましたっ!」っていう経験を何度かしてからというもの、すっかり物事の考え方や捉え方が変わってしまいましてね。

本当に人生そのものが変わってしまいました。

その経験たるや、それこそ言葉で言い表せないものなので、(百聞は一見にしかずですからね)これをどうにか他の人にも経験してもらう方法は無いモノかと、日々試行錯誤しています。

そんな話の一部を拙い文章で書いているモノだから、このblogをご覧の方の中には、もしかしたら、僕のことを「その経験を通じて、何か凄いことを知った人」みたいに思っている方もいるかも知れませんが…

事実は全く『その逆』でして、「自分が何にも分かっていなかった」ってことに気付いただけなんです。

全ての事物を「裏返し」に捉えていて、それが原因で「自分で自分の首を絞めていた」ということを、思い知っただけなんですよ。

だから、僕は別に凄い事など、何も知りませんし、出来ません。

ただ、この物事を「裏返し」に捉えることの馬鹿馬鹿しさってのは知る事ができたので、それをしないように気をつけているだけなんです。


この「裏返し」に気付くことができると、自分を取り巻くあらゆる「からくり」が見えてくるのですが、これを素直に受け入れる事は、どうにも容易ではないようです。(一度でも、本物の苦しみを味わうと一発で見えてくるのですが…。まぁ、味わいたい人なんていませんからね、苦しみなんて。)


で、

この「裏返し」なのですが、僕的には…

『表』と『裏』が「裏返る(turn over)」というよりは、

『内』と『外』が「裏返る(inside out)」という感じなのです。


「ない」が「ある」になり、「ある」が「ない」になってしまうという「裏返り」方。

「大切なモノ」と「どうでもいいもの」がそっくり入れ替わってしまうような「裏返り」方。

なんて言ったらいいんだろう…

物事の土台から入れ替わってしまうこの感じ…


あー。

なんか上手く言葉にできないなーー。_| ̄|○


次のエントリでは、もう少し具体的な例でお話してみたいと思います。


←期待に応えられるかどうかは、わからない。
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