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解釈の違い

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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(  ̄Д ̄) 『もしあなたが、「この人生ゲームを作り出した創造主が自分である」、そしてまた、「そのクリエイターしか実在しない」ということを受け入れられるなら、モーセの残した十戒、その一つ目の言葉の本当を意味を知るでしょう』



「私」はあなたの主である神、あなたを奴隷生活から救い出すものである。

あなたは、「私」のほかに、どのようなものも神としてはならない。

あなたは、自分のために偶像(憧れや崇拝の対象)を造ってはならない。

被造物を一切、偶像としてはならない。

それを拝んではならない。

礼拝の対象としてはならない。




【ライブ・インフォメーション】

「リラクゼーションハウス ゴールドマイン」さんから、ライブのお誘いとご協力をいただきました。

6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

前回の福岡ソロライブに続き、プロジェクターを利用したプレゼンスタイルのトークライブを予定しています。

お楽しみに!

◎あの世に聞いた、この世の仕組み in 福井

【日時】6月17日(日) 14:00~(13:30開場)

【会場】福井市地域交流プラザ 研修室607
    福井市手寄1丁目4番1号 AOSSA 6階
    JR福井駅東口から…徒歩1分
    北陸自動車道福井ICから…車で15分

【料金】お一人様 3,000円

※お申し込みは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



※上記のほか、阿部さんとのコラボライブ「阿雲の呼吸」のツアー準備を進めています。

7月1日(日)仙台、7月7日(土)京都、8月4日(土)横浜、8月5日(日)名古屋・会期未定:広島、という感じで予定しております。

また、7月8日(日)神戸・7月28日(土)福岡で、ソロライブを予定。

準備が整い次第、改めて告知いたします。( ̄Д ̄)ゞ




←礼拝の対象としてはならない。
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変わるものと変わらないもの

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もしあなたが、何かのゲームに夢中になっているとして。

夢中になってしまったあまり、いつの間にかゲームのキャラクターになりきって、その世界に、がっつり没頭していました。


しかし、ふとした瞬間に、我に返ります。

「あ、そうだ。俺、ゲームしてたんだ。俺はプレイヤーで、このキャラクターじゃなかったんだよな」


この、「我に返る」が目覚めです。覚醒です。気づきです。悟りです。


我に返ったあとも、モニターの中に見える景色は、没頭していたときに見ていた景色と、何一つ変わりはありません。

我に返っただけだから、特に、何を得たわけでもありません。

ゲームをしていた自分に気づいただけですから、超人になったわけでも、聖者になったわけでもありません。

ただ、ゲームにのめり込み過ぎ、我を忘れて力んでいた自分を顧みて、笑うのみです。




【ライブ・インフォメーション】

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6月に、はじめて福井にお邪魔致します!

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また、7月8日(日)神戸・7月28日(土)福岡で、ソロライブを予定。

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←これを押したら……後は、はい、リラックス。
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プレイヤーを捜せ!?

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「自分が本当にしたいことを、することができない」

「そう考えたくはないのに、どうしてもそう考えてしまう」

「明らかにイヤだと感じているのに、拒否できない」

「自分の為にならないとわかっているのに、やめられない」

「鬱々とした状態から抜け出したいのに、抜け出せない」

「変わりたいと思っているのに、変わらない」

「疲れているのに眠れない」

「怒りたくないと言いつつ怒りが収まらない」

「落ち着きたいのに落ち着かない」

「無自覚のまま、いつの間にか行動(思考)している」

「自分でも、なぜその行動をとったのかわからない」

などなど……


自分で自分の行動や思考をコントロールできていない、ということは、誰もが経験のあることだと思います。

気づいた時にはもうその状態だったし、その状態は自分だけではなく、周りの人たちも同じように見えます。(なんとなく、人により強弱はあるように感じられますが)

そして、ずーっとそうだったから、なんの疑問も違和感も感じることなく、その状態を「当たり前のもの」だとして受け入れていました。


でも、よくよく考えてみると、これはとても不思議なことです。

私が、その私自身を、「私の思い通り」にできないのですから。

他人の事を思い通りにコントロールできないなら理解できますが、自分の事を自分の思い通りにできないのですから理解に苦しみます。

さらには、自分のこともコントロール出来ていない反面、他人をコントロールしようとしてみたり。出来るわけ、ないのにね(笑)。


なぜ、自分で自分をコントロールできないのでしょう。

本当に、本当に不思議です。

私が私をコントロールできていないのは明らかな事実です。

だからこそ「私」は、自分の人生を思い通りに生きる事ができずに苦しんでいるのですから。


では、私が私をコントロールできていないのなら、私は、誰がコントロールしているのでしょう?

「私」が「私」を自由にできないのなら、その「私」は、本当に「私」なのでしょうか。

そしてもし、コントロールしているのが「私」ではない「誰か」なのだとしたら、その「誰か」は、「私」なのでしょうか。それとも「私ではない誰か」なのでしょうか。

「私ではない誰か」が「私」をコントロールしているのだとしたら、これまで「私」だと思っていたこの「私」は、一体何なんでしょうか。

考えれば考えるほど、わけがわからなくなっていきます。

「私とは何なのか、わかりません」という、なんとも妙な壁に突き当たります。

「自分で自分をコントロールできていない」というこの不可解な状態を痛感したとき、人は「本当の私(真我)探し」という旅に出ます。



「私は、私を、私の思い通りにすることができない」と感じるところがあるならば、そう言っている「私」が、その「私」に対しての主導権を持っていないことは明らかです。

この「自分で自分の行動や思考をコントロールできていない」という状態は、いわば、ゲーム世界の「キャラクター」としての意識です。

それは、「コントロールされている」という状態、もしくは、コントロールする必要のない「自動運転モード」状態です。


その意識状態においては、能動性を失った受動状態となってしまうため、「自分が自分の人生を作り出している」という自覚が薄れます。

「私以外の何かに、影響を与えられている私」というキャラクター意識状態は、あくまで受け身の意識ですから、その状態で好ましい出来事が訪れれば「運がよい」と感じ、受け入れがたい出来事を前にすれば「被害者」という感覚を持つこととなります。


*****

ただ、多くの人は「好ましい出来事」に対して、違和感や抵抗をあまり感じません。

「私はなぜこんなにも幸せなのか」と問うことなく、素直にそれを受け入れることができます。

これが、「受け入れたくない出来事」であった場合、違和感や抵抗を過敏に感じます。

受け入れたくないがゆえ、「なぜ私がこの状況を受け入れなければならないのか」という抵抗や「この受け入れたくない出来事から逃れるにはどうすればよいか」といった思考が生まれます。

「心地よいこと」は素直に「感じる」ことができます。しかし「不快なこと」は、出来るだけ感じたくありません。

以前から何度もお話しているように、「感じる」ことと「考える」ことは、同時に処理できません。

だからこそ、感じることを避けるため「考える」という方を優先して選択するのです。

「考える」という状態において、「感じること」から逃避することができるのです。

*****



受け身の意識、つまり、現実の創造に携わっている自覚がなければ、「あなたの前に現れる世界はすべて、あなたの責任において創造されたものである」と言われても、その言葉の意味が掴めません。

目の前にある理不尽で不都合な出来事の数々が「自分のせい」などとは、思えません。

自分の関与していないところで起こっているアレコレが、「自分のせい」などとは、思えません。

当たり前です。画面上で「キャラクターが動いている」ように見えても、それを動かしているのは「プレイヤー」であり、キャラクターは「受動の次元」を出る事ができないからです。

だから、「現実の創造に携わっている自覚」を取り戻すには、「受動(キャラクター)から能動(プレイヤー)への意識転換」が必要不可欠なのです。


しかし、残念なことに、この「キャラクター」がどんなに努力を重ねても、プレイの主導権を得ることはできません。

どんなに経験値が上がっても、どんなにゴールドを集めても、どんなに新しい呪文を覚えても、ロトの血をひく勇者が、あなたからプレイヤー権を奪ったことがないように。

そしてまた、「キャラクター」がどんなにプレイヤーを探しても、見つけることはありません。

ロトの血をひく勇者が、あなたを見つけたことがないように。


キャラクターがプレイヤーに変異することはあり得ないのです。



では、どうすれば?


簡単な話です。

あなたが、「元々キャラクターではない」ということを思い出せばいいのです。

いくらキャラクターになりきっているとしても、それはそう「思い込んでいるだけ」で、そもそもがキャラクターではないのです。

プレイヤーを捜しているあなたが、プレイヤー本人なのです。プレイヤーであることを、すっかり忘れたまま「モニターの中(現象界)」を見て、それが現実だと誤認してしまっているだけなのです。

だから、「私は自我(キャラクター意識)の塊です。真我(プレイヤー)ではないのです」と言っている「私」こそが、捜しているプレイヤー以外の何者でもないのです。


キャラクターがプレイヤーを見失っているのではありません。

プレイヤーがプレイヤーであるという自覚を見失っているのです。

自我が真我を見失っているのではありません。

真我が真我であることを見失っているのです。

自我があるのではありません。

真我が真我であることを見失っている状態が自我と呼ばれているのです。

だからもう、キャラクター(自我)としてプレイヤー(真我)を捜さないでください。



捜しても捜しても、あなた以外のところにあなたは見つかりません。

だからこそ、「本当の私」は、「私」の存在を受け入れない限り見つかりません。

だって、そこにしか「私」はいないから。


「私が嫌い」

「こんな私が許せない」

「いまの私は、本当の私ではない」

「私自身を愛せない」

「私は改善されなければならない」

「私は、もっと成長しなければならない」

「私は、未熟な私を認めない」

「私はまだ、プレイヤーを見つけ出せそうもありません」


そうやって「私」の存在を認めず、受け入れないからこそ、「私」が見つからないのです。

「本当の私捜し」の旅は、終えましょう。

それを「どこか」という「先」に求めるから、「私」から遠ざかっているのです。

それを「いつか」という「先」に想定しているから見つからないのです。

あなたが捜している「私」がいるのは、ほら、「本当の私とは?」と問うている「いまのここ」です。




【おまけ】

プレイヤー発見の瞬間。






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←自分自身を認めることは、誰かに認められる以上に大切なことである。(←はい。自分で押しました)
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現実

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ふじこーさんがタイトルに色をつけてくれますた。

えいっ!






さて、今日はちょっとややこしいお話をしますので、注意して読んでみてください。


僕がはじめてプレイした家庭用ビデオゲーム機は、エポック社の「カセットビジョン Jr.」でした。

ソフトは、「きこりの与作」とか「アストロコマンド」とか。

どうだ、若い世代にはわからないだろう!(笑)


リンク先の動画を見てもらえれば一目瞭然なんだけど、当時のゲームの性能は、今とは全然比べものになりません。

描画はもの凄い大きなドットで構成された、超シンボリックな世界(画面解像度:54×62ピクセル)だし、描画色もたった8色。

音響面でも表現の幅は狭く、SEはあるものの、BGMがありません。


それでも当時は、このゲームを前にして大興奮でした。

夢中で画面にかじりつき、キャラクターの動きに合わせて、自分の体を揺らしていました。


そして間もなく第3世代の「ファミコン」が登場し、その性能の高さに愕然としました。

カセットビジョンの能力を遥かに超えた、細かなビットマップで描かれた世界の中で、色彩豊かなキャラクターたちが画面の中で走り回ります。


その数年後。

PCエンジンやスーパーファミコン、ネオジオなど第4世代に続き、プレイステーション、セガサターン、NINTENDO64などといった第5世代が次々と登場。

販売パッケージは、ROMカセットから光ディスクへと変わり、さらにデータ容量は大きくなり、クオリティの高いゲームが生み出されました。

「ポリゴン」などといった新しい描画スタイルも登場し、ゲーム世界は平面から、奥行きを感じられる世界となり、よりリアリティを高めていきます。


それからさらにゲームのクオリティはグイグイと向上し、いまや凄いことになっています。

描画レベルは実写と見間違えるほどのリアリティ。中には3D対応の立体映像も。

オンラインで繋がって、見知らぬ誰かとゲーム世界で出会うことだって可能です。

Xbox Kinectなら、コントローラーも必要なく、自分の体の動きや声にあわせて、そのまま画面のキャラクターが動きます。


携帯できる小型ゲーム機も、いまや裸眼3Dの第8世代。

なつかしの「ゲーム&ウォッチ」の液晶から、3DSに至るまでわずか30年ちょっとです。

で、いまやそんなゲームの世界にいる彼女と、熱海に温泉旅行に出かけたり、グアムで結婚式あげちゃったり。(笑)


人間が作り出した仮想現実ですら、僅か数十年でもうこのレベルです。

じゃあ、この先技術がドンドン向上していったら?

ゲーム業界だけではなく、世界中のありとあらゆる技術を「仮想現実」の創造に集約していったら?

そのリアリティが、よりとんでもないレベルになっていくことは、容易に想像できると思います。


では、究極的に、神の力を持ってゲームを作りだしたらどうなるのか。

それが、いままさに僕たちの目の前にある「現象界」であり、日々体感しているこの「現実」です。


さてここで、今一度この「現実」というものを熟考してみましょう。

「現実」とは、一体なんでしょうか。


辞書をひいてみれば、そこにはこうあります。


げん-じつ【現実】
いま目の前に事実として現れている事柄や状態。


じゃあ、その「事実」って、何でしょう。


じ-じつ【事実】
実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。本当のこと。


「現実」を調べれば「事実として現れている事柄や状態」って言われて、「事実」を調べれば「現実に存在する事柄」って言われて。

なんだかわからないまま、堂々巡り(笑)。


でもまぁ、この二つをまとめてみると、ニュアンス的にはこんな感じでしょうか。


『いま目の前に起こっている、本当の事柄や状態』


これが「現実」の意味だとして。

その「目の前に起こっている、事柄や状態」を「その事柄や状態」として認識・解釈しているのは、誰でしょう。

そして、それを「本当の事」と認定できる基準は、どこに、どのように存在しているのでしょう。

ここが、問題なんです。



『現実とは何だ?明確な区別など出来ない。五感で知覚できるものが現実というなら、それは脳による電気信号の解釈に過ぎない』

『現実としか思えない夢を見たことは? その夢が覚めなかったら君は夢と現実を区別できるか?』

(モーフィアス:「マトリックス」より)』




結局、その「現実」を認識しているのは「私」という主体であり、また、それを「本当の事」として認定を下すのもやっぱり「私」なんです。

「現実」の意味や価値を作り出しているのは、「私」。


でも、純粋な意味での「現実」や「事実」は、本当は「こうである」と定義することができません。

目の前にある事物に「これはこういうモノである・こういう意味である・こういう価値である」という定義付けが行われている時点で、「その人の(もしくは第三者の)観念」(解釈の制限)が通されているからです。


Aさんがある出来事を「これはこういうモノである・こういう意味である・こういう価値である」と定義して「これは現実、実際に起こった本当の事」と話しても、Bさんにとっては、まるで違うモノに感じられる可能性があります。

たとえば、「誰かの死」。

ある人にとって「悲しい出来事」という現実として目の前にあっても、別な人にとっては「悲しみを伴わない出来事」であることは、よくあることです。

仮に、誰かが殺害されたとして。

それがアナタの家族であった場合と、見知らぬ誰かであった場合では、まったく違う解釈になると思います。


もしかしたら「いや、そんな事はない。それが誰であっても、私は悲しい」と言う方もいらっしゃるかもしれません。

でも、そうだとしたら、ちょっと考えてみて欲しいのです。

なぜ「死が悲しい」のでしょうか。

いえ、僕はいま「死を悲しむべきではない」いう話をしているのではありません。


「死=悲しい」というそのアイデアは、どこからきたものでしょうか。

あなたのオリジナル?

それとも、既にあった誰かのアイデアを引き継いだもの?

ある特定の出来事によって、「悲しい」という感情を引き出す(もしくは結び付ける)結果になったのは、いつからでしょう?


もっと言えば、「死」いうそのアイデアは、どこからきたものでしょうか。

あなたのオリジナル?

それとも、既にあった誰かのアイデアを引き継いだもの?


多分、あなたのオリジナルではなく、既にあったアイデアを、いつの間にか引き継いでいたのだと思います。


そのアイデアは、多くの人が採用しているため、辞書にこう書かれています。

し【死】
生命がなくなること。


では、その「なくなる」と言われる「生命」とは、一体何なのでしょう?

その「生命」という何かが、なくなる瞬間を目撃した人はいるでしょうか?

勿論、「動きが失われていく身体」や「動きが停止した身体」を目撃することはできます。

しかし、そこに「生命」を目撃したことは無いはずです。


「そんなこと言われたって、そもそも生命は目に見えるようなものじゃないから」


では、その目に見えるようなものじゃない「生命」の実在性を、どのように認識しているのでしょう?

そしてそれが「なくなるもの」としているのは、明確な根拠のあるものでしょうか。

それとも、「現在採用しているアイデア」でしょうか。


さらに、「死」だけではなく、あなたが「現実」とみなしているあらゆることは、どのように認識しているのでしょう?

それらは、五感による電気信号以外のカタチとして、その実在性を示せるものでしょうか。

それとも、「現在採用しているアイデアの集積」でしょうか。




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←これは現実?
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パラドックスとパラレルワールド

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精神世界を学んでいくと、数々の理解しがたい矛盾や謎に突き当たることがあると思います。

たった一つの真理が話されているはずなのに、時に、真逆の教えが説かれることがあるからです。


たとえば、「未来はあらかじめ全て決められている」ということと、「未来は自由意志において選択可能である」という相矛盾することが、「どちらも両立する」という話され方。

そしてそのことが、別な人の言葉ではなく、同じ人物の口から発せられたりするから、余計に混乱してしまいます。


このほかにも、理解しがたい話は色々あります。


・「時間」も「空間」も全て幻想である。

・「過去」も「未来」も、「いまここ」に同時に存在している。

・この現実とは別の、もう1つの現実(パラレルワールド・並行世界)が存在する。
 ※【パラレルワールド】ある世界から分岐し、それに並行して存在する別の世界(選択されうる全ての可能性・あらゆる現実が、その分岐に合わせた結果として全て並行して存在する)。

・パラレルワールドは存在しない。



一見「なんのこっちゃ?」となってしまうこれらの事も、「ゲームの世界」という見方で捉えてみると、すべて「な~んだ」という、実に単純な構造として見えてきます。



・未来はあらかじめ全て決められている。
 → ゲームの内容は、あらかじめ全てプログラムされている。

・未来は自由意志において選択可能である。
 → どのようにプレイするかは選択可能である。

・「時間」も「空間」も全て幻想である。
・「過去」も「未来」も、「いまここ」に同時に存在している。
 → ゲームのスタートからゲームオーバーに至るまで、全てはプログラムの中に同時に存在しています。

・この現実とは別の、もう1つの現実(パラレルワールド・並行世界)が存在する。
・パラレルワールドは存在しない。
 → 「たたかう」を選択する自分も、「にげる」を選択する自分も、「ぼうぎょ」を選択する自分も、プログラムの中に、同時に存在しています。しかし、「そのプレイ」という視点においては、一つの結果しか経験することができません。













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【5月16日追記】

すみません!ブログでの告知忘れてました!

平日のお話会「月イチ☆」の6月開催分、チケット発売中です。

◎6月20日(水)「月イチ☆」

※詳しくは【こちら】(携帯からお申し込みの方は【こちら】



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←押される現実と、押されない現実が、同時に存在する。
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