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正念

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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(;゜ ー゜) 「苦から逃げずに、それを受け止めて観察する…。」

(;゜ ゝ゜) 「むう…。やはり、当たり前の事を受け入れるというのは、一筋縄ではいきませんね。」

( ̄д ̄ ) 『物事を正しく見る(捉える)ということの難しさ。それはやっぱり「欲」の力が働くからなんです。』

(;゜ ∀゜) 「と、言いますと?」

( ̄д ̄ ) 『「希望」や「期待」といった心の動きが、理解を妨げてしまうんです。』

Σ(;゜ ω゜) 「え? 希望や期待って、悪いことなの? よく、“ポジティブシンキング”って言うじゃないですか。」

( ̄д ̄ ) 『「ポジティブシンキング」はそういうことじゃないんですよ。「今」起こっていることの良い面を捉えていこうというのが本当のポジティブシンキングです。やはり、物事の捉え方の問題なんです。それに対して、希望や期待は「未来」に対する思いなんです。「今」を正しく捉えずして「未来」を思うことは、ある意味現実逃避なんですよ。「今」を受け入れたくないから「あーなったらいいな、こうなったらいいな」と「今」から目を背けて「未来」を夢見てしまうんです。これは、本当に自分の事を客観視していなければ見落としてしまいますね。』

(;゜ ー゜) 「よりよい未来を願うことは、悪いことですか?」

( ̄д ̄ ) 『願いたければ願えばいいし、願わなくてもかまいません。どっちでもいいんです。ただ、このことはわかってください。「幸福になりたい」という思い自体が、すでに「不幸」だということを。』

(;゜ ゝ゜) 「幸福になりたいという思いが不幸?」

( ̄д ̄ ) 『ええ。今に満たされていないからこそ、「もっと幸せになりたい」という思いが生まれるんです。満たされていれば、「もっと幸せに…」なんて考える必要などないんです。ただ、満たされているだけです。』

(;゜ ∀゜) 「満たされていないから、よりよい未来を期待する…。つまり、希望や期待が現れてくること自体が、自分が満たされていないと感じている証…。」

(;゜ ω゜) 「わかったような、わからんような…。なんだかモヤモヤします。」

( ̄д ̄ ) 『では、そのモヤモヤが晴れるよう、「正見」の話はこれぐらいにして、次のテーマに移ってみましょうか。』

( ゜д゜)( ゜ー゜)( ゜ゝ゜)( ゜∀゜)( ゜ω゜) 「お願いします!」

( ̄д ̄ ) 『じゃあ、「気付き」繋がりで、「正念(しょうねん)」のお話をしてみましょう。』

( ゜д゜) 「“正念”は、たしか“正しく気付く”という意味でしたよね。」

( ̄д ̄ ) 『ええ。その通りです。別な言い方をすれば、「認知を認知する」ということです。』

(;゜ ー゜) 「認知を認知する?」

( ̄д ̄ ) 『脳科学的に言うと「メタ認知」です。』

(;゜ ゝ゜) 「メタ認知…。余計わかりません…。」



説明しよう!
「メタ認知」とは、人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識することを指す脳科学用語です。
また、現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を「メタ認知能力」といい、現代の教育環境においては、この能力の育成が、特定の教科教育を超えた重要な課題のひとつとして取り上げられています。

※現代の脳科学で「ここが重要です」と話している内容を、お釈迦様は2500年前から話していたということですね。


この「メタ認知」、わかりやすく説明すると、

『私が、知っているということを知っている』
『私が、感じているということを感じている』
『私は、理解していないということを理解している』

などのように、自分の置かれている状況、自分が感じていることを、外から客観的に捉える能力のことです。

この能力が高いほど、閃きや気付きが生まれやすいと考えられています。


【参考:メタ認知能力を測る9項目】

以下の質問に「はい」と答える数が多いほど、メタ認知能力が高いことになる。

1.自分が用いる方法がどのような問題解決のときに、最も効果的なのかを知っている
2.どのようなやり方が有効か、十分考えてから課題に取り組む
3.問題の中の重要な部分に意識的に注意を向けている
4.自分がどの程度よく理解できているかについてうまく判断できる
5.問題が解けたとき、自分がどういう方法を用いたかわかっている
6.問題に取り組んでいるときに、うまくいっているかどうか、定期的に自分でチェックしている
7.勉強するときは、その目的に合わせてやり方を変える
8.勉強したり課題を行うときには、計画を立てる
9.考えが混乱したときには、立ち止まり、もとに戻って考えてみる


先日ご紹介した『ひらめき脳(茂木健一郎著)』では、この能力を使い、「なぜ自分は気付かないのか?」と考えることが、ひらめきへの近道になると説明しています。(この本、実はとっても「八正道」と関連が深いので、ご一読をオススメします。)


八正道的に見ると、常に自分の身体と心の動きを監視し、自分が何をしようとしているのかを捉えていく作業を実践することです。

これを実践してみると、「自分で自分の事が、まるで理解できていなかった」という、驚きの体験をすることになります。





難しい?



←このボタンを押すという作業。その行動一つ一つを観察します。目がこのアイコンを捉えていることを知り、手がマウスに触れていることを確認し、左肘が机に触れ、お尻が椅子に触れていることに気付き、右手の指先を下に動かしマウスのボタンを押す…と、普段無意識に行っている行動の一つ一つを分解し、自分を観察していきます。

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正見.2

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(;-人-)(;-人-)(;-人-)(;-人-) ナムナムナムナム…

( ̄д ̄ ) 『皆さん、突然どうされたのです?』

(;゜ ー゜) 「はい。私達も早く悟りを開きたいので、ブッダを拝んでおります。」

( ̄д ̄;) 『はぁ?』

(;゜ ゝ゜) 「さっき、リーダーが、王子は“ブッダ”になられたと言っていたので拝んでみました。」

ハッ! Σ(;゜ ∀゜) 「っていうか、リーダーも悟り開いたんだよね。じゃ、リーダーも拝まなきゃ!」

(-人-;)(-人-;)(-人-;)(-人-;) ナムナムナムナム…

(゜д ゜;) 「やめてくれよ。気持ち悪い…。俺やブッダを拝んでどうなると思っているんだよ。そんなことしたって何も起こりゃしないよ。」

(;゜ ω゜) 「え? だって、ブッダ(目覚めた者)なんでしょ?」

(゜д ゜ ) 「王子はブッダだけど、俺は違う。俺は“目覚めた者”じゃなくて、せいぜい“気づいた者”だ。それに、いくらブッダだとはいえ、王子を拝んだってしょうがないだろ。」

(;゜ ー゜) 「え? そういうもんじゃないの?」

(゜д ゜ ) 「さっきブッダが説明してくれたばかりじゃないか。物事を正しく見なきゃだめだ。誰かの話を鵜呑みにして、偏見や先入観をもって物事を捉えちゃダメだよ。」

(;゜ ゝ゜) 「話を鵜呑みにするなって…。じゃあ、リーダーは、王子がブッダになったと嘘をついたとでも言うのかよ。」

(゜д ゜ ) 「いや、そういうことを言ってるんじゃないよ。きちんと自分で客観的に観察して確認しなきゃダメだよって話をしてるんです。それに、誰かや何かをワケもわからず拝むってのも非科学的だよね。そんなの、ただの妄信だ。」

(;゜ ∀゜) 「じゃあ、ブッダの話も、リーダーの話も信じるなと?ブッダがさきほど説明してくれた、諸行無常や諸法無我の教えも信じるなと?」

(゜д ゜;) 「いや、だからそういうことじゃなくてさ…。ブッダ、なんて伝えればいいんでしょう?」

( ̄д ̄ ) 『皆さんがそうしたいのなら、信じなくていいですよ。いえ、むしろ信じないでください。』

Σ(;゜ д゜) 「ええ!?」

( ̄д ̄ ) 『諸行無常も、諸法無我も、ただ情報として知っているだけでは何の意味もありません。ですから、私が説明しているからと言って、それを鵜呑みにし、知ったつもりになるぐらいなら、信じないほうがいいです。信じるのではなく、ご自身の体験として理解してください。』

(;゜ ∀゜) 「体験して理解しろと言われても…。諸行無常も、諸法無我も、どうやって体験すればいいんです?」

( ̄д ̄ ) 『ですから、それを体験するための道が、先ほど話した「八正道」なんですよ。「八正道」なんて言うと、難しく聞こえちゃうかもしれないけど、平たく言えば、「アハ!体験」を迎え入れやすくするための方法、ひらめきや気づきを生む環境作りみたいなものなんです。』

(;゜ ω゜) 「続きを聞かせてください。」

( ̄д ̄ ) 『最初にお話した「正見」は、コンダンニャさんがお話してくれたとおり、物事をいろんな角度から観察する目を持つってことが大切です。諸行無常も、諸法無我も、「真理」という答えを示しているんです。「アハ!体験」の例で言うところの、「ダルメシアン」「イエス」と同じように「答え」なんです。で、その答えを示されても、実際はそれに気づいていない。』

(;゜ ー゜) 「はい。」

( ̄д ̄ ) 『ですから、まずは、自分が「気づいていない」ということに気づく必要があるんです。』

(;゜ ゝ゜) 「気づいていないということに気づく…。」

( ̄д ̄ ) 『そこに「ダルメシアンが見えるんだ」という前提がなければ、あの絵もただの意味のない模様として見逃してしまうということです。そこに答えがあるのにもかかわらず、それに気づかず通り過ぎてしまっては、いつまでたっても答えにはたどり着けません。答えが目の前にあることを信じ、対象をじっと観察することで、初めて答えに出会えるんです。真理についても同じです。答えは必ず、いつでも自分の目の前にあります。ここにもない、あそこにもないと、探し回っていたのでは、いつまでたっても答えにたどり着けません。目の前にある森羅万象をじっと観察することで、初めて答えに出会えます。自分の今までの見方、解釈の仕方に執着していては、そこに新たな発見は生まれません。物事を正しく見る。それは、自分がそれまで持っていた偏見、先入観、記憶、そういったものを一旦捨て、「今」を忠実に捉えるということです。ニュートラルな目線で、「今」から逃げずに、「今」をしっかり受け止めることです。今が苦しいのであれば、その苦しみから逃げるのではなく、その苦しみをじっと観察することです。その苦しみの構造を理解することです。何が苦しいのか、なぜ苦しいのか、その苦しみの源はなんなのか。それを明確に見つけ出すことです。』



←さあ。偏見、先入観、記憶、そういったものを一旦捨て、今の状況を見てみよう。

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体験

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さて、ちょっと話を巻き戻しまして…


      ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜)Д゜)ノ
        ヽ(゜Дヽ(゜Д゜)゜Д゜) ゜)ノ
         ヽ(ヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノ
          ヽヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノノ
         ヽヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノノ
         ヽ(゜Д゜)゜Д゜)゜)ノ
         ヽ(゜Д゜)゜Д゜)ノ
       ヽ(ヽ(゜Д゜)゜)ノ
      . ヽヽ(゜Д゜)゜ノノ
      ヽ(ヽ(゜Д゜)ノ
       ヽ(゜Д゜)ノノ
     ヽ(゜Д゜)ノ イヤッホーーーー!!!





シャキーン! \( ` д´)ゞ 「サトリレッドに変身完了!」

(゜∀ ゜;) 「変身完了って言っても…特に何か変わったようには見えないのですが…」

(;゜ ゝ゜) 「ブッダ、教えてください。リーダーに、何が起こったのですか?」




先日ご紹介したとおり、この時コンダンニャさんが体験したのは、仏教で『預流果(よるか)』と呼ばれる悟りの第一段階です。

この『預流果(よるか)』を経験してしまうと、一瞬にして世界が一変してしまうのですが、とはいえ、外的な何かが変化するワケではありません。あくまで、「内的体験」なんです。

自分が変わることによって、世界が変わるんです。

この、「自分が変わることで、世界が変わる。」という言葉。

仏教に限らず、精神世界のあらゆるもので語られているのですが、その不可解さが、精神世界のわかりづらい部分だと思います。

「自分一人が変わったところで、なんで世界が一変するん?」って。

でも、その不可解さは、先にご紹介した「アハ!体験」を見ると、その仕組みがよくわかるかと思います。


「図柄」を「世界」、「ダルメシアン、イエス」を「真理」と置き換えて考えてみてください。


自分を取り巻く環境(図柄)は、何一つ変化していません。

ですが、一度、ひらめき(気付き)という内的体験が起こったとたん、今まで見えなかったモノが、ハッキリと見えるようになります。

そこには、難解な知識が必要なワケではありません。特別な能力が必要なワケでもありません。

だって、ダルメシアンのイメージだって、イエス・キリストのイメージだって、元々自分の中にあった知識なんです。

「見る」という能力も、その時突然芽生えたワケでもありません。

それに気付く前から、ずっと「見る」ということは出来ていたわけですから。

自分を取り巻く環境も、知識も、能力も、何一つ変わっていないんです。

宝くじが当たったわけでも、膨大な勉強をしたわけでも、霊能力や超能力が開花したワケでもないんです。


では、何が変わったのかと言えば、「捉え方」が変わったんです。


逆に言うと、自分の「物事の捉え方」が変わらない限り、世界は変わらないんです。

宝くじが当たろうが、どれだけ知識を詰め込もうが、霊能力や超能力が開花しようが、「捉え方」が変わらないかぎり、「不幸」は不幸のまま、「苦しみ」は苦しみのままなんです。

そして、問題が「捉え方」である以上、残念なことに「他力本願で気付く」ってワケにはいかないのです。どこまでも自己責任。



『目に映る全てのことはメッセージ』

とはいえ、そのメッセージは、見える人には見えるけど、見えない人には、やっぱり見えない。


「じゃあ、そのメッセージを捉えられるようになるには、閃きや気付きを得るには、どうしたらいいのさ!」

と、なるわけですが、そのことを示してくれるのが「八正道」。



と言うわけで、そろそろ物語の続きへと戻ってまいります。



←繁忙期に突入のため、更新にバラツキが出るかもしれません。

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解答

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いかがです?

2つの図柄に何が描かれているか、あなたにはわかりましたか?

と、いうワケで、今日は解答のご紹介です。

「まじ!?ちょっと待って!自力で頑張るから!」という方は、この先ネタバレですのでご注意下さい。



では、答えの発表です!

※とはいえ、すでにコメント覧で正解でちゃってるんですけどね。^^;



1枚目の答え:うつむき気味で公園を彷徨うダルメシアンくんの図。




2枚目の答え:茂みの中のイエス・キリスト


どう?

「Aha!」ってなりました?^^



←ランクが上がると、「Aha!」ってなりますです。

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見えない真理

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さーて。

前回ご紹介した2つの絵柄に隠されたあるイメージ。皆さんは気付くことができましたか?

僕ね、ある日、これが紹介されていた『ひらめき脳(茂木健一郎著)』を本屋で立ち読みしてたんですよ。

その時、イントロダクションで紹介されていたこの問題に嵌ってしまいましてね、どうしても答えが知りたくなっちゃったんです。でも、立ち読みで同じページをひたすら「じーー」っと凝視してたら怪しいじゃないですか。で、ページを進んでは戻り、進んでは戻りと、チロチロ読み返して見ていたんですけど(それはそれでかなり怪しいです)それでもやっぱり気付けなかったの。

悔しいから、「家に持って帰ってじっくり凝視してやる!」と、結局購入してみたものの、それでも、1枚目の図がわかるまでに2日かかりました。

2枚目の図においては、結局分からず、我慢出来なくて、自力で解く前に解答を見てしまいました。

解答を知ってもなおイメージが見えなくて、しばらくしてから「あっ!」ってなったんです。


ちなみに、初めて見た場合、5分間で正解した人の割合は、1枚目が全体の約12%、2枚目が約9%だったそうです。


家の奥さんに、「ママ、ママ!ちょっとこれ面白いからやってみて!!」ってチャレンジしてもらったら、両方秒殺で答えられてしまいました。_| ̄|○


まぁ、そういうワケで、わかる人にはすぐわかる、わからない人は、答えを聞いてもなかなかわからないという典型を、夫婦で立証してみたのですが、これって、やっぱり「真理」についても同じ事が言えると思うんです。

「無我」を経験したことのある人が、いくら「難しい事じゃないよ。目の前に真理があるんだ!」って答えを示しても、「それまでの見方を改めて、こういう見方をしたらいいよ!」ってヒントを示しても、気付けない人はやっぱり気付けない。「預流果」というアハ!体験に辿り着けないんです。(逆に、宗教にもオカルトにも、なんの興味も無かったのに、不意に気付いちゃった!って人もいるワケです。)


その体験をした者同士なら、「真理」という共通認識を共有できるのですが、わからない人は、それに気付けないゆえ、「は?こいつら大丈夫?そんなもの、いくら見たって見えないじゃないか。ありゃしないじゃないか。」って反応になってしまいがちなんですね。

だからといって、「それを体験した人が、○○というイメージが見えるといっているぞ!」と、その答えを自分で確認できずに、言葉だけを鵜呑みにして、信じ込んでいても何の意味ももちません。

経験してこその「アハ!体験」なんです。

とはいえ…

ここで問題になるのは、この「気付き」や「閃き」が、自分ではどうにもコントロール出来ない代物だということです。

気付きたくても気付けない。閃きたくても閃けない。

他人に代わってもらえるものでもない。どんなに頑張っても、他人が関与出来ない。

最終的に気付くのは(閃きを得るのは)、あくまで本人だけなんです。

それなのに、僕たちは、どんなに念じても、どんなに苦行しても、どんなに勉強しても、「閃き」をコントロールすることができない。


と、ここまで、通じてます?



←図柄に隠されたイメージの正解は、しばしお待ちを。

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