沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩531 考察 23

2014年05月31日 15時17分36秒 | 政治論

 老年にとって死は最も近接した事象には違いない。しかし多くの場合死は、それ程重大な懸案として念頭に置かれるような仕掛けにはなっていない。さながらPTSDのように、先取りされた運命として記憶から遠ざける生存機能が働くのかもしれない。死因が老衰の場合「天寿を全うした」と囁かれる。徐々に衰弱するという経験がない以上誰もそれが彼にとって天寿かどうかはわからない。ある種の苦痛も伴うだろうと思われる。アジアのある地方では「風葬」という末期の迎え方があるらしいが、文字通り風吹く野ざらしを身に受けて最後は「鳥葬」となって死肉を啄む野鳥の胃に収まる。野ガラスなどではやがてボロボロの羽根になりながら荒原に立ち尽くし風に吹き飛ばされて滅び去る、という死に方もある。それらは見ていて悲しくもなんともない。人は如何にジタバタしてもどの道死ぬのである。だが、半ばにして命脈を断つということは無残な話だ。近隣の30代の青年が交通事故死した話は耳の奥にいつまでも余韻を残す。チビチリガマ(読谷村集団自決があった壕)の生き残りが負っているものは、何年たっても消えない身の毛もよだつ地獄の光景だった。この時死は彼にとって後悔の生を準備しただけの、肉親、親族、隣人たちが半ばで断ち切った生の瞬間だった。だから彼の中に、それは決して消えることのないそのままの現実を凍結して保存してしまう。恐らくは彼の中だけに。(つづく)

 

 


詩531 考察 22

2014年05月30日 22時00分59秒 | 政治論

 名護漁協(古波蔵廣組合長)は沖縄防衛局に、海底ボ-リング調査のための岩礁破砕同意書を提出している(他に海底21地点の掘削と作業区域明示用ブイの設置にも同意している)。事業者防衛局と県が、今後協議していく。

 名護漁協は既に増額(当初提示24億円から5割増しの36億円で合意但し増額の根拠については説明がない)された漁業補償費を受け取っているし、漁協の辺野古移設に関する反対意見(過年非公開での会合ではその結果が一方的でその内容に疑問符を残した)は皆無に等しいらしい。

 過疎地、という特異性はこのように、国乃至相応の事業主体が補償費さえ準備すれば「なりふり構わず」金に飛びつき後先考えない。拝金主義、現ナマ主義は権力側の考え方の中枢であり、「札びらさえきれば大概なびく」と踏むのが常套だ。54か所の原発立地過疎地もまたそうであったし、今後もその流れは主流であることに変わりはない。

 かつて沖縄海洋博が行われたとき、これの集客需要を当て込んだ多数の新規事業者がその後倒産に追い込まれた事例は夙に有名であり、勿論また防衛局関連事業の地元還元がおよそ有名無実な内容に終始してきたことも、よく知られてはいる。にも拘らず地元の都市化、あるいは過疎脱却の誘惑は権力者が弱みに付け込む類のナイーブな一面を備えており、その真の発展を約束するような根拠も薄弱な説得工作にくずおれて、人はむしろ不用意に承認の判をつく。そこにあるのは心理学にすぎず、その行為の功罪を見極める悟性の働きは不問に付される。地元は靡きやすい。何故、世界の卓越した有識者の声明が正しく読み込まれる必要があるか。(つづく)


詩531 考察 21

2014年05月30日 09時28分38秒 | 政治論

 好悪というのはどうしようもなくあるので、例えば筆者などは安倍晋三という存在が嫌いであり、どうしてそうなのかははっきりわからず、と同時にどこまでもこき下ろしたくなり、できれば速やかに埒外に去ってほしいと冀うのだ。当然原発事故に責任を負わずに逃げ切ろう、再稼働しよう、原発セールスに勤しもうなんて自民党連中なんぞは大嫌いなのであり、何事にもアメリカさまさまで、自国民である琉球沖縄の民のことなどなんとも思わないし、地位協定やら思いやり予算やら明らかに屈辱外交を展開して止まぬ、その摩訶不思議な国民性?にはあきれてものも言えない。

 自分の国のうるわしい海や大地、大自然を汚す以外功のない米軍を、そこの住民や環境団体、県民、に嫌われ否定されている場所に好んで誘致しようというこの国の為政者は狂っているのだが、彼らの圧政、強権主義が通用するような現代世界はどこにもない。従って、彼らのしていることは明らかな税金の垂れ流しにほかならず、これに物言いしない人民に日本国憲法は相応しくないものとなる。

 琉球沖縄は米軍と自衛隊によって、人の住む町でなく、戦場並にズタズタにされてきた土地としてあり、さながら住民は牛馬のごとくその土地を取り上げられ、追い立てられて、隅っこのほうに辛うじて息をしている格好だ。本土との差別である。これは偶然なんかじゃなく、明白に彼らの中にある差別的感性が然らしめたものである。アジア、中国、朝鮮に対するような、おぞましい優越感、だ。

 湧き上がる嘔吐感は、自家中毒の気もないわけでない。自己嫌悪ではないが、日本人であることのどうしようもない不愉快さは、此処に来て一層募る。(つづく)


詩531 考察 20

2014年05月29日 19時29分46秒 | 政治論

 沖縄県知事仲井眞弘多が9月上旬訪米するというのだが、稲嶺名護市長の訪米は5月上下旬に2週間程度行われ、米政府関係者乃至識者などの「合意案の撤回、見直しは困難だ」という認識と「計画は元々無理がある」という意見が混淆する内容で示され、市長は「県民の多数が辺野古移設に反対し、計画は混迷する」と状況説明し今後の動向が一筋縄ではいかないことを伝え、「手続きだけ先行していっても地元住民の反対のなかではうまくいくわけがないし、一層市民力が結集されるだろう」とも述べている。県知事の埋め立て承認が米国側に移設の進展を印象付けているのだが、その知事が知事選3か月前に訪米する狙いは恐らくは選挙対策乃至その出馬意思の自己確認という意味合いがあるのだろう。ただ彼の中では辺野古の問題は解消済みになっている。明らかに日本政府に下駄を預けたのであり実際あの時点での承認の意味合いはそのようにしか取れない。言ってみれば、琉球沖縄が18年以上の間、意地と矜持のうちに己の立地を固守してきた精神的な持続力を、知事は安倍晋三はじめ政府幹部連中の籠絡懐柔の嵐にあっていかにも雑然と投げだしたのだった。こういう県知事により米国に行って語られる浮薄な本土追随の文言の数々を、我々は苦々しく眺めているしかないのか。(つづく)


詩531 考察 19

2014年05月29日 08時48分02秒 | 政治論

 安倍晋三のような幼稚な軍国主義亜流が政権元締めにいる限り、琉球沖縄の住民には心の休まる暇がない。固より米軍基地の存在と米国政府の日本傀儡政権便乗主義にかかっては軍隊論理の力づくの横行がまかり通り、司法(辺野古アセス訴訟は控訴棄却となった)も行政(どこの県知事やらわからない)もなんとも無力なことだ。一方、明らかに本流でない保守主義タカ派の跳梁を望む国民などいるものだろうか(「1票の格差」違憲、乃至違憲状態ではすべての国政公職選挙がアンフェアだということじゃないか)。(つづく)

 

 

 

 


詩531 考察 18 認知症

2014年05月28日 10時16分40秒 | 政治論

 特殊なケース。介護施設通所デイサービスでの社会性回復リハビリの成果か、所謂痴呆系の検査項目にあってはかなりの改善がみられるという医師診断なのだが、「その後変化しましたか」という家族への確認において「してません」という答えがあると、つまり相変わらず完全な被害妄想状態にあって、周辺に多大の精神的負担を強いている実情を認めないわけにいかない、となり、これは少し特異なケースだという医師の言があった。患者たる彼女はこう考える。「物がなくなる(実際は置き忘れ、仕舞忘れ)」-「物を取られた」-「あの子の祖母(彼女の姑)は私をいじめた」-「だから祖母の可愛がったあの子が取った」。ところが暫くして(数時間後、あるいは翌日)彼女はこう謝罪する。「私はついかっとなるので、ごめんなさい」勿論この間激しい言い争いがあるのだ。医師もまた、問診中に彼女がかなり頑固な性格なのを把握しているので、こうした家族間確執には大いに同情するところがあるらしい。完治の可能性、症例もあるらしく、患者の終焉以外にも希望はあるようなので、一種の堪忍を心がける従来のやりかたを踏襲することであろう。(つづく)


詩531 考察 17

2014年05月27日 17時37分55秒 | 政治論

 那覇が琉球沖縄の表玄関としてこの地の顔というなら、それは大きな歴史的誤解にほかならないのだが、何故ならこの都市は1944年10月10日の大空襲で灰燼に帰しかつ1945年4月米軍本島上陸以後の高台奪還と称するいくつかの稀にみる激戦と無数の艦砲射撃、空襲で街路そのものが戦前の姿を消し去ってしまったからだ。現在ある街路、その他の都市景観は殆ど戦後の建造による。勿論首里にある今の首里城は戦災で建物自体が消失し、戦後優れた時代考証と調査発掘に基づく再現作業により色彩豊かで華麗な現今世界遺産建築物として蘇ったものだ。那覇市内国際通りなどはみやげ物販売やら食材以外なにもない観光客向けに軒を並べた商店街にすぎない。牧志公設市場にしてもしばしば本土のメデアがやってきてはありきたりな特産物紹介、ならではのロゴマーク入り衣料品展示など愚にもつかぬミーハーを演出する程度にまで成り下がっている。言ってみれば、68年前事実上そこで行われた惨たらしいまでの殺し合いに関し、ふと立ち止まって歴史の狭間にタイムスリップするような空気はどこにもない。何も知らなければ何も変わらない、というのがこの地の在り様であり、逆に、知れば知るほどこの地に対する深い哀情にほだされ、その身の毛もよだつ恐るべき弑逆の歴史をわが身に置き換え顧みるべく突き動かされる。(つづく)


詩531 考察 16

2014年05月27日 07時37分04秒 | 政治論

 神の試練というのは、往々にして人を惑わすように作用する。神を信じるかどうかはともかくこうした試練の局面を一度も経験しないというような者はいまい。例えば聖書ではこんなイエスの言葉が異彩を放つ。「人の子が、この世に平和を齎すために来たと思うな、却って剣(つるぎ)を投げ込むために来たのである。」「人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲違いさせるために来たのだ。」これはマタイ伝にあるイエスの長い説教の一部だが、後半が幾らか詩的でないのはマタイの立場からはしかたがないとして、この言葉の持つ言い知れぬ厳しさは、神のみぞ正しくあとは地獄、という信仰の本質を表現しているのであろう。

 辺野古の海が騒乱を予感させる7月決戦と相成った。

 百条委員会は開催される。

 永い琉球沖縄の軛を、彼の浅ましい判断力放棄で途轍もない人民的重荷に投げ返したあの日から、大地踏み鳴らし叩く島のテエクヌヒビキもオジイのサンシンもデイゴの花もシマンチュヌ宝も、なんと色あせたような空間が広がり始めたことだろうか。(つづく)


詩531 考察 15 認知症

2014年05月26日 11時32分25秒 | 政治論

 認知症の根本原因は、老後に間違いなく課題化されるところの、彼(彼女)の内面における空虚感からくる代償行為としての感情発散にあるのだろう。従って、この空虚さを補填しない限りは際限なく周辺事情を悪くするように生き続ける。そこには認知症特有の論理的破綻があり、周辺の感情、心情を甚く傷つける作用として顕現し、周辺はこれに対して説得し理解させようとするがこのやり方は間違っていると専門家は指摘する。こういう上から目線の言い方が彼(彼女)を刺激し激高させ、益々凝り固まるように(物とられ妄想では)確信的に盗られたと思い込むことになる。当事者にとって、この状態の終わりのない空気感がたまらない。しかしながら、専門家の言う認知症患者に媚びるような対応の仕方を実践するのは、一般の素人には恐らく不可能であろう。可能だとしても、そこに費やされる精神的な負担感は測り知れない。何故ならこのケースでは患者の終焉以外その軛から逃れられないという絶望的な症例しか目につかないのだ。(つづく)


詩531 考察 14

2014年05月26日 09時33分37秒 | 政治論

 米上院軍事委員会は2015年会計年度(2014年10月~2015年9月)国防権限法案の上院案で、在沖海兵隊グアム移転関連予算の執行を凍結する従来の方針を維持した。上院本会議で可決の見通し。下院は既に政権提出の国防費グアム移転関連予算全額(約52億円)承認を可決しているので、今後両院協議にかけられて最終的に一本化案が出されるがグアム関連予算案についてはこれまでは上院案が反映されてきた。

 沖縄タイムス記事はこうした米議会の動きに鑑み、仲井真承認に伴う辺野古移設計画進捗によるグアム移転計画進展の印象が実体を伴わないものだと指摘している。これは仲井真知事の政治判断が甘いものだったということを証明しているのであって、彼の本来の政治的決着意思はどこにあったか疑問視されるところでもある。逆に言えば総本山と目された「埋め立て承認」の流動性はいよいよ目も当てられぬ失政要件を準備するだけの混乱を助長するためにのみあったということになる。

 この失政はこればかりに留まらず、名護市長、市民、住民、有志乃至県民に極めて複層化する民生困難状況を醸し出し、実施工事に至った場合予想される流血事態さえ生み出さんとする、極めて責任性の高い結果を予感させる。しかも恐らくは知事承認は明らかな「見切り」であり、今後何があっても不思議でない混沌とした状況を用意したのだった。(つづく) 

 


詩531 考察 13

2014年05月25日 07時28分46秒 | 政治論

 今後辺野古を巡る地元名護市、名護市長乃至活動家、住民、有志に対しては国家による尋常ならざる締め付けが、日を追うごとにその強度を加速度的に上昇させるのであろうが、日米政府に民主的正当性がない以上、これからは世界レベルの理念闘争に移行し、反対派反対言論糾合による「島ぐるみ」の闘いに、人々の声を拡張拡散させなければならない。そうした基本的な市民的思潮形勢作りのもと、戦略的正鵠さを有した現実的行動を通じ実際に国策行為を確実に阻止していかなければ、これまで何度も何年も味あわされてきた理不尽な、不条理な国策の犠牲者としての運命を、今後も抜き差しならず、否でも引き受けなければならなくなる。それは恐らく、かつて琉球沖縄が、日本国に強いられた王府以来の囲い込みに安んじて、被抑圧民族待遇を無抵抗に甘受し、同化さえし、ヤマトゥ化した戦前を再現することでしかない。こうした事柄に関する「移住者」の危機感は、もしかするとウチナンチュより切実に、胸に迫る思いで持っているものではないか。沖縄戦の激越な洗礼は未だに過去のものではなく勿論現代に甦る亡霊的な脅威でもなく、まさに政府が前のめりに日米安保の実質的補填としての「血の代償」を求めて集団的自衛権行使容認に突き進もうとする矢先、この守礼の邦が身を賭しても、国家のあらゆる軍事的拡大行為を阻止するための生きた実践教訓たることを、内外に強烈にアピールすべきことなのである。(つづく)

 


詩531 考察 12

2014年05月24日 11時06分57秒 | 政治論

 1999年~2003年時、在沖米海兵隊総司令官だったジェームズ・ジョーンズ氏と訪米中の稲峯名護市長が会談した内容によると、氏が再編協議に関与していた当時、辺野古移設なしの米軍再編は少なくとも実務者レベル乃至軍関係担当者の間では可能である認識にあったことを述べ、結局日米政府がこれを受け入れなかった経緯があることを明かした。これを政治的環境、というのなら、こうした政治の質というのはどこからも切り崩すことのできないものとして厳然と存在し続けるということなのだろうか。

 在沖米軍基地の、沖縄でなければならない絶対的必要条件はあらゆる観点から消去される論調になっている。勿論実際上21世紀の世界情勢に鑑みても、一地方自治体の7割以上の反発、拒否姿勢のなかにあってこれを存続させるべき事情は軍にも住民にもないのにかかわらず、日米政府は知事承認後一層強硬に18年かけた合意案の正当性を主張してやまない。これが彼らの政治的環境である。しかしそこにはハーグ陸戦条約違反要件のクリアは絶えてないし、県に呈示した環境アセス上の実質的危惧に対する良識的見解も示されてないしあるのはただ政府間合意だけである。しかも一切の民主的な手法により示されてきた県乃至地元の意思というのは悉く無視されてきた。

 何度も言うように最終的にここにあるのは明確に「国家対人民」という対立性だ。厚木基地航空機騒音に対する横浜地裁判決が、基本的には全てに援用される。この判決が国際司法的観点を留保した(自衛隊機のみ差し止めし米軍機は失当とされた)のは愚かなその場しのぎではあるが、「国家」に対する「民生」の優位性を示したのは当然であり、憲法の遵法精神に沿うものと評価される。こうした本来的正当性を蔑ろにして己らが勝手に決めた政府間合意こそ正当だと主張する日米政府の政治的環境は、理不尽、不条理、不当、差別そのものと言われも仕方がない。(つづく)

 


詩531 考察 11

2014年05月23日 08時38分01秒 | 政治論

 琉球沖縄の抵抗反発は続く。何故なら、それが環境(高江原生林希少動物ノグチゲラ、ヤンバルクイナ、辺野古ジュゴン、希少生物の)を悪化させ、人々の生活を日常的に脅かし(普天間、嘉手納等爆音、危険物オスプレイ脅威)、一旦戦端が開かれたら真っ先に狙われる格好の攻撃対象(ミサイル飛来地点)であり、そうでなくとも中国の領海圏拡大化(東シナ海プレゼンス)の日本側防波堤化している地政学的立場が、益々県民の実際的な危機感に拍車を掛けているというのに、そこへ火に油を注ぐような新基地を造作しようとしている。少なくともアジアのことはアジアに、という言い方さえ通用しそうな門外漢の欧米的干渉によって(日本政府の奴隷的国策的協調を付加しながら)対中、対北の日本側外交交渉カードを偏頗なものにしているのが現状だ。彼らのやっていることは、日本にとっても当然沖縄にとっても歴史的世界的見地から見ても到底肯定し推進する気組みを生じ得ないものとなっている。とりわけ環境問題の視点から琉球奄美島嶼地帯の自然環境保全においては、米軍基地の存在は完全に「悪」そのものであろう。これに関しては国際生物多様性の日(5月22日)に約70の環境団体から辺野古移設撤回要求声明が出された。(つづく)


詩531 考察 10

2014年05月22日 23時12分34秒 | 政治論

 人生は夢のようなもので、この夢幻の地平に生を得た以上、新たな夢想の資は如何にも人生らしからぬ意味合いに揺らめいている。信長の死出の舞いは「敦盛」だったが、秀吉の辞世にも難波地に馳せる己の浮世めいた思いが語られる。信長の惨死は光秀という「恨み」に究極した無数の仏徒の亡霊がなせる業だったのかもしれない。これも夢想だ。確かなのは、「人間50年」なんてものは限りある命を一目で眺めて尽きる果敢なさ以外に意味はなく、一切の人事の果てには覚めやらぬ人としての思いが胸を冷え冷えと過るばかりだ。我々は大抵どこか感傷的にしか人間らしい大地に安んずることはできない。「狐に穴あり、鳥に塒あり、されど人の子に枕する処なし」

 「沖縄」という伝説的な存在性が筆者にとって後続の夢の資としてやってきたことを、不思議な余韻として予感している現在、「沖縄問題」はひとつの生活となり呼吸になった。筆者はただただ抽象論を展開しているにすぎず、しかもまた、必ずや権力者をギャフンと言わせるという夢想のなかにあり、海中深く潜水してきゃつらのボ-リングの切っ先をへし折ろうとする。できもしないのに。否、これはすべて夢の中にあり、夢は事象としては日本政府とオバマを駆逐する。しかも滔々とした海原の詩に酔い痴れながら。(つづく)


詩531 考察 9

2014年05月22日 07時43分00秒 | 政治論

 普天間問題で圧倒的に困惑、怒り、迷惑しているのは琉球沖縄の県民である。一方、長い時間をかけて知事承認まで漕ぎつけた、といいたいのは、彼らとしてはさながらひとつの実感として印象付けたい話であろう(訪米稲嶺市長に語る米外交問題評議会シーラ・スミス上級研究員の意見内容...沖縄タイムス記事)が、これは少しも実情を言い得ていない、彼らは全く長い時間かけて苦労してここまで来たわけじゃない(県知事を籠絡し欺瞞的に承認させた、というのが正確な見方だ)、むしろ「もういい加減であきらめろ」と言っているに過ぎない。つまり沖縄地方自治は全くの傀儡的身分に落ちろ、というようなもので、今までの沖縄の抵抗、反発、はひとつの悪あがき並にしか評価されない、ということになるし、ここまでやったんだから、その人民的民生行動は高く評価される、といった自慰行為に落とそうというようなものだ。そうではない。彼らは全くわかっていない。稲嶺市長が語るように、普天間飛行場の辺野古移設は日米政府が住民の頭越しに勝手に決めた合意案にすぎず、その不遜な非民主的手法は沖縄の犠牲の上に成り立ってきた日米安保そのものの存立の危機を更に倍加していく、と捉える必要があるのだ。(つづく)