沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩484 吼えよ!!

2013年09月30日 20時06分52秒 | 政治論

 ガンジーは数百万のユダヤ人、ジプシー、政治犯らが、自殺的抵抗さえ殆ど見せることなく羊のように従順にガス室や場へ送られた事実を指し、(闘う算段ができないのなら)彼らは大挙して海に身を投げるべきだった、英雄的行為と称されたろう、と記者に述べたという。不服従と無抵抗は違う。文科省による竹富町に対する公民教科書是正要求発出が沖縄県にあり、県の対応が注目されている。それ以前にこうした事態を造出した玉津教育長に石垣市議会で不信任決議があった。この問題には教育への政治的思惑の介入という本質があり、こうした政治的な介入実行者を処断する決議があったばかりの八重山地区に今度は国が介入しようという意図を示したことにより、この国の国柄が高江同様に通り一遍の非人間的なスラップ性に彩られていることを知らされずにはいない。当然ながら竹富町は通常通り、この要求に決してしたがってはならない。どのみち法的命令権限は存在しないし、司法に訴えるなら堂々と受けて立つべきだ。沖縄県にあって日本国とアメリカ合衆国が共謀して植民地行為に勤しんでいる現状では、あらゆる機会に抵抗と抗議、不服従の意気を示し、おまえたちになど決して殺されやしない、と身構える必要がある。(つづく)


詩483 情勢 2

2013年09月30日 14時44分33秒 | 政治論

 沖縄県国頭(くにがみ)郡今帰仁(なきじん)村の第4回総合祭りは9月28日、29日の二日間にわたり村を挙げて行われたのだが、折から少雨傾向が止まず、時折驟雨があったりしても焼け石に水で、水がめを満杯にするには程遠い有様で、平年のダム水量を割り込み、69%程度にまで落ち込んでいる。これは、例年大量の雨水を齎す台風が今年は殆ど全て本島地方を逸れたことが直接の原因なのだが、これに先立って梅雨前線もまたいつになく早々と北上してしまった(しかしこのときは水量も90%以上の割合を保っていた)ということもあった。此処にきて7年間、これまで取水制限や断水(工事のそれはある)による給水を経験したことはない(それ以前にはしょっちゅうそれがあったと聞く)。それで幾分多寡をくくっていたのだが、意外と降らないときは降らないものだとこの好天続きを恨めしく思ったりしている。総合祭りは第2回からほぼ抜かりなく参観しているが、カルチャーショックは随時琉舞琉歌、エイサー、小芝居、講演などで体験しているので、今年の反応は落ち着いたものだった。こうした特異な地方芸能イベントが各地で数限りなく催されていることを見聞きするが、一方にオスプレイの強行配備、米兵犯罪のニュースが引きもきらず、辺野古はどうなるのか、高江では連日監視抗議活動をしなければならない、と、戦後ずっと未解決のまま残存し続ける日米両政府による植民地行為の野蛮にして薄汚れた触手が縦横に沖縄県民の日常生活を脅かし、報道が伝える米国財政事情に絡む米軍西太平洋布置構造再編は沖縄にとってプラスにならないのか、識者シンクタンクの海兵隊不要論は国防省を痛打しないのか、頻発する銃乱射テロは米国現行世界覇権主義になんらの打撃も加えないのか、安倍晋三の浅はかな国家主義亜流に嘲笑を持って報いるインテリジェンスはどこにもいないのか。といった心境の中の独語に当てられて最近はダイナミクス琉球にも一頃のあの感じが生まれない。(つづく)


詩483 情勢 1

2013年09月29日 10時57分40秒 | 政治論

 民主政権が瓦解しその当初から政治主導を骨抜きされて元の木阿弥に戻ったことは、次の自公政権が根も葉もない政治理念のもとに官僚主導の百年王国をこの世の春とばかり復活させたことと連動していよいよ取り付く島のない保守停滞主義に陥落したことになる。表面上は景気のいい話や、非政治的な部面での盛り上がりや、異常な画策でまるで大向こうが帯同して応援するかのような超高支持率に後押しされて、やりたい放題の官僚どもが政治家を凌駕して対米追随、財界おもねり、の楽チン道中に悦に入るといった口惜しい状況が今ある。戦後民主主義が曲がりなりにも自由化した社会学的思潮にあって、叫び悲鳴嗚咽にまみれた民衆的流露をひとつの巨大なエネルギー体に誘導しようとした動きは、官僚社会主義体制の崩壊から世界的に拡散したコミュニズムの敗北に促されるように意気消沈し、およそ反対命題でしか説明できないカソリズムの覇権主義が大手を切って闊歩する矛盾即合一とでも言うべき奇妙な均衡時代が始まった。この均衡が「現実主義と理念」の「手段と目標」という均衡というのならこの単純極まりない二律背反の大嘘の例などいくらでも挙げられる。そしてその代償が世界中に渦を巻き火の手が上がりこの世の地獄を見せている身内同士の馬鹿げたいくさというわけだ。これらの不始末に関する明確で的確な説明は金輪際ない。それもそのはずで、所詮人事はマネーの話に極まるので、自身の理念も目標もこれにまつわる言い訳以外になんらの言葉も持ち合わせてないのが世界的政治指導者と言われる化け物どもの本音である。(つづく)


詩482 愚痴

2013年09月29日 07時00分36秒 | 政治論

 辺野古埋め立て申請への知事による不承認が為された場合、あるいは日米安保マフィアの暗躍で殺人的圧力が知事を襲撃し泉田知事同様の「政治的判断」に落とし込まれた結果知事が変節した場合、前者は代執行検討、後者は恐らく現実性のない宙吊り状態を更に持続的に確定化し、いずれにしろ保守停滞主義そのままに政治機能完全停止を余儀なくされる。何が欠けているか、というと、この懸案に当初から含まれている「沖縄の軍基地の段階的解消」つまり米軍撤退というメインイベントが日米の思惑で極めて不誠実に先送りされていて決して劇的に理念的に民主的に果たされないということである。この有り様は原発再稼動問題にも如実に現れる。否、現今政治環境はあらゆる局面でまさしくこうした様相を呈して止まない。謂わばこの政治機能の本質的非稼動の原因たる官僚主導政治を根こぎにしない限り、この悪政状態は未来永劫変わらないばかりか、人民が本音で希求しているだろう「民主政治」の有効な実現は、米国傀儡性を脱しえずに永久に三流国家に甘んじるしか方途はない。安倍晋三がいくら自画自賛偶発的政治実現の僥倖に狂喜しても所詮コップの中の嵐、その堕落したプチブル旧来型ゲテモノ政治に明日はない。(つづく)


詩481 21世紀における非文明性

2013年09月27日 21時30分25秒 | 政治論

 国による「辺野古埋め立て申請」が出されている現在、沖縄県知事仲井真弘多氏が県議会での知事答弁において「辺野古埋め立て不承認」を示唆する発言に至ったことは、当然のこととはいえここにきて県民から安堵する心的傾向を引き出すものがあったのは事実だ。但し「政治的判断」というのが曲者で、例えば新潟の泉田知事が曲がりなりにも東電の条件付「安全審査申請」を承認したという報道は、知事の変節?という反応を一般に起こさせた。そこに何があるのか。泉田氏の態度に不審な点は見当たらないので氏の原発再稼動に関する考え方(自治体が承認しなければ再稼動はないということ)には変化はない。すると問題は田中俊一である。この工学者は福島県の出身で例の「原子力ムラ」住人であり、規制委員会は自治体の意向に関与しないと言い放った当の本人である。つまり彼ら規制委員会の審査さえ通れば(それが地方自治体の意向に反していても)電力会社は原発再稼動を強力に推し進めることができるものと判断されることになる。このことは例えば東電のような破綻すべき利益団体にとっては生存持続の根拠とされる惧れがあるということで、この国の保守停滞主義に彩られた政治環境そのままに、不快な思考停止物件が続々と産み落とされるという、恐らくは人性にそぐわない悟性の堕落、哲学の喪失という、精神の暗黒時代を一層色濃く深める結果となるというわけだ。さて、辺野古が不可能となってもこの現在の思考停止状態がそのまま継続されるというわけでもないことは容易に理解されよう。つまり普天間固定化という段階に入る。しかも県が拒否するからそうなるという筋書きが堂々と一人歩きする格好だ。そこから日米政府の落としどころを代執行の是々非々に持っていかざるを得ない。この先を考えることには実にうざったいものがある。21世紀という世紀にあって、特化した非文明性(国家が人民の意を蹴散らすということ)が沖縄には通用させられる、という考え方が、仮初めにも現代人の脳髄に平然と立ち現れるということは、世界中に蔓延する無差別テロに有力な自己正当化の根拠を与えるということでさえある。(つづく)


詩480 安倍外交

2013年09月27日 07時08分06秒 | 政治論

 安倍晋三は軍国主義者ではなく軍国主義亜流に過ぎず、その国家主義になんらの理念もなく漠然たる勢力拡張主義を予感させるだけではある。彼には既定の世界勢力地図だけが見えているわけでその基本はアメリカ国家安全保障体制への全面的な肩入れ、アジアでの対米第一地位の確保という「ポチ外交」が主流の屈辱的世界性が日本国を三流国家に位置づける方向性で決着しているのである。この保守停滞帝国官僚主導の口先手先が勝った日本丸がそれなりに太平洋を泳ぎきろうと必死の様子はわからぬでもないが、残念ながら既に足元には火の手が回っている。その火の身を焦がす熱さに堪えかね衝動的に乱発される愚策に対し人民は警戒しなければならない。この対米追随傀儡政府の粗雑な国策の犠牲になってはならないし、政治的な駆け引きの余り、本筋を取り違える愚を犯すことはやがて墓穴を掘る取り返しの付かない土つぼにはまる危険性がある。(つづく)


詩479 つぶやき

2013年09月25日 23時44分47秒 | 政治論

 フクシマ、という文字は米も野菜も魚も、「ヒト」さえも、風評的に避けられ、嫌忌され、その実質的な放射性影響をどのように陳述しようとも恐らくは決して進んでこれらを口にしたり受け入れたりすることはないものとして、消費者にはインプットされてしまっているし、その購買に動く手は無意識的に福島、栃木、茨城を選別し避けているのが現実である。ここ沖縄には、少なくともこれらの地方産の食物を並べる商店はないしあっても決して消費者はこれを手にしない。安倍晋三がフクシマの風評被害を緩和するために汚染水の完全ブロックを言い募ったというまことしやかな言い訳は、恐らく官僚の作文の棒読みに過ぎず、これからも驚くべき大嘘が彼らの口から発せられることは予想が付くが、ジャーナリズムがこうした政治家の欺瞞性になんらの検証も付け加えないとすれば、必然に時流と大勢は黒を白とすることに馴化され議論は表面上の修辞学に堕するに決まっている。(つづく)


詩478 わからない

2013年09月25日 07時15分44秒 | 政治論

 琉球弧に充満する「怒りと悲しみ」。全ての非戦反戦、抗議活動のモチーフがそこに発していることを本土の日本人は知らねばならない。決して本土の日本人に痛切には襲い掛からなかった、この国の上層部が企画し、画策し、策謀した一切の悪政本体が、此処には情け容赦もなく挑みかかり、食いつくし、ズタズタにし、持続的に今なお益々強固に島々を蹂躙しているし、しようとしている。島が悲鳴を上げ、泣き叫び、訴えるあの声が植民地主義者たちには聞こえない。この傾向がどうやら最近には本土自体でも見られるようになってきたが、此処に比べればまだまだましなのである。美しい海が呻いている、美しい森がギシギシと傷んでいる。高江では今日も明日も森林伐開され爆音とどろくオスプレイのためのヘリパッドが設えられようとしている。ヤンバルクイナが無残に棲家を追われ、ノグチゲラが、変わり果てようとしている故郷の森の姿に驚嘆している。何故この美しい島をアメリカ人は、日本の人間でない官僚とその追随政治家の言いなりに犯し続けるのだろう。さっぱりわからない。(つづく)


詩477 打倒するには

2013年09月24日 22時36分10秒 | 政治論

 この安倍政権が、何事もなく彼らの全体主義施策を完遂させる、というようなこともないとは言い切れないのだが、元々政治権力の実行できる実質的な範囲は極く限られている(全体主義の完全な実現は史上、カリスマ的独裁者の存在によっていた)ので、例えば人心収攬の一環としての教育分野で彼らの国家主義が(第二次大戦に関する)史実を捩じ曲げ浸透させたとしても、児童生徒に愛国心やら国家への忠誠心を根付かせ、これを国防精神に昇華させるような奇跡的な徴兵制度の、自発的発露が可能だと信じる者はいないだろう。だが、ヒトラーの台頭は決して必然ではない。むしろ不幸な偶然の積み重ねと陰謀や策謀、暴力が綯い混ぜられていた。陰謀や策謀はこの国を傀儡とする米国国家安全保障機能にあって得意中の得意分野であり、政敵は勿論自由思想の弾圧、民力への圧力、に事欠かない有様で、これに乗じた選挙違反、追い落とし、によって「数の論理」の自動性を効果的に駆使してあらゆる法案をほぼ無傷で強行可決成立させることは、安倍晋三祖父岸信介のお家芸ではあった。勿論CIA筋の暴力的暗躍にあってもこうした傾向を作り出すことはむしろ容易なことといえる。つまり上述の戦前体制の復活を成し遂げることは、やろうと思えばできないことではない。しかしながらこのような具合であってさえなお一政治権力がひとつの国を席巻し意のままに操ることは極めて困難で、ここに報道管制という最後の切り札が必要とされるわけだ。現在大新聞NHKを始めとするマスコミマスメデアの極端な体制迎合基調からしてこの切り札の出しどころはそんなに複雑な事情にない。ネット言論の匿名傾向はこのメデアが本質的な大衆運動を糾合する実力を持つとは思えない。たとえひとつの量的集中を実現しても所詮烏合の衆であり暴力と支離滅裂な叫びに終始するのは見えている。問題はどうしてもこれらを反政府的に流体化する指導的理論と指導者の必要性に帰着する。(つづく)


詩476 現況

2013年09月24日 08時32分31秒 | 政治論

 この、アメリカによる琉球弧に対する軍事植民地思想には、多分に心理的扇情的な匂いが充満していると思われる。一方日本国でこれは右翼系思潮、あるいは国家主義的傾向にふんだんにみられる非論理性、従って根拠のない論拠からでっち上げたプロパガンダが勝ちすぎている結果を招来していることが見て取れる。そこには当然に謂れのない国家的権力的圧力という眼に見えないボデイブローが効いていて、梃子でも動かない彼らの恐るべき執念じみた固執が繰り出す時間稼ぎによって相手(県民一体の意見集約)の疲弊感を助長する作戦が垣間見られる。彼らもまた必ずしも余裕があるわけではない。従ってほんの一掴み程度の容認派勢力を糾合し、全県キャンペーンを決起して見せようという構えだ。これには国会議員、県市町村議会議員、あるいは元容認派市長など訳のわからない塊も加わって、訳のわからない郷土同胞裏切り行為に醒め果てた熱のない愚昧な流れを作ろうとしている。彼らがそれをする理由などない(県知事の許認可行為にまつわる無用な人騒がせに過ぎない)。言ってみれば、戦後この国を理念もなく席巻した「民主主義」と「自由主義」が相変わらず安物の正義を振り回しているというわけだ。さてアメリカが、軍事上のなんらの必然性も持たない海兵隊基地をこの琉球に持続的に維持し続ける理由は、差し当たりは多くの場合日本国防衛外務官僚たちの売国的保守主義に根拠を持っているといっていいのだろう。何故これが売国的かといえば、この彼らの保守主義こそ日本の理念的政治環境を損ねる最大の最強の敵になっているからで、それは既にあの鳩山君の訳のわからない「墜落」がはっきりと証明して見せたところだ。県と国ははっきりと不均衡な対立関係にある。これが例の高江でのスラップ裁判にも現れている。国が住民を提訴したのだが、理由は、自身の生活が立脚する土地を守ろうとする住民意思に対し、国家がとりわけアメリカの軍事行為を強行に行使させんがためにこれを排除しようとしたことだ。不均衡な対立関係はこのようにまことに奇妙な国家行為を招来する。アメリカの片棒を担ぐ日本国政府の防衛外務官僚の体質にはこのような売国的性質がある。こうした古典的な対立状況に関して国連の無力な「人種差別撤廃委員会」が日米両国に対し「是正勧告」するのはいいのだが、根本的に国がその民に敵対しているようではなんともはやお手上げには違いない。以上、現況である。(つづく)


詩475 沖縄、高江、必死の監視抗議活動へ

2013年09月22日 09時16分43秒 | 政治論

 沖縄県国頭郡東村字高江では米軍北部訓練場(やんばるの亜熱帯樹林地帯におけるジャングル想定訓練施設...ベトナム戦時実際に現地想定訓練が行われたが現在その必要性が事実上存在しないはずのもの)一部返還のための欺瞞に満ちた新しいオスプレイヘリパッド建設の6基中既に1基が完成しているのだが、この建設段階で自然破壊に通じる植栽上の設計ミス(移植樹木の死滅等)、あるいは、十分な地質地形調査なしに無思慮に工事が強行されて生じる、初歩的な施工ミスからくる地山の崩落変形(水源ダムへの悪影響の可能性)あるいは生態系(ヤンバルクイナ、ノグチゲラなど)への明らかな侵略的投機が顕著にかつ危機的に招来され、更には旧来のヘリ対応環境アセスの無作為な応用で実際に飛び交うオスプレイによる環境影響が評価されてない実情から、直近のこの数日中に始まった2基めのヘリパッド建設を犯罪的行為とみなし、当然に司法的手段へ訴えるべき事案と判断されなければならない。詳細は「高江の様子」(目取真俊氏ブログ)、「やんばる東村高江の現状」(現地スタッフブログ)に連日更新されているが、この監視抗議活動にあっては人員不足に泣かされていて、必死の24時間体制でのそれを掻い潜って工事関係者が現場に入り多分野営しながら工事を始めたということだ。時間と意思のある方々の、活動意欲に訴えて機敏にして効果的な監視抗議行動参加を要請したいと、いうことである。(つづく)


詩474 教育

2013年09月21日 10時54分03秒 | 政治論

 「沖縄戦」を繰り返し語り、語り部の話をできるだけ聴取、収集し、あらゆる歴史的文献、史料、資料、記録写真、を総動員し、この戦闘を具に詳しくかつ正確に知ることは、沖縄県が県民が日本人が政治家が学者が活動家が、等しくしなければならない、この国が人民に対して如何なる言い訳、弁明、こじつけ、史実捩じ曲げを用意しようとも決して言い逃れようもないあの国策に関する、徹底した省察のために必要な知的な努力の一環に過ぎない。従って、これらの充分な作業も未だに完遂しない状態にある沖縄県において、まさに当事者である教育関係者が、これを「過度の反戦教育弊害」とばかり抑制しようという言動に至ったのは驚くべきことではある。彼は、数年来教育行政に携わりながら、八重山地区の歴史教科書選定に教育者にあるまじき政治的画策を弄した張本人であった。従って、この言動の持つ背景がかの一連の「新しい歴史教科書をつくる会」に連動していることは間違いないが、一方この会が、真に日本史(近現代史)を根底から見直そうというのなら、その活動はまさに見直しが成就し、正確な歴史観を得て初めて説明責任を発生し、これを広めるという活動に入るのが常識的な手順だ。未だに、この会が流布しようという反「自虐史観」に類する全うな論文に出会ったことはない。しかも彼らは「大東亜戦争肯定論」を展開する気もないらしい。つまり彼らの言わんとしていることは、戦後日本における反戦的歴史教育の否定乃至平準化にほかならず、その目的は反戦的厭戦的嫌悪傾向を日本人から払拭し、「あの戦争の罪過はなかった」ことにし、しかして(言葉をうまく使わねばならないが)当然戦争ができる国に戻し、加害者意識を軽微化し、再びアジアの盟主に返り咲こうという精神論、相変わらずの精神論である。だが、あの戦争を百年検証しても、彼らの思ったようにはこの国の正当性を決して証明することはできないだろう。徒労というしかない。根本が間違っている。彼らの史観に影響を加え続けているのは、彼らがその影響を否定するであろう米国国家安全保障体制の思惑に過ぎない。彼らは先ず真っ先にこの元凶たる日米安保を否定し拒絶しなければならないはずなのだ。不可能だが「アジアの盟主」がお望みならば、だ。しかしこれも百年かけてさえアジア自体が拒否するに違いない。(つづく)


詩473 困ったもんだ

2013年09月20日 13時25分43秒 | 政治論

 希望のないところに希望がある「かのように」言葉で誘導するのをアジテーションデマゴーグというが、脆弱な軍国主義者安倍晋三は彼の出自からくる体裁のいい穏健そうな語調に乗せて次のように国(そういうものがあるならば)を変えようとしていると、予めはっきりと捉えておく必要がこの国の民衆にはある。集団的自衛権とかごちゃごちゃ抜かす(この時間稼ぎな税金浪費)のでなく米国国家安全保障方針に狡賢い狐のようにその威を借り、(暇つぶし的に)国の安保を「開戦参戦可能な仕掛け」に直結させ、多くの場合誰でも(国民総背番号制によって)徴兵される根本的プライバシイの捕囚状態を確保し、(秘密保全法によって)大本営発表を基本とする情報統制に民衆の言論思想を縛りつけ、原発事故は既に収束し汚染水対策は完全ブロックされ(現場に出向いてアリバイを作ったわけだ)、あの事故は突発的な偶発事故として内外に眼くらましの発信をして、国家統制された管理の許に福島に特化した隔離的処理により今後の日本の原子力政策が遅滞なくかつ推進的に続行されるものとして全ての人心収攬と対外的アピールに一生懸命のわけだ。しかしこれは全てまやかしであり、国の命運を、こうしたうそつきどもに委ねてならない明らかな危機状態を迎えている。東電などは生き残りに必死なだけで何一つ反省などしてない。これを生かす方向にだけ動こうとしている安倍政権の反人民的性格(税金投入と電気料金値上げ)は必ずや打ち崩さねばならない。(つづく)


詩472 どうにでもなれ

2013年09月20日 08時32分50秒 | 政治論

 嘘に嘘を重ね、政治家の禁じ手を次々と繰り出す、安倍晋三が率いるこの政権が目指しているものに何の理念も見出せない以上、民衆が騙されつつ付いていった55年体制がそのまま再現されて続行されるわけではない(高度経済成長路線、列島改造論という実質)ことは明白だ。この宰相の手先の真新しさがどこにあるかというと、さながらヒトラーの例の、人間が潜在的に持つリピドーに則り熱狂をさえ呼んだ大衆扇動アジテーションに近いものを感じる。その先駆けが東京五輪招致における汚染水詐欺演説であり、昨日の彼の福島第一原発事故現場視察での「私が責任をもって」発言である。これらには言われるように何らの実質的実際的根拠はない。実際は何一つ進展してないばかりかいよいよ事態が深刻化していく様子が見て取れる。にも拘らずこのことに危機感をもって報道するマスコミメデアは皆無だった。秘密保全法案の全体主義に厳しい警告を発するジャーナリズムもなかった。さて、これは太平洋開戦前夜のように一億翼賛して「打ちてし止まん」の傾向に落ちていくあれを再現しているのかとさえ危ぶまれる。(つづく)


詩471 現実

2013年09月19日 08時59分35秒 | 政治論

 昨日包括支援センターの人及びデイサービスの人と話していて、連れ合いを亡くした老人がその孤独な余生を送るため残されている道に、いくつかの手段が考えられるというのがなんとなく見えてきた。健康な?自立する老人を介助又は彼と単に同居する周辺(その係累)は先ず彼と自分たちがあらゆる意味で同じ空間と時間を共有することは到底不可能だということに認識を集中しなければならない。それは結局彼の人生と現在の心境が彼以外の異世代との明白な世代間ギャップに支配されている、という厳然たる事実に基づくのである。ここに、健全なあるいは正常な又は望ましいヒューマンリレーションを築くことの不可能性が承知されなければならない。簡単に言えば、独身老人と事実上同居することは現実にはお互いに必ず無理があるということだ。感傷的にその同居生活を持続する意志に燃えたとしてもどちらかがなんらかの犠牲を強いられるということに気づかねばならない。そしてこれは恐らく介助介護する側が最終的に後悔の多い結果となるに違いないという意味になる。何事もなく同居に成功したとしてもその奇跡的事態の持つ内容の検証なしに迂闊に感嘆するわけにはいかない。我々はこうした同居介護家族の悲惨な経緯を具に見ている。そこで、結局独身老人に欠けているのが人間関係の希薄さにあると見て、その引きこもりがちな性向に鑑み、先ずは介護保険認定を早急に行いこれの認証を受けてから保険適用の介護支援サービスにより安価な交際の場を得ること。交際の場であり又一種の作業療法や団体生活馴化によって社会性へのアプローチを容易にし、もう一度ある程度の社会復帰を目標化すること。こうした場と時間をできるだけ多く長く獲得する努力は自分たちのためでもある。ショートステイという手もある。尤も老人クラブなんてものは余りお勧めではない(それは何事につけ可也限定的な狭社会のため偏頗な考えに固執する惧れがある)。要は、お互いにできるだけ付かず離れず、顔を合わせる時空間を減衰することだ。(つづく)