沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩491 問題 13 本土と琉球沖縄

2013年11月30日 07時54分43秒 | 政治論

 1963年11月22日、テキサス州ダラス市で暗殺されたJFケネデイ元大統領の長女キャロライン・ケネデイ女史と沖縄の仲井真知事が非公開で会談したのだが、知事によれば普天間飛行場の移設については全く触れなかった、ということで、この新駐日大使のウスッペラな役割がわかろうというものだ。県生活環境部の感触では「辺野古埋め立て」に関する申請書精査においてこの事業の周辺生活環境及び自然環境の保全は「懸念が払拭できない」としている。また県内自民党全体にあっても例えば那覇市議会では自民市議団17人中14人が変節した国会議員、県連へ抗議の意味の役員辞任を発表し、市議会は県外移設堅持決議に至った。アンケート調査では県内首長の大部分が名護市長の辺野古埋め立てに対する反対意見に賛同する回答を示した。つまりマスコミメデアが大騒ぎして喧伝している「県内容認」の自民党裏切り行為は、沖縄県の中枢意見にあっては真っ向から斬り捨てられているわけだ。それで、本土の日本人がまるで琉球沖縄の首を取ったかのような反応を見せていることに、実に半可通な、愚劣な本性をさらけ出す彼等の底の浅さを再見し、大変にがっかりしている。いずれにしても安倍政権とアベノミクスなる浮薄な景気浮揚上げ潮ムードつくりに乗せられてまたぞろ往年の高度経済成長再現すら期待する堕落しきった日本人がいる一方で、相変わらず能天気の安保ただ乗り本土人を苦々しく眺めながら、日々「座り込み」「監視抗議活動」を続ける、徐々に寒気に包まれ始めた亜熱帯環境のなか、オスプレイパッド建設を食い止めようと昼夜を問わず高江に集う琉球沖縄のひとたちがいることを、我々は注意深く見つめていなければならないのである。(つづく)


詩491 問題 12の3

2013年11月29日 09時35分18秒 | 政治論

 シジフォスの神話はまさに今ここにある。この神話の際限の無い劫罰は勿論神が存在するからあり得るわけで、神がないとすれば、ある人間の手が働いていると考えるのが自然だ。で、仲井真知事は神ではない。従って、彼が神のようにこの擬似神話をストップさせるということでもない。彼の右手か左手の動きで決すると断言することはできやしない(県民はこの国の政府を決して信頼するに足るとは思っていないからだ)。何がここにはあるのか。アメリカ合衆国があり財政危機を抱えていて、日本政府とその実質的政治主導の担い手たる官僚がいて、この官僚のスポークスマンたる政治家がいる。しかも忘れてならないのは、多くの人民があり、大半が地元の不如意に悲嘆し、オスプレイの脅威に慄いている。大雑把に言って米国米軍基地に関して、又その実際上の展開内容において、アメリカ合衆国はやりたい放題をやっているし、やってきた。その本質的な有り様においては全く変更がないし、なかったし、今後もそうであろうと、思われている。勿論県民は大概、このことを望ましく思っていない。むしろ積極的にこれを受容、強化、深化させようと言うのがこの国の政府の方針であり、それは県民の反感を買っている。ひとつは基地の偏在性であり、これを是正しようとしない差別された関係性に対してだ。本土の日本人は一般に、琉球沖縄が置かれている多面的な現状について殆ど無知で、無関心で、おのれらが70%以上賛同している日米安保体制の不動産担保(米軍基地施設)の74%を負っている事実については、概ね見て見ぬ振りをする。これを政治的無関心というがそればかりではない、実はこういう実情の過半は、理不尽な政府対応に対し帯同して抗議の声を上げないその同胞感のなさ、同一民族の窮状へのドライすぎる態度によって引き起こされているのである。しかも対中国、対北朝鮮、対テロ、といった眼に見えない仮想の敵を想定した軍事的展開を実践する米軍自衛隊の訓練を、しばしば「沖縄近海」でやっていることは、それだけでも非常な不安感と危惧感を県民に起こさせている。ましてや事実上米中日が海上で小競り合いするに至ったなら、真っ先にその流れ弾が県土に突き刺さるのだ。誰が好んでそのような危険地帯に安閑と通常生活を送りたいなど思うものか。彼等は間違っている。あいつらはみんな滅びてしまえばいいのだ。(つづく)


詩491 問題 12の2

2013年11月28日 09時08分17秒 | 政治論

 井上ひさし氏の仙台一高時代の同級生で憲法学者樋口陽一氏の話として大江健三郎氏が九条の会の講話で語っている中に「立法事実」という語があった。言わば憲法制定事実なのだが、今の日本国憲法が作られた動機、といったものだ。そしてこの憲法を根本から変えようという安倍政権の画策に、こうした憲法制定を「決意」した日本人の当時の心境、思い入れ、意気込み、あるいは並々ならぬ反省といったものに対する軽視、忘却、「目をそらす」行為を見、我々日本人は厳しく警告し諫止し抗議し、こうした軽挙盲動を食い止めるためにもう一度原点に立ち戻る蛮勇を奮う必要がある、ということだ。あの時何があったか。この度の大震災原発爆発事件は為政者らの無反省、居直り、開き直りによって真逆の方向へ走り出した。原発技術の軍需的拡散、再稼動ありきの情報操作、がまかり通り、あの2011/3/11は一体何だったのかわからなくしている。米国連合国戦勝国押し付け憲法という見方は、結局、15年戦争に対する何らの反省も後悔も当時の日本人にはなかったかのように考えることだ。歴史的事実に対する正当な認識のないところに未来などあるはずもない。韓国大統領が世界中でこれに言及していることを、「被害国」観点の当然の対応だということに気づかねばならない。一方、熾烈な、史上稀に見る悲惨な戦争を体験した琉球沖縄の思いのなかに、どうしてかくも明らかな戦争忌避の念が存在し続けるか、顧みることだ。この、極めて不快で肯んじがたい体験から、更に新たに軍事基地を設けようと言う「辺野古移設」は、明らかに馬鹿げた到底ありえない逆行行為だということに気が付かない日本人は、まことに度し難い民族だ。(つづく)


詩491 問題 12の1 悲劇の誕生

2013年11月28日 06時58分22秒 | 政治論

 「この時代は本質的に悲劇的な時代である」。あるいは「現代が本質において悲劇的なので人はこの悲劇を認めようとしない」。  -D・H・ロレンス 「チャタレイ夫人の恋人」- 

  目前のドラマのカタルシス(精神浄化)の効果が、場合によっては、時間の経過と共に真実から目を背けさせるということにつながるということがある。我々は確かに、2011年3月11日からこの2年以上の時間経過の中で、その日の午後2時46分18秒の時点から極度の巨大災害事件に遭遇し、大地震と大津波によって壊滅的打撃を被り、更にはこれらが引き起こした福島第一原子力発電所(双葉郡大熊町在)の爆発事故により、尋常でない量の放射能拡散を、種々の気象条件に左右されながら福島県東部海岸線沿線地帯と、主に風に乗って北部から西部へかけて高い線量の汚染実態を表す危険性に覆われることになってしまった。ここ東日本には3月11日以降無数の悲惨な光景があり、今尚益々悲劇的な実情を増産し続けている。しかもそれは、大災害、事故、事故後遺症、としてでなく、新たな内容での望まざる増産である。しかしとりわけ為政者は、こうした現実からはむしろ目をそらす方向へ、国民の意識を引っ張ろうとするのだがこれもまた国民にとっては二次災害的な悲劇の始まりになる。特定秘密保護法案に関して福島県で開かれた公聴会では事故隠し、情報隠蔽、救済要件たるべき情報の秘匿などを危惧する意見が湧き起こった。しかし早急にも、この法案は昨日一気に衆議院で強行可決された。これがまず現実から「目をそらした」為政者の、恐らく本質的でない内容における政治的過誤といえる。否、彼等は確信犯だ。日米合同の安全保障政策上の軍事的拡散方策とみなければならない。病んでいるのは国防総省の戦争経済主義に毒され暴走を食い止め得ない米国文民統制であり、これに追随する安倍政権の「なんでもアメリカについていけば国際社会に遅れは取らないだろう」という、本質的軽薄さだ。(つづく)


詩491 問題 11 米国国家安全保障機構

2013年11月27日 07時17分57秒 | 政治論

 特定秘密保護法案は衆議院で強行採決された。この強行性こそ議会制民主主義における多数決原理の矛盾乃至悪弊そのものではある。我々は今後こうした安倍政権の本性剥き出しの強権政治をいやでも目の当たりにするであろう。これはかつて安倍晋三の爺様である岸信介やら佐藤栄作が得意としていた秘密主義、愚民化政治の事実上の踏襲にほかならず、お代官様政治、官尊民卑主義の、時代を超えた再現となる。先の国政選挙が生み出した、とんだ鬼っこがこれだ。誰に責任があるのかというと、「国民」というしろものが、つまり憲法がいみじくもうたっている「この憲法の理念を実現するため不断に努力しなければならない」主体である「国民」が、自ら「他に選択肢がないから」といって選んだ安定政権が、現行政権なのだ。しかし本当にそうだろうか。米国政府はこの秘密主義を歓迎しているというが、結局米国国家安全保障政策に貢献するために安倍政権が官僚主導のもとに実行しようとしている対米追随の愚策悪策の一例であり、辺野古を巡って右翼保守系集団が画策する「分断統治」もこれに類する。我々の真の敵はまさしくアメリカ合衆国にほかならない。普天間問題に関し、米国はこれを「国内問題だ」と言っているが、確かに旧帝国官僚の怠慢が惰性で続けている敗戦国縛りの甘受姿勢が問題なのだが、どうして、米国国家安全保障機構の徹底した管理システムに蓋然性はない。(つづく)


詩491 問題 10 分断統治

2013年11月26日 19時53分51秒 | 政治論

 (自民県連の変節も決定的であり)これで自民政権の琉球沖縄施策方針は、普天間飛行場返還に関し、「地政学」も「抑止力」も既に通用しない「辺野古移設」を強行突破させるために、「辺野古が駄目なら普天間は固定化するぞ」、と脅しつけて現代職業政治家のサラリーマン的土性骨を打ち砕き、所謂植民地主義の最たる方途である「分断統治」に踏み切ったといっていいのだろう。恐らく80%以上の、県内移設反対県民世論のなか、対米追随官僚任せの自民党こぞって宗旨替えしたところで(7万人署名を集めてみたところで)大勢は揺るがないし実地工事が出来る道理もない。仲井真知事の真意を計りかねている執行部としては、むしろ流動的ともいえる時機見極めの最中で、本年ギリギリ年末大団円か、明年にかけ名護市長選を軸に懐柔策を講じるという流れだ。ここまできたら一気に本丸追い落とし以外彼等に道はない。もし知事が不承認と相成った場合、彼等の周章狼狽はぶざまをさらすだろうが、この不承認知事決断の効果は実に重い。但し、安倍晋三の運命的な強権強行体質がその爺様の悪政再現となって、日本国を縦横に吹き荒れないと言い切れない。人民にとってこの政権に振り回される日々は当分の間続くのであり、これと闘争する市民運動に休む暇は無い。(つづく)


詩491 問題 9 転向

2013年11月26日 10時09分17秒 | 政治論

 「転向」の、時代的な内容変質を考慮すると、例えば沖縄県選出国会議員の「県外移設」公約から、自民党党本部及び政権統括司令部(幹事長、官房長官)が加えたであろう精神的拷問によって「県内容認」に180度転換したことはある種の「転向」に違いないが、戦前の特高官憲による徹底した共産主義弾圧で多くの文化人が「転向」を余儀なくされた時代のものとは内容が異なるのである。つまり5人の苦渋の選択が「守った」ものは、県内移設推進でなくそれを含めたあらゆる選択肢を排除しない、という立場においてなのだろう。しかしそれはいかにも言い訳めいた些細な個別的見解に過ぎない。我々は少なくとも小林多喜二の拷問死を偶発的なものとは思っていないし、バタバタと転向していった理由の大半は極度の肉体的精神的苦痛によっていたことを知らされている。しかし、極めて公的な意味を持つ「転向」(公約の重大な転換)そのものはあらゆる道徳的な批判非難は甘受すべき行為としてしか見られない。このことを中野重治の「村の家」で、転向した主人公の父が激しく静かに喝破している。この父と同じように「遊びじゃないじゃろいがして」と多くの県民は思ったはずだ。但し、特定秘密保護法案の強行採決態勢やこの琉球沖縄に対する「やくざ」な強迫恫喝など、安倍政権の前時代的な手法には、国民がこぞって猛抗議すべきなのである。(つづく)


詩491 問題 8 普天間固定化

2013年11月25日 16時21分26秒 | 政治論

 琉球沖縄選出自民党国会議員はおのれの党本部が掲げるスローガンに依拠し、県内も容認する宗旨替え(あらゆる選択肢を排除しないのだそうだ)を宣言した。推進派連中の7万人署名はまさしく数の論理にほかならないが、まるで追い上げムードのスポーツ感覚で、自身の県土を侵略する日米植民地主義者に降参する無様はまことに片腹痛い思いである。おまけに普天間固定化は、なにをしようがするまいがこの先何十年と既定事実化していることが一目瞭然なのに、彼等の宗旨替えの理由は「普天間固定化」はあってはならない(だから県内移設もやむをえない)、ということなのだから、理屈が通らない。(つづく)


詩491 問題 7 民主化

2013年11月25日 16時09分42秒 | 政治論

 戦後戦無的世代が如何に狂っても、天皇陛下万歳を叫んで殉死することなど決してできはしないし、その状況(殉死する状況)が出来すること自体あり得ないことである。しかし、オウム真理教は多くの若い俊英を、狂ったタントラヤーナバジラヤーナによって刑法犯罪の実践に踏み切らせた(マインドコントロール)。一方何人かの若者は、自滅的殺人を犯すことで自殺的処刑を確定させる暴力的自己実現を現実に完遂した。戦後民主主義が、「自由」と「民主主義」を拡大解釈的に流布させた結果、儒教的な戦前価値は殲滅され、放縦なほど多岐にわたる可能性の樹海に現代人を踏み込ませることになった。天皇陛下万歳は、儒教的な階級的秩序の教育的徹底が齎した、強制的な擬似信仰発露であり、当然乍そこに国家的な全体主義の翼賛手法がなければ本来生じ得ない、従って決して民主主義に馴染まないものに違いない。ところが日本国の民主化を推進した当の米国は、少なくとも国家安全保障思考においては徹底した全体主義の国である。もしかすると全体主義でさえないのは日本国だけかもしれないのだが、米国と軍事提携を諮る日本はどうしても対米従属の国家方針によらざるを得ない資質に在る。つまり、日米関係は第二次大戦当事者関係性を戦後一貫して保持した類を見ない緊縛状態にあり、為政者が同盟堅持を叫ぼうがどうしようが間違いなくそれは解けない自縄自縛状態(官僚の保守停滞主義に基づく)に置かれているのだ。(つづく)


詩491 問題 6 自民党

2013年11月24日 13時48分58秒 | 政治論

 県選出自民党国会議員が石破、菅らに「県外などとんでもない」と言われ、場合によって党籍剥奪、離党勧告、除名処分もあり得るニュアンスで追い詰められているらしい。白昼堂々と選挙公約を反故にしろと言っている方もどうかと思うが、言われて戦々恐々としている方も情けない話だ。どう勘違いしたか知れないが、島尻あい子?に至っては早々と公約撤回は勿論、うそ気味の悪いたとえを言い募り、これで流れが変わるようなことを平気で口走っている。この議員は元々本土出身であり本土寄りな感興に染まりやすいことは明白だが、それにしても化けの皮が剥がれた感じが否めない。西銘議員など「私は正直だ」というのだが、要するに時流に乗っかって政治家ぶっている底の浅い体制順応派以外の何物でもない。公明党県連は既に「県外」公約堅持すると言明しているが、当然の話で、政権党の我が物顔がまことに鼻持ちなら無い。(つづく)


詩491 問題 5 米国

2013年11月23日 23時37分31秒 | 政治論

 この時期での赴任というタイミングが何を意味するか知る由もないが、有名な暗殺された元米国大統領の長女が日本国駐在大使になるからと言って、早速小野寺防相と辺野古推進を論う有り様から、琉球について何も知らないただのプレミア付きのコマーシャルガールという印象しかない。型どおりの発言、行動、紋切り型のコメント、以外に何も期待はできないのだろう。ジャパニーズポリテカルコマーシャルベースに苦もなく乗せられて、取り敢えず大震災被災地など!を訪問し、皇族並に「お言葉」をかけられ、これまで米国と日本政府が奏でていた交響楽の鸚鵡返しで「日米同盟深化」を歌い上げ、現実とは真逆の「よき隣人」を演じきる、この間4年だ。(つづく)


詩491 問題 4の5

2013年11月23日 09時56分12秒 | 政治論

 多数決の原理によれば、現在県知事の手元近くにある辺野古埋め立て承認の是非に関して、直近の地元自治体である名護市で決議採択された名護市長の埋め立て事業反対意見は、2500人にのぼる市民元市民の徴集意見の99%が反対意見に集中したことも踏まえて多数決により決定した地元意見であり、この一塊に対して、民主制の政体における民主的な対応とは何かについて国に本気で再考を促すものがあろう。即ち、米国の国家安全保障政策とは別の日本国国内問題として考えられなければならないのであり、同時にもし沖縄県知事が不承認の印を押すならばいよいよ国内的な反対意見に基づく日本国国家の米国に対する、日米軍事同盟に基づくことのない外交交渉という段階に移行するべき責務が発生するのである。我々は、県知事の判断が「政治的判断」にならないように祈るが、先の衆議院選に対する「一票の格差」訴訟が最高裁で「違憲状態」という無責任判断に堕したことなど考えると、この国のやり方一切になんの信頼も置けないことを覚悟する必要に迫られるのだ。従って、県知事が仮に政治的判断(責任回避のあいまいな結論)をしたとしても、翁長那覇市長のいうように間違いなく「オール沖縄」である県民輿論にいささかの改変変節裏切りの傾斜も存在しない、ということを自覚しておかねばならない。こうした琉球の有り様に抗して、安倍晋三の爺様がやった「強行採決」的地元無視の非民主的な蛮行を彼自身が実践しようと言うのならいよいよこの国は終わりだな。(つづく)


詩491 問題 4の4

2013年11月22日 10時32分39秒 | 政治論

 「一票の格差」案件において最高裁が国家に対し「これは違憲だ」といえるような国ではない、ということが問題なのです。まずこれは司法権が独立性を有してないということであり、ここでも実質的に責任回避が行われているのです。しかも単なる国家圧力がそうさせているというよりも、ある実力機構の謀略的画策によっていることは、これまでの経緯からも明らかなことです。全てはこの機構が主低音となってこの国を色づけているといっていいでしょう。この機構は異国にありしかも自国の利得以外に考慮する要件は当然排除されており、日本国が主体的に自国の福利と厚生を企図する仕組みにはなっていないのが現状です。勿論、装備軍備予算規模訓練実態から明らかなように、自衛隊という組織も「違憲」なのですが、戦後司法扱いの経緯は省くとして、国家権力は拡大解釈によってこじつけごまかしを続け、問題が生じても圧力によってこれをあいまいにしてきたわけです。衆議院選の「違憲状態」という欺瞞的表現は司法の苦肉の策かもしれませんが、要は責任回避、あるいは司法権放棄といっていいのでしょう。人民のコモンセンス的良識においてこれを保障すべき権限を放棄するということは一体どういうことか。単純に言えばまさしく国家主義、人民を国の下位に置くということにほかならない。その国家自体が他国の裁量に委ねられていると言うことは、この国の国家主義がコップの中の嵐を演じているということにすぎないし、人民は踊る国家の下で仕事をしない政治家たちのツケを自ら払いながら、奇妙な国民生活に勤しんでいる。(つづく)


詩491 問題 4の3

2013年11月21日 22時31分34秒 | 政治論

 現人神がただの人になった戦後は、かつて幻想的に仮託し得た天皇朝廷を陽尊陰卑的にも依拠し得なくなった時代として、当然今までに無い様相を呈している。為政者は、「民主化」の果てに自身の「民」を喪失し(元々なかったのだが)、権威たるべき「民」に仮託すべき根拠さえ見出せず(天皇からも自ら手を引き)、保守は保守の、革新はそれなりに多数決原理を神とし党派的抗争を繰り返す、本来性のない政争に明け暮れる議員報酬盗りの詐欺師集団に堕した。「お代官様」政治にあえぐ一般大衆はやがて馴化され、不本意ながら不如意な生存を強いられる。これを無感動に受容する習いは封建の世の圧制に押し潰された「物言えぬ民」に同じい。物言う民の琉球人は同じ日本人でありながら、同じ日本人に対する対し方でない対し方で襲い掛かる「お代官様」が、してならないことをする以上、これに抗議し諫止しようとし体を張って、させまいとする。その姿は彼の風土と気候、ヒトとの関わり具合が織り成した独特の柔和さで性格づけられているが、もしかすると下手に切れやすい本土人の有り様よりも「抵抗力」があるのかもしれない。琉球における「民主化」は、米国軍民政府の手で維新後の日本国が強制した「同化」と「皇民化」を取っ払い、琉球文化の称揚と礼賛、奨励によって独自性を回復する、という流れを生んだ。琉球にとって民主化とはなんだったのか、というと、まさに独自性において「人民」となることだった。それは彼の歴史が被抑圧支配民族系だったということよりも、「自覚」において歴史を認識し、ここから、あらゆる場合に応じて自己を選び取る精神の働きが紡ぎ出され、重要な価値観の転換が行われた、ということだ。(つづく)


詩491 問題 4の2

2013年11月21日 09時04分28秒 | 政治論

 残骸のような己の過去に目を向けるのは単に頭脳の海馬にちょっとした刺激を与えて、滅びいく脳内環境をリフレッシュしようという果敢無い試みに過ぎない。近代化は天皇制を随伴して破局の一途を辿った。支配階級で無為徒食の下級武士がおっぱじめた維新は、結局、藩閥政府やら極端な欧化主義、官憲の自由主義弾圧、あるいは民衆的権威乃至検認を持たずに体制化した天皇絶対主義など、根本的な矛盾を抱えて最先端先鋭化を諮った。支配階級的政体を根とした近代化が、うまくいくはずはない。案の定、この国は肉体を持たない火星人のような頭でっかちの奇形児よろしく、無鉄砲な突進により崖ふちを蹴って真っ逆さまに玉砕の谷底へ落ちていった。担がれた天皇に無罪性があるかといえば、東条英機が司法取引(東条に何の得も無いのだが)してこれを論証する連合国策に協力し、不訴追の決定をなさしめたことが全てであって、それ以上でも以下でもなく、相変わらず腑に落ちない歴史の禍根として、東京裁判史観の批判対象そのものでありながら、これの先陣を切る右翼連中が自身の手で天皇を裁かない矛盾に彼等の非論理性がある。占領政策の円滑にして穏便な進展など日本人の知ったことじゃあるまい。天皇制は明らかに連合国の不実な画策によって生き残った。戦後「民主化」の片手落ちがこの天皇不訴追だということに気が付かねばならない。その無条件の存在の永続化によって、この国の責任主体は無責任となった。幻想的仮託がこれだ。(つづく)