沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 35の10

2013年04月30日 07時07分57秒 | 政治論
 三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊駐屯地本部総監室前バルコニーから、自衛隊員に向けアジ演説をかましたのは昭和45年11月25日、40年以上前のことだが、彼の出身階級が官僚一族とは言え、必ずしも家柄的に貴族性を帯びていたわけでもなく、恐らくはプチブル的富裕層以上の階級的特徴はほぼ無いに等しく、従って彼の政治的言動とその思想に粉飾を付け加えるなら、祖父が東大法卒内務省畑の官僚、父は東大法卒(同期が岸信介、我妻栄)、高等文官試験をトップで通過した農商務省の官僚という、この国の最上級クラスの知識階級であり、かつ政治的には体制側の批判的順応家系、という程度のものだ。
 昭和20年時、偶発的「徴兵のがれ」の始末が、彼を「英霊の声」に誘導したことは心理的に頷けるが、学習院首席卒業恩賜時計拝領、昭和天皇謁見という僥倖は、やや、うがちすぎる関連付けと見える。
 さりとて彼が、天皇乃至天皇制に少なからぬ心理的傾斜を持するのは自然の成り行きとでもいうべきところで、恐らくはそこに明瞭な説明など必要とされてない。実際、天皇制を語る彼の言説を少しく辿ってみても一向に埒があかない、ということがある。
 もしかすると其の辺に彼の限界が潜むのかもしれない。いずれにしろ彼は大学で法律を専学し、概してその厳格な論理的思考法を学んだというが、そこに、彼自身が属した時代(戦前戦中戦後)の時代的背景と、個人的体験からくる、生死に関与する思想的集積が育んだ行動哲学から、戦後日本の構造的矛盾を剔出し、明快に自己完結を目論んだわけだが、実を言えば、日本の戦後の右翼思想の中途半端な発露は構造的革命に至るのでなく、純然たる「再軍備」つまり戦前の軍隊保有国家に戻るということ以外、三島の「憂国」とはなんの関係もない。
 極めて微妙なことを語るなら、現代史上最大のテーゼ「コミュニズム対カソリズム」対立は、米ソの冷戦終焉とともに消滅したわけでなく(あるいはヨーロッパの東西陣営の壁崩壊とともに)、「東洋対西欧」の内実で実質的な米中対決に移行したのであり、と同時に、急激な中国の擡頭が米国の覇権主義に挑戦的に対峙すると、西太平洋の軍略的構図の塗替えが否応なく進むという見方になる。
 変な話、米国従属の日本は、中国から見れば沖縄を手がかりに徐々に奪い取られるべき位置にあり、これを包含した西太平洋全海域と空域を中国が把捉するという方向性がなんとなく見えてくる。
 勿論米国側の韓国が、かつての対中服属関係を復活させ、アメリカを裏切ることも考えられる。現に中韓での接近外交が既に始まっているらしいし、最も戦争したくない状態にある米国としても、日米安保による逆の縛りに不自由をおぼえ、これを自ら破棄しようとするかもしれない。つまり米国による安保破棄が日本を外交的孤立に追い込むという事態になりかねない。日本が「戦争出来る国」になるには日米安保の廃棄乃至解消又は双務的改変なしにはありえないのだが、米側から切り出すなら願ってもないわけだ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の9

2013年04月28日 19時42分10秒 | 政治論
 沖縄県政史上最悪の事態が刻一刻と迫っている、という危機感は多くの県民が等しく持っているところであろう。
 大田昌秀元知事(本日付沖縄タイムスにインタビュー記事)が危惧するように、所謂「代執行」が、この安倍政権によってなんのためらいもなく決定実行される気配を醸し出してきたということだが、「鉄血勤王隊」として師範学校生徒時に「沖縄戦」の真っ只中に放り込まれ、九死に一生を得た氏が予感するその不吉な足音の確からしさは、さながら「沖縄戦」の地獄絵図を現代に紐解くような驚嘆すべき「厚かましさ」で、日本国の一地方行政単位を襲撃するという、稀に見る暴虐政治が現実化するということだ。
 しかし、明治新政府による琉球処分とその後の皇民化教育、県内同化策の大嵐によって馴化されきたったかつての沖縄県民が、過度に呪縛された皇国遵奉と天皇崇拝精神及び東条英機の「戦陣訓」並び旧日本軍による「軍官民共生共死思潮」強制の中、ただ盲目にこれに付き従い「集団での自決」さえ実行してしまったあの悲劇的愚行のままに、この現代において易易と「辺野古公有水面」を埋め立てさせる、というようなことが起こりうるだろうか。
 しかし現に、米軍の「銃剣とブルドーザー」での強制土地接収はまかり通り、地位協定に守られた逃げ得米兵は数え切れぬほどの実例を示し、6歳女児さえ強姦して止まず、殺人的航空機オスプレイは当然のように持ち込まれ、合意事項違反飛行訓練を繰り返し、これになんの抗議行動も起こさない政府の、米国従属的黙認行為が継続し、彼らの自己欺瞞でさえある県内たらい回しの、「うその負担軽減」基地返還詐欺は公然と口にされる、そしていかなる方面から検討しても、決して評価に値しない「環境影響評価書」がこそこそと提示されたかと思ったら、今度は到底許可されそうもないと思われている「公有水面埋め立て」の申請が平然とされる、そこには「銃剣とブルドーザー」並みの「問答無用」の前近代的国家意思が示されている。
 かつて「代理署名」を拒否した元知事にとって、その知事権限を剥奪することなど容易に実行するこの国の対米従属性質は、痛恨とともに骨身にしみたのであろう。歴史的誤読に基づく低劣な「主権回復式典」が白昼堂々と繰り広げられ、三等国並みの実質で自己礼賛する愚かな国民性を内外にひけらかす。かつてこれほど地に落ちた民族があっただろうか。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の8

2013年04月27日 09時29分06秒 | 政治論
 芥川龍之介という人は、明治の中頃に生まれ、ほぼ大正期にその文学的な生涯活動の大半を展開し、昭和2年夏に自決した、西暦で言えば1892年という「19世紀の世紀末」に始まって1927年、田中義一内閣時、未だ戦争の足音は聞こえてこないが、対中外交でのきな臭い傾向がそろそろ見え始めてきた頃、言わば機械的な、全体主義的な世相を迎えようとする前に、その生を埒外に投げ打った。
 尤も、日清日露戦役の勝利とその講和会議による不平等条約が、世論を沸騰させた明治末から大正にかけての時代の趨勢は、昭和初期の積極外交からの軍部の擡頭、横行、暴走へ進軍する準備期を画すのに十分な兆しを持っていただろうことは推察できる。
 こうした波動の齎らす「不安材料」は、彼の言う「ぼんやりした不安」という感触に含まれていたのは当然だが、問題は「敗北の文学」と評された彼の敗北の必然性が、彼の言う「理性の無力」に極まるとして、「判断力」にまつわる「行動力」が何故彼においては事実上放棄されたのか、そこに中流下層階級と称した階層が持つ、複相する精神性の限界があったというのか、それとも肉体が頭脳の進歩に追随し得なかったということか、こういう問いに対する真面目な答えを日本文学界は導き出してはいない。
 芥川を否定した三島由紀夫は、確かにその肉体の破滅を賭けて、これに対する彼独特の答えを示したと一応言えるが、芥川が失敗した地平において三島は決して成功してないではないか。
 言わば死後40年以上が経過しても三島に対する正当な評価は未だに誰ひとり下し得てない。勿論文学と政治が相渡る結節点には極めて抽象的な側面はあるのだが、政治に無関係な文学という有りようを、現代文学が呑気に肯じるはずもなく、佐藤栄作が「狂気」と称して低俗に切り離した「三島事件」が、実はその後の日本国自体の精神の質を決定づけたとみるのが強ち不当でないことを、今更にこの安倍政権にあって実感するのはどうしたことか。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の7

2013年04月25日 09時38分06秒 | 政治論
 靖国は、今やこの国固有の宗教的私設物件ではなく、旧大日本帝国の侵略的軍事行為を象徴する、諸外国にあっては憎むべき信仰対象、その信仰が次の戦争行為を肯定し再現する方向へ導く重大な予兆を表すものとなっている。
 そこに一国の宰相ほか政治家国会議員が趣旨はどうあれ額づくとき、その行為は必然に「捲土重来」「臥薪嘗胆」「起死回生」といった、余りに人間的な失地回復意思として印象されるのは目に見えている。
 敗戦、ポツダム宣言受諾によって滅亡したはずの「軍国主義」が、政府要人政治家たちの言葉と行為によってゾンビのごとく蘇るということを、戦禍に巻き込まれたアジア諸国は幾分政治的思惑も含めながら、未来に透視するわけだ。
 一方国内的にはどうかというと、問題は靖国自体にはなく、むしろ安倍政権が公然と口にする、この国を「戦争ができる国」にしようという政治的意思に対し、まさに文民統制上の甚だ由々しき現実的危機感に見舞われている。
 彼が戦後レジームというとき、考慮されるレジームとは一体何か、しかし彼は根本的に錯誤を犯している。それが、講和条約で「主権回復」が成ったという、彼の戦後日本史の読み誤りに現れている。
 大局的に言うと、安倍政権の政治は、残念ながら精神年齢12歳そのものの幼稚さ、能天気さに満ち溢れている。そこに安倍晋三という政治坊ちゃんの救いがたいプチブル傾向が見え隠れする。思うに彼は恐らく自民党の「担がれた神輿」であって、彼の出自からくる人間的印象の良好さが、政権にとってひとつの安定化材料になるとみているのであろう。
 してみれば、彼より数段上の政治的老獪さを持つ、隠然たる実力者が陰に控えていると見たほうがわかりやすい。安倍政権は早晩瓦解するだろうが、そのあとの政権こそ事実上の「再軍備」「核武装」「原発再稼働」の強権政治が稼働するとみておくべきだ。ということは当然参議院選が天王山となる。ここで野党共闘を諮って無党派勢力を多数化すること。というよりも衆議院選の無効を冀うが筋だ。こんな茶番じみた選挙結果は葬りされ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の6

2013年04月24日 22時05分07秒 | 政治論
 沖縄県民の切実なメッセージが本土に届かない最大の理由は、先ごろ大同団結して沖縄の首長たちが本土に赴き、抗議の直訴を敢行したあの活動において端的に現れたように、その直後、普天間にオスプレイを強行!!(ここに注意しなければならないが)配備してさえ、彼等に何らの顧慮配慮も示さなかった日本政府及び米軍の、「非民主的な」態度に全てが凝縮されているのであり、全県的な議会制民主主義の制度において、つまり全市町村議会、その首長及び県議会議決と県知事が「辺野古移設反対」「オスプレイ配備反対」と決定的な意思を表明したにも関わらず、これを「無視し」、あくまでも「辺野古移設」「オスプレイ配備」を押し通そうとしている日米政府の、「反民主的」態度に対し、さながら沖縄県民が、何かしら「駄々をこねて」政府の意思に反抗しているあくたれである「かのように」見せかけられている本土の日本人は、これを、国策に従わない不逞の輩とでも思っているのであろうとこちらでは思い、彼らを、沖縄県が単独で置かれている「国内差別」の実態に目を向けようとしない本土の半可通、というわけだ。
 3月年度末、辺野古公有水面埋め立て承認申請が出し抜けに提出されたあと、沖縄において実施された聞き取り調査では、7割の県民がこれを評価しないとし、評価するとしたものは1割程度という結果であった。つまりなんらかの理由で「辺野古移設」に不同意な県民が殆どだという、数字上の目に見える実態である。残る1割程度の容認者が同じ沖縄県民であることは言うまでもないことで、局地的に、特に地元に近接する地域ではこの反対容認の是々非々でいがみ合うというような好ましからぬ地域住民分断現象を醸し出している。
 もともと「ユイマール」という共同体意識が強固な沖縄においてである。これを、政府米軍が国策判断を、一地域住民の余りに不相応な判断行為に委ねるという、過重負担で襲撃した結果とみることができよう。
 先ごろの名護市漁協での埋め立て同意取り付けが、法的に必須とされない理由は、辺野古を抱える名護漁協一存にかかって、この海域全般に影響する漁業権の決定的な判断に委任し得ない性格があるからであり、案の定、近隣漁協の反対議決集会が直ちに起こされたことからもこの理屈がわかる。
 所がこういう微妙な問題には一切触れることなく、さも決定的な住民同意が得られたかのように(しかも相変わらず金銭的に籠絡するやり方はまさしく「愚民化政策」そのものである)見せかけ、承認申請になだれ込んだのだった。沖縄県民のメッセージが本土に届かないのは、県民のメッセージ性が希薄だとかあるいは強烈なアピール度がないとかいうことにあるのではなく、事態はもっとはるかに深刻な日本国民総ぐるみの「国内差別状態」から生じていることなのだ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の5

2013年04月24日 09時51分11秒 | 政治論
 例えば詩篇から「我、山に向いて目を上ぐ」。イエス・クリストはゲッセマネの夜、死ぬほど煩悶し「死の盃」は避けられないと悟り、翌朝エルサレムに向かう。彼は架上に息絶えるが、マルコ伝は「エリエリ レマサバクタニ(何しに見捨てたまいし)」と叫んだ、という。
 彼は英雄ではない、だから悩み苦しみ、不可避のミッションに従うが、悲鳴のような叫びなしに逝くことはなかった。このようにして「神の子」は我々人間に近づいた。
 一方「人の子」は「扶け」なしに「人の世」を絶望するのではない。が、往々にしてそれはやって来ないで「永遠」を指し示す。そこに「祈り」への「傾き」が生じると、カフカは言う。
 「永遠に中間者」で全体にも虚無にも耐えない精神にあっては、信仰か不可知論以外に寄る辺はないのであろう。パスカルが「賭け」に勝ったかどうかは別として戦慄と恐怖しかなかった彼の人生は一体何を物語っているのか。ナポレオンたりえぬラスコリニコフの「血が全てを解決する」犯罪行為は熱病のような夢幻の境にさ迷わせ、シベリア流刑地で「生活」への可能性を準備するが、「人は生きて苦しんで死ぬだけだ」というようなトルストイの煩悶は21世紀の我々に、有無言わさぬ挑戦状を叩きつけている。
 沖縄県選出自民党国会議員どもが、次々と「辺野古」に変節している現象は、民主党の裏切りと同じことで今更驚くには当たらないし、「主権回復の日」に対し「屈辱の日」抗議県民大会を呼号しようというのに同駕しない、自民公明会派も選挙に勝てばこっちのもんだ程度にしか「沖縄問題」に直面しない本土並みの半可通ぶりを発揮して、恥もヘッタクリもない政治家輩のうさんくささを露呈し、実にクソ気味が悪いものだ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の4

2013年04月22日 10時45分27秒 | 政治論
 タイ始め東南アジアやインドなどが、アジアの諸民族における、欧米列強の植民地主義からの独立を助勢してくれたとして、旧日本軍の功を誉めそやすのは彼らの勝手だが、だからといって、自国や他国の人民を塗炭の苦しみに突き落とし、総ぐるみで戦場に追いやったあの戦争を肯定し、剰え再軍備を画策しようというのは大きに本末が転倒した事象である。
 いかに美辞麗句で飾り、勇ましげに軍国精神を煽ろうが、現に種々の戦場記録が物語っているのは醜い「戦争のはらわた」というべき、酷たらしい同じ人間の死体の山にほかならない。
 人倫凝視に耐えぬ惨状を激越に繰り広げた沖縄戦ほど、こうした「聖戦」の醜悪な実態を今に伝える貴重な史料に満ちているものはない。ほかならないこの沖縄において更なる新基地を建設し、詐術に満ちた人心籠絡の国策を嫌というほど繰り出す日米政府への、絶え間のない「非暴力」な抵抗は、こうしたおよそ軍事的思潮に基づくあらゆる行為の拒絶、という意思以外に動機はないのであって、その全てのきっかけはただひとつだ。「非戦」により児孫に、荒廃しないありのままの沖縄を残そうというおじいおばあの真情である。
 その強烈な体験に基づいた「抵抗」には、戦争を知らない世代に牛耳られようとしている現代日本の、危うい流れを何とかして食い止めようという、必死的なエネルギーがある。そのエネルギーに触れると、「沖縄戦」の歴史的重要性が戦後世代にはわずかに実感されるのだが、これをそのまま伝承していく責務が沖縄の次世代にはあるのだろう。
 本日の琉球新報に載った、アメリカマサチューセッツ工科大のノームチョムスキー名誉教授が語った「沖縄問題」に関する次の発言、「日米関係の主従構造」こそ沖縄問題の根本である、という言葉が印象に残った。サンフランシスコ講和条約以降絶えずアメリカに従属的に政策決定してきた日本政府に、一国の独立を高らかに語る資格はない。アメリカ合衆国の現状について氏は「完全な帝国主義」と断じた。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の3

2013年04月22日 09時14分41秒 | 政治論
 明治大正期の日本の汎アジア主義は当初、日中朝を中心として欧米列強植民地主義に対抗し、これを打ち破って全アジアの解放を企図する、という展望のもとに、当時の超国家主義者たちにより唱導されたものではあったが、日清日露戦役における日本帝国の、偶然と僥倖によるまぐれ当たりの勝利が齎されると、恐らくは、ここに生じた講和条約の不平等性からくる日本固有の国民感情的な、私的な復讐心やら捲土重来的な野望野心がこの国の知的上層部分の逆上を呼び、満州事変から国連脱退に発展して、「大東亜共栄圏」と呼ばれる軍略的な色彩の国家主義に変貌し、その当初の遠大な構想は別として、現実には国を挙げて大陸への帝国主義的侵略性を帯びた方向へシフトする、ということが起きた。
 捻じ曲げられた「大東亜構想」、という変異した主張が先の大戦の本質であり、実際に行われたのは、自国で枯渇している天然資源の共有を主眼とする、半植民地主義の具体化としてのアジア侵寇であった。
 一方対英米戦争にあっては、「持たざる国」の悲哀のままに、米英中蘭による経済封鎖の陥穽にはまり、自業自得な開戦を強いられたわけだが、そこに、一国の命運を担う指導者たちが「国の沽券」などという思い上がった驕慢を、人民の生活と生存に優先させる何らの権利もないのにもかかわらず、「戦略なき発進」にすぎない玉砕的愚策の実践に踏み切った。
 その事実に対する彼らの重大な責任は、いかにしても逃れようのないものがあるといえよう。多かれ少なかれ「戦争」には、いずれの側にも言い分があるのは当然であり、逆に言えば「勝てば官軍」、負ければその責任が追及される。そこに人間の営為の成行きがあり、越えられない必然の流れがある。
 しかしながら現代にあっては、自由や公平性、平等主義が理念淘汰され、コモンセンスとして市民常識化されたとして、その度合いを計測する度量衡をどこに置くかが問われる。
 度量衡なき世界性において一体何を担保に安定した生活生存の土台を持ち得ようか。そうした危惧感から、第二次大戦を巡る諸般の検証・再認識・総括が求められ、既に少なからず取りざたされる極東裁判の偏頗性に鑑み、より精度の高い歴史省察を展開する必要があるのは間違いない。しかしながら、こういう場合当然のようにこれらを逆手に取り、安倍自民系保守陣営のような、所謂歴史を事実上改ざん乃至それの修正を企図するという不埒な動きが生じるわけだ。だから、「護憲」はあくまでこうした連中への盾と矛になり、戦略的に使われねばならず、それ(日本国憲法)の持つ「永遠平和のため」という遠大な理想こそ砦としなければならない。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35の2

2013年04月19日 14時55分43秒 | 政治論
 米国国家安全保障機能は日本の国力では到底及ばない質と量を誇るのだが、財政難からの大幅な国防費自動削減により、日韓独等駐留米軍維持費ほか上院軍事委員会による政府国防省軍事戦略方針への問題点指摘等、厳しい統制意見がここのところ繰り返し示されるということが起こっているらしい。
 レビン氏とかマケイン氏など上院軍事委員会の重鎮たちが指摘し警告しているところは、ほかでもない普天間返還のための海兵隊移転と移転先グアムの基地施設整備関連国防費が、「思いやり予算」の減少から米側負担のコスト増大傾向を生むというものであり、しかも「辺野古移設」の実現性に疑問を呈し(県民の圧倒的反対意見と、知事「埋め立て許可」拒否の可能性)、結果的に普天間固定化はもちろん、固定化した場合老朽化した飛行場の大規模な改修費用負担が必要になるとしている(つまり日本側負担増の要求)。
 氏らが念頭に置くのは、結局在日米軍関連の国防費について実効性のある予算削減を可能にする方法は、その基地の米国本土への撤退しかないということではある。しかし彼らとてアメリカの環太平洋戦略構想そのもののダメ出しをしているわけではない。又決して沖縄県民の痛みに寄り添おうなどと思っているのでもない。
 17年間一歩も進捗しない「普天間問題」を常識的に眺めれば、誰でもその実現性に疑問符を提示するのは当然至極のことだ。この常識的な反応が一度も示されない「辺野古移設」一辺倒の日米政府がおかしいのであって、逆に言えば連日の座り込みに耐える住民識者協力者の「非暴力不服従」精神には驚くべきモノがあると言える。
 当然ながらレビン氏らは、今回の「嘉手納より南6施設返還計画」が密接に関連する「辺野古移設」自体の遅延が確実なことから、その明記した返還時期についても疑問符を示している。感触的には、安倍政権の政権維持我欲から出た勇み足としかいいようもなく、そのデマゴーグ的政治宣伝詐欺(それが参議院選を見越しているのは明らかだ)は犯罪的と言える。
 「普天間固定化」つまり普天間継続使用と言う形勢が現時点では不作為でリアルな政治状況を醸し出している。もしここに「正義の味方」が「常識」というマスクをかけて怪傑ゾロ並みに現れたなら、このまず決して人間業にはふさわしくない行為を断罪し、流動的な理念なき日米政府高官どもの石頭をハンマーでかち割ってしまうはずなのだが。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 35

2013年04月17日 15時55分06秒 | 政治論
 政治は、「正義」の理念的実践を主眼とすることは現実にはない。それはしばしば権力の強行使か、有益な政策の実現という名の、専ら停滞を繰り返す「愚民化」行為となる。ここに見られるのは、国家権力と人民という二極化した対立要因の相克だが、両者が必然的に持つ不可分な性格から、問題点がその矛盾した関係の中で放熱し「民主主義」という理念の析出を現象しながら、政治メカニズムのリアリティに呑み込まれるという、結果的には「保守政治」の百年牙城を構築することになる。
 このリアリティもまた一つの理念に基づく洞察された質点には違いないが、我が国の「保守政治」においては、「愚民化」思想によってその最も低レベルな次元で想定された「現実」が論拠として求められるという、非情な、見るに耐えぬていたらくをみせることになった。その基本が、常に弁護された根拠としての「自由」乃至「自由主義」にほかならない。
 先の政権交代とその新政権の挫折は、この国の強靭な官僚主導構造を暗黙に物語っていたと、政治家も人民も等しく知ることになった。しかも我々は、この官僚構造が大日本帝国を形成し推し進めたまさに根っこであり、敗戦後も概ねその組織的人的命脈を保って隠然と君臨し続けた事実に想到する。
 例によって戦後、極東裁判に依拠した歴史観を不作為に「選ばされた」ために、連合国主導の国際社会に復帰するという方向性を、否応なく受け入れなければならなかったのだが、それは同時に我が国において、とりわけ憲法問題に極限する矛盾した政治的国家的状況を長らく醸すこととなった。その最大の因源は、恐らく、近代日本の敗戦に至る歴史的検証が、真摯に考究されず総括もされなかったという戦後史そのものにあったといえる。
 つまりは明治維新以来の近代化と近代的発展とその所産である敗戦と戦後日本とは到底別物とは言えないということになる。戦後日本は決して新生日本ではない。それはしかし日本人なら誰でも薄々感づいてはいることだ。ではこの国は最早運命的に終焉を迎えた生ける屍なのか。論理的にはそうなる。沖縄県におけるこの国の国策がここまで愚昧な諸相を示しているのは、論理的でも戦略的でも、理念的ではもちろんないこの国の、政治レベルのあまりの低さにあらゆる国家対人民の対立軸が意味をなさないということもある。
 環境アセス評価書ねじ込み、補正書投げ込み、「公有水面埋め立て承認」申請のやっつけ仕事、嘉手納より南6施設返還詐術、オスプレイ強行配備、自然遺産登録予定地区での「戦争準備ジャングル訓練」とヘリパッド建設、普天間爆音、嘉手納爆音、高江住民への公権力による弾圧、日米地位協定の治外法権、決して国際司法上筋が通らない在沖米軍不当駐留、恐らく数え切れないほどの醜悪な実態が繰り広げられ続けているので県民はあきれかえっているわけだ。
 沖縄県民の国家権力に対する粘り強い非暴力抵抗が、彼らの政治的不如意?を強要している理由は彼らが素通りしている「戦争」そのものを現代の問題として捉えるべく体験せざるを得なかった沖縄戦が、今も如実に県民をうちのめしているからである。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 34

2013年04月15日 10時01分53秒 | 政治論
 かつて川満信一は、「沖縄」の文字を使わずに沖縄を語れといったとかいうが、その真意はともかく、このブログなんぞは冒頭から沖縄を連呼し、さながら選挙カー並みの騒々しさではある。従って微妙な繊細さには程遠いことを筆者自身心得てはいるが、書き始めの段階からその傾向は如実に感じられていたわけであり、それを、「政治」という主題に拠って醸される清濁混淆の性格上致し方ないという言い訳として片付けたつもりではあった。
 ところが「沖縄独立」という課題を提示すると俄かにこの言い訳が通用しないことに否でも気づかされる。この問題は、政治的な性格を持ちながら同時に字義の本来の意味での「文学」または「日本語」あるいは「しまくとぅば」の存在性に打ちのめされることであった。だから「政治的絶望」という独自の実感に裏打ちされた沖縄琉球の個別な自律的思考法にあっては、政治は実に微妙な内面的な領域から語られるべきものであって、既に否応なく確定的に侵略してくる日米の、政府レベルの施策一般についてありきたりの通り一遍の、「反戦」「反基地」「反米」「反政府」思考法では微妙に自己矛盾を犯す傾向に陥るということだ。
 多分このブログ自体、「本土」系の革新勢力に一般的な、「本土」並みの思考法に知らず陥っていることだろう。当方は移住者であるが、しかし生涯時間の大半を本土で過ごし、本土並みの生き方・思考法、従って「安保ただ乗り人生」をもろに享受した張本人にほかならず、その口から反体制的に「沖縄問題」を語るときには、どうしても沖縄琉球文化の歴史と筋道に立てないある種のもどかしさを感じないわけには行かない。
 うがん(拝み)もうーとーとー(あら尊と)もあの沖縄戦の経験なしには現代に緊迫しないが、死者も生者も共にあるといった感覚は、同時に沖縄戦の軍民共生共死や集団自決を沖縄自身が招来した憾みもあるのであり、これを助長した皇民化教育と同化策は、日本帝国主義的全体主義への強烈な拒絶において断罪する、強固な意思として現代沖縄には求められるであろう。
 その鉾と盾は如何にして有効性を獲得するか。例えば「非暴力不服従」が一つのエネルギーとなるのは「無抵抗」の受動的な質に拠らず、彼ら「敵さん」が「不快」「嫌気」「不服」を感じるような「抵抗姿勢」によるのであり、高江の座り込みや普天間ゲートの抗議活動にみる「敵さん」への不断な抗議アプローチなどもそのある意味成功例ではあろう。
 本土並みの論陣の腰砕け様相は恐らく彼らの動機の脆弱さにあり、沖縄の動機はまごうことなき沖縄戦である。この決定的な動機こそ本土の活動家が認知しなければならないことだ。マルクスの「資本論」はイギリス労働者の悲惨な実態にふれたときその鉾と盾を準備する。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 33

2013年04月14日 21時37分16秒 | 政治論
 「祖国復帰運動」は、一種の二律背反内実を抱えながら、現実に「施政権返還」の法的形式を備えて一応成就した。しかしながら事実は、米国民政府支配からの祖国復帰であるにもかかわらず、「地位協定」に守護された治外法権下の米軍と、その、本島中枢部分を広大な範囲で占拠した基地自体はそのまま残り、剰えその後本土が追い出した海兵隊を徐々に移駐させ日本国土展開の実に74%を集中させたのである。
 それは、「普天間返還」で「辺野古移設」という、到底釣り合わない新基地建設を条件とした、日米合意と同根同質の「詐術」だったわけだ。
 「普天間問題」は全県的な「辺野古拒否」運動によって17年間一歩も進められず、安倍政権のやや性急な「詐術」が、「辺野古公有水面埋め立て承認申請提示」や「嘉手納より南5施設返還」日米合意打ち上げ花火で、日本の本土の「半可通」どもの脳みそを、さも沖縄問題が解決への一歩を進めている「かのような」印象操作に引きずり込み、言ってみれば、参議院選絡みの「決める政治」傾向を演出したのだが、残念ながら沖縄県民にははなからわかっていたこととて、早速県知事等各方面から総スカンをくらった次第だ。
 ここに沖縄問題は、沖縄県という一行政単位と、日本及びアメリカ合衆国両政府という、三つの錘が挟む天秤の軸を中心に対立し合う、見るから単純な関係性に極まったと言える。
 これは第三者的に見るなら、日本国で、日米政府と対極的に対峙しうる地方自治体はほかにはなく、しかも戦後常にその位置に置かれた経緯から、沖縄琉球こそが単独で自己を自立せしめる唯一の可能性のなかにある、ということになる。
 しかしながら事態をよくよく観察すると、沖縄県が例えば突然「独立しまあす」と言ってわざわざ苦労して日本籍から離れる重大な個的な事情にあるのかといえば、そんなものは最初からなく、自立する要件は、日米政府の対沖縄施策とその歴史的蓄積以外には何一つ見当たらないということだ。
 例の集団自決が、日本兵の存在なしには起こり得なかったように、いつも沖縄を追い込んでいるのは「同朋」と思った同じ日本人のあからさまな裏切り、無視、軽視行為にほかならない。してみれば独立の労苦というのはこの島には相応しくなく、却って日本国が「安保体制」から沖縄を抜き、独立自治権を付与するという内容で解放する行為こそ、沖縄戦で被った県民の無残な死苦への鎮魂賦でもあろう。
 一方日本国が国として安保堅持し、行きがかり上沖縄を安保最前線とすることをためらわない以上、「何を言っても通用しない」非民主国家の餌食となり、PAC3も常時配備され、オスプレイは断じて引き揚げず、決して実現しない「普天間返還」をジリジリ待たされているよりは、いっそのこと米軍基地「一揆打ち壊し」、オバマ直訴駆け込み訴え、といった抵抗行為の有効性を追究する必要があるというものだ。
 沖縄琉球の独立は当初の二律背反内実の未解消のままに、恐らく今後このままに極めて琉球的に、ということはまた、極めて内面的ににみ勝ち取られる歴史を示すのかと思われる。その外貌は相変わらず「被抑圧民族」の体を示しているのに。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 32

2013年04月12日 07時37分19秒 | 政治論
 この国が今後何年かかけて安倍政権はじめ自民党、維新等が望むような国柄に堕する運命だというのなら、沖縄琉球は、この日本国から独立離反する方向を真に模索することが実際上必要なのかもしれない。
 彼らの憲法改悪の画策が、挙げて愚民化路線をしつらえるとするなら、この国の基本的人権も幸福追求権も明らかに国家の監視と統制の下に置かれ、段階的超国家主義へ移行することは明白な景色である。
 戦後67年間、日米の恣意のままに絶望的な境遇を強いられてきた琉球にとって、国のこうした流れは、いよいよがんじがらめの軍国主義に封じ込められ、隷従的忍苦を甘受させられることを意味する。
 それは琉球処分以来の、皇民化教育と同化策で必要以上に大日本帝国臣民となり、本土の捨石としてまさに一億玉砕した沖縄戦の地獄よりも、更に地獄的な現代の魔境を現出するに違いない。
 魔境に生き伸び汚辱を喰らっても琉球は、この上ない琉歌と琉舞によって高らかに天空を突き抜けるのかもしれないが、歴史の酷薄な処断はそこに弱小民族の悲哀を映し出し、実質この島嶼が日米両国の植民地状態にあることを告げる。
 「臆病と不安」を抱えながら、それの大元である軍国日本と親玉のアメリカ合衆国に唯々諾々と付き従う「物言わぬ民」が望ましいのか。強制執行と秘密警察、監視社会のなか、無残に殺されていく同胞を眺めながら、無抵抗に引きずられていく「不名誉な殺人の被害者」で終わるのが、諦め切った被征服民族の末路には相応しいとでも言うのか。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 31

2013年04月10日 15時22分17秒 | 政治論
 北朝鮮国家指導部の、一連の対外威嚇発言とミサイル発射警告に踊らされて、日米の軍事発動様相は俄かに色めきたち、とうとう首都圏危機回避のため防衛省内にPAC3を配備するは、米艦船の広域配備も太平洋上に展開するはで、国民はなんとなくオッカナビックリの状態を暫く忍ばねばならないらしい。
 だが恐らくは誰ひとりこれが、自身の身に直接降りかかる危機などと予測して行動するものはいないのだろう。アメリカ人は米軍ミサイル迎撃能力に全幅の信頼を寄せるだろうし、日本人は、全面戦争が起こったとしてもアメリカの保証する「核の傘」を信じて止まないに違いない。
 というよりもつまりはこの戦争が、ベトナム並みに長期にわたる泥沼と化す訳が無いとタカをくくっているわけだ。イラク石油利権のような、北朝鮮に海兵隊が殴り込む何ほどのメリットもない以上、出撃基地の沖縄を攻撃する理由はない。
 アメリカは北と戦争するソロバンなど最初から持ち合わせてないし、米ソのキューバ危機ほど切迫した情勢がまるでないのだ。むしろこのひと騒動に持ち込んだキムジョンウン体制の、一種の対米外交戦略上の勝利でさえある。
 これとは別に「窮鼠猫を噛む」状態の北に対し、さながら模擬戦争を画策する米国国家安全保障謀略の匂いすらする。きっかけは米韓合同軍事演習にほかならず、こうした戦時色を醸すのがアメリカの所謂「誘導」「陽動」作戦であり、「産軍複合戦争経済主義」の常套手段となる。
 「お前が先に手を出した」といって攻撃手段をせり上げ、相手の急所に致命傷を加える。第三者の目で見る限り「大国対小国」の争いの実情はまず決して「正義の発露」だったためしはない。多くの場合「強者と弱者」の関係であり、食うか食われるかだ。そんなことは日本人が多大の犠牲のもとに経験した、あの戦争のはらわたそのものじゃないか。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 30

2013年04月07日 22時54分07秒 | 政治論
 沖縄県国頭(くにがみ)郡今帰仁(なきじん)村は、米軍基地も置かれてないし、今のところ上空をオスプレイも飛ばないようだが、昨年夏、村長自ら先頭に立って普天間飛行場「オスプレイ配備反対」の決起集会を催すくらいには、十分に沖縄県民の痛みを認知している地域だと、筆者は思っている。
 当然のように、沖縄戦の惨禍はここでもみられた。その種々のエピソードは古老の話として時折耳にすることがあるが、正確なところは概して文献に拠らざるを得ない。此処は、県北地方の西に突き出た本部半島の半分程を占め、名護市辺野古が太平洋に東面するのに対し、反対側の東シナ海に北面していて、有名な世界遺産、今帰仁城(グスク)跡を山懐にいだき、隣村本部町の、ジンベイザメで知られる水族館を持つ、海洋博公園に通ずる国道沿いに位置する村(そん)である。
 海を隔てた古宇利島へ行く、屋我地島からの古宇利大橋や、最近完成した今帰仁村からの橋の上から見るまさにエメラルドグリーンの、晴れた日には透明な海面を見せる海原の絶景は、ここを通る観光客も思わず車を止めて眺めいる見事な「チュラウミ」を展開している。
 その今帰仁村の県立高校である北山高校が抜群の速球投手を擁して県春季高校野球を制し、晴れて九州大会への代表権を獲得したのだが、ここを母校とする芥川賞作家目取真俊氏は、gooブログでもお馴染みの「海鳴りの島から」と銘打ったブログにおいて、「沖縄問題」をはじめとする政治・文化・教育等にわたる問題点の指摘、追究、あるいは、種々の情報報告など極めて精力的に潤筆を揮われている。
 一昨年の大震災後も本土被災地に飛んで、とりわけ福島の惨状を熱心に報告され、また最近は「高江の様子」と題して、名護市の隣村東村にある高江のヘリパッド建設阻止座り込みに日々参加し、その活動と国による圧政の実態をつぶさに報告されている。
 本土の半可通状態にある日本人は、あの「戦争」がここでは今まさに日常近辺に普通に有り、そこから「非戦」が当然に望まれ、戦時の悲惨な経過と結果に打ちのめされた郷土の人々はじめ多くの人間の姿に思いを馳せ、辺野古の海岸に「座り込む」おじいおばあの血を吐く切実な思いに耳を傾け、アメリカ合衆国と日本国が、その化け物じみた権力を振り回して、沖縄いじめに没頭している醜悪な実態を垣間見るためにも、氏のブログはじめ氏の作物に触れて欲しいとつくづく思う。(つづく)