沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩531 考察 10

2014年05月22日 23時12分34秒 | 政治論

 人生は夢のようなもので、この夢幻の地平に生を得た以上、新たな夢想の資は如何にも人生らしからぬ意味合いに揺らめいている。信長の死出の舞いは「敦盛」だったが、秀吉の辞世にも難波地に馳せる己の浮世めいた思いが語られる。信長の惨死は光秀という「恨み」に究極した無数の仏徒の亡霊がなせる業だったのかもしれない。これも夢想だ。確かなのは、「人間50年」なんてものは限りある命を一目で眺めて尽きる果敢なさ以外に意味はなく、一切の人事の果てには覚めやらぬ人としての思いが胸を冷え冷えと過るばかりだ。我々は大抵どこか感傷的にしか人間らしい大地に安んずることはできない。「狐に穴あり、鳥に塒あり、されど人の子に枕する処なし」

 「沖縄」という伝説的な存在性が筆者にとって後続の夢の資としてやってきたことを、不思議な余韻として予感している現在、「沖縄問題」はひとつの生活となり呼吸になった。筆者はただただ抽象論を展開しているにすぎず、しかもまた、必ずや権力者をギャフンと言わせるという夢想のなかにあり、海中深く潜水してきゃつらのボ-リングの切っ先をへし折ろうとする。できもしないのに。否、これはすべて夢の中にあり、夢は事象としては日本政府とオバマを駆逐する。しかも滔々とした海原の詩に酔い痴れながら。(つづく)


詩531 考察 9

2014年05月22日 07時43分00秒 | 政治論

 普天間問題で圧倒的に困惑、怒り、迷惑しているのは琉球沖縄の県民である。一方、長い時間をかけて知事承認まで漕ぎつけた、といいたいのは、彼らとしてはさながらひとつの実感として印象付けたい話であろう(訪米稲嶺市長に語る米外交問題評議会シーラ・スミス上級研究員の意見内容...沖縄タイムス記事)が、これは少しも実情を言い得ていない、彼らは全く長い時間かけて苦労してここまで来たわけじゃない(県知事を籠絡し欺瞞的に承認させた、というのが正確な見方だ)、むしろ「もういい加減であきらめろ」と言っているに過ぎない。つまり沖縄地方自治は全くの傀儡的身分に落ちろ、というようなもので、今までの沖縄の抵抗、反発、はひとつの悪あがき並にしか評価されない、ということになるし、ここまでやったんだから、その人民的民生行動は高く評価される、といった自慰行為に落とそうというようなものだ。そうではない。彼らは全くわかっていない。稲嶺市長が語るように、普天間飛行場の辺野古移設は日米政府が住民の頭越しに勝手に決めた合意案にすぎず、その不遜な非民主的手法は沖縄の犠牲の上に成り立ってきた日米安保そのものの存立の危機を更に倍加していく、と捉える必要があるのだ。(つづく)