人生は夢のようなもので、この夢幻の地平に生を得た以上、新たな夢想の資は如何にも人生らしからぬ意味合いに揺らめいている。信長の死出の舞いは「敦盛」だったが、秀吉の辞世にも難波地に馳せる己の浮世めいた思いが語られる。信長の惨死は光秀という「恨み」に究極した無数の仏徒の亡霊がなせる業だったのかもしれない。これも夢想だ。確かなのは、「人間50年」なんてものは限りある命を一目で眺めて尽きる果敢なさ以外に意味はなく、一切の人事の果てには覚めやらぬ人としての思いが胸を冷え冷えと過るばかりだ。我々は大抵どこか感傷的にしか人間らしい大地に安んずることはできない。「狐に穴あり、鳥に塒あり、されど人の子に枕する処なし」
「沖縄」という伝説的な存在性が筆者にとって後続の夢の資としてやってきたことを、不思議な余韻として予感している現在、「沖縄問題」はひとつの生活となり呼吸になった。筆者はただただ抽象論を展開しているにすぎず、しかもまた、必ずや権力者をギャフンと言わせるという夢想のなかにあり、海中深く潜水してきゃつらのボ-リングの切っ先をへし折ろうとする。できもしないのに。否、これはすべて夢の中にあり、夢は事象としては日本政府とオバマを駆逐する。しかも滔々とした海原の詩に酔い痴れながら。(つづく)