沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本 18

2011年11月29日 23時43分16秒 | 政治論
 仲井真君の言うとおり「話題にするだけ汚らわしい」ということだがしかし沖縄に対する自民以来のこの国の「巧言令色」(局長着任時のこいつのあいさつさ)がいかなる本性に基づくかを露骨に示す一例であり、暴かれてさえなお粛々と現行方針を貫こうというこいつらの「猛々しさ」は尋常ではない。最早アメリカに対する「動物的忠誠心」は狂気とさえいえるだろう。勿論当のアメリカさえ疑義を呈し始めた沖縄の基地問題に関し「馬鹿の一つ覚え」を繰り返すこの国はあらゆる民主主義実現の意欲やら希望やらを完全に喪失し霞ヶ関の木っ端役人がでっちあげた筋書き通りの旧帝国ガチガチの死滅した書類社会に落ち込もうとしている。つまり人民が取り敢えず託した衆参両院議員たちに対する政治的希望は、核兵器所有自衛隊国軍編成のうそ寒いどす黒い野望に変貌してこの国の大多数の政治家知識人財界人官僚をむしろ盲目に駆り立てているという、恐るべき実態がそこにある。我々は既に大震災大津波が図らずも露呈して見せたこの国の原子力平和利用の「大嘘」、即ち「核」を兵器に段階的に「昇華」させるという目的のために日本国中あらゆる過疎地に(これみよがしの札びら切って)一触即発の原発をぶち上げ、今後数万年かけても決して消えることがない「高レベル放射性廃棄物」の蔓延という自己矛盾を準備し(従って常識的には狂気の沙汰だが)第二次大戦で失った「捲土重来」「失地回復」「臥薪嘗胆」「汚名返上」「名誉回復」又は溜飲を下げるというおろかな企てに邁進してきたわけだ。これが冷戦解消後の日本の歩んできている現状である。この「無責任ケセラセラ」権力構造が最終的破滅の道を転がりだした有様は地球のプレートの活動期に入った時期に頻発する天災によって目の当たりに証明され続けるに違いない。多くの原発が巨大な地震帯の直上に位置する偶然は結局原発の耐震設計がでたらめだということの証明だが、これを「想定外」と言いのける厚顔さはまだしもむしろ計画的に破壊するがごとき実情は、さながら「死なばもろとも」の自殺志願を意味し人民は望まざる「名誉の戦死」を強いられることになろう。残念ながらこれはどうやら現実のものになりそうだ。(中断)
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詩349 沖縄と日本 17

2011年11月25日 10時39分49秒 | 政治論
 小川和久軍事アナリストの、JC沖縄主催フォーラムにおける発言(琉球新報政治記事11月24日)は、本土の状況分析家が有する限界を露呈し、いかにも現実的解決方法である「かのように」囲い込む実に浅はかな提言であろう。島尻参院議員が出席しているこの種の選挙対策は、沖縄にとって全く迷惑な催事であり、本土から流入する何者かに汚染された思潮には、断然忌避の念しか出てこない。
 そもそも普天間返還の純粋な意味の立志は、「普天間の危険性」を無条件に除去することにしかレーゾンデートルはない。沖縄の立ち位置はそこにしかなく、政治的戦略以外にはあらゆる「容認」傾斜の手法は、なし崩しに国家権力の横行を助長するばかりだ。
 彼は、この問題の本質が「国家対人民」という対立軸に在することを見抜けないでいる。そして戦後日本の「民主主義」が、沖縄において必ず「密約」という対米賄賂を通して、一定の政策実現をした「かのように」見せかけるまがいものの歴史だ、という事実を見逃している。
 沖縄ではすでにこの400年の対日関係においてこうした経験をいやというほど味あわされてきたのだ。普天間返還の合意があった時点でアメリカが要求した「移設」というふざけたタカリ実態の、いけずうずうしい表明は断じて許しがたい行為なのであり、これをまことしやかに、さながら、論ずるに足るような問題として許容する、戦後日本の根本的腐敗実質こそは、この国のあらゆる知性と良識と情報量と見識を結集し、真剣に知恵と叡智をもって打破すべき汚物である。
 「沖縄問題」などない。「日本問題」しかありえない。日本の戦後精神の堕落を沖縄を通して解明し追究し分析し、ここに「沖縄と日本」問題という問題が析出され「文学」が目覚める。(中断)

詩349 沖縄と日本 16

2011年11月19日 22時30分40秒 | 政治論
 「沖縄独立」という概念、またはイデオロギーは勿論、例えば戦後急激に欧米支配から独立していったアジアアフリカ諸国における民族自決主義と基本的に相違はない。その現実的要請の端緒は、幕藩体制下の薩摩藩が侵攻した時点に始まり、中国との冊封関係時代を除外する。勿論現今中国歴史家が唱える中国服属実質は領土問題的にも存在しないのでその種の論議は無意味だ。
 まず現今中国と当時の中国が内実的に全く別次元にあり、当時の封建的価値体系のなかで外交的に執られた冊封という非対称関係がそのまま現代に応用されるとは誰も思うまい。もし大アジア的視点があるなら、琉球が半ば自然に受容した中国との朝貢交易関係は、隷属実質のない優れて政治的外交的姿勢を裏付けている。
 これを現代的に言い換えるなら、極めて自立した自治権を殆ど独立国家同等に行使しうる関係性とさえ言える。つまり沖縄県が日本国から真に求めているのは、国と地方自治のこうした実質的正当性の即時的実現が、例外なく可能な自律的関係の法的保障である。
 勿論こうした沖縄県の切実な要求の原因は、薩摩侵攻以来の日琉関係における、主に日本が犯した政治的軍事的文化的過誤であることは言うまでもない。その根本にあるのは「差別」というよりは「異人種視」であり、土俗視であり、浮薄な印象主義にすぎない。あるいは欧米コンプレックスに附随して生じた東洋アジアへの、逆劣等感(出自に対する忌避感)の、日本における常民化したレベルでの一般的精神状態にほかならない。従って沖縄が本土に対して殊更に「差別」や「不当扱い」を牽制的に論うのは得策ではない。
 彼ら(本土)がこれらに真摯に耳を傾け改心する希望はゼロだ。所詮大勢は優勝劣敗の法則に法って弱肉強食を根底に、世界はアメリカが牛耳っているし、アメリカのアジア等新興国に対する高圧的態度の歴史的醸成は、この国が決定的には敗北を知らない征服者の精神状態を持続している所以にほかならない。にも拘らず多くの実例においてこの国が民族自決の精神によって打ち負かされたことは既に我々の知るところである。
 彼らが口にする「民主主義」、「民主化」とは、アメリカ、欧米支配体制の世界的実現達成の言い訳にすぎないし、この美名において彼らが実行する、とりわけ軍事的蛮行は、その実態を垣間見るだけで唾棄すべき殺戮行為であることは既に衆目に晒されている事実だ。
 こうした冷戦後に横行する犯罪的な一極集中傾向に対峙しうるのは、沖縄琉球が有するアイデンティテイである、日本国における民族自決的性格の実質だ。それは半ば、この国が沖縄琉球に対して歴史的に示し続けた、地方特区の蓋然的心理的措定が醸し出した運命論であり、より人間的には、徹底して現実的要請に裏打ちされているこの地方の情念と経験に即した揺るぎないもの(いわく言い難いもの)、ということになろう。
 沖縄琉球のアイデンティテイというべき価値乃至価値観は、日本国において多数見られる所謂「地方文化」の域を出ている。文化論に詳しくはなく琉球文化を殆ど知らないが、各所で散見した琉球舞踊をはじめ数々の地方芸能は、その格調の高さが素人にも容易にわかるものだった。こうしたものに触れるに付けこの国の47都道府県の一という括りが如何に不当なものかを思わずにはいられない。明治政府の文化的侵略が「同化策」となって全県挙げて吹き荒んだ結果、我々は今むしろ偏頗で窮屈そうな沖縄現代社会を想像する。(中断)

詩349 沖縄と日本 15

2011年11月16日 14時24分29秒 | 政治論
 今となっては、「フクシマ」がこの数年のうちに放射能汚染に関わる症例を正確にか曖昧に、日本人の前に何となく流布することは確実だが、この決定的な事象においてなお決してジタバタはしない日本人がいるということも、何となく現実化するような気配ではある。
 ジタバタしないということは益荒男振りということだが、少なくともその伴侶は手弱女の部類でなく、つまりは「武士の妻」の良人という風情だ。ここにある「痩せ我慢」が果たして何を意味するのか、第一にそれは戦前の敗戦知らずの日本人において美徳だったものであり、近代日本が、跛行的に行軍した明治大正昭和の天皇中心「帝国主義」がでっち上げた、「文化」の香り一つしない機械化した封建的価値が、未だに戦後日本の精神的価値足りうるという驚愕すべき時代錯誤には、どう見ても異常な精神状況を想像せざるを得ない。(欲しがりません勝つまでは)(「フクシマ」からの脱出が市民間で感情的齟齬を来している実情があるらしい)。
 我々は「痩せ我慢」する必要がない現今「民主主義」という自律的価値を手に入れたはずなのに、国家は国民自生の「意思」から遊離し、恰も単独に自動する「観念」があらゆる妥当な民意を超越して、独行するが如く観念されたように、決して最善とはいえない多数決原理に基づき横行していくという実情に置かれている。
 国家が自ら国法を踏み外すなら、人民はこの現行国家という観念を叩き壊すことになる。古い官民闘争の形態らしくみえるが、実際はもっと深刻に立ち遅れた現実が、取り分け沖縄では日常茶飯事となっている。
 鳩山失政時輿論の趨勢が辺野古移設を否認する流れになったとき、日本は沖縄差別の構造的実情に気づいたのかと思いきや直近調査結果は数字的に逆戻りしたらしい。(NHK1,000人調査)もしかすると沖縄県民においても、時間的風化現象に晒されて半ば虚無的に「痩せ我慢」の傾斜を始めたかもしれない。恐らく沖縄における「痩せ我慢」は本土のそれとは違い、「この国のため」ではなく「この国の差別精神の改変不能実態」のためだが「本土から移住した」者にとってはそれは全く無意味なことだ。
 現に大震災被災者特に「フクシマ」の避難者が急増している沖縄では、最早「沖縄と日本」などという差別の言辞が通用しない方向へ傾斜している。当事者となったこの人々が辺野古容認傾向を継続するとは到底思えない。できるだけ「放射能」から逃れてきたのに今度は爆音と墜落危険性と米兵犯罪に脅かされてノホホンと「ああそうですか」はあるまい。
 地位協定やら教科書問題やら経済問題やら学力の低さ、労働条件など沖縄問題は数限りなくある。先の大戦の傷跡は米軍基地を含め未だに高齢者の精神的苦痛の原因となって疼き続けている。沖縄は日本のために「痩せ我慢」してはならない。瀕死のヨーロッパや財政危機のアメリカに加担した日本政府の「死なばもろとも」に付き合ってはならない。政府が滅亡しても人民は永らえるのです。(中断)

詩349 沖縄と日本 14

2011年11月11日 20時28分41秒 | 政治論
 何が進行しているか。原発汚染状況及び住民生活危難。3.11当時から今日までこの世に生を開始し継続しているあらゆる人類はじめ生物における放射能被害、乃至1945年8月6日以降生存する生命体における放射能浸潤。
 我々は、その運命として「死すべきもの」であることは疑いようもない。従ってその原因が何であるかを問わず、遅かれ早かれ生命は動かぬ物質に成り終わり、やがて跡形もなく消滅する。この基本的な事実の承認から物事を評価する場合、我々が原発推進を忌避し、己らの後代に関わる「死」乃至死に至る「苦痛」の明らかな原因を排除しようという試みが、「種の保存」という本能に基づくであろうことは容易に理解されるのだが、一方、この自然な生命維持本能の原初的モチーフは、我々の敵に面しては恐ろしく脆弱だということも事実なのだ。
 つまり実質的な反自然、病原体の跋扈というものの進行と同時に、我々人民の敵であるグループの脳髄活動の進行も、警戒すべき、監視すべき、憎悪すべき対象であることは間違いない。
 序に言うと「普天間」問題で魑魅魍魎が蠢く有様は、住民の「経済的欲求乃至安泰」につけこんで、官僚共がない知恵を駆使して悪あがきするがごとく見え、「知識情報は豊富で厖大ながら如何せん、使いこなす知恵と叡智に乏しい」秀才たちの、殆ど悪辣というべき手法が見え見えでやりきれない。
 2000人を集めた北部容認派?集会の喧伝や、内閣お歴々の繰り返される訪沖ザンマイが、何事かを「かのように」装う欺瞞にしか見えず、沖縄の心臓を割り裂く「魔の手」とも見え、一体なにしにこうした訳の分からぬ消耗戦を続けるのか、とんと腑に落ちぬ。
 しかしながら「我々の敵は自分自身だ」という内省から、この脆弱な、決して理論武装しない「自然」を味方につけるべく、「展望」において、時間空間を超越して様々な多面性へ自身を誘導する訓練も必要だ。
 テロとは何か。究極の「生命維持」手段として考えられた弱者の抵抗なのだが、ブッシュは、この抵抗が有する本来の妥当性と...いやむしろブッシュのなかにある狂信化しやすい宗教性こそ問題なのであって、例えばこの国を誘導した「神国日本」という狂信は、最終的に「一億総玉砕」という発狂を可能にしたのだ。
 テロは一人一殺主義でありこれを概念的に標的にするなら、最後のひとりまで消し去らなければ「テロ戦争」は終わらない。つまりユダヤ人絶滅計画の再現である。
 中途半端な良識派オバマは、理念的撤退ではなく、専ら財政的事情によりイラクを捨てる。その証拠に、比較的軽負担な在日米軍基地については、あらゆる趨勢如何に拘わらず辺野古移設に決定打を放つよう民主政権に指示した。するであろう。したに違いない。よくわからない。
 震災復興というが、「フクシマ」及び近在数十キロ地域の復興は「死」と「苦痛」を甘受する覚悟で、住民が回帰願望に添い多くの「チェルノブイリ」再現被害を徐々に顕現しながら、この先生きていく以外考えられない。ということは政府は「民主的」?な政治を実現したいなら、ここに生じたあらゆる意味での「難民」を、いかに政治的に救済するかを考えねばならない。
 移住にしろ移住先とその後の生活保証が課題であり、TPPなんぞと言っている場合ではない。復興とは、「この国の復興」、というくらいの規模と実質を有していることは誰の目にも明らかなことだ。かかる覚悟において取り掛からぬあらゆる「復興」には「砂上の楼閣」的内実しか期待できない。
 ジャーナリズムが地元の住人に密着し、彼らの民意を汲み取り、「ペンは剣より勁し」という精神で、チェルノブイリの二の舞を舞うことがないように自ら政治的状況を醸成していかねば、「歴史の教訓」は全くの有名無実となり了す。
 「フクシマ」は死んだのだ。軍事基地を永久に飼いこんで軍事要塞諸島と化したとき沖縄も「オキナワ」となり死の島となり了す。(中断)

詩349 沖縄と日本 13

2011年11月05日 23時35分50秒 | 政治論
 M9の巨大地震で送電鉄塔が倒壊し、電源喪失、原子炉冷却不能となり、以後引き続き予測不能な突発性リスクとともに、原発惨事は現在も拡大の一途をたどっているという実態にあることは、既に明白な事実である(チェルノブイリ爆発事故の現状、経過、統計、記録から類推するにアメリカが80キロ圏内退避指示を在日米人に対し即座に実行した理由がよくわかる。)。
 M9の地震は歴史的にも最大級なのだが、これ以上の地震も実際起こりうることは、東日本大震災のM9が史上4番目の規模であることからも当然言えることだ。想定外という、国家的言い訳を断然肯じないためには、人民はこの、「天」が目の当たりに示した「恐怖」の光景からしか学び得ないということを、肝に銘じる必要があろう。
 ひとつには地震後襲いかかった大津波こそ原発事故の張本人だ、という、はじめに示された見解の錯誤を認識すること。(従って再開した玄海原発は{ある程度妥当な!!検査結果によって}完全な最大リスクを見切り発進するこの国の国家的方向性を、人民的視点を無視し、地元民はおろか世界中の「無辜の民」を最大不幸のどん底に落として平然とする精神においてー従って狂気としかいいようがないがー実行していると言える。)
 あらゆる観点からその、国家的犯罪の性格を帯びた原子力平和利用という美名(欧米とりわけフランスはチェルノブイリ拡散放射能影響に関する全欧的統計資料を呈示してない。)に惑わされないためには、この国が議会制民主主義という美名?において、確定的に実現された国民主権の内実に添ってないという実態を、よくよく吟味しなければならない。
 「お上の事には間違いはございますまいから」は封建の世に極限されない一般的な、民衆の弱点となっている。この「最後の一句」(森鴎外)は民衆の公権力に対する最大の抗議にしろ決定的な人民救済の手立てにはならないのだ。「お上」である現今民主政権は間違っている、そのあらゆる「非民主的」施策において間違っていると言わなければならない。
 しかしその非理を正す手立てはなく、正義の味方「月光仮面」でない限り、おどろおどろしい政治の世界へ、蟻地獄のように無際限の不条理と共に引き摺り込まれ、絞め殺されるがオチだ。現に「普天間問題」では名護市民(と宜野湾市民及び沖縄県民)がかかる地獄へ突き落とされている。ここにある無力であるがゆえの絶望感を抱えながら。(中断)