沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩520 大衆 2

2014年05月02日 16時43分02秒 | 政治論

 関東大震災時の火災で「酸鼻」と称すべき死臭が漂った有様を芥川が書いている(ある阿呆の一生「大地震」)が、その焼死体が転がっていた辺り(本所被服廠など)や横浜などで地震による混乱に乗じて在日朝鮮人に対する虐殺行為が頻発し、数百人から数千人規模で被害があったという調査報告がある。一方では「不逞鮮人」なる呼称で言われる朝鮮人暴徒が随所で略奪暴行放火などの犯罪を引き起こした、とも言われる(これに対する警戒から、組織された地元の自警団と朝鮮人との衝突もあったらしい)。事実関係は詳しく知らないが、このときには現在の朝日新聞等マスコミの報道が、朝鮮人に対する煽動的な一種の誤報(虚報)を流した事実がある。 

 大衆という存在を考えるとき、民主主義という政治制度の危うさも否定できないものがあるが、民主主義あるいは民主制というものは政治的束縛ではなくて政治感覚を研ぎ澄ます度量衡のようなもので、正確にいえば全体に対する個人というものがあって、個人の自由が生かされる政体乃至政策的指向を基本的に支持するのが民主制であり、そこに患者を診る医師のような客観性と科学的眼力、あるいはマス(塊)を牛耳る技術的な専門性(結果責任を全うするために)を政治家には要求されるものと思われる。

 政治的信頼性はこうした民を主とする精神からしか得られない。現今安倍政権のように、国あるいは政治家個人のイデオロギーを主とするやり方考え方は結局更に危うい蹉跌の道を歩むしかない。おそらくは安倍政権はかつてないほど効率的な独裁制を可能にする準備をしている。大衆が、こうした国の動きにブレーキを掛ける役割を担うということは、彼自身が彼個人の保証されるべき自由のもとに考え、判断し、行動することを求められる、ということだ。今や大手マスコミマスメデアさえ政府寄りに添い寝し、彼らの垂れ流す多くの眉唾情報が独り歩きする気配だ。(つづく)