沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 個人的な余りに個人的な自由と政治

2020年02月05日 09時46分28秒 | 政治論

 このブログはどこまでも匿名であり、今後とも自らその実在の何たるかを明かす気はさらさらない。例えば筆者がどこか市民運動の中にいて、「あいつはあのブログの記事を書いている人間じゃないか?」と名指されても、又、見知らぬ人に「あのブログはあなたでしょう?」とからかわれても、更に滔々と意見を聞かされてやり込められても、「そうです私があの変なブログのブロガーです」などと名乗る気はさらさらない。筆者は実に「個人的な余りに個人的な自由」をこそ望むので、これを損なうか介入干渉するような外界とは没交渉でいくことを是とする。当然だが、現行自民改憲草案にある、国家間戦争行為に無様に敗北し去った旧大日本帝国にみる国家優先滅私奉公社会になったとして(現行間接代議制選挙制度上ありえない話--つまりは国民総意が得られないというわけ--自公政権実質有効支持率は2~3割程度だ)、さて個人の自由を守るにはそれなりの覚悟も必要となろうて。

  安倍晋三が「桜を見る会」の不祥事につき野党の執拗な追及の嵐に晒されているが、どこかイマイチ「暖簾に腕押し」状態にあることは否めない。しかしこれは野党の追及が手ぬるいという意味でいるのでなく、安倍晋三一派と自公政権の悪辣さ、政権護持執着力のえげつなさ、まさにpost turuth風潮まっさかりの非知性、無見識、非倫理、がしからしめている恐るべき「暗黒時代」の表徴にほかならないということであり、今更に、この悪徳政権に異常な高支持率を献上している国民側の体たらくを非難してもはじまらないという、あきれ返った世情をも示唆している。

 恐らくはこの政権を破砕するような明らかな解決手段などというものはない。テロやクーデタ以外には、このブルジョア社会が生んだ「モブ」としての暴力的愚連隊の跋扈に有効な排除機能を発揮するような手立てはない。しかし、ガンジーのいう、「臆病や不安」の所為で「非暴力」を抵抗手段とするようなありきたりな「民主的手法」などは端から軽蔑し去ったほうが分かりやすい。何しろ「民主主義」など最初から否定し、まがいものの「国家主義」に日本を引き戻そうというやからが牛耳っている今の自公政権だ。実際、しばしば「総理」とか「さん」づけで敬語を発する野党議員のやりかたには歯がゆさしか覚えない。どう見ても「話しの通じる」相手ではない相手には、愚弄、嘲笑、罵倒、揶揄、等、そのたぐいの対し方で応じるくらいの態度でいいのだ。

 一方、野党合同の「桜を見る会追及本部」の政府内閣府官房その他官僚に対する事実解明の内容はyoutube等によって広く国民側には伝わっている。残念ながら常に時間切れという流れが見える。それは官僚の答弁に「安倍晋三忖度」の大きな背景が見え隠れするため、こちら側が突発的に彼らの中から出てくる内部告発的リークを安易に期待してしまうためだ。官邸の官僚人事権を脅威とする官僚たちにまともな回答を望むのは百年河清を俟つ程度の話らしい。先ずはそれだけ現行官僚実態の「官尊民卑」性格が、官邸には奴隷的に平伏する醜い在り様として表れているということをよくよく見定めねばならない。

 ところで「この世に直ちに解決しなければならない重大な問題などない」というのは実にその通りだと今更思い知らされた。