沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 琉球新報社説

2014年12月31日 07時23分22秒 | マスコミジャーナリズム

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-236671-storytopic-11.html

 民族自決、あるいは地方自治権の確立、自己決定権の再確認など、恐らくは国内軍事植民地扱いされている現状からは、こうした奪取、回復、の闘いの熾烈さが予想され、ここでもこの国の、琉球沖縄の民を苛烈に苛め抜こうという実態が暴かれてくる。2015年は、この2014年の主に公職選挙で決定的に示されたところの沖縄の民意が、現実的に国家乃至本土政府が繰り返す構造的差別待遇に対し徹底抗戦の宣戦布告をすべき時季に差し掛かる意味合いへ絞り込まれる年なのだと思う。


詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 沖縄タイムス社説

2014年12月31日 07時08分31秒 | マスコミジャーナリズム

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=96938

 ヤーサン ヒーサン シカラーサン (ひもじい 寒い 寂しい)

 小国民の悲鳴が聞こえてくる。最近接の地とは言え九州は、真冬には普通に氷点下に達する土地柄であり、沖縄の子供たちがこれに容易に耐えうるとは到底思えない。摂氏10度を切ることさえ滅多にない亜熱帯気候に慣れきっている体には、太い針で刺すくらいの拷問であっただろう。おまけに戦時下食糧難は筆舌に尽くせない過酷を極め、異郷の地で親元を離れ大人でさえ音を上げて当たり前の環境ではその心情の所在なさに上記のような悲鳴が漏れ聞こえるのは当然だ。体験者のご老人たちが、子供たちはじめ弱者をこうした望まれざる境遇に叩き込む戦争というものに、どれだけの忌避感を抱くものかと、戦後戦無の世代には、想像力を喚起して非戦反戦反軍事の決然とした意思の発露を願いたいものだ。


詩576 琉球沖縄の現実 11

2014年12月30日 18時43分10秒 | 政治論

 琉球沖縄にも本土並みの正月が来る。但しここでは旧正月がメインで2015年は2月19日がそれにあたる。それでも新暦1月1日は間違いなく全国共通の「新玉の年」を意味するのだが、昨年12月27日に元の県知事が埋め立て承認したあと「いい年を迎えられる」と言ったその2014年新年は、恐らくは加速するだろう辺野古新基地建設の具体化に対し県民こぞって不気味な危惧感を抱いたまま迎えたのだった。そして1月名護市長選の稲嶺進氏圧勝、9月名護市議会議員選与党過半数勝利、11月県知事選翁長雄志氏圧勝、12月衆議院総選挙「オール沖縄」完勝、という見事に明白な民意の表白があったのにも関わらず、この安倍政権はなりふりかまわず辺野古埋立工事に邁進すると宣言している。これは明らかに憲法精神に反する、国民の意思を国家が凌駕するという意味になる。日本国憲法第3章第11条と12条の間に主体的にあるのは日本国国民にほかならず、国家という文言は一字たりともないのだ(「公共の福祉」とは何か....一方の利益のために他方が犠牲を強いられることではない)。国民主権に立ち向かえる国家の専権事項などというものは本来存在し得ない。しかもその国家がこれまで繰り返し言い募った軍事的要諦はこの「辺野古移設」事案には本質的に全く存在しない、つまり移設先は日本国土どこでもかまわない、ということが既に判然している。

 彼等本土為政者が普天間問題を「政治的問題」として認識している(この謂いはしかしかつてなく低レベルな傀儡国家実情から出てくる見苦しい言い訳にしか見えない....つまり彼らには本土の日本国民を、基地負担に関し真摯に説得する勇気も誠実さもない)以上、我々には、本土対沖縄で対立している関係性の示談的解消なしには彼らが進める具体的な国家行為を体を張って食い止めるしか手立てがない。明くる1月5日以降開始する、という埋め立てに向けた海底深部調査もまた危険承知で阻止すべき対象に違いはない。又しても国は、官憲の暴力装置を駆使してこうした市民活動を暴力的に弾圧するだろう。これまでも何人かの市民に流血の痛打を加えてきた。安倍強硬路線は、こうした活動や政治的事情に加え、台風による強風高波によって大幅な工期順延を余儀なくされたので、此処に来て、たゆむことのない民意が明白に示された公職選挙結果にかつてない焦燥感を募らせていることだろう。尤も、この安倍晋三という、彼の眷属が戦後史上に権力を誇示したその血筋として有する根拠のない自負心は、殆ど狂気そのものと言って過言ではない。かかる狂人を押し頂いている日本国が迎える2015年の先行きははなはだしく危険な綱渡り的運命を準備しているのだ。(つづく)


詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 琉球新報社説

2014年12月29日 07時22分04秒 | マスコミジャーナリズム

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-236588-storytopic-11.html 

 沖縄本島はじめいくつかの離島は先の大戦で、唯一市街戦による未曾有の激戦の末多くの島民が戦禍に遭い惨たらしくその生存、生活の場を奪われ、戦後はまた異国の軍民政府によって本来的にも法的にも基本的人権を損ない、島民こぞって日本国への復帰運動に心血を注ぎ挙句は「本土並み」でない扱いで基地だらけの日本国憲法下、この国の矛盾の坩堝の中に現在の在り様を強いられたのだった。

 官僚主導の政治姿勢の自民党政権下、その官僚自身が業務懈怠し汗を流すことなく無作為に海兵隊を沖縄に押し込めた。そのあとについてきたのは彼等為政者の取り繕った言い訳で、今となっては彼らの言い分になんらの説得力もありはしない。辺野古移設はほかでもない、日本国外務防衛官僚どもの不埒な怠慢によって封建時代からの「官尊民卑」思潮に基づき、「サイレントマジョリテイ」と化した沖縄県民の前に、到底あり得ない軍事基地新設を断行しようという、情けない国政実情を露呈しているのである。恥ずべき国家行為であり、国際法上の犯罪行為にほかならない。本土の半可通な日本国民は、こうした本質を知らないまま「ご負担をお願いする」とほざき、振興策に至っては元々ある減額傾向に輪をかけて「取り過ぎだ」と嘯く。なんとも義理も人情もない、精神的末世の惨状を見せている。

 「辺野古に絶対基地は造らせない」という文言には、「これ以上君たち本土の人間の身勝手につきあうことはできない」という意思がこめられているのであり、それが県民の確かな、基地反対運動における動機付けであり、翻ってその因源を探れば多くの係累を根こそぎ奪ったあの戦争が生々しく教示する深い非戦反戦反軍事の思いなのだ。残念ながらこの草の根の思潮には妥協も後退も起こらない。彼等本土の政治家は、いつか取り崩せると高をくくってここまで来たのだが、県民の意思に一層の堅固さを加え続けるだけで、高々一首長の腰砕け程度で覆るがものではないのだよ。(つづく)


詩576 琉球沖縄の現実 10

2014年12月27日 09時20分19秒 | 政治論

 それにしても、報道記事の字面を見ているとさながら江戸時代の直訴に近い時代遅れな対応の仕方をしている安倍内閣ではある。彼らは、丁度安倍晋三の祖父や大叔父がしていた強権的な地方侮蔑姿勢を何ら恥じることもなく公然と続行している。翁長新知事に全面的に委任するわけでもないが、こうした対応から県民の本土政府に対する憎悪心は増大する一方だ。

 振興策予算削減の政府方針は明らかに普天間問題と振興策のリンクであり、糾弾すべき密室政治の公然たる居直りにほかならない。仲井真承認はまさに札びらきってもぎ取ったという(但し、沖縄の辺野古容認保守政治家が分捕った振興予算はむしろ大田県政から先減額傾向を助長しているのである)、恥も外聞もない密室的官僚型政治手法の典型であろう。ここにも時代錯誤な安倍晋三戦前復帰政治姿勢が露骨に表れている。

 一方、振興策予算がばかに莫大だという根拠はどこにあるのか。沖縄振興開発事業費は平成10年度以降で半減するに至っているし、国からの財政移転は全国12位、県民一人頭で全国7位に過ぎない。これのどこが取り立てて特別視する理由になるかと言えば、そこにもこの国の定まらない、先の大戦に対する誤った視点(本土決戦を免れた本土と過酷な沖縄戦で掃滅の危殆に瀕した沖縄との格段の差異に対する認識不足....というより無知さ加減ここに極まれりといったところか)が見え隠れする。http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-c2cc.html こういう現実が沖縄にはある。本土の半可通ネット右翼ががなりたてるような単純な話ではない。

 いずれにしろ琉球沖縄にとって辺野古移設や基地問題あるいは本土政府との関係性、本土人との乖離といった特殊な環境というものは、先ず第一に、非戦、反戦、反軍事基地といった極めて本質的な経験知から発してそこから草の根的に培われてきた県民コンセンサス、コモンセンスによって捉えられているという、動かしがたい真実がある、ということ。つまり振興策などというものが基本的に県民のアイデンティテイを根扱ぎに覆すなどということは金輪際ないだろうと、筆者は思っている。従って、必然的に本土が変わらない限り、琉球独立論は日増しに深まっていくだろう、と考える。はっきり言って米国の傀儡国家たる日本国の属国身分は高くつきすぎるということだ。(つづく)