沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩352 日本という国  9

2012年03月31日 22時42分23秒 | 政治論
 北朝鮮人工衛星打ち上げを、弾道ミサイルテポドンの発射と想定し、北の技術力が醸すロケット実験の失敗可能性に焦点を合わせこれを事前に打ち落とすべく、沖縄本島、宮古島、石垣島に迎撃ミサイル装備設置を敢行するという。人間の住む島嶼たる沖縄弧状に対する無作為な軍事的拡大行為(それは今後増大する脅威煽情情報操作計略という国家行為の一環にほかならない)は、あらゆる点で、沖縄県住民の基本的人権にいささかの配慮も示さない防衛官僚とその傀儡政権?担当者どもの、許しがたい犯罪行為だということを、沖縄県に住する多くの人民が苦々しく眺めているのだが、これはつまりこの巨大なデモンストレーションが、化け物じみたこの国の温存されている富国強兵軍国礼賛主義者たちの、ほんの裳裾の一端にすぎないことを、沖縄県民誰もが感づいているということなのだ。沖縄は少なくとも本土の防波堤にはなれないし、誰もならせはしない(もしこれを強行するなら大規模な内紛、暴動を予感しないこともない)。対中最前線基地という、ありそうな防衛構想も、米中関係、日中関係、日米関係いずれの視点からも、また、中国の国力増大に目を向ければ対中戦争準備行為にあって「抑止力」は欺瞞であるし、地政学はこじつけに過ぎず結局は軍需産業だけが漁夫の利を得る構図に巧まれているのだ。政財官三位一体関係はここにも情け容赦なく実在する。これがこの国の保守停滞実態であり、かつてその恩恵が日本国民に還元されたことはなかったし、戦争経済主義(戦争特需、軍需によって国家の財政を基本的に操作すること)の破綻は現今米国財政危機にも端的に現れているように、国民の実質経済生活とは裏腹に現象しこれを脅かし究極的には国内不安の増大を加速するだけだ。帝国主義とはつまりこのことであって、一国の政治が人民乖離を始めると行き着くところは領土的展望という覇権主義に陥る(早々に民主政権が瓦解し広範囲な人民会議を実現しなければ、この国はこれ以上持たないに違いない)。これを、日本という国は、国力の凋落傾向にあって世界性からの陥落という事態に差し掛かりながら、震災復興もままならぬ状況で、何が何でも国家的権勢の回復のために、従来どおり日米同盟堅持と更なる従属的深化、自衛隊強化及び対アジア覇権の軍事力誇示意図に基づく、沖縄島嶼軍事最前線構想を実現し、やがては沖縄戦で避難壕から住民を追い出して史上最悪な軍民共死の愚行を遂行したあの旧日本軍の戦争行為を再現すべく、事あるごとに、統制の利かない翼賛行為にひた走るのだ。そんなことされてたまるか、というほかない。(中断)

詩352 日本という国  8

2012年03月30日 10時37分51秒 | 政治論
 大日本帝国官僚という人種は国家的翼賛手段としての戦争、戦争準備行為、あるいは皇国公民の一億殉国天皇跪拝精神鼓舞といった形式を執らないでは、彼ら自身の公僕的仕官の大義が実践されない仕組みに馴らされているらしく、この国のとりわけ戦後保守停滞政治環境の醸成にはそういう彼らの一般的傾向が実質的傾斜を加えたものと思量される。彼らの有するインテリジェンスは強固にして強靭なマグネティズムに支配され、さながらエアポケットのごとく、旋回する政治集合をトルネードスピンさせ墜落させるのだ。戦後民主主義の脆弱さのせいもあるがこの国の議会制民主主義、政党政治は、強力な磁界を形成するこの官僚組織のまえに悉く陥落して去った。ということは、政治力を信奉する無力な政治家にあっては、初めから白旗揚げて官僚の政策立案の熟読精査につとめ徹底的に検証し、各省庁において議論を上下する討論形式の意見交換会を頻発することだ。国政への絶望は沖縄の日常的実感として、戦後あるいは復帰後常にあったのであり、沖縄の敵は恐らく戦前戦後を通じこの国を実効支配した彼らにおいて明瞭に認知されていた。島ぐるみ闘争として戦後米民政府下すさまじい弾圧圧力に抗しながら「復帰運動」を展開したのは決して単一な「祖国回帰」の純然たる一心においてあったのではない。当時からヤマトウとウチナーの決定的相克関係を認知していた知識人の中には当然のように「沖縄独立」琉球国復活の論陣を張る一群もあったのだし、結果的にはあらゆる琉球政治総括論として沖縄返還は多大な矛盾を剥き出しにして実現されたというのが真相である。勿論敗戦国たる日本国に琉球沖縄奄美等南西島嶼を主導的に自由裁量する国力などあろうはずもなく、戦後処理のなかでもアメリカは当時の国民政府(蒋介石)に沖縄処遇の打診をしたのだが内紛を抱える国府は放棄した。沖縄をどうするかは、かくして、「潜在主権」たる奇妙な領土権を付して日本国でありながらアメリカの委任統治状態を継続する形で、返還までは米国民政府の支配下に置かれた経緯のなかで、明瞭な結論を得ることなく今日に到ったということであろう。ここには戦前の琉球沖縄が日本の差別政策によって虐げられた弱小民族というアメリカの思い込みないし琉球人の日本への決定的反感という誤解があったのかと考えられるが、実質的な評価はアメリカが思っているよりはるかに複雑で、対明国朝貢外交でさえ琉球王府の優れて政治的判断と評価されるところがあり、島津侵攻という大和民族の野蛮性覇権意思が顕現した事件も、軍事的戦略的無効性の認識から受容された平和外交の一環と考えられ、琉球処分が一方的支配構造によって偏頗に処理されたという認識よりも「近代化」の歴史的評価一点では十分に人民的解放を促進したのであり、アメリカ流後進国「愚民」政治の対象にしたときには全く意に反する事態を招来するだけなのだ。アメリカの日本政府への乗っかり方は沖縄からみると実に歯がゆいが、前述したこの国の官僚支配体制にあってはアメリカよりもしたたかな官僚的国策政治がまかり通り、この踏み潰せない「ダニ」をキレイサッパリ殺さない限り沖縄の「自由」と「権利」は決して戻らないと思われる。つまり米軍基地自衛隊展開は益々先鋭化する。しかしながら反米軍基地闘争の間断ない継続は必ず情勢としての変化を生み、流れを変え、アジア太平洋地域に全く新しい「アジア的平衡」(平和?)の実現が可能かと希望的に想像する。ところで官僚たちの脳髄に染み込んで離れない沖縄差別意識の根拠は一体何か。岩国拒否の海兵隊受け入れは新しく改変する事務上の煩瑣という事態しか思いつかない。つまり彼らの中にはこの国の根本的傾向である保守停滞主義という気違いじみたものが澱んでいるとしか思えない。「沖縄問題」が彼らにとってその解決が「大義」でないと思われているのだ。(当然日米同盟が彼らの「大義」だ。)ここにあるのは、少なからず本性を見せ始めたこの国の、再軍備核武装による「富国強兵」の再来、明治維新の矛盾した「近代化」が戦争へ突き進んだ、あの時代へタイムスリップするということ。彼らの中にある危険なナショナリズム(しかも彼ら、のなかにはこの国の一方の権力構造が満を持して潜んでいる)を見逃すな。但し、この国の政治的怠慢は「怪我の功名」で、文民統制はある意味成功している。単なる「優柔不断」にすぎないのだが。(中断)

































詩352 日本という国  7

2012年03月28日 10時30分14秒 | 政治論
 この国の所謂沖縄基地負担軽減という文言が真っ赤な嘘であることは沖縄県人なら誰でも知っている。そして他府県に対するこの国の対処の仕方と対沖縄のそれとは全く相異することも、移住者(丁度移住時期が高校歴史教科書問題に関する全県集会と重なりかつ民主政権交代が其のすぐ後起こった)でさえ此処にきて真っ先に了解した事実だ。普天間返還が辺野古への新基地建設に発展し、北部訓練場一部返還が高江ヘリパッド新設に様変わりし、世界一危険な普天間飛行場を大規模に修復して最も危険なオスプレイ配備により居直りを決め込もうとしあまつさえその修復費用を日本国民の国税で肩代わりしろといい、この国とアメリカは悪の同盟により沖縄人権蹂躙の国際的国家的人道的犯罪を、国連という偏頗な嘘の連携に基づく理念なきしろもの(国連人種差別撤廃委員会も眉唾ものだ)をアリバイに使いながら、戦後一貫して性懲りもなく繰返してきたのである。抑止力が嘘だと知られたら今度は地政学的優位と言い始めた。まさしく「盗人にも3部の理」ってやつで言うわ言うわ、恐らくこの国とアメリカは悪の同盟によりこのふざけきった到底許しがたい蛮行(蛮行とは不条理で筋の通らない行為一般をいう)を今後も継続して沖縄において敢行するであろう。従って国もアメリカも益々相変わらず沖縄を玩弄し続けるなら、いよいよ沖縄県人は強固に理論武装し本土とは一線を画す自立した単一の自治権完全行使可能社会へ向け「座り込み」状況を飽くことなく続けるのだ。すでにこうした市民コンセンサスが沖縄にはできあがっているのであり、言わば彼ら日米悪の同盟が国家権力世界覇権を言い募るほどに政治的にリアリテイを失いかけた琉球独自性(地方自治単位的独立)が明示化されるという、反面教師状態も招来されている。というより、もし本土の日本人ヤマトウに少しでも同国民に対するシンパシーがあるのなら同じ日本人としてとりわけアメリカと日本官僚機構主導でなし崩しに強行されてきた戦後日本の誤った国家施策を、この震災でよくわかったのだろうから、今更ながら国中から噴出する少なからぬ矛盾に目をむけ各自が一人ひとり自分の生存と生活にとって何がふさわしいかを問い直すことで同国民の痛みを共有するということではないか。この国は重いストレスにより「自由」も「民主主義」もなにものかに奪われている状況にあり、代わりに「放縦」と「愚民化」を促進しているだけの価値のない希望もない凋落する精神の亡国民へ転落滅亡する運命らしい。悲しいことには浸潤し続ける放射能に対してさえ早くもひとつのあきらめが支配している(とりわけ高齢者ほか熟年世代は放射能影響に関する完全な利己主義に落ちてしまった)。国はこれに乗じて再稼動を断行する。核兵器製造資源の確保のために?一方辺野古海岸埋め立ての環境アセス評価書に対する知事意見が出揃い「日本対沖縄」はここに明らかな対立局面を迎えるが、高江の住民行動への国家権力行使訴訟が一部しか勝てなかった事態同様、この国内問題は事実上「日本と沖縄」の関係性を証拠付ける最終の決定的な意味を含んでいるかもしれない。(中断)

詩352 日本という国  6

2012年03月27日 08時32分25秒 | 政治論
 これは「オキナワ」単一の話ではなく、沖縄を含めた日本の話である。沖縄戦時首里城地下に掘られた第32軍司令部壕跡に通ずる開口部に、観光客訪問者向け説明案内板が立てられてしまったのだが、その説明文を文案提示した検討委員会の意図に反する文章改竄が行われ、しかもこれに抗議する委員会との意見交換の場を設けることになっていたにもかかわらず、交換会開催前に板作成設置という不手際を県がしてしまったのだった。そう、これは勇み足、不適切対応という行政の過誤であり、ただちに現状復帰、説明板撤去の運びとしなければならない。そしてあらためて意見交換の結果に基づく正当な対応により事態を収拾しなければならない。そもそも検討委員会を押し立てたのは県であり、これが正規の手続きにより検討検証して提示した文案について委員会の意見聴取もないうちに改竄しあまつさえこれを拙速に製作立板するというのはよく言えば不作為の作為、悪く言えば沖縄県行政一般ないし仲井真県政全般における右傾化、中央寄り、旧軍擁護の謗りを免れない事態と言って過言ではない。歴史というものは、史実があって伝承があり、伝説奇談まで達すると完全な「歴史離れ」となるが、換骨奪胎を得意とした芥川龍之介に言わせると「一面の真理」はこれらの作物にも潜んでいて例えば今昔物語なんぞはまことに古代の民衆的野趣に富んだあからさまな真実が垣間見られて興趣尽きないものがあるそうだ。歴史的自然とでもいうべき、人知に関与する「確からしさ」が、歴史にははじめから付いて周り、一介の行政府の長がこれを「立証する根拠に乏しい」と評価して並み居る学者識者を尻目に勝手な決定的公文書を発しては、僭越と酷評されても文句は言えない。それでこれに関しては当ブログにあっては「海鳴りの島から」と銘打った目取真俊氏のそれに、実に詳細かつ豊富な証拠物件を掘りおこされているので知事は是非熟読してほしいと思う。沖縄戦の記憶は体験者だけが独立して所有しているものではない。「歴史は思い出」と小林秀雄が書いているが如何に正当に非体験事件をうまく現代によみがえらせるかはこれを扱う我々現代の日本人が戦争というものをどう捉えるかにかかっているわけで、この事件はそうした物の見方の方向性が問われているのだ。ここに連動する、北朝鮮人工衛星を弾道ミサイルと見立てて本島先島八重山に迎撃装置を配備する国の動きには、沖縄が最も忌み嫌う戦争連想国家行為が見られるのであり、国家のこうした浸潤する翼賛傾向に対し、沖縄県知事とその下部構造には時勢を読んで「沖縄的特殊性」に想いをはせ、国に同調して軽々に歴史的展望を曲げるようなことがあってはならないことだといえる。(中断)

詩352 日本という国 5

2012年03月26日 09時24分46秒 | 政治論
 日本で単独に、単一な名称としての「オキナワ」である琉球沖縄は、それ故に「独立国家」ないし「独立社会」の方向性を有していたのだが、戦後66年を閲して、現代日本の一面特殊な一地方単位として、列島南方を弧状になびく島嶼の集合という成り立ちにて存在性を醸すことになる。「フクシマ」で大震災と付随して原発暴発事件が突発し世界中が注視する中、1年経過してさえ未だに実質的収束には到ってないにもかかわらず政府、財界、官僚、一部学界は、停止中原発の「再稼動」、原発技術の輸出、あわよくば新設さえ目論んでいるという、現代日本の実態なのであるが、ここに生じている震災前への逆戻りという事態は、人間「不断な向上心」と「良識への覚醒」に係る理性機能が途絶するという、甚だ病的な、暗澹たる精神性を意味していると思われるのだが、こういうことにはこの国のインテリジェンスは以前のように激しく反応するということもなくなったのだろうか。それとも一般的に各自がおのおのの胸にでもしまっておく仕儀になったのだろうか。「オキナワ」のことを声を大にして叫んでもこの国は現今選挙制度、議会制民主主義、ないし間接民主主義にあっては聞く耳を持たないに違いない。「オキナワ」はやはり日本にあっては単一の単独の自足しうる社会性のゆえに、ついにこの国の一般的な従属的地方自治同然な並行的生存は無理なのではないか。そして本土並みという質を糾すとどうやら返還時のそれとは意味を異にする具合になっているようだ。彼らの言いくるめは別として、米軍基地が撤退しない限り「オキナワ」の自治権は生じない。何故なら日米地位協定は純然たる治外法権を戦後一貫して守護し国もこれを承認して止まなかった。そして日米安保は沖縄を米軍軍用の不動産予定地に位置づけて退かない。自己所有の土地を無理強いにあるいはしぶしぶ軍用地に提供し借地料をもってあがなわれたとしても裁量権が自己以外に法的に収用されているものを所有権とはいうまい。自由裁量にない土地を金銭的に代用されてもその不公平な権利関係にあっては代用費など不労所得という虚利であり彼の実感生活には決して馴染まないだろう。つまり「本土」が言う基地恩恵は、獣的に追求された高度な経済成長とバブルとその破綻という彼らの運命同様、悲嘆の具にこそなれ充足する価値の内容には程遠いのだ。この不可及な状態にあるのが沖縄人のいかんともしがたい不幸であり本土には決して了解されない事情である。いずれにしても当時10代前後の幼少時降りかかった「沖縄戦」の傷跡は、実際の傷とともに現在も高齢の人たちを苦しめ続けているということも本土の好戦家は知らねばならない、というのは、この苦痛から訴える「非戦」の意思は何にも換え難い真剣さに拠っているからだ。この経験者の人たちに向かって新基地を造らせろという現代アメリカと日本の為政者たちは鬼畜に同じい、と思わざるを得ない。単に想像力の欠如では収まらない。人が、他者の尊厳を実感し、それの前に一切の欲得を恥じるということが起こるはずなのに、彼らに一歩でも譲歩する人間性はないし、先島、八重山にまでその鉄の爪を伸ばす性懲りもない戦後民主主義破綻現象は返す返すも口惜しい有様である。(中断)

詩352 日本という国 4

2012年03月24日 09時28分46秒 | 政治論
 「フクシマ」と「オキナワ」は本質的に相違する政治環境にあり、一方は、日本の「フクシマ」、なのに他方は単独に「オキナワ」として扱われ、そこに純然たる決定的な、絶望的人権破壊システムを見なければならない。最早これは、「人種差別撤廃委員会」に印象される人種的民族的差別という古典的な問題性を超越した、犯罪性の高い国家レベル外交レベルの事案そのものであり、あらゆる地球人は、「フクシマ」の世界的害毒蔓延とは別に、「オキナワ」にあって公然と断行されつつある普遍的な人権破壊実態を糾弾する、人道的立場へ集結しなければならない。何故なら、エジプト俘囚がユダヤの民の数百年に及ぶ過酷な運命を醸成したのは数1000年も前の話であり、この見かけはようやく人民的解放の理念的コンセンサスを得た現代において、未だに横行する、欺瞞性に満ちた国家犯罪傾向を黙認する怠慢は、絶対に、人間の名において看過し得ない実質的環境になっているのだし、人間の意志と勤勉によって改善可能な事案だからだ。「フクシマ」はすでに人力にあっては、手に負えない状態をいよいよ拡大傾向へ引きずっていくのであり、ある意味、「フクシマ」は日本の手のひらから零れ落ちた絶滅大地とあきらめるしかない。チェルノブイリが海に面しなかった一縷の希望は害毒蔓延を内陸的に封鎖しえたことだろうが(風による拡散は別として)、完全に海辺に位置した「フクシマ」はその影響範囲が今後も全く予測しえない絶対的不幸のなかにあり、恐らくはチェルノブイリ以上のレベルで人類史上最悪な環境破壊力を行使しているものと推察される。海は汚染され続けている。一方辺野古大浦湾の環境破壊基地公害汚染は人間の意志で断ち切ることができる。しかし、この国はアメリカの言うなりにここを日本人の住む普通の海辺から一大新軍事基地に変えようと、全県挙げての反対運動にもかかわらずこれを無視し、他府県と相違した対応で、「地理的優位性」という欺瞞言辞により、国家的人権破壊犯罪事件を引き起こそうと目論んでいる。かかる実態にいやでも日々向き合わねばならない沖縄県民は、言わばアメリカ世界戦略という利己主義を日本刀のように振りかざしてはさも客観的正当性があるかのように懐柔しようという日本政府の、同様な利己主義と日々闘わねばならない。初っ端で辺野古に墜落した民主政権は自民政権よりはるかに始末に負えない保守停滞官僚主導政治に堕し、この政権に何を期待しても暖簾に腕押しだろうが、即時解散すべき実質にありながら政権にへばりついている以上、繰り出される悪徳政治政策のいちいちを具に検証破棄破壊し反対運動に拍車をかけることだ。(中断)

詩352 日本という国 3

2012年03月23日 23時32分41秒 | 政治論
 彼らの言う地理的優位性とは軍事的優位性のことには違いないが、これは専守防衛の優位性ではなく飽くまで攻撃的優位性であり、攻撃目標は北の核施設並び軍事施設にほかならない。場合によっては平壌もこれに入る。ところでこの攻撃的展望が国際法も憲法9条にも違背することは勿論だが、沖縄に対する最大の欺瞞であることも言うを待たない。沖縄の非戦意思はすでに歴史認識上の確定的到達思想に昇華しており、この国が軍事的強要を実行したとき最終手段によって実現する方途は極めて限定的なことがおのずと了解されよう。「座り込み」と実力行使の力関係はさながら赤子の手をひねるようなものだが、コザ騒動の記憶は権力者にあっても少なからぬ脅威として残存しているに違いなく、結局アメリカのご機嫌を伺いながら「優柔不断」という外交怠慢放縦演技によって生き残りを図るということにしかならないのだろう。この国の軍国主義者と沖縄征服勘違い輩が己の愚と恥と無知を晒しながら「沖縄説得」に血道を上げる昨今、「本来的構造的差別」の精神によっては到底琉球の核心に触れることはないということを早々に納得すべきだということだ。皇民化教育によってマインドコントロールに成功し「一億総玉砕」の先陣をきらせたまでは植民奴隷制天皇崇拝の実を挙げたが、「敗戦」は「沖縄戦」の、日本国内における境遇につきその特殊性を際立たせ、ファシズム帝国日本のあらゆる被害人民(アジアの民)と同じ禍根として沖縄県民の深奥に達したのだ。問題はこのことにあって、ここに、県民に顕著な「本来的差別」意識の所以があり、同時に、日米安保によって、国防費節約と経済復興を果たした、と勘違いした本土の日本人とは無関係な沖縄人がいる。事実上、戦後日本とアメリカ被占領下の沖縄はその歩みを異にし、一方が徐々に再軍備方向へ傾斜していくとき沖縄はいよいよ確たる非戦意思に凝結していったといえる。其の差は結局「一億総玉砕」の現実的担保を担って、本来決して人民的に馴致され得ない国家に関する殉国意思の実現という特殊な体験に否応なく駆り出された、一般市民的レベル以上の又は以下の数限りない戦争惨禍事例において特化せざるを得なかったということである。この沖縄における非戦意思の自然醸成傾向は「フクシマ」だけがそうであった原発全面廃止意思とおなじものなのだ。かくして沖縄は現日本国家の意思としてある再軍備核兵器保有の方向性とは真っ向から対立する唯一の県となった。大戦で「捨石」とされた沖縄が現代日本の軍事的思惑のなかでいかなる位置を占めるかを考えるとき、我々は自身の「非戦意思」の絶対性によって国家意思は淘汰されるという確信の中に「座り込」まねばならない。それは国家の捨石になった過去を繰返す愚を是が非でも回避するためである。その繰り返しは人間として有り得ないし、多くの「ヤマトウ」たる日本人どもに彼らの祖先の過誤を繰返させないためでもある。これをごまかしてはならない。「沖縄戦」の体験によって沖縄は、この国の「捨石」にも「最前線基地」にも「欺瞞的抑止力」にも決別すべく自己を形成した本質において沖縄なのだ。(中断)

詩352 日本という国 2

2012年03月22日 08時51分07秒 | 政治論
 沖縄人は、日本という国の特殊なマイノリティであり、アイヌ同様差別され続ける異種民族性において、際立って特徴的な島嶼住人であるが、現代日本においては、「沖縄県」という地理的名称において、特に米軍基地関連で完全に他府県と差別された境遇に置かれている。沖縄県人が他府県において、日常的に差別されるということは勿論あってはならない人権上の問題である。従って法精神上の抑制機能によって、表面上はかかる人種差別的蛮行が実際に顕現することは少ないのだろうが、消極的小市民的レベルでの差別行為が目立たぬにしろ、国家が人民的心情を淘汰した国政段階に到ると、野蛮な差別的精神が絶対的に発露する、ということがこの国で現在起きている沖縄における実態である。そしてこうした境遇の偏頗性の実態について、日本人(本土の)、日本政府、及び米軍関係者は決して本当には認めることがない。沖縄返還、少女暴行事件、沖国大ヘリ墜落事件、大江岩波訴訟、高校歴史教科書裁判、に際し、ちょっとだけ振り返ったにすぎず、彼らはすぐに自身のエゴイズムへ舞い戻り、引き続く問題性にあっては本質論を限りなく逸脱していったのだった。その結果が最も明白に現れたのがほかならぬ「普天間問題」である。「少女暴行事件」をきっかけに沸き起こった全県挙げての反米軍基地意思は当時の太田昌秀知事の段階的基地全面撤去構想に反映され、その取っ掛かりに選ばれたのが「世界一危険な軍事基地」普天間飛行場の返還であった。その後の経緯は言わずもがなだが、この国は橋本総理のある種一世一代の決断で突破口を開かんとしたにもかかわらず、鳩山同様竜頭蛇尾に終始する政治的不如意を託った。米軍再編など知ったことじゃない。戦争などマッピラだ。人の土地に勝手に入ってしたい放題しやがって。島津侵攻以来凌駕した植民地としての琉球を彼らはあらゆる局面でためらいもなく国家的掃き溜めにしてきた。そう、本土が追いやった海兵隊を「ごみを捨てるように」沖縄に放り出したわけだ。周知のごとく海兵隊員はどちらかといえば低学歴低所得な貧困層から行くところも限られてしかたなく軍隊に就職したいわば社会の「沈黙する階層」であり、彼らが叩き込まれる徹底した殺人マシーン的意識変改訓練は当然人間性の極端な欠落を促すのであり、いわば海兵隊は「犯罪者予備軍」程度に特殊化されたおそるべき戦闘部隊にほかならない。いってみれば一般住民が住し、児童が無邪気に遊びまわる空間に「犯罪者更正施設」をしつらえようとした福島のある町のように、沖縄が反米軍基地思潮を醸すのは当然のはなしだ。沖縄は本土のエゴイズムによってアメリカと自衛隊の戦争準備発進行為に否応なく加担させられ、掃き溜め化され、かかる事実に無関心な無神経な本土人によって理不尽な差別的境遇に落とし込まれたのである。この事実が問題なのであってアメリカの好戦的戦争経済主義などはなから問題にしていないし、本土の等辺僕がいくら懐柔しようとしても「関係ない外野は引っ込んでろ」程度の答えしか返ってこないのさ。そう、あんたがたはその口がいわせるあらゆることに全く責任がないのであり、その同じ口で国土防衛を論じようというのだからお話にならない。おまえさんがたが沖縄に対してやっていることを自己認識しない限り、其の先の話は決して噛み合わないだろう。やってきたのはあんたがたであり、沖縄人はこの沖縄から侵略的にどこかへいったことなど一度もないのだ。(中断)

詩352 日本という国

2012年03月21日 10時14分27秒 | 政治論
 彼は、未だ大震災も原発暴発もなかった頃に「フクシマ」から沖縄へやってきたが、類推される「沖縄原体験」の端緒は、公設ライブラリーから借り出した数十冊の沖縄関連図書に集中した。もし内地の図書館に同種の沖縄関連書籍があったなら、やはり衝撃的といえる体験として感得されたかもしれないが、実際はむしろそれほど興味を惹かれずに終始したとも想像され、偶然ながらも必然的に引き込まれた沖縄戦、集団自決、米兵犯罪、等に関する図書も、「沖縄」に対する彼自身の奇妙なシンパシーなしにはその体験としての度合いがまるで違っただろうと思うと、この移住行動は、その住む土地にまつわる彼の尋常ならぬ精神的深化のきっかけだった、ということに疑いはないようだ。奇妙なシンパシーとは彼自身正確には説明できないし、具体的に関係する事実の、あれこれを述べる必要も感じない。彼は沖縄観光コマーシャルじみた、取り立てて特記すべき「沖縄人」の優しさ、人の良さのようなものに予定通り触れた、というわけではないのだ。疾走する米軍ジープが住民を跳ね飛ばしてそのまま闇に消え道路下の畑には無残な轢死体が転がっている、婦女子を見つけては追廻しその夫の目前で陵辱する米兵、戦後間もない沖縄で繰り広げられた信じがたい光景が次々と、活字として目に飛び込んでくるという体験は、雰囲気として、多少は予感されたものといい条、彼の中でなにものかを徐々にはっきりと定着させる作業を繰返した。多くの特徴的な戦時体験の語りからもその何かは益々堅固に形成されていった。今彼が直面しようというそのものは、もしかすると曰く言いがたい何かなのかもしれない。あるいは語れば嘘にしかならないものかも知れず、例えば誰かが「それはおまえさんの思い過ごしな過剰反応だよ」といったなら、これに対してはむきになって否定しようとするだろうし、全く手付かずに生まれ育ち成長したそのものを、つかの間の幻影のようには到底思えないわけで、如何ともしがたい実体として、あらゆる局面にあって実質的なひとつの顕著な傾向を造出していったのだった。内地にいては決して起こりえなかっただろうこの傾向は、彼の人生にあっても無類の「確からしさ」に属するのだが、この国の政府と議員、あるいは大雑把に「政治」というもの、それらが「沖縄」に関わるとき発する、一般的な落差のうちにある、絶望という意匠に成る尋常ならざる意思の臭気は、かつてそこ(本土)に住していた人間としては無性に我慢ならぬ悪臭としてのみ、捉えられたのだった。鳩山のギロリとした目線も菅の脂下がった笑い顔も、野田のとぼけた変化のない表情も、ただ「胡散臭い」という印象ばかりが先行し、混濁して遣る瀬無い情念の奔出に苛立つ日々が続いた。「最低でも県外」といっていた鳩山が辺野古に墜落したあの日、雨中に声を嗄らして抗議する稲峰市長の映像を眺めながら、彼はすでに3年目を経過した移住生活すら忘却したように沖縄からの悲痛な憤怒、やり場のない胆汁質を自身のうちに見ていた。沖縄の彼の本土への印象は、本土が沖縄を決して他府県同様に扱わない驚嘆すべき絶対性だった。千葉県知事森田健作という男が発した耳を疑う言葉「我々のところに火の粉を飛び火させる積もりか」は、本土の人間一般が沖縄に対して当初から有していた止むことのない罪業の一端と思われ、ここから敷衍して「負担軽減」といった「美辞麗句」に隠れている醜悪な人間性が想像され、いよいよ嘔吐を伴った激越な反応として顕現する、己の自家中毒現象を呆然とやり過ごすばかりだった。(中断)

詩351 再び「現代日本」 8の1

2012年03月19日 08時56分51秒 | 政治論
 米軍基地が沖縄にあるおかげで北朝鮮にも中国にも狙われている現状(今回のテポドンは沖縄上空を通過するらしい)では、本土の「ヤマトウ」が、愚かにも抑止力をもって、米軍基地沖縄展開にお墨付きを与える愚劣極まりない浅はか傾向を、静かに嘲笑するしか方途はないと沖縄は思っている。何故なら日米安全保障条約にあっては、日本国の対外的危機に際しても米軍は米国連邦議会の承認なしには一歩も動けないし(現在のアメリカ財政危機を知らないのかい?)、現今対中外交方針からすれば軍事的軋轢を米中間で易々と醸しだす(たかだか日本という凋落気味のアジアの小国のために?)なんらのメリットもないことは火を見るより明らかではないか(アメリカが沖縄に基地を残存させる最大の理由はまさに日本国政府が国民の血税を払って用心棒として雇っているからで、経済的メリットがなければ直ちに引揚げる話になっているのさ)。まして「本土復帰」さえ多重な理由で島ぐるみ運動を展開した(復帰を無条件で切望したと思ったら大間違いだ)挙句この国は、「核付き、本土の海兵隊移転、既存基地継続使用、増設新設拡大方針」というふざけきった返還実態をさらけ出したではないか。冗談も休み休みいうものさ。ともかく、沖縄は、米軍基地のおかげで中国の領土的野心から守られているなどと全く思っていないし、中国が沖縄に戦端を開くなんらのメリットもないのはあきらかだし、大震災で多数の原発事故避難者がフクシマから沖縄に流れてきた現状では、今やこの国は原発難民こそ救わねばならないわけで(その方途が危険地帯への帰還促進という殺人的愚策だったんだぜ)、沖縄が中国攻勢で難民化するというふざけた妄想こそ軍国主義者の脆弱な想像力の表れとして笑うしかないというわけさ。(中断)div>

詩351 再び「現代日本」 7

2012年03月18日 12時35分04秒 | 政治論
 「平和主義」などという主義はない。同様に「反戦」という立場などない。あるのは、「人民」という、望まれなかった位置に立たされている我々の不条理な存在性にほかならない。「人民」は「平和主義」など標榜したことは一度もないし、「反戦」に関わったこともない。それらはいつも「向こうから」やって来る性質の、あらゆる不公平で抑圧的な侵害する実質の「権力」が、「人民」に強いた「人民」の存在性への形容詞に過ぎない。「人民」はいつもその生存と生活においてむしろ無防備に外圧の脅威に晒されているし、その対抗手段は常に物理的力学的に貧弱な感性や感情、乃至あきらめ、といった本質を有した「あるもの」に限られている。この「あるもの」をあえて表現するなら最後の砦としての「不可知論」にほかならない。この意味では、「真理」という頂点から「無知」という底辺までの「人知」が関係するあらゆる外存在について、「人民」は虚栄的に「知ったかぶり」で自己のバイオリズムを害するほど愚かではないし、徒党を組んで空虚な推測や邪推、挙句は「仮想敵」をでっちあげる見苦しい逆上にも縁がない。人民のこうした在り様から乖離していく政治思想というものには最初から根拠なき「空想」としての性格しかないし、「砂上の楼閣」であり内容のない原理主義にすぎない。「人民」は常に「1 足す 1 は 2」という、明確な論理のもとに物事を認識判断することを「倫理」とし、これを2.1や1.9とすることで別の何事かを成就しようという企みには決して同調しない。我々は多くを我々の歴史的教訓においてその「知」を得、歴史的事実に関わる推理小説にはなんの興味もない。例えば「邪馬台国」が北九州にあろうと畿内にあろうとそんなことは知ったことじゃない。例えば今次大戦を定義付けるなら、日本国の「侵略戦争」であった、という決定的「知」以外にはこの戦争の歴史的教訓はどこにもなく、この限りでこの戦争を国家的失策と評価するのだが、一方、沖縄戦の説明記述から「住民虐殺」「従軍慰安婦」「捨石」といった明瞭な事実事象形容詞を行政権力が削除したなら、人民はこれに同調するはずもないだろうし、それでは権力は何を意図してこれをするかと追究しようとするだろう。少なくとも県議会での頑なな知事の態度から想定するに、彼の真の思惑とは別にこの国が女々しい「名誉回復」を図り、国軍起動を目論んで再軍備核兵器保有国たらんとしているのだと、いうことになる。彼らの多くはこの国の権力的中枢足りうるある種の「エリート」であり自足しない国家的憂愁を少なからず抱懐している知的上層部なのだろうが、悲しいかな、彼らの憂鬱とは別に「戦争」を肉体的に拒否する一団の集合体があってその明白な「非戦」意思は、逆上しやすい知的選良どもの手に負える相手ではない。現に辺野古、高江など米軍に脅かされ国に恫喝されている地域では朝から晩まで「おじいおばあ」が「座り込み」、一手、一歩たりとわれらの土地に触れさせまいと陣を張っている。こうした全く無防備な抵抗手段しかない我々に、逆に手出しができない権力機構があり、しかも自身の無策無能を晒して15年以上が経過した。歴史認識はこの現状を「人民の勝利」としか回答しないだろう。ジョンソン大統領が泣きながら撤退を宣言したベトナム戦争のようにだが、アメリカはいつまでたってもこの「知」を得ずに愚行を繰返すのだろうか。(中断)

詩351 再び「現代日本」 6

2012年03月17日 21時38分35秒 | 政治論
 沖縄で言う「本土」「内地」の日本人、あるいは「ヤマト」「ヤマトウ」と呼称される一群の人々が、意識するしないに関わらず沖縄を特殊視する傾向は移住者の目からも否定できない。だが、「現代」という時間概念においては、封建期に、当たり前のように有った「身分制」や「男尊女卑」等の差別性に満ちた精神傾向を未だに無批判に持続して止まないという非近代的無反省醜態が、沖縄における米軍基地問題では一地域単位で繰り返されている、ということを、「重大な人間的過誤」として捉えられなければならないということなのであって、「人種差別撤廃委員会」からの質問状に対する政府の欺瞞回答をもって暫時決着するという性質のものではないのだ。従って、もしこの国連機関がおのれのレーゾンデートルを最大限効果的に結実させようというのなら、彼らは、「勧告」という拘束力のない欺瞞行為で終わらせずに別に、「問題提起」と、覇権国家権力に対する絶えざる「理念的圧力」の方途を探すことだ。世界の有識者への働きかけや運動団体支援、あるいは実際に政府防衛省外務省に出向き実態を実見し、機関としての公式見解を世界の諸方面に向け正確に示すことだ。いずれにしても、この国は間違いなく沖縄を他府県とは差別して扱っている。このことは声を大にして繰り返し言わなければならない。そして、差別が「重大な人間的過誤」であることを、「普天間」「辺野古」「高江」「嘉手納」等米軍基地の存在と、新たな施設の新設補修増設行為が齎す更なる人間性排除の本質において確認し、これらの行為の元凶たるアメリカと日本という国の、国家安全保障の名を借りた明白な、犯罪性を有する軍事拡大行為を、「世界平和」に対する脅威、とともに沖縄一県に対する偏頗で不公平な、差別感に満ちた卑劣な非人間的行為、地域住民の人権を封殺圧殺する重大な世界的国家的過ちとして断罪しなければならない。岩国が海兵隊受け入れを拒否したことは当然として政府が直ちに同調し米側に伝えた経緯は、誰が見ても、「沖縄なら拒否しても受け付けなかった」この国の政府の、これまでのふざけた「差別精神」をあからさまに証明したのである。抑止力という口実、地政学というデタラメが、沖縄なら通用すると錯覚しているならとんでもない誤解であり、沖縄に対する公平性や客観性を欠いた、許しがたい怯惰な国政実態と言わねばならない。(中断)

詩351 再び「現代日本」 5

2012年03月13日 10時20分15秒 | 政治論
 沖縄に関するひとつの決定的民主的観点の、公的検証としての「国際連合人種差別撤廃委員会」による、日本政府に対する、「普天間」問題に関する差別実態への質問状(毎日新聞本日13日付記事)は、恐らくこれまで同様日本政府の欺瞞体質そのままに、欺瞞に満ちた公式弁明を引き出すだけであろうが、アメリカ同様日本政府も、世界的、国家的利己主義を世界に披瀝することになることは、原発事故に関してのこの国の在り様のごとく(再稼動誘導、原発輸出、危険地帯への住民帰還誘導)、すでに堕落した理念なき政治の横行において、哲学的精神的人格喪失の「現代日本」の病状を、余すところなく露見させることだろう。一方では、こうした国連という、あいまいな機関があいまいに無効果な理念的行為において、世界悪を懐疑的に掘り出しては彼ら自身の一定の理念的アリバイを定置したとしても、恐らくはアメリカという極が旋回する人工的地球を23度傾けた地軸において自然回転させる、あたりまえの人間的尊厳回帰を実現し得ない情けなさは永久に取り払われることがないのであろう。従ってアメリカは沖縄から、今後どんな卑怯な存在性を醸しても出て行くことはないし、アメリカに世界性からの追放を宣告しても物量と軍事力ですべて容易にねじ伏せられるに違いない。彼らの矛盾に満ちた「カソリズム」は人道と殺人が同一地平にあるのだし、祈りと抹殺が同じ意味として把捉できる精神感覚にあるのだし、勿論戦争と平和は両天秤上のものでしかないわけで、なにしろ原爆をためらいもなく市民の頭上に炸裂させた野蛮人どもであるし、今後も何食わぬ顔で核実験し原発廃棄物による核物質創生の悪魔的行為を持続し、沖縄米軍基地からの戦争発進行為を続けることだろう。少なくとも直ちに改善されない人権侵害実態というものは当事者にあっては決定的に絶望的な状態としてしか捉えられないものなのだ。「差別」という人権蹂躙は沖縄においては日本との関わりで数百年に及ぶのであり、アメリカ覇権主義による被害は戦後一貫して沖縄を囲い込み飼い殺しにし、人間的尊厳をズタズタにし、不作為の戦争加担状態に叩き込んできた。これに対し日本政府が沖縄に対し執った一国内において偏向した施策は、さながら沖縄には「常民」が存在せず、「日本人」ではないかのような扱いに終始したのだった。彼らの「負担軽減」という文言こそ許しがたい偽善であり実体のない国家的虚言であり、打倒しなければならない「悪徳」である。(中断)

詩351 再び「現代日本」 4

2012年03月10日 16時24分42秒 | 政治論
 原発再稼動が政府主導で実行されようという現今情勢に垣間見えるのは、言わば、開き直った「原子力ムラ」原発推進派が有する運動慣性的猛進性が、かつて軍部が暴走したように習い性的に顕現しているとみえるということだ。
 習い性、とは日本人に特有なものとしてある国民的欠点なのだが、残念ながらその理念的評価は文民統制力の希薄さということにつながる。
 この国の議会制民主主義というものの本質的な意味の無実化、被選挙代議制により徐々に確実に淘汰されていく民意、などから明白に言えるのは、専ら「多数決原理」でなし崩しに強行される議決権力の、人民によって管理監視されない政策遂行仕組みが、この国をほぼ過半「非民主的」にしている実態において、人は知らぬ間に見知らぬ国の不思議な法体系のもとに誘われているということなのだ。
 人民が何事につけ右往左往している有様がこれを証明しているが、今次大震災という重大にして最適な契機を与えられながら、すでに一周年という時間的括りで心理的に遠ざかった過去として扱われている現状からは、「笛吹けど踊らない」日本国為政者権力者たちの保守停滞主義(概して利権既得権に傾斜している)に対し、絶望的にならざるを得ない我々自身を発見するばかりだ。
 何故この国の保守主義というものは、日本では本質的に破壊されるべき思潮といえるか。
 遡れば明治維新において、歴史的に改変された「近代化」という評価が、根本的な意味での妥当性を欠く跡付けになっている維新後のこの国の歩みから、日本の「近代」及び「現代」は絶えず本質的検証に晒されずに済む実質にはないという見解だ。「
 「千年革命」は毛思想の根幹だが、日本国の国情に最も相応しい理念に違いなく、日本では「保守」すべき価値は純粋には検証されたためしがないのであり、そのことが「王政復古」以来の近代日本の混濁した諸断面を形成したのだった。
 歴史のダイナミズムからすれば振幅ある揺動ともみえるがそれほど見事ではない。日本の保守主義は筋書き上は伝統主義という風にいえようが、実際はそうではなくわかりやすく言えば天皇制立憲君主国体の護持という意味になる。
 この保守目的実体は一体人民の誰に支持されたのかわからない。しかも人民は確実に盲目的にその体制下に組み込まれている。もし保守すべき価値があるなら日本国憲法以外はない。しかも憲法の中の象徴天皇については削除すべきというしかない。但し、民俗学的検証において「天皇と民衆」の観点から学術的に立証される「天皇」愛好、愛惜、についてはなんら情念的忌避などありえようもなく、むしろひとつの無目的化された存在承認という法定化において肯定又は否定されるべきものだと思われる。つまり憲法上の「天皇」については別に明確な注釈をもって峻別しておく必要があるということだ。(中断)

詩351 再び「現代日本」 3

2012年03月09日 10時48分22秒 | 政治論
 「日米安全保障条約」は全文10項目の条文を掲げた日米間の協定となっている。(ここでも憲法9条のように曖昧な解釈を取り外すなら)第一条で集団的個別的自衛権を確認することになっているが、自衛権の中身については何一つ註釈していない。従って第三条にあるように各国憲法遵守の条件で「武力攻撃」対抗手段を取捨するとなっているのだから、日本国は9条に則りこうした「武力攻撃」に対しても「無抵抗」であり続けなければならず、かつアメリカも自国の憲法どおり、連邦議会の承認なしには一切の「武力による反撃」ができない仕組みになっているわけだ。
 第5条では、日本で戦時的脅威が発生しても日本の憲法により宣戦することができないが、アメリカもまた日本の事情とは別にアメリカ自身の事情と憲法、議会承認なしには一切反撃的行為には移行できない縛りがある。
 第6条では、所謂在日米軍基地への不動産提供を日本国に義務付けているが、ここには戦勝国特権がものの見事に組み込まれ現在基地周辺で頻発する基地公害ないし米兵犯罪への治外法権的「地位協定」矛盾を醸している。
 そして第10条でこの条約がいつでも一方的通告により破棄できることをうたっている。
 まず単純な現実的解析をすると、アメリカ軍は日本がいかなる戦線的危機に陥ってもただちに危機の排除のために行動することはない。というよりできない。それがアメリカという国の軍事行動への法的制限措置なので、米国の熱狂的親日国民でもない限り日本が北朝鮮からテポドンをぶち込まれてもアメリカ軍は、日本を守護するためだけでは手出しができない。つまりアメリカ軍は日本国民を武力攻撃からただちに無条件で守護する手はずにはなっていないということだ。
 日本国民が悲惨な戦争惨禍に叩き込まれているとき、自衛隊は反撃手段を行使できないし、アメリカは、自国の、時間のかかる手続きと承認を経なければ絶対に出動することはない。
 日本人の多くは、安保条約によりアメリカに守られていると錯覚しているが(核の傘幻想もそうだが)、安保は日本国民など少しも守ってはいないのが実際の話なので、何故この事実に対し無関心なのに安保堅持を叫ぶのか全く筋が通らない。
 およそあらゆる軍事同盟がどちらか一方の裏切りを呼ぶ歴史だったことから推測するに、「同盟軍」という、「味方」を求める心理傾向が相手への盲目的依存性から発するように感得されるということだ。
 日本の場合、敗戦国としての全面的な「敗北者負い目」がそうさせていると想像するが、戦後66年経過してすらこの負い目から自立再生できない精神はやはりどうみても12歳の精神年齢で留まっているとしかいえない。
 で、何故沖縄が現行米軍基地集中実態を怒っているかだが、本土が、激しい反対運動の末追い出した海兵隊を、同じ日本の沖縄が無条件で引き受ける、いかなる理由もないのにかかわらず押し付けた、本土の不作為な思潮全般が、本来的な無責任体質を露骨に示しているという残念な本土エゴイズムとして、沖縄県民の神経を逆撫でしているということだ。
 つまりここにある本質的「沖縄差別」につき、とりわけ為政者たちにおいて意識改善してもらわないと、「国連人種差別委員会」の勧告も当然という実態が永久持続されるのだ。
 いずれにしても、国民的視点からは日米安保の無効性についての認識改善、一方、しからば自分や家族を外敵の侵入から守るにはどうすればいいのか、についての決断を含んだ真剣な再考が求められ、この国の為政者に根強くある、利権既得権含みの日米同盟幻想に対する国民的忌避表明、あるいは思いやり予算、地位協定、基地公害、米兵犯罪などに対する断固たる反対対決意思の表明、など、精神年齢12歳環境からの脱却が最も喫緊の課題なのです。こんなわかりきったことにさえ日本人は、ここまでいじましい愚昧な解釈主義で、その場しのぎの欺瞞的やり過ごしを続けている。(中断)