沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩358 雑感4

2012年06月28日 08時07分37秒 | 政治論
 現在、この国の薄気味の悪い傾向が徐々にはっきりしてくる感じがあり、これが、マニフェスト破棄、公約破りの民主党政権による「政権交代劇」の、2年余りの余韻に否応なく飲み込まれた人民をある錯覚をに誘うのだが、事実はここにある不吉な予感は、時代が逆行する威勢に気圧されて、はしなくも実感的孤立を体験しているにすぎず、政権交代以前のどこかの時空に、もう一度国が漂い始めたとも言えるし、あるいは戦後日本が、様々な意匠を凝らして一定の成長を遂げ始めた、「再軍備」「核武装」「憲法改悪」路線が徐々に法的押し込み手法を行使して、その醜い顔をさらけ出してきたということでもある。
 我々は、この国の民主政治の明らかな崩壊実態を十分に認識し、民主的方法での民衆行動がとうとう恐るべき限界に来たことを悟らねばならない。
 議会制民主主義の基本たる「数の論理」を、如何に民意に即した公平性で担保させるかが問われる。事実上、草の根的に報復的既存権威破壊活動の実戦的考察が始められ、私家兵養成自衛軍組織化を具体化すべき地点に差し掛かっている。
 アメリカは、沖縄普天間に殺人機オスプレイ配備をこの29日日本政府に通告する。静かにこの事態を眺めると、これは沖縄にとって市民への宣戦布告ととっていい話だ。しかも訓練飛行経路のいくつもの筋道が、日本国中いたるところに張り巡らされた、事実上の日本占領事態にほかならない。
 しかしいつも思うが、石原とか橋下なんぞがなんでこういう場合声を上げないのか不思議でならない。あいつらがいかに理念なき政治家かがわかろうというものだ。ファッションとしての政治、糞くらえ。
 沖縄は絶望的な民主的全県的拒否声明をあらゆる議会において発し続けているが、これらを無視して国がアメリカのいうままに配備にゴーサインを与えたなら、この政府についてはその転覆を企図する以外に道はない。民意に乖離する汚い政治がまかり通る以上、公職選挙の本質的でたらめさはすでに明らかであり、一部の富裕層財閥にしか流れない国富を人民の手に奪い取るには、有名無実化した嘘の民主的手法では埒があかないということだ。(中断)

詩357 慰霊

2012年06月24日 09時26分24秒 | 政治論
 この6月23日土曜日は、決してまともな「慰霊」の日なんかではない。沖縄の英霊、殺された多くの無辜の民は、草葉の陰で烈しく抗議されておられるに違いない。野田首相の無味乾燥な弁舌を避けるには、沖縄では慰霊の日は、新たな別の日にしなければならない。「組織的な沖縄戦終結」、なんてものは沖縄県民にとってなんの意味もない文言であり、沖縄戦という括りも果てしなく不毛なものなのだ。
 「基地のない島」を望んだ県民に日米政府が返したのは、県土のうち本島の20%弱に居座り続ける「日米安保」の植民地支配条文適用基地であり、独立民主国家が許容するには極度に偏頗な差別的不公平措置(日本国土展開米軍基地の74%)であり、憲法9条に違背する実質の「戦闘的状態継続」実態そのものであったし、有り続けている。
 つまり「沖縄戦」という括りなら、現在もこれからもそれは形を変えて続いているということなのだ。
 いずれにしても、ご都合主義の国家の思惑に同調を許さないために、沖縄県としては条例で別の、最も慰霊に相応しい時間を選択する必要がある。慰霊に平和の礎を訪れる遺族の方々は口を揃えて「戦争は続いている(敵だった米軍が目の前で戦争準備訓練をしているのだから)」と言われるのに、どうして旧日本軍参謀の牛島や長が自決した日を慰霊の日にする謂れがあろうか。
 そしてこの種の記念日がややもすると一日だけの打ち上げ花火にならないためには、現在沖縄が抱え込まされている基地公害撲滅キャンペーンの同日決起大会開催が望ましい。
 この日は、慰霊の儀式的形式的執行がメインでなく、真の慰霊とは何かを「胸に手を当てて」感じ入る日でなければならない。非戦の思いがもどかしく地団駄踏むものならば事あるごとに意思表示しなければならない。
 この日本という国は、己の「過ち」を熟議省察内省を尽くして反省する精神的労働をいつの間にかサボタージュし、「事後責任」の追及を全然あいまいにし、「居直り強盗」まがいに開き直った不条理な主張がまかり通る情けない国なのだ。
 見よ、フクシマを廃墟にしつつある原子力平和利用施設とやらを、ゴリ押しに多くの財政難の僻地に増設し、「反省」も「自己処決」もしない「ムラ」の住人どもが再び息を吹き返し、国の理念なき政治家どもを誑し込んで再稼働と言い放った。そういう国だ。(中断)

詩356 雑感3

2012年06月21日 16時51分22秒 | 政治論
 機械的非人間的、功利的能率主義的、事務的簡略的手法こそ霞ヶ関官僚の真骨頂なわけで、現在この国は、民主政権の当座のマニフェストが一切骨抜きにされている状況で、「官僚主導」の、至極当たり前な傾向を示しているというに過ぎないことは、子供にでもわかることだ。
 歯止めのきかない堕落する政権の、速やかな撤退を望むのは当然のことだが、さてその先に何が待っているのか想像すらできないという、こうしたにっちもさっちもいかない袋小路を体験しているのが、今の人民の精神的様態(時代閉塞の現状か)で、消費増税も原発再稼働も、ある意味この国の頂上作戦そのものだということだ。
 この政治的格差(代議制の重大な欠陥 民意からの異常な乖離)というものは、どちらかと言えば、この国が従来からもち来っている「無責任体質」から発した(一国家首長が、引き続き蔓延する放射能脅威の責任を、今更どうとるというのかい)のだが、さてこの「無責任性」というものが、歴史的には「天皇制」乃至「天皇温存」の国策、乃至国体観念基礎となっている、古来からの、自己批判されたことのない宗教的心情雰囲気から生じたのだとはいえ、この不合理性にあって、近代日本がいかに国家的個人的にこれを論理的に消化処理したかといえば、少なくとも大戦の敗戦によって自然消滅的に、個人のうちでは「宗教的心情雰囲気」からの脱皮を成就した、と思われるいくつかの断面を垣間見ることができる。
 にもかかわらず、戦後直ちに、とりわけ極東裁判での「天皇不訴追」に関する政治的解決の末に、新憲法にあっては「象徴天皇」がまことしやかにでっちあげられた。この瞬間この国は、戦後日本の歩みにあって熟議を尽くさずに見切りで発進するという端緒を、半ば仕方なく(GHQ主導なので)つけてしまったということになる。
 東條以下7名の絞首刑処決によって、大日本帝国の維新以来の功罪は極めて単純な、連合国的「復讐裁判情緒」により粗っぽく結論付られ決着させられ、「戦争責任」の真の意味の検証はこの国の根幹から消えてなくなった。
 今次あってはならない原発事故の責任追及が一切なされてないのは、こうした戦後日本の「無責任体質」を形成した、日本人自身による真剣な「戦争責任追及」がなされずに終わったあの端緒から発している。
 しかも日本史上、いくつかの局面で立ち現れた多くの為政者にみられる「無責任体質」は、どうやらこの国の伝統的本質とでもいうべき様相を呈している。
 朝鮮半島帰化人に端を発するらしい天皇氏族のヤマト凌駕?は、さながらこの国が古来外国人によって支配される実質を有していたことを証明するかのようだ。
 日本人が唯一天皇氏族を斥けた(陽尊陰卑)江戸幕府でさえ「征夷大将軍」のことはもとより、幕末開国期に際しては、京都の朝廷にお伺いを立てなければならなかったのだ。
 「王政復古」がこの国の近代化の夜明けにまさに発せられた。こんな近代化が世界史にあるのだろうか。さながら「フクシマ」が今まさに危機真っ只中にあるのに「原発再稼働」を断行しようというに似ている。その奇妙な自家撞着は狂気じみて目がくらむ。(中断)

詩355 雑感2  

2012年06月16日 16時31分44秒 | 政治論
 オスプレイは案の定またもや墜落し、これの配備がまさしく殺人予定行為であることを世界中に証明したのに拘らず、日本政府は「配備計画」中止の要請すらしようとはしてない。つまりこれは、沖縄県民の生命の危険よりも日米安保に基づくアメリカの日本国内軍事展開を優先するという意味以外に、人道的理念を初めから有しないこの国の精神的欠陥をあからさまにしているということであり、更にはとりわけマスコミマスメデアのこれに対する報道姿勢に現れた決定的な「対岸の火事」的心理傾向が意味する、「本土」の日本人の、自然な精神的性状を損なうエゴイズム病弊をも露に示している。
 もしもこの危険きわまりない殺人兵器を、それでも強行に実際普天間配備しようというなら、アメリカの精神的世界性は歴史的に完全に潰えたのであり、普遍的見地からアメリカの限りない人道的犯罪性を告発して臆するものではない。
 沖縄は、沖縄島嶼からの米軍撤退以外、安易な妥協的解決を望んではならない。勿論自衛隊展開など到底有り得ない。
 島津侵攻・琉球処分以来、独立文化圏侵害事実は客観的な歴史的真実であり、沖縄戦と昭和天皇メッセージこそは、この島嶼に対して日本本土の日本人が「植民地」政策を実践し、かつ沖縄身分を永久的にアメリカの自由裁量に投げ打った根源そのものだった。
 もし彼ら日本政府が沖縄を本土並みに意識するなら、あるいは沖縄県民を本土の日本人並みに日本人として考慮する気なら、これほどに不公平な事態を招来することは無かったのである。つまりは、もし日本国民が沖縄県と沖縄県民を自国の国民として正当に待遇しようという意思を意識的に明確にするならば、日米安全保障条約の破棄以外いかなる手段も有効でないと了解せざるを得まい。
 どうみても自分の住むところに米軍基地があることを、嬉々として歓迎する自治体はないという事実がこれを指し示めしている。原発再稼働は、地元自治体の容認決議という局面を迎え、この問題がこの地元の経済事情のみによって展開するものでないことを改めて浮き彫りにする。同様にこの問題が、一電力会社の企業存続をもって根本的に論う電力危機に局限される問題では毛頭なく、今後の世界の市民が背負わねばならない高レベル放射性廃棄物による、死活に直結する世界的環境汚染と、いかに対峙し何をなすべきかを問うているわけだ。
 官僚主導の野田政権は予定通り再稼働に踏み切るだろう。それが現今最も事務的効率的簡便な国策だからだ。官僚支配の国政にあっては一切そのように推移するだろう。かかる事態は政権への不信任案を実効的に突きつける画策により、彼らをその政権の座から引きずり下ろすことでしか解消できず、解散総選挙を早い段階で可能にしなければならない。(中断)

詩354 雑感1

2012年06月12日 08時29分07秒 | 政治論
 死に至る病としての「絶望」を、「人類滅亡」や「日本沈没」に当てはめる理由はないので、逆にこれにかかる「絶望」の軽さをどうにも扱いかねるという、例えば国に容れられぬ屈原が洞庭湖に投身する運命的な境遇など、はなから持ち合わせてないし、国のありように絶望してもおのれの命は永らえて愧じない。
 仕舞いにはあらゆることを、感情を度外視して許容する驚嘆すべき心境に達すると言うことか(殆ど死人同然だ)。
 6月10日には県議会議員選挙がまずあり(すでに野田政権が大いに期待した仲井真県政における懐柔手段は潰えたさあ)、次いで17日宜野湾「オスプレイ配備反対集会」があり、23日には「慰霊の日」が控えている(この日にオスプレイ要請を沖縄県に対しするという報道は県民の逆鱗に触れている)。
 例によって人道に反する、危険な軍用機配備を強行したい日米政府は、非戦意思に集結する沖縄県民のことなど「知ったことじゃない」(民主主義などくそ食らえ)ので、「万難を排して」(人民を蹴散らして)殺人部隊(海兵隊)のための輸送手段を確保しようという、狂気じみた軍拡、戦争礼賛、再軍備核武装、憲法改悪路線をマッシグラにひた走る、国家的逆上行軍を現実のものにしようとしている。
 彼らには最早なんの政治理念もないので、沖縄県にとって紛うことない決定的な敵と化した。それで先ずは「辺野古」固執を打ち砕き、あらゆる「懐柔策」を無効にし、「頭越し」の日米政府による植民地政策に対し、「世界性」の検証を通じこれを断罪し、「死ね」という至上命令を発する、「本土」の軍国主義者ないしアメリカお追従連中ないし安保マフィアどもには、「おまえたちこそ死ね」といってやりましょうて。
 これは同時に原発再稼動推進論者どもにもいってやりたいが、「本土」の無責任で不甲斐ない指導者どもの修正主義によって、一切骨抜きになった脱原発理念からすれば、「普天間」同様の経緯を辿ると想像され、まことにやりきれないものがある。
 この国もここまで堕落したかと、例えば京都や大阪の無差別殺傷事件と同列の次元で眺めざるを得ない、この絶望感を如何ともしがたい。
 マスメデアマスコミは「オウム」実行犯捜索を興味本位で追っかけし、「オウム」事件が抱えているこの国の精神的な問題性を検証することには、なんらの手がかりも見出せず、多発する個人的「テロ」の因源も探ろうとせず、一般的市民生活がおかれた危機状況に思いをはせることもなく、呆然と眺めるだけに終わっている。欠けているのは個々人の倫理的な自律性だと思われるが、いっかな「コミュニズム対カソリズム」の対立軸を消失した時点で、こんにちのていたらくは予定されていたとしか言いようがない。
 かの対立軸はつまりは一極支配の偏頗性を、途中の過程で是正する効果を有していたのであり、その功罪はこんにちのように、原子力政策にあって客観性を担保する厳正な基準を喪失した、「ムラ」支配構造から生じている「悪徳」横行現象にも端的に現れている。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 9

2012年06月08日 09時23分26秒 | 政治論
 政権がらみの潰し合い、政局を軸とする一切の政争、を度外視して、現今国政はじめ一般に政界といわれる奇妙な海域を望見すると、そこには荒海に漂流し溺れ始めている「人民」のことはそっちのけで、己の乗船する豪華客船が氷山にぶち当たって周章狼狽、右往左往する政治家連中という構図が眺望される。
 彼らは「沈没危機」にある日本列島という船のことを余り良く判っていないらしく、熟議より結論を優先した国家施策を「馬鹿の一つ覚え」に繰り返すのみで、一向に事態打開に至らない実態に関してなんの方策も打ち出そうとしない。
 つまり彼ら自身が政争政局の泥海に溺れている事に気がついていないのだから確かに「人民」のことをそっちのけにする理由はあるわけだ。
 こうした醜悪な政界のありようはなにも今に始まったことではない。従って、今更論うことでもなく、55年体制と派生したその亜流が、人々に毛嫌いされて政権を希望的に交代させたもののなんらの革新的な発展もなく、見る見るうちに元の木阿弥に沈んでいくという、絶望的な状況に今あることをよくよく認識しておく必要がある。
 元の木阿弥、つまりは官僚主導の事務的・保守的・機械的・民的・非理念的政治に堕するということで、この本質においてジャーナリズム、マスコミ、マスメデア、識者、学者、論者は「明日への考察」を踏まえた「時代閉塞」現状改善のアイデアをひねり出すことだ。
 どうせろくな脳髄機能は期待できないが、いやしくもそれで飯を食らっている以上それなりの労働はしてもらわないと。この国のていたらくは半分以上文民統制力の欠如に拠っている。現状改変の「マニフェスト」の全てを現状維持または逆行へ放擲したこの政権を一刀両断しないような文民などなくてよい。
 世界一危険な普天間に、いつ墜落するかわからないポンコツ軍用機をわざわざ配備しようという日米政府の、底知れぬ理念的犯罪的下劣さに対し怒り心頭に発しない「本土」のノータリンどもに鉄槌を。
 馬鹿で間口の狭い、思慮が不足する財界とその傀儡政府が打ち出す「人類滅亡手段」の、懲りもしない「再稼動」画策に対し、一体誰が手りゅう弾をぶつけてくれるのか。
 おそらくは世界的に原発推進の先頭を切るアメリカが、こいつらに密かな誘導流を流し込んでいるのだが、アメリカは、自身のこうした「世界性」からの陥落実情につき「哲学」的「倫理」的に内省する精神的空間そのものを喪失したのであり、彼らの「自由主義」や「民主主義」が、なし崩しの放縦と発展進化のない「停滞主義」的な自堕落におちたと考えざるを得ない。日本は...日本はもうだめだ。(中断)

詩353 沖縄から見た日本という国 8

2012年06月04日 14時23分00秒 | 政治論
 原発再稼動もそうだが、世界一危険な基地(とアメリカ自身が言っている)故に多くの米軍基地の中から真っ先に撤去しようという普天間飛行場に、最も問題視され、予測不能の墜落危険性を帯びたオスプレイを配備しようというアメリカとこの国は、まことに国家エゴにとりつかれた恐るべき人民殺戮予定国家というべきであろう。
 しかも、「県民の理解」という偽善的言辞によって、空疎な理念的アリバイをでっちあげ、どこまでも人民を脅迫的に攻撃してやまないのだから、これに対するテロは誰が見ても正当防衛だということがわかろうというものだ。
 ブッシュの9.11がアメリカの軍産複合の国家エゴ(テロ報復戦争)に発したことは今や明白になっているが、にもかかわらずアメリカの一極集権世界帝国主義は(その財政難にかかわらず)未だに頗る健在というわけで、人民は自己防衛の手段として体を張った「座り込み」はじめ人民抗議集会、デモ、など専ら「非暴力不服従」行動を通してしかこれ(自己防衛)を可能にはできないが、こうした、アメリカと追随者の所業を目の当たりにすると、国家対人民の対立軸においてテロへの誘惑はいや増しに増大するものと見なければなるまい。
 現今米中対決状況と米ソの冷戦を比較すると、そこに明白な歴史的質的相違が見て取れようが、軍事的には西太平洋の制海権が争われるという、大国同士の牽制駆け引き軍拡といった一種の緊張状態にあること自体にはなんの変更もないということになろう。
 しかも迷惑するのはどうみてもこいつらの周辺国であり、その人民にほかならない。負け犬が尻尾を振った実質の戦後日米関係が、いかに功利的基準を喧伝しても、所詮追随傀儡的国家政府の「日米同盟堅持」姿勢が人民生活に齎す深甚な屈辱的現状に対し、到底許容できない精神状況にあることは沖縄の実情にあって端的に現れているし、沖縄の人民闘争が「日本人」として当然の、正当な「抗議」であることは「本土の日本人」にあって忘れてならない真実である。
 安保体制の沖縄偏重、普天間撤去の理念的喪失状況、「日米地位協定」の治外法権的不平等性、自国基準の普遍的応用を実施しない米軍展開(基地公害の蔓延)、など、講和条約以降の戦後日米関係の中で、段階的に解消すべき人民的問題に60年間なんらの道筋も具体的進展も示さない日米政府に対し、沖縄人民が、卑劣な国家ぐるみ「差別」の態度を見るのは当然である。
 「本土の日本人」はこの事実をまじめに考慮しなければならない。何故彼ら「本土の日本人」は沖縄に対し冷淡であるか。蓋し、この無関心さは、戦災からの復興と高度な経済成長に成功したものの、日本人自身の精神的成長とはどこか通じない低劣にして下等な獣的な質において充足せんとする傾向、(まさにエコノミックアニマルといわれた内容の)他者を排した利己主義、に裏打ちされたものと思われる。
 昨今のいわゆる「孤立死」や「孤独死」、あるいは「集団いじめ」、またたらい回しにされて手遅れになる救急医療実態、企業倫理を欠いた意図的商品劣化、産地偽装、利潤第一主義、などには、現象としていつも、これまでにない人間的下劣さを連想させるものがあった。
 人間の営為が、途轍もない化け物じみた気配に襲われることは今更驚くにあたらない事なのだろうが、こうした事態について為政者が、あるいは文民が、なんらの異常性をも感じないで通過するということは、彼ら自身が異常だというしかないということになろう。一億総鈍感時代。(中断)