沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩541 状況 7

2014年06月30日 20時57分18秒 | 政治論

 1959年6月30日は、当時米国占領下にあった沖縄で、現在のうるま市(旧石川市)にある宮森小学校に嘉手納基地から飛来した米空軍ジェット戦闘機F100Dが墜落し、児童、住民ら18人が事故に巻き込まれ死んでいった日、である。操縦士1人は機外脱出して無事だった。賠償はすったもんだの末死亡者一人当たり4500ドル(被害者要求の1割、当時のレートで162万円か)、重傷者2300~5900ドルだったらしい。

 先ず驚くべきはこうした事故が沖縄でのその後の反基地思潮をいやでも促したのは当然としても、米国政府なり日本政府があのような些少な賠償で事足れりとしたこと、その後いよいよ益々居丈高に居座った彼等の倫理的な悪辣さがひしひしと伝わってきて殆ど呆然とするほどの厚かましさと感じないわけにはいかない、ということであろう。米国の一般的な国情なのか、日本的な在り様からは想像すらできない気組みとしか言いようもない。彼らは大体が不祥事に関し、喉元過ぎれば、の感覚でやり過ごしている。しかし歴史は正当にこれらを裁いて止まない。彼らがいかに言い抜けようとイラク戦争の大嘘はばれているし、普天間返還が新基地建設に化けたこともわかっている。

 こうした米国に追随するもの(日本政府)が、同じような厚かましさ、倫理性欠如状態にあることは既に明白である。彼らが今、辺野古崎の海でしようとしていることは、日米合意という名の住民抹殺、非戦の地に敢えて軍拡を決行しようという狂気、沖縄戦戦没者冒涜、そして現代琉球人に対する看過し得ない人間侮辱の行為にほかならない。(つづく)


詩541 状況 6

2014年06月30日 17時08分13秒 | 政治論

 抗しがたくジワリジワリと不透明な政治的課題が何の保証もなく、しかも明らかに国法に背いた内容で政府乃至政権力の行使により確定的に、我々の頭上高く打ち上げ花火を上げるような具合にして、国際社会に国民の意思と裏腹に提示されていく、というのが現安倍政権がしているヒトラーまがいの独裁的ファシズムの政策強行路線である。そこに民の姿はない。しかもこの国の選挙制度が醸し出しているのは政策論争ではなく選挙戦術にすぎず、いかに民を籠絡し、懐柔し、味方に引き込むかに一切の労力と金が使われる。それで結果的には単なる利欲の流れと化した塊が渦を巻くように集結して議席という城を攻略し、選挙戦術に長けた勢力の手に次々と陥落していく、というわけで、これが「必ずしも民意を代議しない」自民政権を形成しているのである。国法に背くという意味では、違憲とされている「一票の格差」も当然その中にある。我々は、こうした代議議員の実数より実質的にははるかに過半数を超える民意の声を、市民運動の中に聞いているのに、それらは殆どこの国の政策には反映されてないことを実感するのだが、琉球沖縄に「ちるだいするな」という語があるように、我々民はこうした事実に決して「がっかり」してはならず、落胆している暇はない、と思うべきだ。(つづく)


詩541 状況 5

2014年06月29日 10時02分10秒 | 政治論

 沖縄県名護市、本島東岸太平洋に面する辺野古崎。ここに日米政府は、住民そっちのけで彼ら上層部だけが合意した普天間飛行場の代替施設、という名の北部一帯一大軍事拠点を作ろうと、隣村国頭郡東村高江における、北部訓練場一部返還代替ヘリパッド建設と併行して、今7月にもその先鞭をつけるべく海底ボーリング調査の業務に邁進するため、国を挙げて民主的活動家の行動牽制のための警備保安体制を構築し、立ち入り制限区域を大幅に拡張して完全な締め出しにかかっている一方、当然にこれを越えようという活動に対して警察権力の有効性も視野に入れている。つまり寄ってたかって名護市民の意思を踏みにじろうという算段だ。繰り返せばこれは「国家対人民」の闘争であり、日米合作の戦争準備発進基地増設軍拡行為に対する、沖縄戦の悲惨な経験に基づく血肉化した非戦、反戦、反軍意思においてこれを拒絶する沖縄県民、名護市民、有志の、人間としての根底的な闘いである。

 沖縄に対する本質的な無理解、がこのような状況を作り出している。本土のどこそこであれば人々がこれだけ反対する土地に軍事基地をわざわざ持って来ようとするわけがない。一方、不可逆性に置かれている日米安保体制の現実的行使が如何にこの国の政治的環境を歪め捻じ曲げ不健全にしているかをも示している。安倍晋三のわけのわからないごり押しの自衛権容認政治闘争もこれによる。これらの結果が実際に大手を振って公然とまかり通るようになったなら、この国は最早終末的な、絶望的解体現象を招来するだけであろう。それはパニックにほかならず、人は価値観を挫折的に崩壊させ、生きる甲斐を失う。少なくとも自衛隊員は業務上生存権すら脅かされることになる。沖縄県民は現在も生存権脅威を被害的に環境づけられている。(つづく)

 


詩541 状況 4

2014年06月28日 14時06分11秒 | 政治論

 戦後における日本国で、代議制民主主義という政治理念の形骸化は今や目に余るものがある。というよりも安倍晋三のような理念性のない首相が牛耳る政府というものは、あのように危険な方向へ流れて行っても誰一人これを止められないという、奇天烈な制度的確定性が保守の牙城としてどこまでも君臨する、完全な反民主主義、独裁制として現象することを我々は今、目の当たりにしているのである。

 辺野古埋立許可を巡る安倍政権と仲井真知事の薄汚い裏工作は、ウチナンチュの心根をズタズタにした。同じウチナンチュの知事の裏切りはそのまま沖縄県民の心を真っ二つに引き裂いたのだった。彼がそれ(埋め立て承認)を躊躇わなかった理由は、安倍晋三の中に、彼の決定を「一国の首相」として引責する牽引力に満ちていた(勿論それは危険にして欺瞞的な幻想にすぎない)からであって、それ以上でも以下でもない。しかしどうあがいてみても県知事の裁可は事務的非人間的なだけにその影響は計り知れない。

 

 


詩541 状況 3

2014年06月27日 23時08分55秒 | 政治論

 沖縄地方は昨日で梅雨明け(平年より3日ほど遅い)し夏本番を迎えたが、既にここ数日で熱帯夜(25度以上)は始まっており、これ以降一日の気温の上下が5度程度(27度~32度)の、昼夜を問わない暑い日が半年ほど続くのである。一方水源ダムの貯水率は字義通りの梅雨のおかげでほぼ100%に達して暫くは渇水の危機を免れるようだ(とすれば雨台風はご遠慮願いたいところか)。沖縄の空は年間比率からいうと快晴の日は意外に少なく、やや雲の多い晴れた日に、様々な形状の雲の乱舞を見るのが特徴的な夏空らしい(勿論地平の彼方には所々に積乱雲がモクモクとその雄姿を見せつけている)。圧巻は白いころもを長く棚引かせるような巨大な積雲であろうか。積乱雲でなくこの雲は真夏の空にしばしば出現し、やがて静かに散っていく性質のもので、本土ではあまり見かけない。

 天皇夫婦は26日来県し糸満市平和祈念堂と国立沖縄戦没者墓苑を歴訪したあと27日には対馬丸記念館を訪問した。平成天皇は対馬丸事件当時自身が疎開経験を持つ同年代の小学生だったためかこの事件への思い入れが殊更強かったらしく今回の訪問となったらしい。彼が政治家でもなく憲法下の一般日本人でもなく、憲法上の統合の「象徴」である以上、我々は彼に人民向けの何物も期待できないことは仕方がない話ではある。だから話は俄然昭和天皇のことになるのだが、琉球沖縄の取り分け沖縄戦に関わる戦前戦後史を振り返るとき、明らかにそこに皇国皇土皇民の関係が浮き彫りになり、「聖戦」に純化した精神主義的軍国主義が幅を利かせ、神国日本不敗神話に裏打ちされた護国の鬼として一筋の殉国意思に貫かれる国民性が、専ら学校教育を通して否応なく形作られた。従って一億玉砕という「君の辺にこそ死なめ」のことが最大の、挙国一致アリバイの核だったことを忘れてはならない。「非国民」という誹りは日常的な縛りであり、国民=天皇の赤子、だから、この反語は即死刑に同じいし、「隣組」は相互監視体制にほかならず、一糸乱れぬ滅私奉公を求められていたのだった。このような精神状況で沖縄戦に放り込まれた一般の住民が、死地において逃げ惑う様は、幻想の神話に魂を打ち抜かれているだけに痛々しく、その無残な最期は我々の心臓を殊更に射抜くのである。

 ある対馬丸の生存者はこの日平成天皇来沖の会場にどうしても足を向けることはできなかった、という。その生々しい証言が示している過去に遡った遺恨が、現代琉球沖縄に最も正当に「非戦」「反戦」の意思を伝えようとしている。(つづく)

 


詩541 状況 2

2014年06月26日 22時15分48秒 | 政治論

 琉球沖縄にとって最悪の事態(辺野古埋立承認)とは、本土との確執という局面において(当然中心は辺野古の問題だが)、ウチナンチュの中の責任ある立場のウチナンチュ自身(県出身県知事仲井眞弘多)が本土のためだけにある(安保体制という)本土寄りの政治方針に加担するなんらかの法的決定を下すというときであろう。彼仲井真は元々辺野古移設を政治選択の一と位置付けていた。しかし民意の過半以上が明らかに辺野古移設に反対している状況で、前の政権交代後彼の言動からは県内移設の文言は消え、自民政権が返り咲いていてからもそれはずっと、あらゆる機会に「県外移設」という言辞で占められてきたのにかかわらず、民主政権の終末辺から自民政権に代わって以降極めて不自然にして底気味の悪い「密室会談」が政府高官首相たちとの間に持たれたのだが、その頃から徐々に不穏な空気感が齎され、例の年末の土壇場での「環境アセス書類」捩じ込み事件、更に翌年の「環境アセス補正書」投げ込みときて、一昨年末の「埋め立て許可申請書」捩じ込みで最終段階にいやでも突入してしまったのだった。この間この知事は、これらの非礼極まりない防衛局の行為の性格からしても、又当然その内容、質からしても、明らかに受付拒否、不受理扱いで突っぱねるべき案件だったにも拘らず、県民に向かっては「これは単なる事務的手続きである」から事務的に処理する、という姿勢を変えなかった。そこで県民は、県知事が最終的にこれらの申請を否定する政治的判断をするものと完全に思い込まされたのだ。琉球沖縄にとって最悪の事態がこうしてこのウチナンチュである知事の詐欺的裏切り行為(何のための詐欺なんだろう)によって齎された。県民は最早この知事がその椅子に坐していることを苦々しく思い、その責任の重大さに比して余りにも軽薄な、取り返しのつかない官僚的失政を易々とやってしまった県知事を今後歴史的なウチナンチュの恥とするであろう。(つづく)

 


詩541 状況

2014年06月26日 12時30分30秒 | 政治論

 今琉球沖縄で起こっていることの本質は本土にも通底している。この現象は、安倍政権下で生じている安倍晋三一流のやり方(独裁的強硬強行路線)から来ているばかりでなく、自民党保守停滞主義の最大の悪、不倫、放漫、自堕落、怠惰といった傾向の助長さえ顕著にみられることからも明瞭な、戦後日本の「民主制」が概ね米国追随の米国頼み(安保絶対主義)、つまり民離(民意離反)を敢えて問わない数の論理の横行からくる国と人民の乖離性を証明している。このことはかつてあの三島由紀夫も看破していたことであり、今更論うほどのこともないが、ここにきてこれが由々しい事態を醸し出してきたがために、マスコミマスメデアはじめ文民統制媒体としての言論の活発化が望まれるのである。(つづく)

 


詩540 認知症 2

2014年06月25日 09時15分58秒 | 政治論

 この国を捨てよ。

 数の論理でいかなる意見も排除して、国家主義の号令一下、安倍ファシスト政権は不気味な軍靴の音を響かせつつ秘密警察国家への階段を躊躇いもなく駆け上がろうとしている。偽りの民主制が優柔不断を託って「決められない政治」にうろうろしている間に、安倍晋三は様々な処世術を身に帯し籠絡、懐柔、口説き落としの殺し文句を縦横に駆使して、「決断する政治家」の面貌をチラチラさせながらその大祖父岸信介直伝の強硬路線をひた走ろうというのだ。仲井真沖縄県知事も公明党もかくして国民を裏切る内容で体制順応決死隊に参集し始めた。陸続とその後続隊は旭日旗の下に集い雄たけびを上げている。琉球沖縄のチュラ海を汚す米軍辺野古新基地建設命令下達、漁業権益を脅かし、ジュゴンの生活圏を侵食し、「民主」の声を封殺して「ガキ大将」並に大威張りで美酒美食を鱈腹満喫しながらこいつらはニタニタ戦争準備とアメリカお追従に勤しんでいる。(つづく)

 


詩540 認知症

2014年06月24日 09時55分13秒 | 政治論

 いかなる仕儀になろうとも、そこには「人間」はいない。それで四六時中「何なくなった、かになくなった」と騒ぐ。つまり、そこにあるのは「物質」であり、それは目に触れない限り「誰かに盗られた」としか考えられない。そこに「人間」は存在しないから、見失った、とか置き忘れたとかいうこと(ひとつの人間的な失策行為)に対する言及はその脳内には決して生じない。つまり自身も人間ではなくなっているのである。周辺はこの事態に直面してうろたえ消耗的なパニックに陥るが、実は何の意味もないから騒ぎであり、その事実に正確に気づくのは大変むつかしい。人間だからだ。この比較にならない軽重を量る天秤は、決して安定することはない。一方は物質の思いに我を忘れ、片方は人間的な不安感に苛まれ続ける。

 上記は認知症老人とその周辺の関係について述べたが、この琉球沖縄と本土、本土政府乃至米国政府、米軍との関係にも似たような半可通が存在していることを痛感する。それはまさしく半可通、一方通行、という有無言わさぬ問答無用の情け容赦ない非人間的な関係性の上にある。彼らにあるのは軍事であり、当然そこに人間はいない。オスプレイ配備反対座り込みをしているウチナンチュと機動隊の小競り合いを眺めてにやついている米兵歩哨は、どう見ても人間じゃない、一つの歯車、機械化した軍事物資にしか見えない。別に感傷的に言っているつもりはない。よくよく観察するとそういうことなのだ。人間が人間でなくなる軍隊という真空地帯には、その身分の上下に関わりなく「人間性」を排除する働きがある。そのことを「沖縄戦」で血をもって強制的に学ばされたウチナンチュが、この国の軍事的志向と真正面でつき合わされ、あらゆる機会に抗議反対の言論行動を展開しようというのは至極当然の話だが、これについてこの国の政府官僚戦後派政治家が見識ある理解力を示したことはただの一度もない。(つづく)

 


詩539 琉球の神々

2014年06月22日 20時14分03秒 | 政治論

 島袋源七「山原の土俗」

 島袋源七は1897年(明治30年)沖縄県国頭郡今帰仁(間切)村字勢理客(せりきゃく、じっちゃく)の生まれ。大正10年(1921年)折口信夫来沖の折り、国頭郡一帯の土地案内をしたという。この折口との邂逅に触発され彼はその後ヤンバルの民俗調査にのめり込む。翌大正11年、柳田国男主宰の南島談話会が創立され、折口信夫、伊波普猷、比嘉春潮、仲原善忠、金城朝永、宮良当壮、仲宗根政善らに混じて会員となり、あまたの親交知遇を享受した。大正14年「山原の土俗」を纏め上げ昭和4年に上梓した。亡くなったのは1953年である。この「山原の土俗」に「同教諭(島袋源七 当時小学教諭)の採訪録の解説として」「続琉球神道記」という序を記したのが、「私の国頭廻りに、引き廻しの労を取って下された島袋教諭の心根に酬ゆるため」と言ってこれを加えた折口信夫であった。続琉球神道記は折口の「琉球の宗教」を敷衍したものであろうか、当然にその内容の濃密さは瞠目に値する。

 「山原の土俗」に見える主に国頭郡在村字で行われる風習、神事、など、又使われる段取り、踊り、歌、御願形式、在村住人の在り様など、更に豊年祭で披露される芝居、琉舞、琉歌、口上、など、各字、地方によってその多様な形態、内容、趣向が垣間見られ、興趣をそそるものがある。読みごたえがあるがなかなかこれを理解し古来の神事に感情移入することはむつかしい。それにしても、琉球文化の奥深さには今更に降参せざるを得ないものがある。

 こうした信心の破壊的外来者というのは、琉神たちにはどのように見えているのだろうか?、と思ったりする。(つづく)

 

 


詩538 国家的暴政 3

2014年06月21日 13時30分18秒 | 政治論

 安倍晋三による翼賛体制は徐々にその正体を其処かしこに見せ始めている。安倍晋三は独裁的な傾向を有しており、ヒトラー並にこの国を牛耳ろうとしている。その第一は集団的自衛権行使容認に関する改憲アプローチ姿勢だが、彼は日米合作による軍事的(対外威圧)外交に軸足を置き、米国風軍産複合経済体制から繰り出す覇権的な国威発露方針のもと国際社会において「力」(専ら米国頼みの)による立ち位置の確保を目掛けている。彼が目指しているのは大日本帝国の復活であり、栄光ある皇国の再現にほかならない。つまり殖産興業(大企業優先、市場経済主義)、富国強兵(日米合同軍拡行為、軍需産業奨励...原発推進核兵器製造可能性の追求、武器輸出解禁)、欧化主義(対米全面追随)、といった傾向だ。

 一方、情報統制の嵐は報道管制(NHKメデアの人的支配、大新聞の政府容認姿勢助長策...対政府批判論調への骨抜き策)、文教政策上の地方自治侵害(竹富教委、県教委に対する弾圧)、など皇民化教育に助する多方面にわたる翼賛体制が浸透してきている。司法においても留まるを知らない権力的支配を強化してきている(高江スラップ裁判は最高裁で控訴棄却された)。国会は完全に数の論理で決定している(環境相の不信任案問責決議は否決された)し、三権は一権に集約しつつある。即ち安倍晋三独裁政権の完成に向かって国はあげて突き進んでいる。(つづく)

 


詩538 国家的暴政 2

2014年06月21日 09時07分07秒 | 政治論

 6月23日は琉球沖縄にとっては「慰霊の日」に当たり、県内各所でこれに関連した催事がある。この日は沖縄全戦没者追悼式が糸満市摩文仁平和祈念公園で行われるが、この日、本土からは安倍晋三、岸田文雄外務、小野寺五典防衛、田村憲久厚労、山本一太担当、ケネデイ駐日大使、らが出席するという。いかにもこぞって参加という大仰さだが当然中身は偽善である。とりわけケネデイなどはその後天皇夫妻に倣って「対馬丸記念館」も訪問するらしいが、いかにも取ってつけたような行動パターンには腹が立つ。少なくとも彼らが推し進めているのはこうした沖縄戦の教訓に基づいた非戦、反戦の意思確認どころかその真逆な新基地建設という馬鹿馬鹿しいほどの矛盾に満ちた行為なのであり、ジュゴンがどうの、環境がどうのと言って結局やっていることは「何者か」のためにしかたがないことだ、という容認行為のカモフラージュにすぎない。

 彼らがその腐った口で「平和」に関し発言するこの式典を琉球沖縄の県民は苦々しく眺めるに違いない。その欺瞞に満ちた薄汚い姿に嘔吐唾棄する県民も少なくないだろう。この国がこの地に対してしていることは明らかに日米合作の「イジメ」であり、彼らに威圧され委縮しないためにも、独立した琉球文化の華を碧空と大海原に向かって傲然と咲かせなければならない。(つづく)


詩538 国家的暴政

2014年06月21日 08時13分58秒 | 政治論

 辺野古の海岸に3715日(6月20日まで)継続的に設置されている辺野古移設反対抗議座り込み用テントが何者かによって手ひどく荒らされた、という。この沖縄らしからぬ不穏にして下劣な暴力行為は、この国の沖縄琉球に対する国家的暴政を象徴するかのような印象を与えているし、彼らのやっていることがこういう性格の、低劣な精神性に基づいている、という証しのようにさえ思われる。おまけに20日の日米合同委員会決議により大幅な制限水域拡大合意に至ったというから、その国家権力横暴事態は目に見えて激しさを増してきた。一方、オスプレイからの金属片落下、などという不祥事もあり、慰霊の日の県知事「平和宣言」文言から「県外移設」の文字が消え、いかにも埋め立て承認後のこの売県知事がしそうな、変節行為を裏付ける報道もされている。7月には海底ボーリング調査が開始され、高江ヘリパッド建設も再開する。この夏が琉球沖縄にとって文字通り酷暑になる気配が一段と濃厚になりつつある。「国家暴政対一般市民」という軸で前近代的民主運動局面が繰り広げられる。いつまでこの地は本土の「お坊ちゃま」たちのために、不愉快極まりない不当にして人権無視の犠牲的生活を強いられなければならないのか、移住者の一人としてまことに申し訳なく思う日々だ。(つづく)


詩537 認知症

2014年06月19日 10時09分58秒 | 政治論

 一見むしろかなりの程度で知的に、普通並に正常な反応を示す老人がいる。所謂ボケと呼ばれる、通常の知的反応の欠如、が殆ど見当たらない認知症というものもあるらしい。特異なケースと医師はいう。かつて、自分が頭に思ったことを現実のことと思い込み実行に移す行為を指して「気違い」と言ったものだが、老人性の狂気というのはそういう傾向のものを指すのであろうか。兼好法師の「あやしうこそ物狂おしけれ」とは、心に浮かんだよしなしごとをそこはかとなく書き作れば、から来た。老人の独り言はしばしば「狂気」じみて聞こえるが、要するに人間の心内の微妙な揺動というのは、それを表に出せばおよそこの世に相応しからざる様態を示す、ということであろう。人を見たら泥棒と思え、という俗諺は、大概人は、それほどお人好しでなくとも意外に簡単に人を信じてしまうものだ、という事実の裏返しにすぎない。だからこの俗諺は一種の際どい警告にほかならないのだが、老人の「物とられ妄想」はこれをあらゆる場合に当てはめて確信してしまう、というような病的なところに落ち込んで起こる。しかもそこには近親者、世話を受けている人、など、本来感謝こそすれ泥棒扱いなどとんでもないような人に限って、疑いの矛先を向けるという、「精神、性格の弱さ」からくる自己責任否定行為が垣間見られる。物とられ妄想は、明らかに記憶の欠落、記憶違い、からくる亡失事象への患者の対応の仕方が、自身の過失の無意識の否定と、近在他者仮託という精神の崩落によって決定してしまう心的状態のことであり、本人と近在他者の間に生じる軋轢が最大の問題点となる。(つづく)

 


詩536 国のあり方がわからない 4

2014年06月18日 14時22分51秒 | 政治論

 安倍晋三という、旧時代的跳ねっ返りが出てきたのは、この国の民主制が、本質的に理解されてない民主性に拠っているために、言わば猫も杓子も政治家になろうと思えばなれる、変な低レベルの環境性が支配的なせいではあるが、実を言えば政治の世界が明日をも知れぬ無法的泥沼にも拘らず、政治成果というのが誰の目にも明らかなものとして認識されるならば、これほど単純明快なものはないということだ。つまりそれが民主性である。

 民主性の反対命題こそ国家主義であり、国民国家という在り様は本来形容矛盾なものとしてしか認知されない。もし国民が国家と等式的にありうるとすればそれは全体主義以外にない。何故ならたった一人の独裁者が彼だけにしか通用しない思想のもとに教唆的にしろ自己主張した場合、彼はさながらルイ14世のように単独で国家と等価な存在として自己披瀝するだろうから。当然に彼は秘密警察を暗躍させ反対派を徹底的に弾圧するだろう。それはいわば、自身の中の悪弊と認識した異質な部分の断種にすぎない。それを断ち切ったところで残りは決してそのために死滅することはない。外科手術上の部分摘出である。ここでは人間的尊厳という感覚意識は度外視されているのだが、これを許すのは、全て人事に関しては統計学に究極し、これが機械的に事務的に命令下達される国家体制の軸として機能するからだ。そこに「人間」は存在せず、する必要もない。これが全体主義の正体である。従って国民国家という全体主義は、真に民主性を排除するだけの非人間的な機械化社会を実行すること以外ではない。その余があるとすれば安倍晋三の軍事的外交方針の確定化であり、ヒトラー並の第3世界制覇主義だ。

 未だかつて民主的な政治などという政治は行われたためしがない。我々は政治成果としてしか政治の局面に立ち会ってはいない。議会は議員が勝手にやっているだけで、国民は何時もツンボ桟敷に置かれている。信任が背任される連続である沖縄県の場合、議会制民主主義は破綻しているということだ。(つづく)