沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩323 その9

2011年05月28日 10時52分40秒 | 政治論
 アメリカ始めヨーロッパ(特に原発推進国フランス)に重心を置く日本の宰相菅直人は、自国の民が塗炭の苦痛に陥れられている原発を今後も活用すると言明した。すでにドイツのメルケル首相は今後10年内の国内原発稼動停止提案に賛成し廃止時期を具体的に設定するとしている。言い方一つで日本とドイツは方向性につき真逆の見解を示している。つまり国民国内向けの発信という立ち位置の相違がこの二国で歴然としている。勿論メルケル氏は国内国民向けに発信したのだが同時に世界に向けても脱原発を宣言したのである。一方菅内閣総理大臣は今まさに放射能脅威に曝されている自国の国民にけつを向けアメリカヨーロッパの覇権国家、大戦戦勝連合国に尻尾を振って脱原発さえ声高に宣言する勇気を持たないわけだ。この、日本の為政者の腰抜け加減はまことに日本の青少年に悪影響を及ぼすであろう。校庭で砂まみれで遊ぶことさえできないでいる子供たちに日本の総理大臣は「原発なしではやっていけないので我慢してくれ」といっているのだ。しかも小出氏に言わせれば原発にまつわるあらゆる偽情報によって刷り込まれた原発必要性の嘘ははっきりしている。政財官学の悪と欲の連携がこの国の原発政策を決定してきた。かかる事実関係に多くの識者は十分な証明材料を用意しているだろう。何故日本の政治家は何者かに依存して「良識ある判断」「苦渋の選択」「バランスある解決策」などと言い訳するのか。何の得があるのか。君が思い込んでいる「歴史が証明する」は、天才やずば抜けた才能にのみ適用される「評価」実態にほかならないのだが、(ゴッホはその死後にようやく世界化した)生憎政治家はそういう才能を必要としない唯一の分野である。思い上がるのもいい加減にしたほうがよい。「最少不幸」という言葉は誤解されやすい。福島県民は日本人のなかの最少部分だといっているのと同じだ。この国の首相は「フクシマ」を瑣末な事件と評価したのだ。事ほどさように「ヒロシマ」もたかだか地方の一都市にすぎないという評価になり普天間も同断である。ところが日本国はその一地方都市から成り立っているのであり、地方分権は今や時代の趨勢としてこの国を構造的に変えようという動きを産んでいる。だから少なくとも公人である君たちはおのれの発する言葉に重大な意味が付加されることを考慮しなければならない。といっても理科系政治家の文科系音痴は救いようがないので、せめて官房長官あたりが補佐機能を発揮しなけりゃならないのだが、如何せん党利党略にしか機能しないやからが牛耳っているこの国はどうしようもない。つまりは政治的絶望に落ち込むばかりだ。

詩323 その8

2011年05月27日 00時48分16秒 | 政治論
 相変わらず普天間を巡って魑魅魍魎が日米で右往左往している当の沖縄では、いつになく几帳面にして時節どおりの梅雨空がいつ晴れるともなく続いているが、この国のふざけた民衆不在の保守停滞主義(そんな主義があってたまるか!!)のおかげで、いつ果てるともない爆音と米兵犯罪連鎖(地位協定からくる免罪性)、為政者の対米追随依存体質により運命的に「日本(ヤマトウ)捕囚」境遇から脱出できずにいる。しかしながらエジプトでもバビロンでもない他ならぬ自己領域琉球の地にある沖縄が、なんで彼らに牛耳られねばならぬのか合理性を見出せない。アメリカに尻尾を振る日本(ヤマトウ)政府が日本国で唯一さほどの心情的気兼ねなしに、アメリカの意向どおりにおのれの国土を譲渡して顧みないで済むという怯惰で安穏な思考回路に立っているからだ。この情けない実情には本土からの移住者である彼も一人の同胞としてまことに申し訳なく沖縄が今の境遇から脱出することを心から願わずにいない。メアのいう辺野古拒否に伴う普天間自然固定化、という愚劣な反人道的政治停滞事態こそ、為政者の沖縄に対する人間的卑劣さに基づく蔑視行為と断じなければならない。アメリカはかつてのベトナム並みに、ひとつの民族、ひとつの人民的怒り、ひとつの民衆の声をこのたびも強圧と支配者精神と征服意欲によっておしつぶそうと、無数の無差別な姿なきナパ-ム弾爆撃を繰り返しているが、粘り強い辺野古の抵抗には未だにてこずって一歩も先に進めないという現状だ。しかもアメリカは、「普天間は日本の国内問題」といいながら結局自国の財政逼迫という事情から日本政府に対し「ユスリタカリ」的経済負担を臆面もなく要求しやがる。こういう外交的三等国をさも世界スタンダードであるかのように扱う現代世界のあきれ果てた不当性はまちがいなく「神」の怒りを呼ばずにいまい。しかも残念なことに自然治癒力という荒療治はいつも最弱な民衆部分に襲いかかり、あってはならない悲惨な痛苦のドン底に叩き落す。まさに国の落ち度は国民を直撃するということだ。だからこそ為政者は偽善的に渋面を作って内容のない責任論を隠れ蓑に己が失政をカモフラージュしのうのうと権力の座に居座ることの犯罪性に想到しなければならないのだが、如何せん奇妙な選良意識に人生を凌駕された女々しくもけち臭い「優等生」たちはなんらの痛痒もこれを感じないときた。(中断)

詩323 その7

2011年05月24日 09時51分56秒 | 政治論
 石川最高顧問の言を一々論う事もない。彼は様々な顔を小出しにして周りを煙に巻くという性格らしい。彼に根本で欠けているのは小出氏のような愚直さで、実に世故に長けた老獪な人間とみた。但し偽善者ではない。総じて今やあらゆる核関係者の言うことは信用ならない。むしろ「放射能は全て危険だ、少なければ少ないほどいい」という学者の見解が最も意に沿う。たとえそれが過大評価だとしてもだ。基本的には国民と福島県民は切実に理解している。「短期的不安感と長期的絶望感」「今は取り敢えず早期収束を願って此処にとどまるが、今後についてはどの道死を、死に至る浸潤を甘受するしかない。どうせ、この先生きても数十年だし」と。どう転んでも原発事故は福島県民を、やらなくともよかった文明的進歩の巨大な犠牲者にしたのは間違いない。しかしまたこの国が国として選んだ戦後の歩みの中で、国自身がこの災厄を招いたのだし、その国の国民である以上その恩恵なり福利なりを黙認に近い実質で享受した日本人は「自業自得」と貶されてもまずはしかたがないということだ。これを酷と取るか是とするかは己自身に問うしかあるまい。明らかにこの大震災で国は国民向けに大したことができないということを知ってしまったし、校庭表土除去のように自己判断で自腹で自分を守る手立てを講じなければ結局ジワジワと絞め殺されるのがオチだということがわかってきたので、こうした地域的塊りから民衆の地力を培うように行き、逆に政治をリストラするという方向に向かうことだ。「革命」が無理なら「リストラ」だ。多分明治維新よりはるかに「革命」的だ。(中断)

詩323 その6

2011年05月22日 15時28分38秒 | 政治論
 実権の有無にかかわらず古来絶えることなく永続している天皇と皇室、この不可触の「超越的」存在に対し一般的汎神論的信仰心を有しているかのような国民としての位置づけ、及びおよそ国家的重大事に瀕して機能を止める為政者像、歴史は大方この三すくみで経過したが「位置づけ」などというくだらない定義はともかく国民は国民としてしかなかったし、国家はしばしば国民から遊離して架空の悲喜劇に血道をあげるという過誤において国民を大概悲劇の渦に巻き込んだ。この国の実相は、政治家の精神構造の中の依頼心による、外存在への「仮託」傾向からくる重大事に際しての機能不全、という結果においてしか、たち現れない、ということは、国民が政治に絶望し、しかたなくアメリカの煎じた「自由民主主義」という番茶を鵜呑みにしつつ自己の生活を自己流に組み立てなおすという、面倒くさい奇妙な煩瑣な手続き社会に辛うじて息をついているということだ。誰が主人かわかりゃあしない。「まつりごと」というくらいだから政治家とは担がれた神輿ということなのだろう。つまり国民の本音は政治家の代議士の政治的レベルの高を問題にするわけでなくかつ彼らの手際のよい手法に期待するのでもなく、ただ何年に一度のお祭りに人気投票じみた「ファン投票」を繰り返してきただけだ。これを衆愚政治というのなら間違いなく衆愚は政治家を指し、国民は時々深いため息をついてはこの馬鹿殿様を叱咤したりする。あきれた茶番劇だが、菅君のいう「歴史が裁く」という希望は残念ながら叶えられそうもない。世界史のなかの日本はすでに敗戦国としてしかアイデンティテイを示しえないし、巨大な歴史的潮流は菅君の「英断」など簡単に押し流してしまうので、これは極めてマイナーな片隅に一行記事として上がるかどうかといった程度にすぎないと思う。政治家は偉くないし彼らが歴史的に蘇るのは事跡としてより羅列する名前としてだ。だから最も現実的要素を重視し現実的対応を必要とする政治においては間違っても自己の行蔵を自身で女々しく評価するがものではなく、「いいたいやつはいうがいい」で黙することだ。どうせ担がれた神輿にすぎないのだし、もう誰も君たちから小銭をせしめよう等とは思いもしないのだから。「できの悪いうぬぼれの強い高慢な息子を抱えたしがない小市民」という有様にある国民を少しは思いやれ。(中断)

詩323 その5

2011年05月21日 14時14分08秒 | 政治論
 「仮託」という場合褒貶相半ばし仮説演繹に似て多少のメリットはあるのかもしれない。但し国政における仮託は必ず完全な保障機能を準備しなければ決して実行すべきでない。国家の先行投資は国民の基盤的生活が賭けられているという前提でしか実行可能なものでなく、政治がこれを超えるときには国民の統制機能が稼動しなければついに自らの首を絞めることになる。当然のことだ。が、この国は「民衆不在」の近代化によって明治維新以降、こうした統制機能がマヒし機能不全を起こし、あり得ない「仮託」的暴走を許したのだ。これを一般に「無責任仮託的ケセラセラ政治」という。笑うところではない。これがこの国の政治の実態だ。先の大戦も戦後の日米安保体制も原発も決定的に重大な国家的誤謬の実質がこの無際限に無責任な先行投資的制御不能国政であった。官僚の業務的優秀性を生かしきれずむしろ理念なき事務処理的政治に堕した機能しないサラリーマン代議士どものふざけたお遊びが現今日本政治の正体だ。こうした、政治技術を有しない有象無象を飼い込んでこの国の似非民主主義は進行してきた。(中断)

詩323 その4

2011年05月20日 17時36分21秒 | 政治論
 菅直人氏が被災者の怒号を浴びた後、天皇夫婦が誰に嫌気されることもなく穏やかな慰問に終始した絵は日本人の一つの精神傾向を象徴してはいるが、誰も「象徴天皇」に対して疑問を投げかけない以上こうした有様を渾然として整然とした戦後日本の戦無的国家完結状態と錯覚するのは無理もないことだ。要は国家非常時に右往左往する政治機能とはいったい何かと問う時、幕末の黒船事件においていかに弱体化していたとしても幕府が京都の朝廷に援けを求めた事実や、明治維新が王政復古という反近代的実質乃至名目に「仮託」したことや、統帥権の曖昧さによる、本来第一の責任者である「天皇」意向(戦争を望まなかったというが)を無視する方向の軍部の勝手な暴走に対し機能しない「文民統制」、戦後66年経過してさえアメリカ実質占領支配状況を脱し得ない現況(軽負担経済復興優先主義のアメリカ「仮託」という実質になる日米安保)、などすべてはこの国が決定的権力集中機能を有しない「仮託」の政治に依拠しているように推論してもさほど事実に反しないのではないかと思量する。そしてこれら歴史的事象のすべてに陰に陽に「天皇」が関わっていたことも事実であろう。しからばこの「天皇」とはいったい何なのだ。何故この存在は不変的に生き続けるのか。この「超越的」存在を自己の精神構造において真正面から問うた人はいないのか。我々国民は東電にも原子力委員にも政府にもあらゆる状況説明等に関し明瞭に自己責任においてこの未曾有の危難に立ち向かうという真摯な姿を一度も見たことがない。あらゆる「公人」が絶えず逃げ道を模索し必死に問題解決しようという姿勢に行くということがない。すべてがそうだ。これはいったいどうしたことなのか。この「腰抜け」加減は今に始まったことではなく戦時の「大本営発表」という言辞が一人歩きするように自己保身を旨とする「嘘」が公然と吐かれる国の体質を意味しているかのようにさえ思われてくる。こうした傾向がこの国を実質的に支配し、少なくとも原発に関してはとんでもない危険地帯に国民を誘導したのだ。こうしてみるとどうやらこの国を事務的に機械的に実効支配する官僚機構がうごめくさまが見えてくる。彼ら官僚に自己責任という概念はない。何故なら彼らには資料データ、概観に関する提言程度の情報収集集積機能しか必要ないしこれを使いこなす政治家さえしっかりしていれば彼自身に責任が発生するがものでもなく、いってみれば可能性の列挙という迷妄を生み出す方向にしかその力学ははたらかないのだ。かかる場合一般的には政治判断という機能が要求されるが、判断力というのは認識力を基礎とするので、例えば鳩山君が「抑止力」をでっちあげた普天間問題の如きなんらかの圧力さえ回避するなら常識的認識決断の悟性は通常の結果を用意できるのだが、どういうわけかそうでないケースが多い。(中断)

詩323 その3

2011年05月18日 21時01分52秒 | 政治論
 アメリカ又はアメリカ人あるいはアメリカ人政治家のアンチクリスト的現実主義から派生しただろう戦争観をオバマ氏が語ったとき全世界は首をひねったと感じられたのは錯覚かとも思うが、少なくともこうした9.11限定、テロ憎悪思潮は世界に向けノーベル平和賞受賞者の語るべき内容を有しないと「被爆国」日本がなにより主張すべきことだったと彼は思う。とりわけ核の「平和利用」という思想の犯罪的誤謬を現実に体験しつつある被害者の目からみたなら、オバマ氏の理念なき主観的個人的報復思潮こそ連鎖的にあらゆる人民的不幸悲惨の拡大を産むとしかいえないのだ。オバマ氏の国家第一責任者としての立場とは、世界にとってある意味極めて個人的な状況にすぎない。従ってどこまでも普遍的価値の追究において世界のスタンダードを模索すべき公人が仮初にも口にしてはならない限定的個人的報復思潮をさも当然のごとく言い放ったアメリカ大統領は途端にその世界性から放逐されたのだ。彼は今やビンラデン殺害の国際司法上の一首謀者に過ぎない。残念ながら期待されたアメリカ初の黒人大統領はその一切の「責任」において無責任な三流政治家に堕した。結果的には無能という評価しか与えられまい。問題はそのことでなくアメリカにおいてはその精神の断面図にキリスト教をプロテスタンティズムの拡大解釈だけ優先させたユダ的裏切りの側面で描いたということだ。「換骨奪胎」といえば聞こえはいいが本質的には「骨抜きになった神」とでもいうしかない。こうした酷評は当然アメリカアングロサクソンの通史において至る所で事実的裏づけがある。ゲルマン征服民族の蛮行を引き合いに出すまでもなくヒトラーに究極した完全なる犯罪的排他的民族主義に似た恐るべき覇権主義だ。いたるところで先住民を蹴散らし追い落とし占領者然と君臨する。まさに「骨抜きの神」が彼らの、内容のない「祈り」の正体である。しかしながら彼らはキリスト教を政治利用してはいない。むしろそれに逆行した「正義の戦争」肯定論に終始している。従ってアメリカにおける反戦運動は多岐多様にわたり勿論キリスト教的なそれは徹底した非暴力精神に貫かれているし、当然それなりの代価も払われている。政府もこれを認証しその活動に不要な圧力を加えることもない。これを自由主義乃至民主主義というなら単純ながらよしとしなければならない。日本で神とされた「天皇」が政治利用され国民を籠絡した歴史からすれば一応の官民的バランスは確保しているといえよう。日本人においてある「天皇」という一種の神は後にも先にも民衆の中に根付いていたわけではない。もしあったとするならそれは一般的な信仰心にほかならずこれを逆手にとって図らずも「天皇神格化」をもって「強制的かつ漸進的に」心理操作が可能となったという歴史こそ大日本帝国の運命的にして悲劇的な実像であった。問題は所詮押し付けにすぎない民衆にとっての「天皇」が何故為政者の「神」となって立ち現れたかだが、ここに見える不合理な止揚は功利主義とは関係のない不思議な「仮託」という心理傾向を示していると思われる。(中断)

詩323 その2

2011年05月17日 16時37分11秒 | 政治論
 天皇、という存在の一点で、この国が本来覚悟して背負うべき自律性を曖昧にぼかしてしまう欠点につき「無責任」と単純に切り捨てる愚は犯すまい。「父と子」に近い天皇と国民の関係は生来悪として顕現するときには結局実質的責任の所在が不明になる危険性を孕みながらなお結果的加害性に寛大な国民性を表出している。否、進んで身を供するのにさほどの逡巡はないと見える。未だに皇民化教育のマインドコントロールが習い性のように染み込んでいるのかとさえ思われるが、日の丸の小旗を振り続ける人々に重大な思惑があろうはずもなくまして戦後戦無派に占められつつある日本人の内に遺伝的に残存する皇民化教育の種が脈々と息づいているとも思えず、ことはどうしても民俗学的集積収集検証を要するということになるのではないか。柳田民俗学は何故「天皇の民俗学」を回避したのか。この問題こそ維新以来の富国強兵殖産興業一律欧化から統帥権矛盾と軍部の台頭専横暴走という昭和史的過誤偏頗性の直接間接にわたる原因そのものであり、ここを回避すれば国家的な破滅を黙視し去ることに相似た結果となったといえないか。この碩学がこの辺を無碍に看過するとも思えず、最も現実的憲法解釈としての「機関説」すら天皇主権を公言した時代にあっては、むしろ「天皇」を平俗に語ることすらいかにも繊細なこの学に似つかわしくなかったとでもいうしかない。「敗北の文学」芥川が「畢竟理性の無力」(文民統制の機能喪失)慨嘆をもって自死するように日本の昭和初期は来るべき野蛮な戦争の予兆を徐に示し始めていたということか。明治維新の民衆不在と王政復古に依拠せざるをえなかった日本の近代化は明治憲法の天皇に関する規定の不備をかこってもこれを検証せず、と同時に天皇制そのものに対する論証の不可触性を形成した異常、乃至解釈の多様化助長による「悪用」の可能性顕在化、といった結果を招来したのだが、ここに近代日本の快癒しがたい病根を見つけたとしても少しも愉快でないことは今更繰り返すまでもない。(中断)

詩323

2011年05月16日 23時01分23秒 | 政治論
 「天皇」が日本史上不変に在位したという事実は注視するとしても、極東裁判におけるアメリカ側の政治的裁量がそのまま日本国民の総意における「天皇不訴追」「無罪放免」「国民総意」と短絡させる危険を孕んでいる事は誰でも納得するものと思量する。つまりは戦後の「天皇」が果たして全く疑義なく日本国憲法同断の最善な国民的存在といえるかということだ。とりわけ琉球処分により強制的に帝国一員とされた「天皇不在」の沖縄では、先の大戦と敗戦まもなく発した「天皇発言」により未曾有の悲惨を味わうこととなった経緯からして、到底最善な国民的存在でありえないことは火を見るより明らかだ。「現人神」でなくなった「天皇」の人間宣言は沖縄に関する昭和天皇の罪を拭うものではない。防共の軍事的利用を自らの罪過は不問にして沖縄に肩代わりさせるその差別性を凝視すると、昭和天皇は帝国的教育の犠牲者並みに扱える存在とは決していえないし、帝国大元帥「ヒロヒト」は間違いなく敗戦国日本の第一級戦犯であり敗戦と戦後日本の最大の責任者であろう。東條はじめA級戦犯たちが庇い切ったと見える欺瞞裁判から天皇に関する日本史を誤認してはならない。彼の存在がなければ彼に代わる何かが沖縄を教育的に盲目に従順化させることになったにしろ、歴史は、皇民化教育が恐るべき効果を発揮して沖縄戦と集団強制死はじめとする幾多の人民的悲劇を演出したと証明している。ここまでは一応合理的解釈の域を超えずにいるのだが、日本固有の心情的把捉は今なお天皇を嫌気しないという一般性に依拠しついにある不可触な超越性をさえ見出していると思われることだ。だが基本において日本人は無神論者にほかならずしたがってこの一瞬の「気の迷い」は実に巧妙に必ず忽ち周辺化するようにできている。だからまことに稀有な一例だが「悪用さえしなければ」天皇は未だに日本人の概して嫌気なしの良好な存在足りえている。だから柳田國男が、一切民俗学的に触れなかった理由は知れないが、「天皇」こそ日本で唯一の、不変的な「超越性」の代償であり続ける例外といえるのかもしれない。問題はこの超越性の代償が犯した沖縄に関する完全な歴史的犯罪についていかに贔屓目に見ても残念ながら有罪と断じる他ないということだ。ひとつの論陣のバランスからすればこうした論議に何の甲斐があるかということになろうが、小林秀雄の「認識は創造」という思惟操作の運動実質に依拠するなら戦後日本が細切れのバラバラな廃墟と化してなお一つの本来的な意味を持つに至るべく分析検証をやめない決意が、戦争の影と敗戦の後遺症に苛まれる沖縄では求められると思うのだ。(中断)

詩322

2011年05月15日 10時13分45秒 | 政治論
 現況「フクシマ」はチェルノブイリと同等もしくはそれ以上の人的産業的政治的被害を拡大拡散しつつあると見ていいのだろう。むしろチェルノブイリとはまったく別種の特異にして重大なかつ深刻きわまりない大事故と看做さなければならないと断じなければならないのだし、あらゆる複合する要素によって恐らく人知的解決不能な史上稀に見る悲惨な結末へ向かっていると思量しなければならないのだ。かといって徒に脅威を煽るのでなくむしろ警告的に事態の深刻さを国民全体が把捉する必要がある。どういうことか。事は急を要する。つまり浸潤する目に見えない放射能の影響を最小限にするには国家的にあらゆる超法規的施策を非常事態下の例外措置として次々と繰り出すこと、とりわけ警戒区域はもちろん県内全域における人間移動に関する「徳政令」を発し、まさに土地の強制収用を断行、いたるところに安全地帯を確保し、国家総動員的に建設関連業者を集結し恒久的保全に準じる仮設住宅を設置すること、と同時に原発事故危険区域を完全封鎖し可能な限り個々の必需品金品を集積搬送し避難民に分配すること、といってこの国が菅が海江田が枝野がこれをするとは思えず所詮戦後ボンボン内閣のノータリンどもには覚悟も決断力も期待できずむなしく滅び行く母国の哀れな惨状を遠く沖縄から望見するとは、此処に来て想像さえできなかったことではある。沖縄はこの地にへばりつく外国軍隊にいいようにあしらわれなすすべもない政府を恨めしげに眺めながらいつ果てるともない普天間問題にかかずらい寿命を縮める爆音にさらされながらひき逃げ危険運転で殺されても指をくわえて泣き寝入りするしかない腐り果てた「民主国家」の永続的犠牲者となって時は永久に過ぎ去っていく。

詩321

2011年05月13日 10時17分44秒 | 政治論
 嘉手納統合案も岡田元外相が鳩山政権の初っ端に沖縄に来て口にしていたものだが、爆音訴訟の真っ最中にあるこの町がそんなめちゃくちゃな案を容認できる道理はあるまいし、どうして彼らは沖縄に恋々としているのか、連中から出てくるもの全て沖縄県民の心情を正面から刺激してやまない理由を沖縄県民はよくよく冷静に探る必要があるのかもしれない。普天間問題の火種を消すことは彼らには勿論出来はしないが、「国内問題」だとする彼らの立場からいわせれば日本政府がウロウロしている現状で「辺野古断念」はすでに確定的ということになり、しかも東日本大震災による財政的窮状が現実味を帯びてきた今、いかに「オトモダチ作戦」が上層部の画策した戦略的効果を多少なりとも挙げたと自負したにしろユスリタカリの相手にするには倫理的現実的に不可能と踏んだのだし、かといって究極的に沖縄を手放す有利性がはかれぬ以上「この際ひとつにまとめちまえ」(ひとつじゃないが)と思うのが自然か。つまり所詮は沖縄執着であり日本政府の無能機能不全がアメリカにおいてさえイライラの原因になっているという現状が見える。いずれにしろアメリカは自国の財政事情に鑑みやや沖縄問題に焦りを感じてきたともいえるが、日本政府の執るべき外交方針は「安保破棄」を切り札に強硬な押し返し、つまり国内問題のそもそもの原因たる戦後処理的意味合いの日米関係抜本的見直しを提言すること、(地位協定はもちろん軍事同盟的内実の安保の憲法整合性検証まで)であろう。この政権がこれをする可能性はゼロだし期待もしないが間接的民主主義的代議制的議院内閣制のもとでは多数決原理に基づき際限なく無駄な官僚的愚昧による屈辱外交的性格を払拭できないこの恐ろしく民主的でない付け焼刃の近代日本?沈没を黙視するわけにもいかず、「正論」ではない「ひとりごと」で自足するブログに成り果てるということだ。なんとも歯痒い。(中断)

詩320

2011年05月11日 11時14分20秒 | 政治論
 菅君が徐々にまともなことを言い出したからと言って彼の政治家としての評価を格別に上昇させることはない。何故かって彼がいかに渋面作って苦渋の言明をしたところで彼が有している旧帝国的「官僚」どもとその背後のアメリカが画策する世界大欺瞞戦略は今まさに活発な情報戦を展開している最中なのだから。「唐突感」が感得されるときこの国は占領国アメリカの飼い犬が牛耳っていると知るべきだ。こうした「??」の付く政治的動向をみたなら大方はアメリカを軸にした戦略的な情報操作の一環と思えばほぼ間違いがない。かつては「郵政民営化」時の小泉首相の奇妙な非論理的政策展開がまさしくそれだ。小泉氏の基本的な政治性格はヒトラーに似たポピュリズムだが残念ながらアメリカによって骨抜きにされた国家戦略だったために結果論的には国民を塗炭の苦しみに突き落とした張本人になってしまった。小泉より菅が利口なのは彼が比較的アメリカナイズされずにむしろこれを利用しようとしている結果論理性を失わずに「現実的選択」をしつつある「かのように」自己の政治姿勢を軌道修正することに成功する可能性を探っているとみられることだが、こんなことは国民にはなんの関係もない。

詩319

2011年05月07日 15時47分58秒 | 政治論
 アメリカ外交の旧来からの手法は例えば東条内閣時に開戦へ舵を切った直接の要因だった「挑発」という実質の封じ込め(ABCD包囲網)だったが(挑発に乗れば戦争引けば大恥)、このヤクザじみた古風な外交姿勢がこの度は普天間固定化という情けなくも恥知らずな脅迫においてあらわになった。どうでもいいことだがこの低劣な外交手法をさも「でかした」とばかり拍手する日本の国賊どもは別として、中国尖閣事件のようにレベルの低いところで翻弄される沖縄県民はたまったものじゃない。野蛮で配慮に欠けるアメリカ愚連隊国家をこの世から駆逐するには彼らの単純で鈍い神経を外科的にぶち切って大地に叩き落とすしかない。21世紀の神は出エジプト並みの「モーゼ」的奇跡を起こす気はないのか。彼らののさばり方はどうやら「オトモダチ」作戦の屁でもない効果を盾にしたらしいが、そこに見える「被災者への配慮」のなさこそこの国が似非クリスチャンであることを証明している。つまりは「震災被災者」も「普天間被害者」も全く同等の立場にあることを度外視しているわけだ。彼らの矛盾に満ちたやっつけ仕事の根幹は多分メアがはからずも口にした同盟国日本に対する「ゆすり」だということに気づかねばならない。さながらツツモタセかボッタクリじみた金銭的むしり取りこそ彼ら財政逼迫の米国がなりふり構わずやっている所業だ。一時、核兵器の兵器庫造作のための辺野古こだわりと思われたがどうやらそればかりではなく日本に金を出させようとする真に卑劣で情けない大国の末期症状にすぎないということがわかった。しかも「普天間固定化」は岡田元外相が国内向けにほざいた言葉だ。(中断)

詩318

2011年05月06日 09時29分44秒 | 政治論
 「ビンラデン殺害」などという字面を見ただけでおどろおどろしい思いに落ち込むのが普通の感覚だが9.11復讐に燃えるアメリカアングロサクソンは歓喜して雀躍する勢いだというわけだ。真珠湾の屈辱を数万倍にして返した原爆が無辜の民を一瞬にして地上から消し去ったあの復讐劇と同レベルのアメリカアンチクリスチャンな行為を見逃すな。復讐の愚劣さは多少の叡智さえあるなら誰でも気がつくのだが、この国は民族的詩情を有しない野蛮な国民性に裏打ちされた、まさに現代の暴力国家と言える。こいつらに追従する日本の御用学者文化人もまたただの俗物にすぎない。彼らの醜悪な下卑た馬鹿面を見るに耐えぬ。日米外交の薄汚さも両国上層部の叡智のなさを痛感させるばかりだ。情報操作、??いかにもありそうだ。今や「フクシマ」原発非常時に福島県民はおろか日本全国が戦々恐々としているときに飛び込んできた二つのアメリカ事変(ビンラデンとウィキリークス)をよくよく噛み砕かねば成らない。「ビンラデン殺害」は文字通りアメリカヤンキーの「個人的な」復讐にすぎない。そこにはなんの文化的配慮も感じられない。つまり「無責任」な放恣な「やりたい放題」の覇権主義としか映らない。彼らの復讐心を満足させるために何人のアジア人を殺したのだ?帝国的侵略を蔓延させた19.20世紀の彼奴らの野蛮な征服欲によってどれだけの人民を殺害してきたのか。今もってこいつらのおかげで国中が暴力と殺人と貧困と飢えと悲哀に叩き込まれているイラクアフガンパキスタン等の惨状を一体誰が責任とって人間らしい生活環境に回帰させるのか。お前たちではない。国連などという嘘っぱち連携でもない。東日本大震災で際限ないどん底生活を強いられている人々にとってアメリカのくだらない戦争ゲームに関心を持つ暇などないし我々の豊饒な生活の泉は決してああいうところからは派生しない、とはっきりわかっているが、アメリカ情報戦略に乗せられないためには余程心して本来の自己自身に拠って来る「自由」な思潮を展開する習慣を持つ必要がある。(中断)

詩317

2011年05月05日 08時44分42秒 | 政治論
 ウィキリークス素っ破抜き日米秘密公電を朝日新聞が公表したことで今後「普天間問題」が劇的に進展する可能性はない。問題の根が深すぎて返還密約同様ただただあきれ果てるばかりなのだ。「革命的政権交替」と銘打った一昨年夏の選挙詐欺事件の実態は司法が裁かないだけの事実上許しがたい国家的犯罪行為だったことは証明される。とりわけ沖縄の一般の県民が同国人の政府に端から裏切られていたことが判明したことになるが、すでに当時から見え見えの出来レースを今頃実証されても少しも愉快ではないし今後益々公然とアメリカの大国威圧と覇権主義、沖縄占領意識の肥大化に伴う強制執行が至るところで展開するに違いない。日米軍事同盟が条約破棄されない限りアメリカはどこまでものさばり政府は国民沖縄県民に背を向けてアメリカ殺人国家と結託して世界中の反米主義者の敵意を増幅させるだろう。