沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 取り返しのつかないことをしてくれたなあ安部よ

2020年08月30日 07時33分56秒 | 政治論

 安倍晋三の首相辞任の事は、この国の本質的な意味での極めて重大な局面として捉えてもいい(尤も彼の政治的立ち位置がそうだというのではない)のであろう。

 彼の失政は中途半端な問題性の渦中にあり、到底まともな論議の対象足りえないと先ずは断じておく。恐らくは、安倍晋三の私的な公人性格(お友達優遇、側近政治)が醸した、犯罪性の高い政治姿勢から出てきたもの(森友、加計、防衛省、桜を見る会等)が多くの法的な立証対象となり、同時に官邸掌握人事権の恣意性がこの国の官僚行政一般を倫理的にかつ論理的に堕落せしめ、司法も立法もなぎ倒して公的な絶対的価値(後刻客観的検証に耐えうる価値)を損ない、歴史的過誤を犯すことで今やこの国を三流国家の乱脈政治環境に貶めたのだった。この信用失墜という致命傷は後続の政治家には重い課題を抱えさせることになろう。

 こういう、ある意味あいまいな(白黒はっきりしない)評価の中でこの国の今後を見ていくのは国民にとっては不幸な話には違いない。この不幸はしかし我々自身が招いたものと思うしかない。何故安倍政権を長きにわたってのさばらせたのか。何故自民系政治集団に舞い戻ってしまったのか。何故一度民主制に目覚めようとしたのに元の澱みにはまって抜けなくなってしまったのか。明らかに金権政治集団で、しかも日本会議系国家主義まがいの、民主制破壊以外国民のための政治など考えようともしない彼らに権力を与えてしまったのか。

 当然あるのは政治的絶望という国民心理であろう。私見によればその大元は現行官僚体制の根本的な体質にある。それは此処沖縄に住んで初めてわかったことだった。取り分けて普天間問題に関しては最早外務防衛官僚による2+2外交が元凶だというしかない。それは悪の巣窟、恐らくは政官業学を席巻する安保マフィア集団と軌を一にしたこの国の保守系人群の仕業ということ。

 何故日本の保守系人群がいけないかというと、三島由紀夫も言っているが、先ずは彼らが保守しようというものが何なのかということ、「愛すべき祖国」という言い古された文言に含まれる祖国は一体国民に何をしでかしてくれたのか、何をしてくれるから愛すべきなのか、抑々愛するという心情の在り様は愛するに足る、愛する価値があるから愛するということであろうし、古い日本の伝統的な「美」への憧憬から発するのであろうし、誰かに外から、これを愛せよと言われて愛するがものでもあるまい。してみれば、保守系人群が保守しているものの正体がわからなければ国民は自ら保守しようもないということになる(愛国心の根拠)。川端康成がノーベル賞受賞の弁で「美しい日本と私」と題して述べたところは、何かを頑なに保守する、ということではなく、美しいものをあるがままに見る、鑑賞する、愛でる、というだけで足り、それ以上の事はいらぬお世話だと言っているのだ。今次、沖縄の国宝、世界遺産である首里城が焼け落ちたが、かように形あるものは何時かは滅び消失し、二度と同じものは与えられないことはわかり切っている。これを(滅びないように)守ろうとすることは所詮防火設備の徹底管理だとか、いうような管理体制の拡充で事足りるわけで、大仰に保守しましょう、死守しましょうというようなものではない。愛するというのはあるがままに物やことを見、これを静かに鑑賞し、心穏やかに味わうという以外の事ではない。

 安倍政権の功罪は概してこの国の曖昧な国勢をより曖昧にグレイゾーン化し、日本及び日本人が本来持っていた美徳の多くをくそツボの中に放り込んでしまったという、度し難い人的過誤というものであった。

 そしてこの国勢の汚濁にまみれた在り様は、長きにわたる真摯で真っ当な洗浄を経なければ決して洗い尽くせぬ、滓となって国民を苦しめ続けるに違いない。

 我々の印象は、この宰相の口先だけの美辞麗句に隠れた薄汚く醜悪な本質の、目?を覆うばかりの臭気?というものだった。

 冗談ではない。今や国民はこのコロナ禍の渦中で途端の苦しみを味合わされ、政治の無能機能不全、無策、そして何より経済を回すと言って命の危険を二の次にしかも全くの逆効果な政策のせいでいよいよ底なしの地獄へ転がり落ちていっている有様だ。この政権及び政治家集団は即刻埒外へ放り出すべきだ。彼らのせいで、国民は死ぬ思いで暮らさねばならない。あいつらの自己保存パフォーマンスなどに付き合っている暇はないはずだ。まことに安部なんぞは殺しても飽き足らぬ存在である。(つづく)

 


詩の終わり 何をしてもどんな状態でも全て信用ならずしてはならない安倍晋三

2020年08月28日 15時05分14秒 | 政治論

 安倍晋三は、第一に端から信用ならないし、決して信用してはならない為政者(どうやら幼時よりその性格は嘘が先行するようなものだったらしいし、嘘をつくのは政治家の特権であるかのように信じている節がある)で、このことを先ず前提しないと国民は結局自ら墓穴を掘る愚を犯すことは目に見えているし、ここまでの流れでもそれははっきりしている(但し彼はその側用人たちの操り人形で、彼自身に有効な政策遂行の意思があるとは到底思えない)。しかし、ヒトラー並みにパフォーマンス主体に嘘八百を並べて平然としているこの宰相は、最後の最後まで国民を愚弄し、特攻的玉砕美学に没頭する以外何もしない危機管理無能政治家で、沖縄などは真っ先にその犠牲者(GoToなんちゃら)となって孤軍奮闘させられている(あの菅の言いぶりはこの政権の沖縄侮辱を地で行っていた)。

 コロナ禍は恐らく医学者等識者が先ずもって正確に把捉できてないし今後何らか確定的にさえ扱え得ないものとしてあると思われる(当然ながらワクチンのエビデンスは得られてない話だ)。分科会の専門家がくだくだ述べ立てるところを聞いていると、(政権忖度や官邸藪にらみは別としても)政策や国民向けに明確な方向性を与えるものでないことは素人にもわかる。何よりその変異性であるために今後弱毒化するのかそれとも強毒化するのかなど、誰にも予測がつかないものと言わざるを得ないわけで、「専門家の意見を踏まえながら」と必ず前置きする担当大臣の目指すところがどうしても、事態を(今やあり得ない)収束方向印象付けや軽症者無症状者割合の過大な強調により、実際の窮迫性から国民の目をそらし、経済活動の加速化を促すように持っていこうとしているとしか見えない。これは政治的な拙速さを生み、結果的にはばくちに近い性質がある。国民の命が天秤にかけられるに等しい。

 我々国民がその主権在民の実を上げんとする真っ当な生き方に立ち戻ろうというのなら、先ずは己の身は己で守るという最も基本的で重大な基軸に足場を置かねばならない。要は今やこの国は一切国民側に忠実に立つことはないということであって、はっきり言えば人民より国家が先であり、国民は滅私奉公が義務とさえ思われていて、それは自民党の憲法草案にその通り書かれている。戦時国民は天皇の赤子、大君の辺にこそ死なめとばかり負け戦に駆り立てられ玉砕していったのだった。今、この政権が目指しているのはそういう風な国家国民関係であり、安倍晋三などは特攻隊の死にざまこそ国家にとっての国民の最高の在り方であるとはっきり考えている。

 ところで安部一派がいう国家とはどういう国家か?それはさておき、日本会議等の思惑思潮が一定の塊となってこの国のあらゆる階層にいきわたっていることは、少しく懸念されるところだが、実際はその勢力は国民の2割程度に過ぎない少数派であり、実質的にはマイノリテイにほかならない(ある意味カルトといっていい)。ただ問題はヒトラーナチスもまた初めはそうだったので、あらゆる手段を用いて多数派工作するのは目に見えている。だから危険であり、国民は最初から心してかからねばならなかった。

 さてその首魁たる安倍晋三首相が8月28日、在位歴代最長宰相の異名をかっさらって痛々しく病体をかこちつつその座を降りたわけだが、ここで我々が考えなければならないのは、アベイズムというものの本体たる現首相がかようにその権力を放棄しても、それは形を変え人を変えてなお生き続けるだろうということだ。

 何よりアベイズムとはナチズムのように、この国の憲政史上稀な悪の砦、総本山であり、偶々安部氏の名を冠しただけで、何時でもスガイズム、イシバイズムになろうというものだということ。何が言いたいか?現行自公政権の元では日本国憲法の最大の枢要である主権在民は有名無実化するということ。この先の話は推して知るべしだ。(つづく)

 


詩の終わり この頃のコロナ禍の日本の実相

2020年08月25日 19時15分10秒 | 政治論

 2020年8月15日、今年75回目の敗戦記念日も何時ものように何気に通過し(取り立てて猛省するでもなく)、官僚作文棒読み安倍晋三、広島長崎哀悼の辞も相変わらずのていたらくで、そういえば、先ごろの分科会専門家の「(コロナ感染が)沖縄は下火」という驚くべき発言には呆気にとられたというのが本音であろう(逆に言えば重症化、感染老齢化、医療ひっ迫が進んでいる最も深刻な状況を印象的に過少に評価しているということになる)。(既に立ち消えたが)米軍内感染兵士の沖縄移送という話(ふざけ切っている)、県内宿泊施設を感染者用に米軍が借り上げるという話(どこの国の話だ?)、糸満まで行って砂利を採集し、辺野古に搬送投入するという話(この国は何を目指しているのか?)。

 日本国沖縄・広島・長崎に対して如何に鈍感な人間でも、こういう無神経な話に触れて神経的にいい気はしないはずだ(と思うが)。敗戦記念日や広島・長崎のことは、この国が根本的に堕落している度し難い本質を抜きには考えられないことのようだ。一方、沖縄に関して言えば、待ったなしの「琉球独立」実効的考察と県民意識の統一的政治的集約という課題に究極し、多くは歴史に学ぶところの「ナチス対ユダヤ」という事実上の戦略的対照実例に足場を据えなければならないといえる。どういうことか。同一国内一民族に対する弑逆事件ということだ。

 かのユダヤ人は何故むざむざガス室での集団抹殺に無抵抗で付き従ったのか(時代の雰囲気やゲシュタポの残虐さからある程度想像がついただろうに)。あるいはユダヤ人ばかりでなく、ロシア(ソ連)人捕虜、ロマ、東欧諸国民、精神病者、身障者、多くの社会的弱者たちが、マイノリティが、さしたる抵抗もなく自殺するでもなく、何故ああも大量に殺されていかねばならなかったのか。あのコルベ神父は何故集団蜂起を為しえなかったのか。ガンジーはこの不可解な傾向に疑問を投げかけ、集団で殺される前に集団で自殺したら少なくとも「名誉」や「尊厳」は守られただろうに、と独言した。まるで沖縄戦の集団強制死を連想させるが、ニライカナイ思想が生きているとすれば、生死を超えて琉球マブイ(魂)が人間の尊厳を立命する行動へ苦も無く駆け付けるような気もされる。

 例の相模原の大量殺戮者にあるのは、正確に言えばヒトラーナチス思潮の馬鹿正直ななぞりであり、優生思想まがい(優越する種のあいまいさがある)であり、淘汰主義、優勝劣敗の社会的自然全面肯定、あるいは功利主義、能率主義、排他主義ということになる。一方で、彼の中にあるはずの個人における「罪と罰」意識(彼の内省が習慣的に行われていたかどうかはわからないが)に対し、アベイズム的「やっつけ仕事」(=身障者の殺戮排除)が優先されたのは何故か、戦時中参謀が(やってみなきゃわからないと言って)「見切り発車」したのと同じように、どこか諸共自滅の玉砕主義(滅び去ることへの感傷的礼賛)がまるで当然のように勝ち誇っている(まるでそこに美学があるかのように)。彼は何に絶望していたのか?数年前の秋葉原のそれも同じような心理的傾向を感じる。永山則夫の場合、どうだったか。「(彼らには)この先がない」という閉塞感に押しつぶされるときの社会からの脱落意識が、人間としての真空地帯へ彼らを押し出す。社会的モブはかくして一塊の主張媒体となって飽くまで感覚的に感情的にposttruth的に、通例の社会的常識を破壊し良識や倫理性、論理性までいともやすやすとドブに捨てて顧みない。まさにこの今の政権がそういう風に見える。

 さて現実に戻ればこの未曽有のコロナ禍で、この国の経済は底なしの恐慌的末路を予感させるのだが、この国が滅亡するということはどういうことか?我々から見るとそれは社会保障担保(年金や生活保護)を根こそぎ失い、今までの生涯蓄積保険資材を一切失うことなのかと見まがうのだが、国はその国体を維持するために(世界に身売りしてでも)それらを決して手放さないと歴史は伝えている。

 ところで先の大戦で無様に敗北した結果、大日本帝国は欧化主義(脱亜入欧)と爬行的近代化(階級的上部構造-武士や公家という支配階級による上からの改革)という、むしろ宿命的な矛盾総体として、欧米的あるいは汎アジア的処断の餌食となった。その矛盾実態(戦争のはらわた)は戦時において国内はもとより太平洋近縁のアジア各地でその正体を余すところなく曝け出した。日本会議系歴史修正主義が大戦における「無様な敗北」という受け入れがたい事実に眼をつむり、この国の近代化の過ちを等閑に付し、児戯めいた史実遊びの挙句に自虐史観をただすとばかり大真面目にやっているのは、最早死せる大和民族のゾンビ的復活という戯れ事にほかならない。

 我々現代日本の民は、封建的未開(前近代)の中でも(鎖国という閉鎖社会ながら)図らずも花咲いたやに思われた大和江戸文化や、それ以前の古代中世における精神的所産の数々をいかにも誇らしく顧みないことはない。それは当然のことで、如何に中国や朝鮮渡来の文化的換骨奪胎(猿真似文化)だとしても(漢字を崩した平仮名や漢字から一部を切り取ったカタカナなど)、我々の肉体や精神に宿るオリジナルな悟性の働きが醸した、香気溢れる、滋味豊かな遺産には違いない。しかし、巷間の下世話な物狂いとは何の関係もない。

 安部欺瞞による「アンダーコントロール」が世界を騙し手に入れたはずの東京オリンピックが大方中止に追い込まれるのは目に見えている。インフルエンザ並みに扱われて収束しようというコロナ禍の日本版は、「姥捨て山」と化した適者生存のコンセンサスにより、徐々に感染者数には無反応となり高齢者重症化と持病持ちのハイリスクをかこちながら、「それでも死ぬ人は少ない」とばかりGoTo花盛りの(但し国民は及び腰だ)エコノミックアニマル街道まっしぐら、元来た道へ取って返す時代錯誤をやめようとはしない。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


詩の終わり 不可解なこの国の在り様

2020年08月15日 18時51分22秒 | 政治論

 2020年7月以降の「本土由来、米軍由来のコロナ禍」という、全国的にも典型的な沖縄県における動かしがたい事実関係については、例によって愚劣なGoToキャンペーン続行という政府方針や、所謂専門家といわれる政府の諮問会議面々の、効果的でもなく直接的でもない(従って傾聴するに値しない)意見などにより、ここ沖縄ではいよいよイメージとして雲隠れし始め、県内感染者による感染拡大傾向(家庭内感染やクラスタ)が顕著となったため、玉城知事の緊急事態宣言は県外からの渡航自粛すら見送り、県民のみが規制対象となる不思議に嘆かわしい実情をさらしている。県外からの観光客は、軒並み閉鎖となった観光地やビーチに行きたくとも行けず、恐らくは市中闊歩や歓楽街でのどんちゃん騒ぎでうっぷん晴らしを繰り返し、彼ら由来のコロナ菌をまき散らすは、クラスタを引き起こすは、というわけで、政治的にも法的にもどうにも歯止めの効かない状態に陥っている。

 県民は来県する観光客を見るにつけ、彼らが何しにここに来たのか首をかしげるばかりで、特に那覇などで見かける外国人観光客には、その無知さ加減にうんざりさせられるということになる。

 不可解、という言葉が日本人の言動を表現するに傾向的特性だということは、少なくとも論理的に筋立て得る言動ではないということだ。辺野古問題は政治問題だと、多くの政治経験者がいうのだが、そんな問題はないというのが論理的で、結局あらゆる論理的根拠の無根を証明しただけで終わった。根拠もなく辺野古に拘る政治家はよくよく見ればせいぜいが「一度決まったことだから」という弁解で締める。

 沖縄は怒る。何故なら筋の通らない軍事的建造物が非戦反戦厭戦に覆われた県土と海と空に、わざわざ外国の軍隊のために作られるというのだから。しかも事は益々不可解な方向へねじ曲がっていく。「普天間返還」の条件が辺野古だとするにも拘らずその完成に何十年もかかるのだし、しかも米国は普天間の継続使用を既に公言している。日本国政府はこれに対して何も言えない。ここにこの国の従米体質が明らかであり、かてて加えて工事地盤としての大浦湾海底にはマヨネーズ並みの軟弱地盤が認められ、それでも工事強行という気違いじみた仕業が国の手でやられている。気違いと言って悪ければやっぱり「不可解」というしかないわけだ。

 「不可解」と「不可知」は勿論内容からして違う。不可解論などないし、それはいかに糊塗しようとでたらめということだ。不可解からは何ものも始まらない。事の基本が失われている。人は不可知からは動き出せる。努力によって正当性という背景を持てるから。?マークつきの事柄に誰が黙って真摯に向き合えるか?不可解な見切り発車のGoToキャンペーンが沖縄を地獄へ引きずり落したという、そんな具合だ。

 何が言いたいか。いい加減、どう見ても不可解な人の言動、無為無策でしかない政治に無思慮に乗っかることはやめようじゃないかということ。

 安倍晋三は逃亡を決め込んで、側用人の忠告通り言質を取られるような発露、発言などは徹底して封印し、重要かつ特殊で緊急的な場面には決して顔を出さないということだ。彼にとってはおのれの身の上ばかりが気にかかるわけで、つまりは行政府の長ではなく、超然たるカリスマ独裁者、神並みの采配で国民を牛耳ろうと虎視眈々最後の歴史的決定打を狙っている。

 こんなやつに何年も国政を委ねていたのは返す返すも悔いが残ることだ。(つづく)


詩の終わり 10万人当たり全国最多の陽性率は沖縄の何を示しているか?

2020年08月13日 16時10分09秒 | 政治論

https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/hoken/chiikihoken/kekkaku/press/documents/68hou1308reime.pdf

 上記URLは沖縄県が公表している「県におけるコロナウイルス感染症陽性者の状況」だが、8月12日現在、陽性者1307人(前日1242人+65)、このうち入院者294人(重症者12人、中等者--酸素吸入が必要、62人)、入院調整中250人、宿泊施設療養中81人、自宅療養中351人、計976人となっている。

<社説>コロナ「第4段階」「GoTo」一時中止を

https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1172519.html

感染拡大のきっかけは、7月以降の米軍内のクラスター(感染者集団)と観光客の増加

 8月13日からの本土の盆休み、31日からの旧盆は観光や帰省などで人が集まる時期である。離島県である沖縄は、空港でPCR検査をして感染者の移入をゼロに近づけることが重要だ。水際対策と医療体制が整うまで「GoToトラベル」キャンペーンを一時中止し、不要不急で沖縄を訪れる人を減らすべきだ。

 打撃を受けている観光業などには国、県挙げて休業補償を実施すべきだ。GoToの予算配分を変えれば可能だろう。事態は切迫している。医療崩壊を防ぐことに全力を尽くすべきだ。(琉球新報社接抜粋)

 東京発のエピセンタ感染者が東京を上回るという、児玉 龍彦氏が警告した事態がここ沖縄で起こっている。

 ところで現在、在沖縄米軍専用施設は国全体の70.27%が沖縄本島に集中している。しかも本島のほぼ中央枢要部分(この広大な敷地返還の経済効果は沖縄を確実に押し上げて国内有数の豊かな自治体へ変貌させると、既に実証例が示されている)に島の15%余りを占用するという、極めて偏頗な国策が沖縄では特区化しているといえる。先般の菅官房の県に対する愚痴はこういう安保に関する国の在り様を如実に反映している。間違いなくこの国は沖縄を蔑視し、無視し、植民地扱いをしている。今更こちら側が愚痴る話ではない。
 
 感染者が工事従事者から出ても工事は続行という気違い染みた話が平然とまかり通るのが辺野古の現状で、マヨネーズ並みの軟弱地盤に血税使って飛行場を作るというのだからまともじゃない。こういうことが事もなくできると思っていろところに、国連人権理事会勧告にある一民族差別の証拠は明白に現れている。しかも今や筋立てとしての辺野古新基地建設は明確にその論理的根拠を喪失し、まさに金食い虫そのもの、血税の無駄遣い、官僚や安保マフィアと政治家の足りない脳漿にのみ巣食っている、奇妙奇天烈な国防思潮そのものだ。何度も言うが日米安保体制は一種の幻想的国防体制で、戦略的に実体のない張り子のトラであり、その存在理由は戦時における在米国人の救出奪還で、日本人は戦場に取り残される運命にある。
 
 結局、こういうでたらめな国の在り様が変異性コロナ禍にあって、本来の安全保障を為しえぬまま直接沖縄を死地へ追いやった。沖縄は心して命の救済に尽力しなければならない。国は何もしないということは既に明白だ。この安倍政権は一人二人の人命は簡単に無視できる連中だ。その一人二人にならないようにしなければならない。(つづく)
 
 

詩の終わり さっさとこの政権に引導を

2020年08月11日 06時49分49秒 | 政治論

 このブログの書き始めは何気ない独言に過ぎなかったし、ブログを通して小説の下書きのような試みをするのが目的であり、当時はまだ本土にいて沖縄の事についてなど何ら問題意識もなく、専ら「移住」というテーマで思考する中での文作りだった。ブログは、特に改まって余所行きの設えを構えるというようなものではなく、徒然草にいう「徒然なるままに」思い浮かんだ事どもを「そこはかとなく」書きつけるもので、おおきにそういう心持で、特に身構えて格別なことをしでかそうというような感じではなかった。

 「移住」は筆者の、というより筆者の傍らの人の、「暖かい所に住みたい」という長年の願望に添って企てられた行動で、北海道や東北で生まれ育った環境から寒冷地への忌避の念が芽生え、温暖な地への強い憧れが育まれたという、実にありきたりだが切実な思いの発出だった。一方筆者の思いはもう少し違って、手づまりな(本土での)当時の生活に、場所を変えて新風を吹き込むというような思いだったように感じる。

 郡山の借家を引き払い、名護市のマンションに大移動したのが2006年の末、とはいえ、那覇空港の外に出たときその空気のにおいに思わずむせたことを覚えている。そして、マンションの下の浄化槽から強烈な下水のにおいを嗅いだ時も、この移住に対し一種の後悔さえ覚えた。「移住」とか「沖縄」とかいうアイテムに、うっすらとある種の夢を見ていた者に、現実の臭気を打ち付け、この先のうかがい知れぬ暗部を先ず示したということだろうか?

 今にして思えば確かに移住は、沖縄の暗部を目の当たりにすることから始まった。あるいはそれを逃れようもない出会いの本質と認識することでもあった。しかし筆者にとってそれは真空地帯を用意して一種の隔離状態を現出するような話になっていった。体のいい村八分が、自ら呼び込んだ境遇になる。

 さて、何故、こんなどうでもいい、私事にわたる部分を披歴するかといえば、ほかならぬ沖縄の話を、一介の素老人が、ある意味公開の場であるブログに無謀にも述べ立てるというような、大それた企てに加担するわけで、個人情報を事細かに暴露する勇気はない代わりに、沖縄に関わる一面に少しばかり私事である個人の事情を加味させたというに過ぎないといえる。

 私事は続く。

 名護市にある中央図書館で、先ず手にしたのが屋良朝苗氏の生涯譚で、琉球沖縄が戦後米国軍・民政府の支配下に甘んじて、其の圧政からの解放を望み、氏らが苦心惨澹所謂「祖国復帰運動」を展開し、1972年、戦後27年にして漸く沖縄返還が成ったという、極めて特殊で特徴的な体験談を書き連ねたものだ。そこに繰り広げられていた琉球沖縄の特異な綾なす人間劇が、圧倒的な米国の占領地支配という、理不尽な境遇の民族弑逆実態にあって、如何にそのアイデンティティを戦後の社会で再生させるか、少なくとも敗戦の憂き目にあって曲りなりに日本国憲法を押し戴いた日本国を、たまさか「祖国」と見做し、その法治国家に復帰しようというこの運動は、当時は沖縄人の共通のコンセンサスを示すと思われていた。しかしながら、返還成っても屋良氏(初代主席)は本土での祝典には出席せず、撤退撤去しない米軍基地と密約に満ちた返還外交(手打ち)をもって、「祖国復帰」は日米政府に琉球沖縄が騙されたものだと、吐き捨てた。

 今にして思えば、これはかつての琉球処分(侵略)の延長上にある、歴史的にも欺瞞性に満ちた、同一国内民族侮辱の最たるものであり、そのまま現在の沖縄問題、基地問題に何らの改変改善もなく接続する。それは基地問題の中心をなす「地位協定」の治外法権性と、国家の超法規的自治体処遇(憲法違反状況)からくる民族感情の反米反日性が、如何なる自虐的歴史解釈も排除するものとしてあるということで、県民感情が近代化や生活利便の向上などで緩和同調傾向にある(「復帰」は県民の8割がたが良好な受け止め方をしている)ということとは別問題なわけだ。

 いきなりだが辺野古問題の本質というのは、戦後民主主義の日本的な表象が、恐らくはこの国の国民性と日本の近代化の複層性(コンプレクス)によって表面化したということであり、極めて政治的な「画策性」(こじつけ論の横行)が正当な稟議の発露を悉く阻害しているという実態にある。その根本が日米安保体制にあり、原爆の日(8月6日、9日)広島長崎で臆面もなく同一文面を並べただけの安倍晋三発言母胎である「核の傘」だが、正当な稟議を尽くせば、これらは軍事的戦時的リアリズムに添わない仮想敵の幻想的実質にあるというわけで、所謂自公系保守政治の「思考停止」状態そのものだ。特にこの安倍政権にあっては安保体制の自動的継続推進(猛進、妄信、盲信)形質が如実に示されている。

 これに関連して言えば、先の大戦に至った(戦争を止め得なかった)この国の国民性の問題こそは、実は何よりもその問題性が深いのだといえる。丸山真男や朝河寛一らの分析検証にひけらかされた、日本人の現実対蹠能力に見る「不可解」な反応としてのこの在り様を如何に解読するかで、問題解消の糸口を探ろうというものだ。この不可解な反応と結果的誤謬(軍国化と敗戦)は、勿論日本国家の近代化の誤謬(脱亜入欧とアジア的孤立)からきているし、一体に現代世界のグローバリゼーションにおける本質的な矛盾は、世界がスタンダードな理念的基準度量衡を持たないというジレンマにあり、とりわけ国際社会におけるパクスアメリカーナ現象からくる論理的・倫理的・理念的閉塞状況(世界的post truthに至る)では、日本人には、日本の近代化以降の全歴史に対して説得性のある筋立ての困難さ(複雑さ、不純さ)ばかり目に付く。

 日本国の、あるいは大日本帝国の敗戦、敗北、瓦解は、世界史においてはごくありふれた歴史的事件の一つに過ぎず、ニュルンベルクと東京での所謂国際軍事裁判で多くは戦勝国による復讐裁判の色濃い性格に傾いたが、そこで裁かれた「平和」(と「人道」)に対する国家的罪過については、将来に向けて比較的明確に字義通り裁かれたということになる。この所謂「事後法」については論議を呼んだが、問題は法的手続き上のことでなく、敗戦国夫々の受け止め方に掛かって解釈されるべき性質がある(但し、独伊と日本の相違は顧慮すべきだ)。そしてこの国家的な罪過に対する考え方が、日本国憲法の重要な中心的理念を形成しているのであり、それがカントの「永遠平和のために」に披歴された平和理念といわれる。しかしこの人間的に卓越した考え方を正当に、真摯に受け止めえた日本人は戦後、主流にはならずに経過した。これが現代日本を、度し難い複層化する筋立てに引きずり込んで止まない。

 現在、沖縄県の累計コロナ感染者数は1179人に及んでいる(名護市14人、北部保健所管内在住者13人)。7月以降で言うと1037人という感染拡大があった。しかも所謂愚劣極まりないGoToトラベル開始時期から明瞭に感染爆発的な傾向を示している。勿論クラスタ的経路(飲食業関係)が主流で、PCR検査数も影響してはいる。一方医療実態は入院者258人、入院調整中279人、宿泊施設療養中64人、自宅療養中273人であり、明らかに今後の大規模な感染爆発を予感させる療養体制逼迫実情が顕著だ。医療崩壊である。沖縄県在住の我々は無為無策の政府などに今更何も言うことはないが、この期に及んで未だにGoToなんちゃらを推進し、矛盾に満ちた発言を繰り返し、責任ある対応を為しえないこの自公政権を到底許すことはできない。その権力の座に図々しく居座って、嘘八百並べ立て、恥知らずな利権争奪戦を繰り返す大うつけどもに鉄槌を。(つづく)

 

 

 

 

 


詩の終わり この国の終わり

2020年08月04日 09時33分56秒 | 政治論

 繰り返せば、多くの国民の憤懣やるかたない思いとは別に、国民の神経逆撫で発言(「東京問題」、「沖縄にはホテルの確保を何回となく促している」「自治体の責任」)、奇天烈愚策(アベノマスク、アベノミクス)、悪策のごり押し(GoTo地獄)に満ちた西村担当、菅官房、幼稚な居留守使いの安倍ら自公政権、特に自民党は、その党是として明確に「国家優先滅私奉公」(自民改憲草案)をうたい、結果として如何なる政策の結果責任も、架空の媒体に仮託して敵前逃亡を図るという、この国の伝統的に習い性となった無責任政治家を地で言っている輩だ。(ここでいう架空の媒体は私見によればどうやら万世一系の「天皇制」のことだ)。

 沖縄在住の筆者は、菅官房禿頭のこれまでの不埒な発言に、辺野古高江等に関しいつもいつも苦々しい思いをさせられてきたが、今次、明らかにこいつらの政府がやらかした、GoToトラベル(GoTo地獄)のごり押しが齎した、沖縄における稀に見る急激な感染拡大(8月3日現在37人感染、累計554人、退院回復者148人)で、医療ひっ迫状況(マンパワー不足)、病床確保の難事(入院調整中数の過大)に対し、口にするも汚らわしい発言を臆面もなく述べ立てて、またしても県民の神経を逆なでし傷口に塩を塗り込む暴言を吐いたことは、まことにこいつらは国民の犠牲の上に彼らだけの国家(そんなものは存在しない)をおったてて、自分らの失政の責任など取るべくもない連中だと、改めて認知させられた次第。

 菅義偉官房長官が3日の会見で、沖縄県内での新型コロナウイルス患者の急増を受け軽症者向け療養ホテルの確保が追いついていないことに「政府からは県側へ何回となく確保すべきであると促している」と述べたことに対し、県の大城玲子保健医療部長は3日、「国の通知に従い、病床確保計画を進めてきた」と反論した。(沖縄タイムス記事)

 菅の言いぶりに見るレイシズム(人種差別)と厚顔無恥な態度には、むしろ(金輪際彼らが認めたくない)琉球民族の存在性(アイデンティティ)を暗に認知している様子が伺えるが、これまで繰り返されてきたた国連勧告https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section4/2018/11/post-201822.htmlには一向に耳を傾ける様子はない。つまり菅の発言には彼があるいは属しているかもしれない「大和民族」の、既に敗戦で滅び去った魂の抜け殻が見えてくるということ。同時に現行自公政権乃至安部一派の「ゾンビ的性格」(殺しても死なない怪物性)が垣間見られる。

 安倍の逃亡は今井ら側用人の政権死守悪巧み路線がいよいよ暗礁に乗り上げ、如何に逃げ切りを図るかということに必死な事情を暗示しているかのようだ。

 臨時国会10月以降予定って(臨時じゃあないじゃないか)、こいつらは完全に代議員の責任を放棄し、彼らだけの脳漿に宿った彼らだけの「国家」を遵奉し、自慰的に空中浮遊する大うつけものとなりおうした。(野党に)責め立てられるだけの国会と認知し、責め立てられることばかりしてきたおのれらのことは等閑に付し、明らかにくずどもの牙城と化した自公政権をできるだけ長く存続しようと、手詰まった画策状況から逃げを決めて、国民は政府頼みの虚しさばかり骨身にしみて知らしめられている。

 戦後民主主義は痰ツボに過ぎない。あらゆる表象が、腐った悪臭漂う我々の生存生活環境を示し始めている。もし現行自公政権並みの国政環境を見逃し続けたら、最後には投票率20%の公職選挙の結果自公代議員が全議席を占めて、国民はあってないような政府の愚策悪策、殺人的国政の無力な犠牲者となって、ヒトラーナチスに抵抗しなかったユダヤ人のように、崖から落ちる羊の群れのごとく諸共に滅び去ることだろう。安部などはそれをしも望んでいないとは言えない。(つづく)

 

 

 

 


詩の終わり 今やお手上げな日本国民

2020年08月01日 11時58分41秒 | 政治論

 クーデタ(非軍事的文化革命)、テロリズム(不逞要人排除)、暴力革命(超法規的権力掌握)、アナキズム(政府はいらない)。こういう前時代的な願望的文言が、密かに国民の一部には湧いてきているのではないかと思わないわけにはいかない。現政府、安倍政権、アベイズム、現官僚体制、今ネット等でほぼ連日目にする彼らの「官尊民卑」に対し、国民は限度なしにいらついているようだ。7月31日の尾身西村会見は、この国の現在の権力構造が上記にあげた連中の政権維持我欲と生命軽視、優性思想的経済主義にまみれていることを如実に表していた。

 安倍晋三という者に政権担当者としての責任感など期待する方がおかしい。この男は岸・安部・佐藤・麻生一族の出来損ないのドラ息子(麻生も同じ)で、生来嘘つき、ごまかしや捻じ曲げ、改ざんが身に沁みついて抜けない、家中の厄介ものであり、金銭的苦労や生活上の不如意を一切経験したことも想像したこともない、明らかに政治家失格の語るに落ちた無資格者にほかならない。組織上層部や富裕層、財界要人と毎晩のように数万円の会食を貪っている所謂ブルジョア。

 しかし残念ながら安倍晋三は時代の一面の合わせ鏡で、こういう種類の集団、塊が現実に存在し、国民の中に2割程度巣食っていることは間違いない(ネトウヨ、安倍応援団、御用学者、敗残左翼、狂熱的右翼)。つまりかつてナチスヒトラーがあのように世界史上稀に見る暗黒の時代を現出させたように、あれよあれよという間に、醜悪で悪臭ふんぷんたる全体主義の嵐を吹き荒らさせるべく、この世を席巻する巨悪で巨大な勢力と化すのだ。まさに時代の子(post truth)であろう。

 ここにはこの国の選挙制度の、あるいは戦後民主主義と呼称する不可逆な体制が絡んできている。つまり支持率的に実質2割程度の政治勢力が金力と狡猾な選挙戦略で代議員の過半数の議席を分捕るような仕組みと、多数決原理が優先する議決権行使の悪道だ。権力の甘い花園に忘我して跳ね回っている、あいつらの脂下がった面貌が実に鼻につく。

 安部一派はヒトラー並みに悪の巣窟をなし、ごり押し政治を断行してやまない。この安倍政権、自民(公明)党政権は明確に国家優先滅私奉公政治(天皇をお飾りとする仮託的無責任政治)を目途としており、明らかに憲法違反の政治集団であり、このコロナ禍で漸くその本質が現実的に国民には見え始めている。国民は現憲法の「国民主権」実質侵犯のアベイズムに今更ながら気が付き始めている(それも結局おのれらの命の危険を感じてからの話だが)。かつてこれほど国政を私物化した者はいない。国民は多く、アベイズムの気持ちの悪い浸潤を苦虫かみつぶして見ている。

 沖縄県は緊急事態宣言し、県民に自粛を促した。但し、県外から県内への移動自粛は求めず「慎重な判断」にとどめた。ただ、「可能であれば旅行が楽しめる機会に考え直すなど検討をお願いしたい」とした。県民には県外への不要不急の往来は自粛するよう求めた。来島の自粛を求めている離島への移動は控えるよう要求。自粛を求めていない離島に関しても、医療体制が脆弱(ぜいじゃく)である点を挙げ必要最小限にするよう求めた。(沖縄タイムス記事)これは8月15日までとされる。それまでに一定の感染者数減衰傾向がみられなければ以後も引き続くのであろう。

 どうやら非感染地区だった北部地区(やんばる)にも2名ほど新規の感染者をみた。こういう中でも辺野古大浦湾では工事が続行されている。如何にこの安倍政権が悪質な政治屋集団に占められているかだが、勿論到底看過すべからざる国家犯罪だ。

 いずれにしろ、危機管理能力皆無、無能無策の現政権を放逐し、国民のためにのみ機能する知能を希い、そういう結束に向けてあげて務めるべきところだ。(つづく)