沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩527 フテンマの本質 3 返還とは

2014年05月15日 19時31分28秒 | 政治論

 この日が沖縄返還42周年、ということは、42回目の裏切り記念日というわけだ。何が裏切られたか。核抜き本土並みが大嘘(返還交渉時点で既に非核三原則は空文化していたし、沖縄に関しては当然のように核配備され続けた)で、米軍基地はそっくり居残り(その後の本土での反基地運動から締め出された海兵隊が陸続と沖縄に流れていった)、42年かけて、いよいよ永久に居座るため、米国、日本本土政府こぞって辺野古に集結しようという算段だ。これは「普天間代替施設」という、猿芝居じみた欺瞞偽善の象徴的軍拡行為であり、世界中が非難している、一地方自治体に対する軍事的植民地化行為にほかならない(既に内外の有識者による辺野古移設反対共同声明も発表されている)。彼らの許しがたい犯罪的人民封じ込め(防衛局開札辺野古工事業務に伴う監視警戒特記はさながら治安維持法じみた体裁を取っている)、抑圧行為(県選出島尻参議院議員の密告による公安の警戒態勢、立ち入り禁止区域の拡大など)は当然に告発され、近代政治理念の中心たる「民主」に悖る蛮行と言わねばならない。(つづく)

 

 


詩527 フテンマの本質 2

2014年05月15日 09時31分00秒 | 政治論

 何事かこの地に為さんとするとき、彼らが必ず口にして絶対に実行したためしもなく、したとしても必ず何らかの「密約」「条件付き」を伴って為されるという「負担軽減」の文言は、最早その軽減実体が存在しないのはわかりきっているのだが、逆に言えば彼らのやっていることが少なくとも沖縄琉球に関しては大方の断面において、県民意思の軽視、民主制代議員意見の門前払い、国家主義的な政策方針の絶対優越主義、という本質を露呈していることは明白な事実である。

 この本質の強硬な行使は当然に日米安保絶対主義に依拠しているのだが、琉球沖縄に関していえば、その地方自治権においていえることは国家の明らかな怠慢に基づく沖縄島嶼黙殺行為にほかならない。つまりは地位協定の抜本改定という関門に関し官僚政治家が二の足を踏んでいる、ということであるし、それは安保絶対主義いかんにかかわらず、国家政府が人民の基本的人権の不断な保障作業を怠っている、ということにすぎない。日米関係と国家対人民の関係を両天秤にかけてどうみても前者に重きを置いているということだ。

 何故彼らはそのようであるか。何故この国はアメリカ合衆国の51番目の属州に甘んじようとするのか。ところが彼らの脳裏に去来する往時の大日本帝国的隆盛は、神国日本的幻想の虚しさを当然に打ち砕いたであろう、連合国による無条件降伏通告によって完膚なきまでに叩きのめされたはずだが、安倍晋三の拙劣な言い分を覗くとどうやらこの国は未だ再生して偉大な明治的な復活を可能にしうる、というのだ。つまり彼らの思惑には米国的世界権威を可能な限り大いに利用してやがてはかつての帝国を完全に蘇らせる、という希望に満ち溢れているわけだ。現在の属国的な地位に甘んじて将来的な捲土重来、失地回復、名誉挽回を招じ入れようというのである。

 しかしながら集団的自衛権行使容認に前のめりになっている彼らのどこにも、偉大な明治は見えてこない。神国日本など影すら見えない。眼高手低の姿勢にも思えない。東京五輪誘致など詐欺行為だ。何より、自然環境の破壊にしかならない米国軍拡行為に加担する辺野古新基地建設には、人民を思いやらない腐れ外道の彼らの性根が見えてくる。(つづく)