沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 29の4

2013年03月31日 15時39分37秒 | 政治論
 こういうのを、9割がた反対する沖縄県ぐるみ、まとめて籠絡する国策というのであろう。
 その最初のきっかけは、先の政権が夜討朝駆けで奇襲するという、一昨年年末未明に起こった「環境アセス」評価書の県庁への強引なねじ込みであり、これに対する数百に及ぶ知事意見に基づく、昨年年末の評価書補正投げやり提出だった。
 ここで政権が交替したわけだが、こうした流れに便乗して安倍政権は、今年3月、到底県知事許可を得られそうもない「辺野古沖公有水面埋め立て」承認申請提示になだれ込み、今は、本来「普天間返還」とパッケージ化しない「嘉手納以南基地返還」の期限明示を米国政府に要求し、これをもって「負担軽減」の実を上げたという「口説き文句」にすり替えて、県に「辺野古移設」を呑ませる肚のわけだ。
 沖縄県の誰に?県知事に?県民の暴発なんてことは考えないのだろうか。「普天間返還」は9年後を目処に調整するということだが、この期限自体、ここまでの「普天間」を巡る経緯においては一切守られたためしはない。つまりこの9年後、という安倍政権の「かのような」こと振り(自明の理のごとく収拾している事案、であるかのように見せかける)は、「辺野古移設」という条件を無責任にも決定事項のごとく切り札にし「普天間返還」の犯罪的遅延をさも沖縄側の不手際のごとく見せかける挙に、決定的に打って出たのである。
 マスコミ・マスメデアもこうした流れを不作為に垂れ流し、さも自民政権の手で「普天間問題」はいよいよ解決の方向へ向かっているとでも言いたげだ。こういうこの国の翼賛傾向を危惧し論陣を張るジャーナリズム精神はこの国には見当たらない。
 何故抵抗しないのだ?挙国的に流れていく国家に楔を打ち込むのは君らの役目じゃないのか。人民は非暴力的に「座り込んで」国家権力に抵抗する。この方法しかない。しかし大量にかつ万人向けに情報を提供する君らは、重大なオピニオン上の代表者的言論の責任を負っているのである。いずれにしろ沖縄の住民の闘いは日々絶え間なく続けられる。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 29の3

2013年03月30日 07時45分05秒 | 政治論
 最大多数の最大幸福という、この便利そうなスローガンが意味する愚劣な本質に気づかないエゴイストたちに、最小不幸なるものを対置した菅直人首相は、原発事故で逃げ出そうとした東電幹部を怒鳴って、彼らの無責任体質をなじったまではいいのだが、原発行政に関する内外への旗幟鮮明なる態度表明においては決定的な過ちを犯した。
 彼はこの事故の最大の責任者たる自民党を完全に封じ込めるために(政界から追放するために)、ここで明瞭にこれまでの原発行政の過ちを認め、脱原発、原発ゼロ目標、エネルギー政策の転換を内外に宣言すればよかったのだった。
 法的「無効選挙」で有象無象を政界に送り込んだこの無責任自公政権が、バブル的市場経済上げ潮感に乗っかり、次々と反動政治を展開しているこの事態は、結局敗北した前政権が不作為に作り出したものにすぎない。
 一方鳩山首相の失政は同時に自民政権が暗礁に乗り上げた「普天間問題」を結果的にわざわざしのぎやすくしただけではあったが、ただ、これは彼ら権力者にとって残念なことには、いかに手続き上の進捗感をもって問題解決へ前進した「かのように」見せても、そんなことで沖縄県民をだまくらかすことなど金輪際できはしないということを証明した。 
 辺野古を抱える名護漁協を金銭で篭絡したのを手柄のように言い募るが、それは彼ら政権自身の「金権政治体質」を、愚かにも民衆にご丁寧に披瀝してみせたことにほかならず、相変わらない古い愚民政治に陥っているこの政権の、「官尊民卑」思潮を我々が改めて嘆く始末となっている。
 彼らの最大多数の最大幸福は、このように「札びら切って」強引におのれらの利権既得権を確保することでしかないし、基本的にはアメリカ国家安全保障政策に奴隷的に追随し我が民の悲嘆を顧みない代官政治をもって国政としているのである。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 29の2

2013年03月29日 16時29分49秒 | 政治論
 いずれにしても政治上護憲と改悪改憲の関係は、表面上背叛しながら実は同根異夢の過誤を犯している。つまり戦後日本は、領土的には東西分裂(東をソ連に西を米国に)の憂き目を見なかったにしろ、実質的には、平和憲法の偏頗な奇形的解釈(自衛隊と日米安保)により「コミュニズム対カソリズム」の浮き足立った西洋的確執を、戦後民主主義というまがい物?で覆い尽くしたということだ(なんという気色の悪さか)。
 だがこの体たらくは、近代日本が維新後開明されて以来、実は自ら運命的に準備したなれの果てではあった。
 こういう場合にも「護憲」の立場では、第一章「象徴天皇」は何げに黙認されるのだろうか。例えば沖縄では、明治政府以来の日本政府と琉球自体の同化策によって、本土以上に激越に皇民化教育がなされ、実際に沖縄戦では「戦陣訓」とともに、「集団強制死」や軍民混淆の無差別玉砕戦場に叩き込まれる間接的因源となった、その「天皇制」こそ、戦後日本から追放されるべき諸悪の根源のようにさえ考えられるのは当然なのであり、これは実体験に基づく実感である以上、先般の「主権回復の日」問題同様到底無視、軽視し得ない実在する沖縄の民衆的感情と認識しなければならない。
 本土決戦と一億玉砕完結行為(それが如何に間違った選択だとしても)が実施されていたなら、日本国民はなべて沖縄同様一家全滅などの悲惨を極め、「天皇制」に対し現状とは違う感情を持ったのではないか。
 政局的党略的「護憲」の質は劣化している。憲法9条は何故保存されるべきか。この問いは、再軍備画策派の突き上げに伴い戦略的に語られなければならないことには変わらないが、一方、自身が的確な現状認識に立って明瞭な規範を持するバランスを保つことができるかどうか絶えず検証しなければならない。
 二律背反は、その総合的効力を発揮するため、強固な意志として実践しなければ到底止揚飛躍はかなわない。「オキナワ」がその根源である。この実体験の地は、天皇制を否定し9条の理念的精神性を死守する。実体験せずに、むしろ「ポツダム宣言」受諾によって窮場を脱した形の本土一般が、非戦意思や「玉虫色」の天皇制容認拒否を積極的に、ノンポリ的に己の行動倫理基盤とするはずもない。これが実態だ。ここにも本土と沖縄の歴史的分断の決定的な断面が厳然と立ち現れる。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 29の1

2013年03月28日 16時45分54秒 | 政治論
 もし本当に尖閣やら竹島、北方領土に関し、これを正常な領土的領海的国際認知に至らしめようとし、かつ正常な意味での再軍備を画策しようというのなら(国防軍備の整備)、沖縄米軍基地に関し彼らが辻褄合わせに言ってきた「地政学」「抑止力」「戦力の集中的一体化」なんぞはとうに大嘘だったことはばれているので、まずこのことを沖縄県民はじめ日本国民に周知させ、国防策の錯誤を謝罪し、日米安保を担保するには日本全国、全国土において例外なく平等に基地負担を受け入れなければならないのであり、もしこれをゴネ得的に拒否姿勢で突っぱねるところが一箇所でもあるなら、それが日米安保条約の「基地負担義務」を放棄することである以上、条約そのものの反対意見と捉え、最終的には国民投票形式で日米安保持続意思の如何を、全国民の意思表示で決定する必要があると言える。
 当然米国側には、前もって安保破棄か安保一時停止を通告しなければならない。何故なら安保是なら平等負担だがこれに対し米側が理由をつけて拒否すればそのものが成り立たないわけで、恐らくどこまでも収拾がつかない結果となるのは見えている。もちろん否なら即破棄である。この場合前もって日米間で軍事同盟の双務性を論議し、現今片務的状態の改善を模索し、かつ現在の同盟関係が即戦的実質を伴わない性格にあることをもって、現行地位協定の非対価性改善を要求しなければならないし、これを拒否するなら当然に決裂である。
 その国を緊急事態にあって守護しない、し得ない仕組みの外国軍隊にどうして地位的な優位性を与え、殆ど治外法権的待遇で処さねばならぬか、戦後70年近くを経過しては、到底現実的公平性にないということになろう。
 戦後体制から醸し出された、戦勝国対敗戦国関係の延長上にある憲法9条違背の自衛隊、日米安保の存在は、日米両国関係を著しく片務的不平等不公平なものにし、ときの政権はじめ有識者財界官僚の保守停滞気味の思考法によって、殆ど厳重に堅持維持されてきた結果、この、司法に依拠しない恣意的行政権行使状態のまま、この国の実質的独立性すら米国依存の危ういものにしてしまった。
 どういうわけかそのしわ寄せが南西辺境の沖縄県に集中的に押し付けられたのは、行政の怠慢と同時に、この国が当初から持ち合わせた異種同国人?に対する奇妙な差別性によっていた。この差別性は当然その地に対する無知、無関心、そして権力体制を検証なしで不作為に受容することによって醸成される、誤ったイメージに基づく偏見が作り出す。
 一自治体に対しこのような非「民主的」な対応を続ける限りこの国は、永久に野蛮な、自身に対する侵略的本性の餌食となるだろう。沖縄を「犯す」ことで逆に自分がアングロサクソン的な侵略にさらされることになる。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 28

2013年03月27日 12時01分14秒 | 政治論
 沖縄県国頭郡東村高江は、沖縄本島の、県都那覇市等がある中南部からみて北部北端にあたり、所謂中南部の都市化整備傾向に対蹠する手付かずの亜熱帯動植物生息地帯で、通称「やんばる」、字義からすると「山原」と言われる自然豊かな樹林帯であるが、一方、所謂琉球島嶼全体(与那国石垣宮古といった八重山先島群島を含め)をユネスコ世界自然遺産に推奨する動きがある。
 その詳細は沖縄県のホームページに依拠するとして、問題は上記「やんばる」におけるこれとは真逆の実情、米軍のジャングル軍事訓練(北部訓練場)に供されているばかりか、例の甚だ危険な欠陥機MV22オスプレイの格好の飛行訓練場にするため、そのヘリパッド建設(北部訓練場一部返還による代替施設)が急ピッチで行われているということだ。
 その様子について日々詳細に報告するブログが、沖縄県北部今帰仁村出身の芥川賞作家目取真俊氏によるgooブログ「海鳴りの島から」内「高江の様子」で、工事実態はもちろん、高江区の住民、活動家、協力者、あるいは憂慮する識者、議員が連日「座り込み」的に工事中止要請、抗議、調査活動をしている様子が描かれている。(氏の文学上の作物に通底するものがなんであるか、本土人で半可通の筆者には未だに把捉困難だが、沖縄に関する歴史的な文献のいくつかを繙けばいくらかは推し量れるのかとも思ってはいる。)
 現在ここで生じている自然破壊事実は、ヘリパッド工事によって引き起こされた土砂崩れによる生態系への悪影響という内容らしいが、当然ながら日常的に実施されている米軍軍事訓練自体が、全体として環境破壊につながっていることは誰の目にも明らかである。
 つまり、ここでも米軍基地公害が貴重な人類的遺産に襲いかかっているという危惧の視点が必然的に据えられるということになろう。
 こうしたところに見られる、沖縄における非戦反基地思潮のうねりとは別に、国家における国防意思を眺望すると、日本国は明瞭に米軍と自衛隊によって用心棒的に国土を守護しているというのだが、何げにこの事振りを鵜呑みにして安心しているとして、例えば尖閣をめぐり中国戦艦が近接して航行したり、ロシアの爆撃機が上空を掠めたりしているのに、米軍がこれを牽制する行動に打って出ることもないのを、全然「安心」できる状態として感じられるのだろうか。
 あらゆる本土的傾向にみられる体制迎合的な言説には、「沖縄封じ込め」(非戦反基地傾向への嫌がらせ)論しか見当たらないし、実際軍事的戦略的要諦を持たないと暴露されている事実に目を向けない、これらの泡沫的軍国主義亜流たちの辟易する汚文が巷に跋扈している状態では、如何に軍事専門家が事詳細に国防論を展開しても、所詮眉唾物にしか映らないという次第。君らは本気で自分を守る気がないのだ(というより幻想的に国家安保体制を鵜呑みにしているということ)。奇妙な話、国際関係上の日本国の立ち位置はどう見ても客観性を喪失したその場しのぎの論議で決められている。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の6

2013年03月25日 09時05分05秒 | 政治論
 宜野湾市米軍普天間飛行場は、「返還」(代替施設建設の条件付き)方針の始まりから更にその実際的な完成時期予測の日まで、少なく見積もっても実に30年近くかかるだろうと思われる。いやむしろ決して返還されることはないだろう、というのが最も正しい現状認識である。抑もアメリカ政府は、「沖縄の負担軽減」などという視野は金輪際持ち合わせてないし、辺野古の新基地建設こそ彼らの永続的な沖縄支配を担保する、従来からの決定的な軍事懸案だったわけで「普天間返還」に事寄せた便乗施策にほかならなかった。無条件に「普天間返還」が言挙げされたなら沖縄側もある程度の条件付き提案を呑む余地があっただろうに、県内「代替施設」ときたものだから俄然「負担軽減」の意味は吹っ飛び、結果的に現今の固定化が現実のものに取って帰った次第だ。第三者の目で見ればこうした日米両国の事沖縄に関するスッタモンダは愚劣な「茶番劇」にしか見えない。というよりもっと深刻なのは、こいつらの馬鹿げた外交ダンスのおかげで沖縄県民はいよいよその基地公害の被害感を募らせ、現在県土を覆っている米軍アトモスフィアに対する忌避感は、かつてないほど決定的になりつつあるということだ。君たちの大事なお守りである日米軍事同盟自体の危機じゃないのかい。仲井真氏は辺野古じゃ普天間返還は現実的に固定化と同レベルの時間を要するといっているのだが、こういう計算さえできてない連中の、アメリカ政府阿利行為に満ちたやっつけ仕事をされる沖縄はたまったものじゃない。これは国家安全保障の問題ですらないのだ。沖縄は、兎に角米軍基地をこれ以上作らせないし、今ある基地も日本国全土で平等に受け入れることでしかこの国の「民主」的公平さを醸し出せないと思っている。つまり、明らかにこの国は、沖縄に対し偏頗に国家安全保障負担を押し付けている、ということに日本中で気づかなければならないということさ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の5

2013年03月24日 19時20分05秒 | 政治論
 理念としての「負担軽減」などというのは、とうの昔に賞味期限が切れている(普天間返還ばなしの始まりから一体何年たっていると思っているんだ?、その間も普天間の赤ん坊、小学生はじめ住民は夜昼問わない爆音騒音に悩まされ続けているんだぜ、ちっとはそのことを想像してみろ)。
 にもかかわらずこの国の政治家どもは臆面もなく(恥ずかしげもなく)この古びた嘘を繰り返しているが、おまけに「普天間返還」されるとしてそれが実際に完遂されるのはいつになるかというと、例えば移設先が見つかったとしても(辺野古に固執する限りありえないが)、グアムのインフラ整備が遅延しているおかげでかれこれ10年以上先の話なわけだし、今や米国財政危機から国防費が大幅縮減されグアム移転費すら予算計上もやっとという有様(つまり普天間は既に事実上固定されたってことさ)なくせに、今更、到底穏当に着工できそうもない「辺野古沖」に大軍事基地を展開して一体何をしでかそうというのかい。そんなにかの共産国中国が怖いのか。そんなに北朝鮮に怯えている国にこの国の国防を丸投げしてよくもまあこの国の民は平気でいられるもんだ。
 少なくとも今回の辺野古沖埋め立て承認申請提出をもって、「負担軽減」につき何事か劇的に進捗したなどと夢にも思わぬことだ。この国は戦後一貫して実に驚くべき忍従を県民に強いているってことを、君たちは一向にわかろうとしない(わかるということは、「では国内平等に負担を分担しましょう」ということさ)。
 だから「国の安保のためにこれからも沖縄に負担していただくしかない」などという度し難い半可通を口にできるってわけだ。普天間ばかりではない、嘉手納爆音訴訟、高江のヘリパッド建設によるオスプレイ騒音、墜落危険性、米軍ジャングル訓練による自然破壊、環境侵食、そして沖縄住民に対する、野蛮な植民地主義にとりつかれた「ドマグレ」どもが「地位協定」という治外法権をいいことに悪の限りを尽くすといったふうに、基地あるところ、いたるところで弱者がストレスの多い生活生存を強いられている。従ってどう考えてみても日米政府の「辺野古」ゴリ押しは多くの県民の怒りと無際限の抵抗をいよいよ呼び覚ますばかりだ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の4

2013年03月23日 12時50分48秒 | 政治論
 辺野古の座り込みが「三里塚」とは意味も内容も相違することを本土人は少しも知らないが、それは沖縄県をその他の46都道府県と同一地平にあると国策的に思い込まされている実情からは仕方がないといえば言える。
 筆者もまた彼らと同断であり、かつての沖縄に関する無知無関心傾向については今更慚愧に耐えない思いがする。現在でも沖縄認知に事欠き「ウチナーグチ」(沖縄方言総称)など及びもつかぬ複雑難解さに辟易する始末で、「沖縄のことは沖縄に」という諺言に依拠するしか方途はないという情けない状況だ。
 この沖縄に関する無知さ加減から出発してこの6、7年のうちに見聞きしたところでは、改めて本土政府が加える沖縄施策の偏頗性、差別性に驚愕する日々の連続ではあった。
 これに就きつらつら述べ立ててみたところで詮方ないが、ところで、原発が地方の僻村に押し付けられたのと、米軍基地がとりわけて沖縄に押し付けられた経緯は根本のところで相違している。この相違をしかじかと並べ立てる愚を犯す必要もないが、原点はどうしてもその歴史的事実に還元される。
 「頭越し」政策強行は、この国と琉球沖縄との、歴史的な事実の培養が生んだ特殊な関係性から、国がその穏当な手立てを失って繰り出すのである。勿論米国がらみで、米軍が「銃剣とブルドーザー」で県民の私有地を強引に奪い取り、次々と軍事基地を建設していったあのやり方を事実上踏襲しようとしているのである。
 「反発」というが、そうではない、裏切りと失望の歴史が助長した国への、本土への不信、不信頼性に極まる県民感情が消し難く実在する結果自然発生する、「国家対人民」という意味で悉く対立する「力学」にほかならないのだ。
 つまり県民力は、国家権力に対峙するべく総じて通常の、本土並みのパワーエネルギーとは比較にならぬ根強さで抵抗する量にまで達している。この点も三里塚とはわけが違う。
 ガンジーは言う、「非暴力」運動で必要なのは自己のうちにはびこる「臆病と不安」を日々取り除く作業にほかならないと。「こんなことしてても結局国家力にはかなわないのじゃないか、無駄なことはやめてさっさと金もらって普通の生活に戻るのがいいや」、と思うのは単なる「臆病からくる不安」に負けただけだ。通常の愛郷心程度ではこうした一時的な情感に打ち負かされるがオチだが、ここにあるのはこれまでもこれからも繰り返される本土政府と本土人による国内植民地政策に対する、絶え間無い「不服従」と「抵抗」の日々だ。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の3

2013年03月23日 07時53分06秒 | 政治論
 平成25年3月22日午後、沖縄において完全な「日陰者」である沖縄防衛局にとっては、「辺野古埋め立て」申請手続書類も容易には提出することがかなわぬらしく、この度も一昨年と昨年年末の環境アセス及びその補正書提出と同じく「こそこそと」担当受授印もないままに書類入りダンボール数個を受付に押し込んでそそくさと去ったという。実情がこのような有様なのにかかわらずその行為は「号外」となって大々的に喧伝されるという、甚だ不相応な見苦しい国家軍拡事業の強行姿勢ということになる(目取真俊氏「海鳴りの島から」)。今更言うまでもなく、このような憎々しげなやり方で1割にも満たない懐柔籠絡成果をして米国国家安全保障傀儡政府である日本政府が、最終段階への片道切符(まさに特攻精神ではないか)を沖縄県に投げつける行為は、9割に及ぶ、日米安保そのものの忌避感に覆われた県民の反感怒号を呼ばずに済むわけがないだろうに。先の政権時にあからさまに噴出した県民感情は元々辺野古座り込み等前提的にあった「条件付き普天間返還」に対する、10数年に及ぶ徹底した反対姿勢のほんの部分的な表徴に過ぎず、いかにも「進捗している」かのように喧伝するメデアマスコミはじめ本土の偏頗な報道姿勢とは裏腹な県内情状を、多くの本土人は知る由もないとして、さて同じ日本人にありながら、こうした日米安保強行路線を何げに黙認する卑劣さを、やり過ごすその精神的堕落につき多くの識者がいかにも知ったふりして「フムフム」とひとりごちる傾向は、残念ながら到底承認承服できないものとしてある。一方申請ねじ込み行為に対する県知事の反応は、彼の本性を垣間見せる甚だ危険な「変節」の匂いがしたのは筆者だけだろうか。この特異な日本政府の有りようとは別に、米国国内事情が財政危機から国防予算に関し戦々恐々としていることを彼ら政府官僚は焦燥の念とともに見つめていることだろう。「普天間固定化」は(海兵隊受け入れグアムインフラ整備の遅延及び緊縮財政から)事実上向後数年にわたっては確実視されているし、「負担軽減」の実効性はとうの昔に破綻している。いかに嘉手納以南基地返還が実施(何年かかるのか知れたものじゃない)されてもその状況に格段の変化はない。米国シンクタンクあるいはニューヨークタイムス、上院議員などには辺野古移設不可能認識移設見直しの意見が当然に沸き起こっている。それは彼らの事情に過ぎないが、沖縄の主張は、沖縄戦で代表的に体験された悲劇、「国内差別」の本質、に基づく「非戦」「反安保」意思であり、米軍基地からの世界戦争発進行為を不作為に担保しなければならない罪過負荷への忌避感である。彼らが扇動する「共産主義」脅威論はなんらの説得力もない。彼らのやっていることは産軍複合経済主義の醸し出した軍需貪り行為にほかならない。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の2

2013年03月21日 22時22分26秒 | 政治論
 首都圏連続不審死事件(被疑者木島佳苗、被害死者3名、ほか詐欺窃盗数件とその未遂事案)の百日公判中に見られるこの事件の当事者たち(被害者加害者双方)における特異性は、この種の事件におけるこれまでの、情念の確執を根拠とする事件生起傾向としての視点が、絶え間のない疑問符とともに崩れ去り、裁判自体確証のない断罪に落着する異様な事態となって現代社会に顕現することとなったのだが(現在被疑者控訴中)、多くの関心の根拠となるその数字的残虐さに比して、さながら「真空地帯」で生じた密室殺人というドライな内容に終始する事件の特徴から、「出会い系サイト」やら「ブログ」「メール」といったIT機能にまつわる内容の、所謂「ネット社会」性に依拠した市民生活の生んだ猟奇事件、といった捉え方がいかにも相応しいように考えられているわけだ。
 バーチャルリアリズムと称したこの時代色は、様々な断面に異様な面貌を晒して臆面もなく立ち現れている。しかしこの「ネット社会」なる本質については未だ明らかにはされてない。
 この事件乃至この種の事件、あるいはそこに登場する人群に際立って見られる「社会規範の欠如」とか倫理感の希薄さ、あるいは異常な反社会性に対する摩滅した感覚的反応といったところに垣間見られる、独特の「間化」された空間こそ「ネット社会」の負の性格ではある。
 このブログもどこの誰ともしれぬ不特定な人群の目の前に無作為に晒されるが、同時にこれらの「声なき目撃者」を度外視した、孤独で放縦な個人というのが人知れず自己主張を繰り返している。
 しかしながらこの現実的に空虚な自己主張には、求められ切望された答えというのは存在しない。答えは決して与えられない。バーチャルとは「かのような」囲い込みであり、「である」こととは永久に平行なまま推移する。
 バーチャルリアリズムとは、この決して交わらない自己と他者が、生身の娑婆に出会った時には、あらゆる悪条件を排して合目的的にひとつの架空の現実を可能にするということだ。だから想定すらままならぬ異様な事実関係がそこに発生して何らの不思議もない。この作られた第二の現実を人々は「ネット社会」と名付けているのであろう。すると現代人は多かれ少なかれこれに浸潤され、否応なくふたつの現実に襲撃されつつ、娑婆苦の中に「本来性」を発見する複雑な危うい生存を時々刻々継続しなければならないことになる。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 27の1

2013年03月20日 18時10分23秒 | 政治論
 仲井真知事は沖縄政策協議会で「普天間県外移設」と「主権回復の日」祝賀式典に対する沖縄側からの疑問符を示した。彼が安保容認派であることには変わりがないし、彼の県外移設の主眼は全県的に反発する現行案の実現不可能性乃至無際限の返還遅延に対する懸念といったスタンスにあり、決して彼自身の実質的理念自体でないことは承知しておく必要がある。
 彼は県外移設を指導的に主張しているのではない。そこに熱はない。それは(情熱は)趣旨は違うが先のオスプレイ配備反対県民大会を欠席した事実においても示されているし、第32軍首里城地下壕説明板記述改竄や、節目の政府要人対談における密談事実にもその中央向きの性格が現れている。
 彼はどちらかというと財政畑の人間であり「取引」「駆け引き」「打算」を得意とする政治家であるため、現行2期目もほぼ難なく経過している次第だ。ある意味「神輿」としては県民にとって都合の良い首長といえるが、現実的な課題解決の決定打を持ち合わせない保守穏健派に属する政治家には相違なく、住民の夜昼問わない「座り込み」現状に対する「人間的アプローチ」なんてものには無縁なひとらしい。
 ただ彼のようなタイプの政治家というのは実は本土にあっては最もありふれたタイプであり、しかも戦後田中角栄あたりで終わった「国士」的政治家というのは、向後金輪際現れまいと言われている。
 だがこの事は概して現代「政治的絶望」の因源とされるが、実際は「民主主義」を実質的に実現するにはむしろ望ましい傾向に思われる。本来政治に望まれるのは民意の方向に出来るだけ穂先を向けることに尽き、そのための現実的技術的方策を打ち出す機能の要請であろう。
 当然官僚という役人の仕事は可能な政策立案のためのデータ、資料、統計における分析総合業務であり、政治家は官僚の仕事の分限において自己の仕事の正確な、誤差の寡い判断材料を得ることとなる。政官民の分業形態こそ民主主義の基本であり民の業務は常に政官への「文民統制」機能となる。これを担保するのは新聞等報道ジャーナリズムの役割にほかならず一定の歴史的評価を打ち出すきっかけとして機能しなければならない。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 26

2013年03月17日 07時10分15秒 | 政治論
 第一次大戦後のドイツの惨澹たる状況にあって、ヒトラーの社会経済政策が当初極めて良好な成果を上げたことは、彼の言わば珍しい大手柄には違いないし、これにより彼の邪悪な独裁政治が大衆的人気を確保し、人心を巧みに把捉操縦する強力有効な機能を準備したことは了解されよう。
 しかし「邪悪な」ヒトラーの野望に満ちたファシズムは、マイノリティの弾圧阻害排除の、機械的計画的な実行という犯罪傾向を伴って、その実際的な施策を強引に推し進めるというものにほかならなかった。
 大衆を篭絡することにかけては彼以上のカリスマは史上にも稀有なのだが、合目的的政治、つまりは絶対主義的独裁政治にあっては、これも極めて効率の良い人心収攬手段のひとつに過ぎないのであり、「アメとムチ」はここでも実例として生きているということになる。
 何らかの期待感だけで現象している、先物買い的な株価上昇円安加速を経済学的に評価しようという、現今安倍政権への妙な擦り寄りもみられてきたが、過去の例には、こうしたバブル的空気の最終結末を史実化して示していることを危機的に知らねばなるまい。
 つまり、こうした景気動向の上向きな傾向の一方には、チェリノブイリ以上の悪条件を醸している、原発事故の深刻さを棚上げするかのように「原発ゼロ」見直し、つまりは再稼働新設増設を可能にする方向への転換によって、「フクシマ」を切り捨てようとしていることもあり、更には4月28日「主権回復」祝賀にみられる、その日が「屈辱の日」たる一方の沖縄に対する軽視断面があり、合意事項を大方踏みにじる米軍オスプレイ飛行訓練実態に関する抗議改善要請の欠如、県が大挙して反対している「辺野古移設」を何が何でも(今度は一体化兵力の確保ときた!)推進しようとして、もともと政治に疎い地元漁協を容易に籠絡し、公有水面埋め立て許可申請をしようとしている。
 この、言わばマイノリティ阻害軽視排除の犯罪性は更に、東村高江におけるオスプレイヘリパッド建設強行による住民迫害、環境破壊となって顕現している。
 メデア・マスコミの無批判な上昇志向の扇動傾向は、こうした一方における阻害迫害排除事実に対する警告を含めたジャーナリズムを展開することなしにはただの体制迎合にしかならず、戦前戦中の報道一般がそうだったことを徹底して自己批判しなければなるまい。「決める政治」は結局拙速と議論の希薄という、バランス欠如傾向を醸す。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 25

2013年03月15日 23時30分56秒 | 政治論
 彼はいかなる意味でも同盟しない。いかなる利益・効能・安心のためにも他人と手を組むことはない。従っていかなる同調の要請にも同化することはない。平和主義さえも、結託する気はない。彼の手には何もない。せいぜいが、えんどう豆の脇にはびこる雑草のいくつかを刈り取るために小さな鎌を握るだけだ。彼はただひたすら草を刈る。何度も何度も鎌を振り下ろしては地面から草を除く。それは無限に続くようでありながらいつの間にか猫の額程の面積を凌駕している。刈り取ったあと、不細工な竹箒で丹念に掃き均す。すると何故かいかにも清々しく清められた空間が、精神のどこかに涼風を吹きかける。彼はそれで一日を終える。
 沖縄にとって「屈辱の日」としてある4月28日を、安倍内閣は「主権回復の日」とするらしい。こうして沖縄は益々日本国、本土、ヤマトゥから遠ざかる。祖国復帰を望んだ先には、その祖国から爪弾きされる待遇が用意されていた。米軍民政府の暴虐から脱せんとして志ざした琉球処分以来の日本国への復帰は、むしろその米軍を押し付けられ、県土本島の2割近くを基地存在に奪われるという、復帰前となんら変わらぬ処遇で迎えることになった。
 ということは、明らかに沖縄は日本国に復帰すべきではなかったということだ。というよりも、この復帰は、自分たちにとって、日本国憲法下に属しても本土の日本人とは同じ質の日本人でないと否応なく自覚しなければならないことを意味した。
 だが琉球文化はこうした本土の無神経を聾桟敷に置きながら、おのれらの自己実現を苦もなく成し遂げていた。哀調を帯びながらも格調高い透明さで歌い上げる独自の民族的な「詩」をモノにしていたのだった。
 これとは別に、「屈辱」に馴らされた戦後沖縄の本土化する「不純物」は、この島にも複雑な、猥雑な空気をもたらし生活を侵食している。サンゴもオニヒトデに食い荒らされ、オスプレイは倍加する騒音を轟かせ、「人殺し」術を叩き込まれている米兵たちが女に飢えた目をぎょろつかせている。
 札びらチラつかせる沖縄防衛局が名護漁協を誑し込んだ。漁協にとって東部の「辺野古区」さえ我慢してくれれば、山のこっち側にいる我々にさして影響のない基地の容認は比較的容易である。まして将来の潤沢が約束されれば不足はない。沖縄の自然破壊なんて知ったことじゃないと、同盟したわけだ。
 彼らを責める気はない。彼等に欠ける何かについて特に知っているわけでもない。稲嶺市長が「悲しい」といったことだけが耳に残る。市民をこのように分断する彼らのやり口が憎々しい。人間であることが悲しい。そう思わせる日本と言う国がどうにも許せない。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 24

2013年03月13日 11時57分31秒 | 政治論
 安倍晋三が、東京裁判を戦勝国による偏向裁判だといったことについて、彼がそこに一定の歴史認識を示した(通史拾い読み、ただの聞きかじりとしか取れないが)ところで翻って、4月28日「主権回復の日」とする閣議決定を考えるに、沖縄では県知事はじめ、この日本国首相の政治家としての無知さ加減に度肝を抜かれた、という地元の大半の感想につき彼が答弁したところを今更取り上げるまでもなく、一体に日本人の中のとりわけ本土人たるヤマトンチュが、沖縄に関するその目も当てられぬ無知、無関心、でたらめさを発揮して論う度し難い愚かしさというのは、ここに移住して文献を紐解いて気がつく自身も含めた犯罪的性格を持っている。
 従って、およそこの国の沖縄施策は、基本的にこの無知無関心でたらめ(余人の論考を掠める受け売りが殆どだ)によって醸成された、「沖縄イメージ」で占められた日本国常民意識に水を得て、対米追随、既得権益保持、安保マフィア暗躍、合衆国国家安全保障謀略戦線から構築された、旧帝国的官僚支配の「官尊民卑思想」に基づく、国内植民地主義の横行にほかならない。
 彼ら本土人が、この真相についてどれほど知っているかなどどうでもよい。要は当のアメリカ合衆国が、この日本国のおおよそ見当がつく不健常な対沖縄県乃至対琉球思考法に便乗して、祖国復帰運動に至った軍民政府横暴の反省もなく、どう見ても野蛮な非近代的軍事植民地主義を貫いてやまないその反世界性について、世界の識者が論断しない怠慢を見過ごすことはできない。
 かつてバートランドラッセル、ジャンポールサルトルらが立ち上げ、米帝国主義のベトナム北爆を批判したあの時代の悟性の躍動は、最早到底望めないものなのか。というよりも、どうやら「西洋の没落」は、今や彼らの一種経済危機に押し詰められていよいよ本格化したということか。米国財政危機も予断を許さぬ深刻さを帯びて、文明的衰退を余儀なくされるのか。とすれば現今アジアの勇躍はむしろ希望めいて見えなくもないではないか。(つづく)

詩398 沖縄からのメッセージ 23

2013年03月12日 07時48分45秒 | 政治論
 ふつつかながら自身のブログを赤面再読していると、自ずから染み出す傾向というのに合わせようという意識が働くようで、進歩のない枯死寸前の文章傾向へ落ちていく気がされる、というのはどうでもいいのだが、名護漁協の辺野古埋め立て同意というのは勿論何年も進捗しない普天間問題の結論でも始まりでもなく、様々あった茶番劇の一例にすぎないことは了解されよう。
 同様に名護市民の一部から辺野古移設推進の要請があったことも、こうした形勢を意味することは、沖縄県民なら誰でも知っている。沖縄は例に漏れず一枚岩ではありえないし、逆に言えばこれを、国策の無理強いが地域住民の仲を切り裂く悲劇として捉えていることも事実なのだ。
 漁協は補償交渉において大きく国と隔たっている補償額について、むしろ妥協知らずの抵抗を示すべきなのだろうが、残念ながら彼らの頭の中では、貧窮に喘ぐ辺地漁業界と自身の街の財政的豊潤を願うばかりに、日米政府によって侵食されている郷土の惨状には思い至ってないかこれを後回しにしている。
 コンクリートから人へ、ではないが、古くて寂れていて見栄えのしない自然環境というのは、失われたときその真の価値に気づかされる、ということを、福島第一原発事故で故郷の土地が文字通り死滅した「帰還困難区域」指定住民の例に学ぶしかない。
 コンクリートで「スッキリした」景色を良しとするのは都会人の思考法であり、田舎者がそこに立つと、どこかむき出しにされて所在無く戸惑う姿しか見えてこない。欠けているのは自然が抵抗する人工への無際限のたたかいであり、人間がこの自然の法則においてひとり例外的に存在するわけではないということであり、異国からやってきて我が物顔に軍事基地を作ろうとしているのを、アメダマもらって黙って眺めているのは児戯に等しい。自己保存の法則からすればどうかすると「命懸け」で「非暴力不服従」行動に至るのが人間らしい意味の自然だ。(つづく)