沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩506 文民の怒り 20 現状 4

2014年02月28日 10時01分19秒 | 政治論

 明らかに言えることは、米国が世界的理念性に基づいた展望において琉球沖縄弧状を、アジアのなかの一独立国の一地方自治体として認定する正しい見識にないことは全く不問に附され、その国家安全保障政策構想に基づいて、日米政府間の片務的同盟観を言い訳に、日本国敗戦後の軍事的世界支配構想を東西対立、防共思想、あるいは世界警察的主導性確保、自由主義陣営の人道的役割といったファクターを主軸として確立し、今日に至るまで殆どその基本方針を変更することなく来た、ということだが、一方、世界は欧米列強支配の19、20世紀体制から戦後次々と大小国家群が独立を遂げ、資本主義経済における市場拡大植民地主義、乃至帝国主義的支配の構造を民族自決的に打破していく流れが生まれ、事実上、あらゆる世界制覇的な覇権国家の存在を否定する傾向を醸し出し、言ってみれば、戦後の「コミュニズム対カソリズム」から現代の「市民対国家」、「民主制対ナショナリズム」、という対立軸移行が起こっているというのが真相である。

 今、日本政府は、日米同盟という憲法違背軍事同盟を基軸に、これを日米間外交関係の総本山と決め付け、更に敗戦国処遇にある古色蒼然たる戦後体制をどこまでも維持し続けることに全力を挙げている。この極めて不健全な国家体制が生み出す国家主義が、現在琉球沖縄弧状に襲い掛かってきて、あらゆる地球環境理念や人道的見解、あるいは地方自治権守護などに関して顧慮することなく、米国の言うなりに一大軍事基地を辺野古に建設しようと企んでいるし、現在高江では実際に亜熱帯原生林破壊と住民追い出しのヘリパッド建設が堂々と進捗している。

 罪とは何か。ラスコリニコフは、罪を犯すことに耐えられないという人間性はどこまでも付いてくるし、果てのない劫罰としてひとを意識の上で打ちのめし続ける、という自然性を見る。それは史上英雄と呼ばれるナポレオンやアレキサンダー大王と凡人を比較する根本的な要素ではないのかもしれない。もし罪の意識が万人共通のものならば何故国家はこれを総体としてもち得ないのだろう。国家が人間性の集合体ならば一個人の思いはそこに反映されるが、それが機械的な組織構造によって運営されるときには最終的にどんな犯罪でもやり遂げるという一例をヒトラーナチスに、またアイヒマンに我々は見た。とりわけハンナ・アーレントが指摘したように、殺人の実行者は平凡にして勤勉几帳面な一職業人にすぎなかった。

 国家犯罪は必ず歯止めの利かない組織的犯罪に陥るのであり、これを瀬戸際で食い止めるには「自己判断」と「自己責任性」への、不断のギブアップしない自己検証を各自が怠らないことに尽きる。(つづく)

 


詩506 文民の怒り 20 現状 3

2014年02月27日 07時33分10秒 | 政治論

 ソクラテスは「悪法も法」として個人の、あるいは対処主体の受動性に鑑み、現状を時間的現在の究極した確定状況と見做し、ここに存在する既定の法秩序を受け入れ、毒杯をあおって自死したと、伝えられる。その詳細は彼の「弁明」に開陳されているが、勿論自ら記したものではなく、我々は其処に彼が言わんとしている真正の精神を眺望するしか方途はない。彼が生涯一編の著作も残してないことは、彼の現場主義、現実の問題に直面して考え、対話し、対話の中でのみ答えを析出していく独特の哲学的論理学的方法からきている。この方法は、取り立てて難しいものではないのだが、対話による「肉声」が持つリアリテイやその質感、あるいはインパクトなどは論理的筋立てに微妙に影響して、そこに何らかの人間的な、情緒的な意味合いも生じて味わい深い関係性さえ作り出すものであろう。人間と人間の人間的交渉においていかに論理的に課題、問題を解き明かしていくか、「白熱教室」のような可視的透明性を基礎とする自由参加の浩然たる議論が展開される。しかし、そこに「賢者」はいない。いてもいいが彼は正しくない。尤もそれは彼個人に帰一するだけの単独な問題だ。賢者がいなければ愚者ばかりか、といえばそうではなく、「無知の知」を秤とする最大知だけが求められているのである。

 国がやろうとしていることは結局ひとつの想定、仮想を基にした軍事的解決法の模索であり、机上の空論でしかないが、これを法定化し施行したとき我々にとって別の現実を見せられることになる。即ち沖縄県名護市辺野古崎につき、かねてから長期計画のひとつとされていた新米軍軍事基地の建設、という現実だ(従って、日米政府の恫喝、偽善的欺瞞に屈服させられた仲井真県知事は普天間のための辺野古斬り捨て、という歴史的失政に先鞭をつけてしまったのだ)。これが、修辞学的欺瞞にさえ当たらない「普天間飛行場返還」にかこつけて「代替施設」という嘘の名称を附され実行されようとしている。かくして辺野古の住民も漁民も名護市民も沖縄県民も、反対する多くの議員、首長たちも、その存在を無視されて、呆然と立ち尽くしながら、日米政府とその手先たちの「粛々と」難なくクリアされる事務手続きによってどんどん進捗する国家的暴力的戦争準備行為を、口をあけてただ凝視している、という現実。(つづく)


詩506 文民の怒り 20 現状 2

2014年02月25日 18時45分00秒 | 政治論

 完全な治外法権であり、地方自治を蹂躙する悪法そのものである、日米地位協定が持つ刑事特別法を駆使して、国交省と国家公安委員会は辺野古崎に今後展開するであろう「国家対人民」闘争の事前策を練っているという。さもありなん。安倍晋三ファシズムのこれ見よがしの弾圧体制がここ沖縄県で露骨にも住民をがんじがらめにしようとしている。島尻安伊子という密告者がイエスを売ったユダさながら、なんの得にもならない同胞(彼女自身は出自でないが)引渡し行為によってこの国の権力者に媚を売った発言をしたのはつい先だってのことだ。歯止めの利かない公約破りは、同時に倫理的な砦をいとも易々と明け渡し、底知れない蟻地獄へのめりこんでいく様を見せ付ける。今次百条委員会は県知事追放の第一段階にすぎないらしい。あのように淡々と、なんのためらいも言いよどみもなく自己弁護できることは、彼らがその道徳的背景を喪失している証明であり、新聞記事の「不発に終わった」という評言はいささか的を射てない感じがする。いずれにしても日本国政府が、一人の人間の人生程度に長々と日米関係の不平等性から脱け出すことなく、琉球沖縄にその肩代わりの8割近くを負わせている状況下、彼らの腐った根性が繰出す国家施策の沖縄蹂躙がすんなり進行してたまるか、ということになっている。(つづく)


詩506 文民の怒り 20 現状 1

2014年02月24日 12時02分30秒 | 政治論

 もしこの沖縄県知事仲井眞弘多が「遅れてきた国家主義者」だとしたら、県と県民は安倍晋三と同様な手口と画策によって、全体主義の嵐に巻き込まれる国内最初の人民主体となるのかもしれない。それは取りも直さず「沖縄戦」という、民衆に襲い掛かった史上最悪の「戦争のはらわた」の再現、という実質に叩き込まれる、ということであって、「熱い戦争」でも「冷戦」でもない第三の戦争状態をより如実に体現することでもある。実際には、銃後でもない、軍事植民地として扱われている現在にあっても沖縄は、望まざる国際間の紛争の一端を担わされているが、これに拍車をかけ自衛隊の増派増強、人員強加配備が進んで益々一大不沈空母化するというシナリオだ。県北部、亜熱帯樹林帯の本格的な軍事訓練基地化(高江ヘリパッド建設)が進んでいる状況下、辺野古に巨大滑走路と艦船寄港拠点が着工の運びとなったなら、日米合作の沖縄特化ファシズムによる際限のない人民人権蹂躙の歴史が、なんの人道的な理念性も立ち上げられないうちに琉球弧状を勝手気ままに侵食することになるのだ。

 簡単に言うと、こうした日本国情の変移というのは、戦争実体験者の少数化(戦後69年、実質75歳以上の体験者、語り部としては当時既に15、6歳、現在80歳以上の人でなければその任に堪えまい)と戦後戦無世代の主導に委ねられた国政、という実態があからさまに現象化している(歴史認識とか国家的な責任性、負の遺産の継承とかも正常に対応されてない)という、みもふたもない話だ。何故仲井眞は遅れてきたかというと、これもくだらないことで、要は本卦返りが成った(旧来の保守政権が元の位置に収まった)政情にこの男がチャッカリ乗っかったというに過ぎず、恐らく殺されでもしない限り、この男が「承認の不透明さ」を認めて県民県意に譲歩するなどまずありえない。それが彼の政治スタンスであり、元財界人としての揺ぎ無いブルジョア資本主義信奉であり、元通産官僚としての「官尊民卑」思想だ。幽霊の正体見たり。古色蒼然たるガチガチの保守停滞主義者にほかならない。(つづく)

 

 

 

 


詩506 文民の怒り 19 個人の力

2014年02月23日 14時35分12秒 | 政治論

 浅田真央さんはごく幼少時より頭角を現し、数々のジュニア大会に並外れた成績を残し、シニアに移行してからも他の追随を許さない安定した成績で経過していた。彼女がその運命を並みのスケーターとは一線を画す波乱に満ちた軌跡で象り始めたのは、奇しくも前回のカナダ五輪でのキムヨナとの頂上決戦からだった。今回もとりわけ優勝を逃したキムヨナ選手側からクレームがついた、演技採点を巡る審判の流動的恣意性が、そのときは、キムヨナ自身の驚異的な高得点を巡って、浅田真央さんはじめフィギュア界周辺に様々な憶測として噂されるに至った。それでネットはじめマスコミマスメデアでは、そういう結果的な成績が示す国際的な評価に対するある種の不信感から、逆に浅田真央さんの人柄、ひたむきに練習する姿、などに対する情念的な思い入れが深度を増し、彼女を見つめるまなざしはいつしかわが子、我が娘、あるいは果敢ない花々に対するような慈しみに変化していった。そして直後の世界選手権での彼女の優勝は何故か当然至極のように成就したのだが、スケーテングの内容改造という荒療治を経て迎えたその年のグランプリシリーズ他は、かつてない散々な結果に終わったのだった。尤も彼女に対する演技評価は、此処を通過すると次第に向上していく。幾分時代変化に左右されるフィギュア審判サイドの冷酷な恣意性はその後も遺憾なく発揮され、キムヨナ、コストナーの不在時で圧倒的な成績を示しながらどこかで必ず裏面性を垣間見せる世界情勢のなか、今回の例のSPにおける信じがたい惨敗が奇跡のように舞い降りた。奇跡のように....それはこの不世出ともいうべき天才スケーターにとっては、彼女の望むべきスタイルへけれんみなくシフトするには絶好の環境整備にほかならなかった。我々には想像も付かないところで苦心惨憺するのが「天才は努力し得る才能」と言われるゆえんである。案の定、FPでのこの人の演技は未だ十分に開花したとはいえないにしろ、全世界を不思議な感動に引き込むだけのインパクトを備えていた。

 上記女子フィギュア談はある程度事実に基づいた素人の勝手な思い込みに過ぎない。もしかしたらこの選手は文学的修辞には最も相応しくないスポーツ選手かもしれない。筆者の印象はどこまでも印象であって、偶々元首相の片言が無意識に醸しだしたナショナリズムに反応して筆者が、こうした日の丸突撃隊的括りで、個人の個別の人生すら捩じ曲げてしまうようななんらかの印象操作的危惧感を覚えたということだった。NHKなどは、以前から、徐々に政府の御用メデアになりつつあると思っていたら、安倍晋三の息が掛かった連中を送り込むことでいよいよ信用ならぬ偏向情報を垂れ流すに違いない有様になってきた。(つづく)


詩506 文民の怒り 18

2014年02月22日 22時07分48秒 | 政治論

 百条委員会の最終的な目標は、辺野古埋め立て申請に対する知事承認が県民の納得いく理由と内容で下された判断かどうかの洗い出しであり、仲井真県政が首尾一貫辺野古斬り捨てに終始する体制にあるというのなら(つまりこの特別委員会で、知事はじめ県幹部のそれが県民に向かって明らかにし得ない経緯をもってなされた行政行為だという結論に達したのなら)、少なくとも「県外移設」主張者たる与野党合同の結束をもって仲井真県政自体に「不信任」の烙印を押すべき話(委員会結論に従えば)である。そして、高江のこともそうだが、今後国側にあって辺野古に実施されるべきあらゆる工事関連行為に対し住民有志とともに「座り込み」はじめ徹底した工事阻止行動に入るべきであり、当然に名護市長稲嶺進氏への全面的な協力体制を早急に構築すべきだ。仲井真老獪知事の手練手管にしてやられてはいられまい。世界中の理念的支持と賛同を得ている名護市民の選択意思を軽んじて、あたら永らうべきその志を朽ち果てさせてはならないし、この正念場に至ってこれまでの蓄積され確定された県民意思を中座させてはならないのだ。(つづく)


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 8

2014年02月22日 10時36分13秒 | 政治論

 いささかミーハーな話になるが、例の冬季五輪での元首相発言と、対蹠する位置に女性ながら立って見せた浅田真央さん(彼女は全くそのように意識してないが)のことは、筆者には明確に次のような連想へ誘うきっかけとなった。つまり元首相はこの安倍政権と安倍晋三並みに、一個の国家主義的立ち位置にあって、国際的なコンペにおいては個人にしろ団体にしろ「日の丸」を背負って代表になっているという見解で物を言うので、一個人の個別的なドラマは明らかに問題の外にある、と感じ考えていることは間違いない。それで、こういうものの捉え方、発言趣旨は彼らに共通であり決して変更しないし、明らかに一切を国家の括りで縛り上げ、個人を抹殺する方向へ足早に進むのである。沖縄県知事の百条委員会証人喚問は、この仲井真知事もまた同様な立ち場を取っている様子が見えている。彼が県人であることは間違いないが、彼の意識の大半は政府、与党、保守主義、安保容認、対中脅威論、など一連の戦後日本保守体制に依拠したものになっていることは更に明らかなことである。彼が辺野古を斬り捨てたのは、沖縄振興策の過大評価ばかりが因源ではない(普天間が5年内に運用停止になるなど全くありえないことではないかい)。このやりかたがすなわちこの国の戦後国策のありようだったわけで、痛みをより少数な部分に肩代わりさせることをよしとするやりかたこそが、基地も原発も理念的正当性の欠如を糊塗する方法そのものだったのだ。(つづく)


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 7

2014年02月21日 23時46分52秒 | 政治論

 現在沖縄県では、昨年末仲井真県知事が、政府の辺野古埋め立て申請に対し、承認の公印を押した事案を巡って「百条委員会」が開催されている。これは文字通り地方自治法100条に基づく、地方議会に付与される特別委員会設置権限の行使を意味する。主に県管行政事務に関する議会の調査権限行使で、その内容は国政調査権に匹敵する弾劾性を有し、司法権並みに、虚偽の証言、あるいは証言拒否、証拠書類提出拒否などには禁固罰も課されることがある。「県外移設」を曲がりなりにも標榜していた県知事自ら実行した、県民過半の反対意見に集約された案件に関する、これと真逆の承認行為はその「判断と責任」が当然に検証されるべきものであり、単なる事務手続き上の疑義に関する通常調査の範囲で収まる内容にはなっていない。つまり、県担当官僚たちの証言に基づく徹底した検証がされるのであり、当然に仲井真知事の政治責任、瑕疵業務判断行為、が問われるし、実質上その政治倫理性もあきらかにされなければならない。彼がいかに取り繕うとも彼の言動から発せられる彼の行政官としての、あるいは県政トップとしての資質は県民のまえに否でも流布されると思わねばなるまい。惜しむらくは糾弾という質の突き上げにまでヒートアップしない不思議に穏当な委員会のように思われるのだが。(つづく)


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 6

2014年02月20日 16時50分35秒 | 政治論

 ファシズムとの闘争とは究極のところ、個人の個別の、独自の内面における、真に自己自身と知られつつある運動体的な核心において、これに対峙し外圧的に危害を加える公的な政治的主張と対決することである。従って、その闘争の始まりは、思い込みや蓋然性、あるいは偏見、決め付け、を思考の道筋から排除すること。我々は、学術的な意味での政治哲学や社会学を行動の目途とするわけではない。又、文学的な意味での詩を問題にするのでもない。デルフィの神託は「汝自身を知れ」だったが、それは同時に自身の「無知」、他在の「不可知性」の承認だった。究極のところではこの「不可知論」に依拠するのである。

 さて、「非暴力不服従」の思想的根拠を探すと、ソクラテスの「不可知論」以降、本来熟知し得ない体制側思考とその判断、結論に対し、人民が(体制側の指示について納得する前に)進んでこれに同調し、加担し、あまつさえ余人を当局に密告するというような反応というのは、明らかに了解し得ない案件を鵜呑みにし、盲目的にその支配下に置かれ、不如意な生存形態を無作為に甘受するということだが、一国の客観的緊急時に出来する明らかに政治機能的有効性を持つような場合を除けば、個人の思考的自由を損ね、生存基盤を脅かし生活的不如意を理由なく許容するということにほかならない、という認識のもとに、本来具象化しない「敵」を特定の対象に限定して攻撃する行為(実際的暴力行為)を否定拒絶(殴るより殴られるがまし)し、個人の内面的な自由思考環境を確保し、自身の、自身からの内面的な思考だけを根拠に、他力にかかる公的な一切の圧力に無作為には服従しない、という内訳だ。(つづく)

 


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 5

2014年02月19日 08時01分08秒 | 政治論

 こうしてる間にもオスプレイヘリパッドは、やんばるの森にその高々手のひらほどの円陣を描きながら徐々に確実にこの地を侵食し、こうした自然全体に悪影響を及ぼす工事音、オスプレイ爆音、訓練兵士による人為的な騒音、銃声など、誰も何物も歓迎せず、許しもしない戦争の為の愚かな営みを、あの者たちの親分とこの国の馬鹿な政治家どもの采配で、この島で偉そうに、人の気持ちも考えないで継続し腐っているというのだよ。地元住民、有志が本来の通常生活を少なからず犠牲にして、決して十分でない活動体制で抗議反対座り込みを続けなければならない異常さは、米帝国主義と安倍晋三のファシズムが近代民主主義理念を食いつぶし、個人の生きる権利、健全な生活をする権利、「現実に」基本的人権を行使する自由性といったものを根こそぎ無視、蔑ろにし、踏みにじって顧みない悪徳政治家然とふんぞり返っている、憎むべき植民地支配者根性による。彼らは、第一に、無辜の一般住民が生活しているこの大地に入り込んで戦争用実戦訓練をすることは、してはならない、あってはならない事態だということに全く思考を巡らせないことを、犯罪的な無責任、殺人的権力行使、地元住民軽視蔑視行為、と断罪されるべき質にある。次に、当然にその自然破壊行為が糾弾される。こうした愚かしい前近代的な実態を臆面もなく継続して繰り返している日米政府の醜悪な正体は、逆にむしろ全人類が、おぞましいおのれらの浅ましくも悲嘆すべき性根として痛切に自己反省すべき事態ではないか。

 本土では、想定外の自然災害が次々と人民の生活に襲い掛かっている。人民の生活の不如意を招来しているのは、自然の警告に虚心に耳を傾け本気で自己反省しない政治とその担い手たちの愚にも付かない思い上がり、知ったかぶり、許しがたい怠慢、ではないのか。領土問題に鵜の目鷹の目状態に陥るのは必ず愚かな政治家どもで、自らの足許に火が付いていることにも気づかないその愚劣さだ。(つづく)


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 4

2014年02月18日 16時01分26秒 | 政治論

 当然ながらファシズム乃至全体主義は個人の孤独も、孤独が保証する思考の自由も、奪い取るか禁止するか社会的制裁に付すような働きをする。現在安倍政権は60%以上の驚異的な高支持率で経過している(個々の政策では反対者数が過半を占めるのだが)。「たいして成果をあげたというのでもない」状況にもかかわらずだ。ここにはマスコミマスメデアのある傾向が醸しだす空気、雰囲気によって民衆のありようにひとつの傾斜を加えている事実がありそうだ。「なにもしてない」がさも何事かをしている「かのように」見せかける役割をこれらの公的情報発信媒体が有している。一方この政権に特徴的な傾向はそれが確信犯的になされていることに脅威がある、震災トラウマからの回避思考病に蝕まれているということだ。しかも安倍晋三の五輪誘致演説に見られた、「フクシマ」原発に関する明白な詐欺言辞には、この政権の持つ欺瞞体質、性格が如実に現れていた。「被災地(ヒサイチ)....これも現状のカタカナ表記で特化されるらしい」の声は彼らの街宣的音声(おんじょう)によってごみあくたのようにかき消されてしまったが、「現実」は、五輪などには全く無関係な、不本意な日々の生活と将来への不安、絶望、失望、再起不能の挫折感に苛まれている人々がいる、ということだ。

 個人の孤独とは、集団化し得ない個人の自由な思考の実験場として考えられる、最大民主的特権状態を指すが、現今安倍政権が繰り出す特定秘密保護法や集団的自衛権行使容認、あるいは憲法の改悪、あるいは沖縄における辺野古埋め立て承認など、どうみても国民各自の「個人」の思考、発言、主張、を超えたところで、更には検証、精査、吟味の、公開された透明度でのふるいにかけられない状態のまま「法文化」されるようなはしりになっている様子が見えてくる。ここにこの政権の全体主義傾向、あるいは安倍晋三独裁体質を見なければならない。(つづく)

 

 


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 3

2014年02月18日 07時21分32秒 | 政治論

 本土から移住した者にとっては、漠然とイメージしていた琉球沖縄のことはむしろあとから徐々にやってくるもののように思えるのであった。既に老境に達したこの身にあって、さし当たって体験される事柄は、台風(来る年と来ない年があり、直撃すれば風速60mも珍しくないそうだ)、数日間しかない真冬(但し10度を切ることは滅多にない、曇天が多く比較的多雨である)、常春(とこはる)状態あるいは常秋(15度~20度)、殆ど変化しない夏の日の気温(27度~32度....最近33度も当たり前になってきた)、そして公共下水道の整備が都市周辺以外は殆どなされておらず、浄化槽頼りになっているため、いささか漏れ出す臭気が潮風と相俟って独特の匂いを醸しだしている。蝉は12月頃まで鳴いていてもおかしくなく、真夏のキンキンいう風変わりな共鳴音がまず印象的だ。前のめりに陰鬱で不機嫌な厭世観に囚われていた筆者はここに来て、本土の明らかに切迫した人間環境とは打って変わって、人々の中にありながら、「孤独」を手にしえた僥倖に安堵した。この「孤独」は、薄っすらと知らず何かに要求していたものなのだが、得られて初めて感じられる「自由の保証」そのものにほかならない。

 あとから徐々にやってくる琉球沖縄は、この「孤独」が可能にする「自由」においてしか見えてこない。しかし筆者にそれはいずれにしろ未だに見えてない。悪夢と予知夢の夢のような印象でそれは寄せ返す波頭のようなさまを、当たり前のように見せ付けているばかりだ。にもかかわらず、恐らくウチナンチュウがすること、言うこと、「現実」である。どうしたらこれを、そうと確かに信じきれるか、わからないが。しかし信じることの困難さは行為の妨げにはならない。だから、この「現実」を見、感じ、考え、なんらかの判断にまで突き詰めるしかない。この間の悟性の働きには個人の自由な意志が備われて全ては紛うことのない真正の「認識」へいざなう。これが実際真正かどうか確認することができないのはしかたがないのだが(初めに不信心が前提されているので)、いわば半信半疑の状態で今日まで来てしまった。確信など最初から人には与えられないものなので(不信仰の時代には「しるし」が求められるがそれは決して与えられない、というのはイエスの言ったところだ)、「死ぬまで生きる」ということと「いつか確実に死ぬ」こと以外にはなんの確信も得られない、ということになる(それすら確信ではない)。現実」は琉球沖縄が外的な力で強いられた不遇において一層明白になる。(つづく)


  

 


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 2

2014年02月15日 23時37分08秒 | 政治論

 安倍晋三が繰り出す国家主義が、突発的で日和見的な、一過性の断面を示しているという暗黙の誤解は、危険な傾向へこの国を引きずり込むだろう(総じて彼は局面においては政治成果を示している、その功罪に関する展望が目くらまされながら)。彼は曲がりなりにも新憲法を目指す国体改編(戦後レジームからの脱却)の意思によって政権を牛耳ろうとしているのだ。これに対し舛添新東京都知事の、少なくとも憲法観についての反論は正解ということになる。(但し、都知事の政治的な意味での足腰の弱さは、この原則論をも捩じ曲げるかと向後に危惧される面も否定できない、という評価もある。)

 欠けているのはいつも政治モラルであり、判断力批判の根拠としての「道徳的視点」が最上位の地位を維持し得ないこの国の、ある種のニヒリズムが問題なのだ。このニヒリズムが現実的有効性を不遜にも保持しているのは、日本人の精神的傾向乃至信仰内実が不十分に懐疑的な性格を持っているからかもしれない。懐疑的であることは勿論成心ある人格にあって思考の自由を裏付ける要素のひとつとして、当然にその方法論的手段的役割を軽んじるわけにはいかない。何故日本人は便宜上駆使されるべき懐疑に関しその独立的悟性の有効性に依拠しないのか。

 仲井真沖縄県知事は、県議会の辞職勧告決議を無視した結果、事実上自身が告発対象となるべき「百条委員会」設置にまで議会の憤懣を募らせている。この全面対決の事態に彼は怪訝な様子を示したという。さもありなん、彼に全く欠けている選挙民の代議員的自覚は、同時に、様々な意味での道徳性の欠如を併有する。これは政治家としても個人としても言えることで、彼の中に沖縄県人意識は通常の意味として自然な発露を見ない。彼が間違いなくその手で「斬り捨てた」同じ県民である名護市民、辺野古住民に対して、申し開きができてない。これが二重の彼の罪だ。彼が首をかしげた支点は彼の心臓が凍り付いている精神に接している。安倍晋三のファシズムに取り込まれた哀れな小役人にしか見えないのは、返す返すも残念な話ではあるが、元はと言えばこの元財界人で通産官僚出身の知事は、ウチナンチュのマブイ落とし症状に罹患しているわけで、今更どうにも救いようがないというしかあるまい。この際、徹底的に彼を解剖する必要がある。彼は何故魂を抜かれたか。今後同じような症例を他にみることがあるのか。(つづく)

 

 


詩506 文民の怒り 17 ファシズム対人民 1

2014年02月15日 08時12分52秒 | 政治論

 中世朝鮮時、父が官僚のトップで息子は同じ部署の役人なのだが、この息子は、父の不正や業者との癒着の事実に勘付いている。それで王に、父周辺の不正について上奏文を認めたのだが、これを父の知るところとなり父は息子に言う。「父としてでなく政治家として言っておく。個人の言論は自由だがそれになんらかの力が在ると思うなよ。あると思ったらそれは幻想に過ぎない」このドラマは所謂韓流で、実在の人物の成功譚だが、それとは別に傍流の筋になるこの場面は、見る者が何気に通過するシーンには違いない。つまりただ通過せずに、「力がないからこそ言論の自由はあるのだ」と思わず独語したという話。

 安倍晋三がいきり立って、「首相の責任において」、集団的自衛権の行使容認解釈ができる、とすごんだら、党総務系から批判、反論が噴出したらしいが、彼に見え隠れする一種の「英雄主義」は当然に独裁性を帯びる。重要なのは、首相の責任とは何か、だ。歴代の宰相にこれ(責任の所在)を探すことがいかに困難か、ある局面において歴史上ついぞ責任ある決着をこの国でみたことはない。この安倍晋三に特別にそれがあると、誰が保証するのか(仲井真沖縄県知事か?)。しかも彼らの政治的行為の齎す不可測の事態の不利益に関し、何らかの担保を用意したためしはかつてない。従って、泣きを見るのは必ず人民なのである。騙されるのはいつも民衆だ。原発、辺野古、は象徴的である。

 エバーハルト・イエッケル「ヒトラーの世界観」。

 全体主義が常に国民を屈服させ、国民がこれに唯々諾々と付き従う、と決定的にいえるのなら、政治的価値はその成果にあるとすればあらゆる国民はその成果においてのみその支配者に服従するべきだと言えるだろう。だが、曲がりなりにもファシズム対民主主義戦争を経過した諸国民に共通してあるのは、自由と主権が国民に優先的に存することの正当性を信じることである。従って「良心に従い」でも「良識に則って」でも人民は全体主義が強制的に従わせようという力即ち国家権力に抗して、国民としての自己保存行為、自己権利確保行為において、たとえそれが実際的に権力的暴力を導こうともこれをする自由と権利を最初から持っているというコンセンサスのうちにある。(つづく)

 

 

 

 


詩506 文民の怒り 16 全体主義

2014年02月13日 09時46分05秒 | 政治論

 超国家主義に特徴的なのは当然その論調がいつも国家目標の遂行の為の手段に関し、決して論理的な展開を示さず(つまりそれが民主的論議の要諦のわけで)、必ず数段階の論理的手順を飛び越していきなり結論を引きずり出す手口にある。これはヒトラーという国家社会主義者に実例を見るが、彼にあった二つの要件、即ち対外政策とユダヤ人絶滅計画という関所に至る手段の模索は、論理的には明らかに「日和見」ながら重要な局面では一気に決定的なものを前面に掲げる。そこにヒトラーの独裁手腕が発揮され他の追随を許さない。全ては「我が闘争」で披瀝した彼の世界観から現実闘争を経て手段の先鋭化を遂げた政策要綱であり、あとはこれを実行するだけにまで淘汰された有無言わさぬ全体主義だ。

 安倍政権の全体主義的な断面は、沖縄県知事に辺野古埋め立ての承認印を押させた、普天間問題に対する政権の県民民意排除傾向にも見られる。県民は、県知事が(何度かの対首相、政府要人密談を通じ)政府が繰り出す沖縄振興施策に対し「かつてない特段の配慮」と言い「いい正月を迎えられる」「一国の首相の言質」と狂気のコメントを発した時点で、この安倍政権が持つゲンシュタポ並みの秘密警察的性格に気づいたはずだ。あっさりと公約破棄し県人にふさわしくない推進派に豹変した島尻安伊子、西銘議員に始まって続々と崩れていった自民県関係議員たちについては、浦添市長、宜野湾市長含め、結局「日和見」的な政治家たちで、全体主義に容易に呑み込まれる「判断力」と「責任感」に薄弱な連中としか言いようもない。

 ケネデイ大使には何の期待もないが、彼女がJ.Fケネデイの忘れ形見なら、「暗殺」覚悟で「オキナワ」のために、あるいは弱者、人民、民衆のために、その持って生まれた比類ないDNAを世界にアピールする気組みくらいは示してもいいのかもしれない。およそ何の期待もないが、沖縄2紙が英文で呼びかけたメッセージになんらかの具体的な回答をするべきではないのか。県民が見たいのは、現状肯定姿勢に終始する口だけの「負担軽減」でなく、「民主主義」はかくあるべし、という米国独立宣言精神の発露だ。但し米国がこと国家安全保障政策に関して無類の全体主義国家なのはわかりきったことではある。だからおよそ期待はしてないが。(つづく)