沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩512 琉球の捉え返し 6

2014年03月31日 16時55分38秒 | 政治論

 頑迷に、彼ら本土人並びその政府が執っている日米安全保障条約体制、即ちその国内不動産無条件貸与の約定と、軍隊軍属の言動始末に対する租借的治外法権性格が、この国に戦後なんら根本的には改善されることなく蔓延ってきた、その保守停滞的、非理念的姿勢の74%の代償としてここ琉球沖縄には偏頗に摘要されてきたのであり、90%の県民がこの日米安全保障条約を否定しているありようからすれば、日本国政府とその常民が彼ら自身当然に負わねばならない安保負担の責任を回避し、琉球沖縄にその望まれない負担を押し付けていることは疑いようのない事実である。これについて国連の人種差別撤廃委員会が日米政府に対し何度か是正勧告しているが当然適当な理屈をつけて黙殺されている実態がある(この国連機関にもまた問題があると筆者は考える)。

 従って、半可通の連中がしたり顔に言い募る「本土活動家の扇動(現場で活動しているのは筆者の知る限り大半がウチナンチュである)」とか、「基地経済依存性(その実質シェアは1割に満たない)」、「沖縄振興策たかり(それの利得は大概、本土企業が吸収している)」などといった言いがかりは、単に上述する彼らの罪悪を見苦しく糊塗するカモフラージュにしかなっていない。勿論また、議会制民主主義を標榜するこの国にあって、その県内市町村議会が「オール沖縄」で可決している「建白書」を殆ど悪意を持って無視し、おのれらの国を成り立たせているはずの「民主制」を、自身の行為で露骨に否定して顧みない事実を、琉球沖縄からみれば愕然とする、国のありようとして捉えないわけには行かない。

 いずれにしても、沖縄県知事の逆上によって辺野古埋め立て承認が出来てしまったことは、彼ら本土人とその政府の政治的環境に利する以外なんらの意味も有しないことは、日本は勿論世界のよく評価したところだ。むしろ名護市民の理念的勝利を意味する市長選勝利(稲嶺進氏の当選)は、明らかに日米政府乃至彼らの「覇権的」「植民地主義的」姿勢に対しての人民からの強いメッセージ性が認められる、と評価されている。

 このように、今、琉球沖縄は「裏切った」知事の早々の退陣と、これに代わって新たに「承認取り消し」を可能とする首長の登場を待って、これまで草の根的に存在していた「オール沖縄」をもう一度捉え返し、「チルダイ」することなく傲然と自らの人権を行使する自由の保証をこそ正当に希求する。(つづく)

 


詩512 琉球の捉え返し 5

2014年03月30日 09時38分11秒 | 政治論

 実質的な意味の「人種差別」にあたる、琉球処分以降の琉球対応策がこの国の沖縄における近代現代史を形成してきた。

 実質的、という意味は、国連の人種差別撤廃委員会規定に、所謂「人種的な意味」の差別以外の差別に関する文言がある、という意味でなのだが、繰り返せば視覚的特異性になる身体的な差別化に属する差別でなく、同属同民族内で引き起こされた差別行為、しかも実質的に意味のない差別化がされた差別、という甚だこんぐらかりそうな理由で生じている差別だ。この、わけもなくからまる胆汁質のわだかまりを日硫関係史はとりわけ戦後ずっと解くことなく繰り返し同穴に引き戻している。

 わけのわからない、同一国内における一地域に対する、歴史的培養を経て澱のようにこびりついた「差別」については、これを事実上具体的に解消する手立てを講じない限り決してその様態を改変することは出来ないのであろう。その最大の表象が「国内展開の74%を偏在させている米軍基地」という、この国で繰り返し使用されてきた文言であり、ここに生じている最大の矛盾は、「基地返還」や「負担軽減」という文言に対し、「代替施設」というわけのわからない新設基地計画が対応していることにほかならない。「普天間基地」は現今最大の懸案になっている物件だが、そこに繰り広げられた日米政府あげての「茶番劇」こそ、琉球差別の恥知らずな田舎芝居であったし、これからもその正体には辟易させられることだろう。

 このように長引く問題の内容は愚にも付かない人間模様に過ぎない、ということが大方の見方である。つまりこの国の官僚主導政治実態と、当の官僚が怠慢という名の保守停滞主義に陥っている事実についてそれが言える。民主政権の鳩山元首相が進取の気概でなさんとした差別への挑戦は無様に足払いを喰らって頓挫した。この党は既に国政においては存在価値を数の上でしか有していないが、彼らが放擲した小沢一郎などの路線は未だ理念的価値を保っている。現在高江ではまさに上記矛盾に該当するヘリパッド建設が進んでいる。ここでは連日連夜監視抗議活動が続けられているが、この様子を目取眞俊氏「海鳴りの島から」、ティーダブログ「高江の現状」で生々しく伝えている。民主党が活動すべきはここに来て工事業者や防衛局に対しじかに言論を行使して、具体的な行動を起こすことだ。それが彼らの沖縄に対する「贖罪」でもある。

 国がやりたい放題にやっているから、琉球沖縄の差別現状は解消されずにいる。やらせているのは下手な理屈をこねるしか能のない公人たちの無為無策だ。(つづく)

 

 

 


詩512 琉球の捉え返し 4

2014年03月29日 18時03分55秒 | 政治論

 「知事追及は不発」といったマスコミの沖縄県議会報道は、これを目にするものに次のような印象を抱かせる。

 この知事はどこの知事か。彼は、その後7割以上に及ぶ県民世論の反対意見にいささかも関心を示すことなく、おのれの行為を単なる事務的行政行為のひとつとしてしか説明していない。その行為が県民への背信となり国家の誤った国策に勢いを加える結果となることを度外視して(あるいはそこにある、自身の政治責任の発生を回避して)、あくまでも法的充足により承認した、と言い逃れる。この知事は一体どこの首長か。素人見に言えば彼は七面倒くさくなった。とりわけ密談体制で政府関係者及び首相からせっつかれているうち、どうにでもなれ、と思うようになった。承認してしまえ。すると後はどのように自身の言い訳を準備するか、だ。(知事の出自たる)理系工学系の論理にあっては、人間らしさなどというものは彼方に消し飛ぶ。機械的に、論理の為の論理を連ねれば誰にもその牙城を切り崩せない(県議会の追及、などと言って彼らマスコミは決して県民の気持ちになど添ってはいない)。彼ら頭でっかちの連中が後悔するのは必ず事後においてである。マンハッタン計画を主導したオッペンハイマーの狂気と零落は、まさにヒロシマナガサキの悲惨を経てからであり、科学者の政治音痴が問題となったきっかけだった。

 今更、この裏切り知事が辞職しても始まらないし、今冬知事選まで道行きに変更はあるまい。問題は結局提訴中の辺野古に関する業務の執行停止を司法が是認するほどに、この司法権の独立性が保たれているか、だが残念ながら多くの実例がこれの堕落振りを示している。高江も然り。一体、あの連中はいつになったら琉球に「人間」の存在を確認できるものだろう。(つづく)

 


詩512 琉球の捉え返し 3

2014年03月29日 13時34分42秒 | 政治論

 名護市長選で、「辺野古の海にも陸にも基地は作らせない」と言って、推進派の候補を圧倒的大差で組み敷き再選された稲嶺進氏のことについてはその評価上種々の受け止め方がある。氏の行政手腕、執政の方向性が市民の過半に支持されたとみていいし、辺野古新基地建設反対の市民側の意思表示、とも言える。究極イエスかノーかで択一を迫られたわけではない(個別的住民投票ではない)ので、様々な要素における集約的結論として氏を推したということは間違いない事実だ。一方4千票余りの票差は、前回の場合より大きく差が開いたという単純な事実を示すに過ぎないが、状況が県知事埋め立て承認直後であればこれの意味するところはその承認否定の重きに傾いた、ということになる。選挙が総合的な意味合いで決する性格上、こうした捉え方のいろいろはどのようにも多面的に立ち現れるものと思われるが、国内国外の識者たちが言い募る第一の評価は、結果が示す市民側の、辺野古新基地建設反対という明確な意思表示がなされたというところにあるらしい。つまり現代世界理念的実質を表現する「民主制」の観点からは、権力側と人民側の特徴的な歴史的確執に鑑み、安倍政権とその被籠絡首長仲井真県知事が「辺野古埋め立て」に関し実行した行為が人民たる沖縄県民のなかの名護市民によって明瞭に否定された、ということにその「価値」と意義を見る、というのである。さてその実際上の効果が辺野古新基地建設阻止の結果的実現を成し遂げるとすれば、こうした評価には政治的価値があるといえるのだが、現段階では政府、国会議員、沖縄防衛局による「粛々たる」辺野古自然破壊、人民意志蹂躙の権力的強行路線が現実的にその緒に就き、名護市長選の結果が意味する理念的評価なぞ何するものぞとばかり、これまで通りの国家安保体制の琉球過重負担「差別行為」を押し通すことにためらいもない姿勢を示している。(つづく)


詩512 琉球の捉え返し 2

2014年03月28日 09時10分00秒 | 政治論

 高江では3月期に入ってヘリパッド建設もノグチゲラ営巣期に向かい、工事に伴う騒音回避のため一切の重機音が条例で禁止されるため、丸政工務店は2基目のヘリパッド建設に使用した資材一式を搬出する作業を行っている。目取眞俊氏のブログ「高江の様子」に、それでもなお疑惑の目を向けざるを得ない残土処理に関する県担当の調査の様子や今後の危惧事案などを伝えている。沖縄県の対応が知事の辺野古埋め立て承認以来、何事につけ事務的形式的になってきている印象、様子が見て取れる。また県民が「ちるだい(気抜けする、失念する、落胆して呆けるなどの意)しない」心構えにしろこうも裏切られることが度重なると嫌気がさす傾向に落ちるのはいかんともしがたい。この意味でも彼の昨12月の背信的行政行為は罪が深い。島尻安伊子などはこれに輪をかけて当局への密告に勤しんでいる。けだるいほどの夏に向かう沖縄県に、こうした連中の加える圧迫力を跳ね返す、より冷厳なる闘志が静かに燃え滾ることを、なんとなく待望している。(つづく)


詩512 琉球の捉え返し 1

2014年03月27日 18時44分24秒 | 政治論

 琉球の歌舞についてなんの知識もないが、詩詞と音曲、所作が持つそれぞれの滋味は心構えひとつで受け取る側に深甚な感興を呼び覚まそうという、これまでに体験したことのない確かなものとして迫り来るものがある。多分筆者の見聞きしているものは素人がなんとか聞き分ける程度にはこなれたものだろうしここに大それた論評など連ねる気は毛頭ない。時折耳にする最近のポップス、ラップなどにも聞き応えがあるのは不思議な経験だ。その点で裏切られない。エイサーや島太鼓のリズム感はその勇壮さも相俟ってソウルフルに手厳しい。

 何十となく海、山、川、花、月、夕日、朝焼けの写真をPCモニター上にスライドさせながら日々を送る。それらは海流のなかの島々であるこの地にあることの焼付け、念押しのようなものだ。巫女、のろ、ユタの女人が長い裳すそを揺らめかせながら、風に立って何事かを祈る。この地の信仰を遥かに想像するのだが、元々無神論の者には確かな手ごたえはない。感傷的に呆けてみせても仕方がない。チビチリガマ(読谷村)、沖縄市、うるま市、八重瀬町、糸満市、座間味島、慶留間島、渡嘉敷島....計1000人を超えると言われている、あの集団での強制的な自殺事件にあって、ニライカナイ信仰は痛みもなく死に至る架け橋たり得たのだろうか。何故、かの人々は「天皇陛下万歳」が言えたのか。集団化全体化翼賛化しても、どこかで疑念と本音を持つ一般的な民に過ぎない我々には、公然たる「他者」の認知はついに深奥に達し得ない。皇民化教育により「現人神」にして大元帥陛下、子たる民の父としてその辺(へ)に一身を擲つべく育成されたこの国の民は、一丸となって皇国に殉じる精神やよしとされたのだ。現代の我々は、あの人たちが「死」をもって「生」を超えるとき、人間が「悠久の大義」にさえ殉じてしまう飛躍の激越さを思わないわけにいかない。果たして、死は恐るべきにあらずして、むしろ「生きて虜囚」たるの恥をこそ恐れよ、ということか。ソクラテスは「悪法も法」として毒杯をあおる。かのひとたちの「天皇陛下万歳」もどこかこれに似て、その死は惨たらしいが決して醜悪ではない。弁明をさえ聞いてみたいものだ。(つづく)

 


詩511 歴史的証明事案

2014年03月26日 19時18分20秒 | 政治論

 本年2月の国会質問で、県内活動家の行動を未然に抑制する為に警察や公安の出動が必要だ、という県選出島尻安伊子参議院議員(何でこんな者を選んだのだろう)の「密告」によって、としか思えないが、本土当局及び沖縄防衛局は辺野古埋め立て阻止に動くだろう活動家牽制の「何気ない文言」を「監視警戒船100隻」という特記仕様書記述(サンゴ分布保全調査業務に関し)に付加した。勿論これは例の環境アセスのための海洋ボーリング調査にあって生じた直接的阻止行動の経験に照らせば、彼らの思惑の中に澱(おり)のように付着していた事案だったには違いない。

 こういう、日増しに露出度が増大する辺野古埋め立て業務に関するニュースは、一方では地元紙に再三見かける辺野古新基地建設に反駁する論説、情報、活動報告、などがさながら共に拮抗し合うかのような印象さえ与えるのだが、事実は、「国家対人民」の対立軸がそこに揺ぎ無くあって、人類の歴史に刻まれた多くの事例から、明らかにこの国のやりかたには誤りを認めないわけにいかない、という結論以外導かれない。(つづく)

 


詩510 ある絶望

2014年03月25日 17時39分25秒 | 政治論

 認知症老齢者が陥る悪弊の最たるものは、彼(彼女)がしばしば固陋に堕する傾向にあることだろう。それもケマネージャー的見解では彼(彼女)が社会的環境からの脱落(個人差があろうが老齢に伴う厭世的思いから)、あるいは孤独的閉鎖性への陥没(体力の減退)など、著しく「引きこもり」傾向にあることを指摘する。それで、デイサービスではこうした認知症気味の老人を一所に集め様々な共同的生活時空(食事、軽作業、軽運動、昼寝など)での精神的なケアによって改善策を講じる。要するに社会性の回復(一人で生きていない、他者との関わりの中で生きている、といった意識の回復)へのリハビリだ。多かれ少なかれ老人は頑固に自己世界に固執するものだが、それが他人に対してなんらかの精神的圧迫を加えるような障害に至ると、混迷し懊悩するのは彼の周辺隣人であり、彼らのストレスを緩和する手立てがかの老人の社会性回復リハビリとなる。実際、こうした介護支援によって彼(彼女)の社会性が曲がりなりにも醸しだされ、他者への圧迫障害が回避される兆しも見えてくる。但し、彼(彼女)の内面における固定した感情、感覚、信念が全く消えうせたわけではない。それを表に出すと社会生活上不都合が生じるという新たな意識によって、理性的に抑制するという傾向に改善されることになるわけだ。

 竹富町教委に対して下村文科相が発した中学公民教科書選択の「是正勧告」を町がはねつけたのは当然のことであり、そこになんら特別な意味など存在しない。特別な意味があるのはこの下村文科相という公人に個別的な国家思想が明白に認められる、ということだ。彼は、安倍政権の権勢に乗じて一気に琉球島嶼へ防共国防施策の実践体制を整備しようという国家的要請に依拠している。(つづk)

 


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 6の2

2014年03月24日 09時39分37秒 | 政治論

 我々が確認しておかなければならないのは、一向に止まない琉球沖縄の上空に犇めいている「問題性」の解決に向けわれわれが具体的かつ自発的に考慮し行動化すべき事由は何一つないということだ。我々は、「海にも陸にも基地は作らせない」のであり(自然破壊と住環境劣化の根源)、米軍とは決して「良き隣人」たりえないし(基本的に戦争をするための機械的存在である兵隊たちになんらの親和感もないのだ)、米軍基地が有する戦争の為の準備訓練、戦地向け発進事実に対し、拭い難い(時空間提供者としての)共謀罪悪意識に苛まれているのであり、この地に彼らが存在しなければならない明白な必然的理由がない以上ここから(彼らを決して歓迎していない住民が生活する場から)彼らが速やかに退出するのが最低限の外交ルールであり、60有余年居座り続けたことへの陳謝と慰労だ。我々は、日本政府が住民合意(琉球沖縄の合意)なしに維持し進めてきた日米安保の「善意の容認者」とは縁のないものであり、(須らく沖縄に関し)何事も強行に推進すべしというこの政府を、憲法上その人権が保障されている市民感覚や良識からも認めるわけにはいかない。認められない政府のもとで生存と生活を余儀なくされている、という意識はない。変わらなければならないのは政府のほうである。従って、我々に、この状況を打開するためになんらかの改善努力が発生することはない。その努力こそこの国の政府が琉球沖縄に対して必ずや求められるべき要件なのだ。(つづく)

 


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 6の1

2014年03月23日 09時49分14秒 | 政治論

 琉球沖縄に対する日米安保負担押し付けのために彼ら(日米政府、官僚、国民)が繰出してきたあらゆるこじつけが既に根も葉もない実態を晒している以上、彼らは速やかにこの地から退出し、同時に、あくまでも米国米軍が日本国の軍事的防衛力を実質的に有していると認知するのであれば、その自己負担をおのれの住空間に進んで誘致するくらいの気概を示すのが国民として当然の責務であり、最早、琉球沖縄にいかなる観点からも安保負担を偏在させてはならない、ということになる。必然おのれの住空間がその負担を担わなければならないのなら喜んで!これを引き受けることに同意しなければならないのであり、そうでなければ彼らが言う日米安保体制の必要性にはなんらのコンセンサスも与えられてない、ということになり、簡単に言えば琉球沖縄はじめ一部の地方自治体に不公平に負担を押し付けてきたおのれの不善、不徳、怠慢を露呈することになる。そして多かれ少なかれ、このありようはこの国の恥ずべき真相であり、現在この国の実態に対する市民感覚での一種の黙認されたコモンセンスとなっていると思われる。

 今回、沖縄県知事が、国による公有水面埋め立て許可申請に対し承認の公印を押したことは、少なくとも沖縄県にあっては8割以上の輿論において誤りであると指摘されている。簡単に言えばカジノを巡る知事の独断同様、彼の「県民意思を無視した」独裁性によってなされた、ということだ(彼の執政が長期に及んで露出し始めたありふれた成り行きともいえる)。これに対し米国は彼の判断を歓迎するとしている(今までの停頓は一体なんだったのかについて何も触れずに)。米国が、日本政府が、そして一部の県関係者が、おのれの脳髄の中にしかない軍事的要望展望から、人民意志や地方自治権、民主的な運営といったものを蔑ろにしている姿勢がはっきりとわかろう。そしてここが重要だが、恐らくは米国にあって、先の大戦で分捕った軍事植民地という明確な領土意思は既に過去形にはいったという感触(実際米国筋の情報からは日本が県外に移設するため具体的な呈示さえすればこれを検討する用意がある旨の発言さえみられている)があり、是非とも沖縄でなければならないというような明らかな意志にないのであり、彼らの沖縄固執はむしろ日本国政府、外務防衛官僚にある、保守停滞主義に陥っている体質から来る許しがたい怠慢が助長している、ということだ。(つづく)

 


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 5

2014年03月21日 17時38分50秒 | 政治論

 この国が琉球沖縄に対してしていることは、本質的基本的停滞的に、かつ、なし崩しに為す同一国民、同一人種、同一民族に対する構造的差別行為と言われる。上記、同一性について、「民族」に関しては若干の違和感があり、ここに移住した者の感触からすると、この地域の極めて顕著な文化的特異性、従って独自性とかアイデンティテイとかいわれる実体を恐らくは認めないわけにいかない。そもそも「民族」の概念は定義的にも微妙な問題性を孕んでおり、例えば本土に住していた頃筆者の琉球沖縄に対する印象は(琉球異民族視から)少なからずこの地域を自然に、一段と低レベルに特殊視する傾向にあった。しかし、これは根拠のない言いがかり(人種論的にも)にすぎず、むしろ、この国がこの地に対してしてきた歴史的政治的行為の累積から愚かにも培った浅はかな偏見にほかならないのだ。そして一般に日本の本土に住する国民の多くはこの偏見において国家行為を遠巻きに眺めるという姿勢に流れたのだった。多くの場合、沖縄問題は徐々に関心こそ持たれていっているが相変わらず僻遠の地の小さな出来事程度にしか、本土人には見られてない。この、国民こぞって無意識に取っている態度は、この国がこの地域に対して為さんとする多くの国家施策における「構造的差別行為」類似の行為をやりやすくしている。とりわけて、差別の現状を端的に示す日米安全保障条約体制が持つ「全体性」(全国民的な問題性)に関する国民レベルの関心の薄弱さは、一層この地を差別的状況に嵌め込んでしまっているといえるだろう。

 ハンナ・アーレントが洞察したように、国家機能というのは、意思決定に携わる最高権力府を頂点としてその末端に至るまで種々の縦糸横糸を通じ系統化し指揮命令下達が徹底される。そこに実行機関の基本的な意思表示が国家方針に逆らうほどの効力を持つことはない。つまり国家意思はほぼ滞りなくその通りに実行されるし、むしろこれを如何に効率的計画的機能的に実現するかに全ては集中されるのである。「我が闘争」に開陳されたヒトラーの国家主義は、驚くべき忠実さでその披瀝した彼の構想通りに実践された。ユダヤ人に対するホロコーストが彼の与り知らぬところで機械的に行われた、などということはありえない。彼を弁護しあまつさえ評価さえしようという試みの無意味さは、この事実に対して反論できない。彼に対し特筆すべきは、この稀代の悪行が、ある程度順調といえる運びで成功した、ということだ。その末路はともかくその点ではその政治行為はナポレオンの軍事的成功に匹敵するだろう。当時のドイツが彼を待望していたわけでないのに何故ドイツ人はこの狂気を受け入れ熱狂さえしたのか。そこにあらゆる国家主義的全体主義の持つ結果的に顕現するおぞましい病根が垣間見られる。国家が必要とするのは黙従であり機械的処理能力であり、何事にも忠実な「仕事人間」だ。この従業する人々は、当然ながら殺人でさえ冷静にし遂げる。軍隊はこの種の人間を養成する専門機関であり、在沖海兵隊はまさに特殊殺人専門部隊としてのみ機能するものだ。水も漏らさぬ真空地帯にあらゆる「疑念」「疑問」の根を絶やし、反射的に敵を倒す訓練に明け暮れる。ところが彼らは皆、このような属性を排除すれば恐らく普通の平凡な市民以外のものではない。一方、ナチス裁判でアーレントが指摘するところは、国家が企図すれば、それがいかなる悪法と結託し、目に見えて犯罪性に満ちたものであったとしても、一旦実践機関へ伝達を開始すればたちどころに支配的な現実を出現させ、あらゆる種類の市民のなかでも最も温和にして善良な部分において「誠実に」職務遂行され、我々に有無言わさず襲い掛かるをためらわない、ということだった。

 国家主義、全体主義の最大の悪弊である。現今安倍政権では一種の国家主義がその触手を縦横に伸ばし、琉球沖縄はじめ日本国全体に人為的な捕獲網を打ち込んでいる。彼の脳髄の中にしかないその復古主義が21世紀の日本国に具体的に相貌を現したとき、人はその醜悪さに辟易するだろうか。(つづく)

 


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 4

2014年03月20日 08時50分07秒 | 政治論

 最も切迫した生活感情は身内の病変なのだが、ある臨界を超えるとこの切迫したものは徐々に平常な日常的なものに落ち着こうとし、その結果却って奇妙な退屈感に覆われていく。病変は治療と共に快癒傾向へ常態化し周辺はそれまであった緊張感から静かに解き放たれる。ところがこの病変は決して癒されたのでなく、そればかりか人々の目から隠匿され始めた、という事態に陥った。何故それは治療でなく隠蔽されることになったのか。何故病態を隠蔽しなければならないのか。我々はそれを知らないでいる。知らないで凶変が平穏化したことに満足している。しかも進行する病魔を食い止める手立てなど全くない。というより、一体何が起きているのか誰も正確には知らないのだ。この変化の予感めいた心境に深い意味はない。人は動物的に死を恐れる。この恐怖のまえには何者も明確にはおのれを主張し得ない。しかもその死が自身以外に降りかかろうとさながら統計学者のようにその死の数を数え上げる程度には冷静でいる。

 あれ以来、風化というありふれた事象に埋没し始め、悉く人事は形勢を定めない。「あれ」とは何か。頭に浮かぶのは大震災であり原発爆発であり、放射能汚染、避難生活、復興しない人心、具体化しない生活の改善、使いきれてない各支援、なのだが、五輪招致、都知事選、集団的自衛権、.....ウクライナ情勢、など、紛れ込むような事案の山が混乱を助長しかつどことなく忘れ去ろうというような、なかったことにしようというような風潮の、横行さえなんとなく見受けられる。目先のこと、の中身が日常の生活上のあれこれならしかたがないが、そうでないことにかまけてなし崩しに、少し全体主義的に流れようというようなものを、個人的には一種のやりきれなさとして、憂鬱のもととして雰囲気的に不快な情感さえ漂い始める。

 自民政権の瓦解を望む。公明党の謀反を冀う。小沢一郎の正統な後継的政治家はいないのか。琉球沖縄には鳩山元総理が来て恐らく彼の不如意に終わった権力的結実(普天間返還、県外国外移設)への再挑戦らしきことをしでかそうとしている。権力が効力を正確に発揮するには民心の把捉以外にない。安倍晋三のように、実質的な政治的潮流を度外視して彼の頭の中でしか実現しない、全体主義的翼賛政治の復活を目論んでも所詮中倒れ、で終幕を迎えるであろう。彼が沖縄で実現したのは、たったひとりの「裏切り者」の政治的利用によって、元々歴史的培養を原基とする「オール沖縄」の「草の根」的実存に思いをいたすことなく、やってしまった国家の独裁的強権発動という反動政治だった。この歴史的汚点の持つ反世界性からして、この政権時に琉球沖縄が劇的に変貌を遂げる可能性はゼロに等しいが、受けた傷は深いものがある。(つづく)


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 3

2014年03月19日 18時07分27秒 | 政治論

 沖縄県国頭郡東村高江では、米軍北部訓練場一部返還(面積が縮小する)に付帯した代替ヘリパッドの建設を実施している(その位置が概ね高江近辺に集約する傾向にある)。米軍北部訓練場は、国頭村、東村に展開する、「ジャングル想定の訓練場」指定地域であり、この想定自体が既に有名無実化し、「密林戦闘」の可能性さえ時代的には失われているときにベトナム戦争時の陸上戦想定訓練を持続的に実施していることの無意味さであり、米国の「軍産複合」財政的奇形実態がここに生き残っているばかりか、新たにオスプレイ等自然破壊的危険飛行物体離着陸のためのヘリパッドを、160人の一般人が自然的生活を享受すべき時空間に永続的に設置しようという、その人権蹂躙蛮行が日米両国政府あげてこの僻村に襲い掛かっているのだ。しかも工事に抗議し中止させようと座り込む住民有志に対し「スラップ裁判」なる馬鹿げた人民排除訴訟を国がぶちあげ、自らを知らないこの国が、弱小市民を食いつぶそうという封建時代の代官(つまりは米国の走狗といったところだ)政治並みに堕落した国柄をさらけ出している(現在係争中)。

 自らを知らない、ということは、自国が他国の傀儡になっているという事実を知らないということであり、「核の傘」なる幻想的防衛思潮によって自己暗示的に「平和ボケ」しているということだが、それは日米間の安全保障条約にあってその実効性は即戦的になにも担保しない事実に目を瞑っているということでもある。しかし幻想にしろいわしの頭並みに盲信すれば彼らの安心は立命するといえなくもない。もし米国が一切の駐留部隊を取り去ったならば彼らは恐らく自身の立ち位置に慄然とし、直ちに国防軍設置、核開発核武装を進めるに違いない。

 現在安倍政権が目論んでいる集団的自衛権容認事案は、結局するに軍事的な自在性を復活させ、日米共同での戦略的優位性を確保したいということで、基本的には、敗戦で地に落ちたはずの軍事的な国威をよみがえらせて元の大日本的威光を取り戻そう、というわけだ。言葉の上ではいかにも単純で容易なことのようだがそこには実に無理な話が横たわっていて、既にセンセティブになっている中国韓国がこの国の不穏な動きを微妙に嗅ぎ付け、絶えず、言論的圧迫の世界的な展開さえ躊躇しない動きを、少なからず示している。(つづく)

 


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 2

2014年03月16日 18時09分02秒 | 政治論

 数ヶ月ぶりにやんばるの水瓶は平年値を上回った。昨年の今頃に比べるとかなりの低水準(貯水量約66%)だが、例年にない雨台風の非通過(殆ど本州、九州方向へ迂回するコースを取った)で大量流入の当てがはずれグングン落ちていった水量は9月半ば以降平年値さえ下回り、移住後経験のない渇水の危機を感じたものだった。例年だとこの先梅雨、真夏の台風などでアップしていくのでひとまず小康状態である。

 このやんばるの水瓶と言われる北部ダム地帯が在する亜熱帯樹林帯に米軍北部訓練場が展開する。ちょっと目線を退いてみてみると、琉球弧状の世界自然遺産ゾーンとしてさえ視野に置かれているこの一帯に何故眞逆の戦闘訓練場が存在するのか首をかしげないものはいまい。しかも異国の軍隊がヘリ(オスプレイ)の爆音、(タッチアンドゴーでの)熱風、粉塵を撒き散らして「ジャングルシミレーション」訓練(その想定はベトナム戦時の密林地帯である)をしているという事実は、的外れ常識はずれもいいとこだと思わないわけにはいかない。で、その訓練場の一部を返還するかわりに、160人の住民が普通に生活する(児童生徒の通学路もある)近辺一帯にヘリパッドを建設するという、これまた常識的に考えて住民無視の、奇怪にして許しがたい行動に日米両国や沖縄県はこぞって取り掛かっている。既にパッドは2基目の建設に入っていて、当然ながら住民有志の工事監視、抗議座り込み活動が昼夜休みなく続けられている。

 スラップ裁判という、国が住民を訴える理念性の逆転した訴訟が今、高江地区でなされている。簡単に言うとスラップは、より強いものがより弱いものを裁判にかけるという、脳髄が捻じ曲がるような行為を指し、これがこの国の、琉球沖縄に対する施策に通底する、非民主的な反人民的な傾向を象徴していると、思わないわけにいかない。結局軍隊論理の理不尽な横行、あるいは日米合作のとりわけ日本政府が率先堅持している防共体制の百年不変の持続意志により、人々の人間的な発露たる自己保存、生活環境改善結実、あるいは反戦非戦意思の正当な勝利傾向などを蔑ろにし、ある意味踏みにじりこれを「国家的犠牲」と見做し称揚さえしかつ「感謝」などとぬけぬけと言い放ち、人民を侮辱して止まない。少なくともここ琉球沖縄ではその日琉数百年の関係史において絶えることなくこうした時空を形成してきたことは疑いないのだ。(つづく)


詩509 この国が琉球沖縄に対してしていること 1

2014年03月15日 10時07分25秒 | 政治論

 下村博文文科相は反共主義者で、新しい歴史を作る会系の、いわば安倍、下村、中山(石垣市長....今次再選)ルートの、玉津(石垣市教育長....市議会で不信任決議されたが続投が決まった)も含めた琉球八重山地区防共最前線化グループに属する。彼らの思惑、つまり竹富町という辺境の離島が持つ自治権への干渉という質の企みは当然与那国も含めた自衛隊増派配備計画に対する住民反発を強権的に押さえつけようという意図に染められている。我々はそこに、一中学公民教科書の選択問題に留まらない地方自治権侵害という重大な国家犯罪傾向を見なければならない。とりわけ琉球沖縄に顕著にその圧力を強める形勢がこの安倍政権下、いよいよあからさまになってきている。しかも彼らのしようとしているのはどうみても前のめりになった国家主義の具体化であり、法的正当性を度外視したこじつけや捩じ曲げあるいは詭弁や言い訳に満ちている。(つづく)