頑迷に、彼ら本土人並びその政府が執っている日米安全保障条約体制、即ちその国内不動産無条件貸与の約定と、軍隊軍属の言動始末に対する租借的治外法権性格が、この国に戦後なんら根本的には改善されることなく蔓延ってきた、その保守停滞的、非理念的姿勢の74%の代償としてここ琉球沖縄には偏頗に摘要されてきたのであり、90%の県民がこの日米安全保障条約を否定しているありようからすれば、日本国政府とその常民が彼ら自身当然に負わねばならない安保負担の責任を回避し、琉球沖縄にその望まれない負担を押し付けていることは疑いようのない事実である。これについて国連の人種差別撤廃委員会が日米政府に対し何度か是正勧告しているが当然適当な理屈をつけて黙殺されている実態がある(この国連機関にもまた問題があると筆者は考える)。
従って、半可通の連中がしたり顔に言い募る「本土活動家の扇動(現場で活動しているのは筆者の知る限り大半がウチナンチュである)」とか、「基地経済依存性(その実質シェアは1割に満たない)」、「沖縄振興策たかり(それの利得は大概、本土企業が吸収している)」などといった言いがかりは、単に上述する彼らの罪悪を見苦しく糊塗するカモフラージュにしかなっていない。勿論また、議会制民主主義を標榜するこの国にあって、その県内市町村議会が「オール沖縄」で可決している「建白書」を殆ど悪意を持って無視し、おのれらの国を成り立たせているはずの「民主制」を、自身の行為で露骨に否定して顧みない事実を、琉球沖縄からみれば愕然とする、国のありようとして捉えないわけには行かない。
いずれにしても、沖縄県知事の逆上によって辺野古埋め立て承認が出来てしまったことは、彼ら本土人とその政府の政治的環境に利する以外なんらの意味も有しないことは、日本は勿論世界のよく評価したところだ。むしろ名護市民の理念的勝利を意味する市長選勝利(稲嶺進氏の当選)は、明らかに日米政府乃至彼らの「覇権的」「植民地主義的」姿勢に対しての人民からの強いメッセージ性が認められる、と評価されている。
このように、今、琉球沖縄は「裏切った」知事の早々の退陣と、これに代わって新たに「承認取り消し」を可能とする首長の登場を待って、これまで草の根的に存在していた「オール沖縄」をもう一度捉え返し、「チルダイ」することなく傲然と自らの人権を行使する自由の保証をこそ正当に希求する。(つづく)