「第二章 戦争の放棄 第9条 1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」
「国際紛争を解決する手段」という文章において、国家の自発的交戦権を排除しながら、「自衛の手段」について曖昧な含みを与えたことは否めないが、2項で「戦力はこれを保持しない」と明瞭に詠っている以上、「自衛権」すら放棄したと解釈するのが自然である。
又外国との同盟において、軍事的双務関係を締結する事自体、1項にも2項にも抵触する実質であり、「交戦権」も「武力による自衛権」も放棄した9条に違背する故、具体的には、現今陸・海・空にわたる客観的戦力である自衛隊と、日米安全保障協約とはともに憲法違反状態にあるといえる。
従って、沖縄県名護市辺野古の辺野古崎に特化して、明確な軍事基地そのものを造作しようという計画とその実行は、憲法解釈上も到底合法な評価には馴染まない。そして敗戦直後の「天皇メッセージ」が、日本本土と沖縄島嶼の「不可分」な関係性に関し、これを分断する内容で米国政府に言上伝播し、沖縄に関する半永久的な自由裁量の言質を与えた「沖縄差別」の端緒というものは、以降の日米両政府の沖縄に関する、とりわけ基地問題における看過しがたい非民主的な「植民地扱い」を醸成、推進、加速してきた、歴史の核として認識される現実的影響力を実証している。この事実は到底看過できないものとして、昭和天皇の戦争責任と、これに倍加する重大な犯罪的実質を有すると思料される。
一方、仮に日米安保がこの国の全国土において、非合法ながらも現実的に安全保障の有効性を明確に有しているとして、(ソクラテス的政治理念に依拠するなら)どこかに「普天間飛行場」の代替施設をしつらえるとすれば、当然日本全県において公平に移設の「くじ引き」でもすべきところ、鳩山元総理が全国知事会で打診した結果は、「自分の県に火の粉を振りかける気か(現千葉県知事の発言)」と叱咤された程度で立ち消えた経緯を全国民が知っている。
「義を見てせざるは勇なきなり」という俗諺もあるが、件の自治体首長の発言は、つまるところ、この日米安保が、日本全国どこにも受け入れられない、という現実的結論を、既にこの国は自己表明のなかで下したということになる。
にもかかわらず、日米同盟をこの国の政府は最優先最重要関係と位置づけ、あらゆるマスメデア・マスコミ等も一列に右倣えして日米同盟堅持を論う、まさにあげての翼賛体制へ突き進んでいる(但し、こうした国の在り様が、この国の国民性にさえ由来するやもしれぬ、という言及も戦前からあったことは既に知られていることだ)。
この、恐らくは良識的民意に乖離する国政国意というものに沖縄が賛同したかといえば、少なくとも90%は反対しているのであり、辺野古移設については議会制民主主義の「地方単位」ながら、その全行程において反対の意見議決に集約している。まして地球的環境破壊が懸念される現今情勢にあって、憂慮される新基地建設作業中、公有水面にかかる部分において、大浦湾の貴重な自然遺産に、人間の欲得で壊滅的打撃を与えることは必至であり、通常の一般国民的許容限度を超える蛮行としかいいようがない。
既にオスプレイ騒音、墜落危険性につき、人間の住する空間にこれを配備する非人道的行為は、いうまでもなく民意において拒否されるたのであり、更に沖縄においては「沖縄戦」の教訓は、およそ「戦争、軍事基地、軍隊、軍事訓練、軍備拡張」行為を否定する気組みにより精神生活化しているのであり、肉化しているのであって、向後こうした日米政府による、一切の世界戦略的「机上作戦」のトップダウンを肯じない本質となっているのである。従って、国民の血税を無駄に費消し続けている「普天間移設」という、理念的形容矛盾にある行為を直ちにやめて、アメリカは本国に帰り、日本国はあらためて「自分のことは自分で守る」算段をしなさいという結論になる。