沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 自公政権の時代錯誤な儒教的封建思想

2021年02月15日 18時29分11秒 | 政治論

 去る2013年9月7日、日本国元首相安倍晋三がオリンピック招致最終プレゼンで世界に向け「原発汚水はアンダーコントロールThe situation is under control」と嘯いた結果(事実上の賄賂.も飛び交う中.....竹田JOC元会長)誘致されたまさに曰く付きの東京五輪にあって(この事実を日本の多くの五輪推進者たちは見事に閑却している)、その組織委員会会長が公の場で躊躇いもなく発した性差別にまつわる愚かな本音(男尊女卑)は、この曰く付き東京五輪というものの世界に対する度し難い低レベルな本質をいよましに露呈し、ここから敷衍して(会長自身属する党派である)現行自公政権の在り様が、現代世界の常識や理念にそぐわない(性差別等)甚だ時代錯誤な、異臭体臭芬々たる醜悪な顔貌を晒しているという話ともいえるということ。

 先の大戦における敗戦国日本の、アイデンティティを喪失した戦後の歩みが齎したであろうこの絶望的な精神的現実的状況下、post truth対real truthの日本版が漸くその緒に就いたということになろうか?post truthの流れがその本来低劣な正体を止めようもなく漏出し始めたことにより、本来常識的でさえある質の別流を生じ始めているという印象だ。

 安倍第二次政権以来、この政権に漂っている時代錯誤な儒教的封建思想、言うならば旧大日本帝国的戦前価値観のゾンビ的復活など、今更ぬけぬけと恥じ入ることもなく、既に世界において完全に否定されている彼らの父祖の忌まわしい事跡(侵略戦争)を平然と肯定、礼賛さえし、それを政治的に現代に打ち展べるその厚顔さに、我々は渋面とともに辟易して、同じ大和民族でありながら思わず耐え難く吐き気がするのだ。

 東京オリンピックという、この国にとっては三度目(1941年開催権返上、1964年実施、2020年延期)になる世紀の祭典なるものが、この目の前のコロナ禍にあっては状況的にも非現実性という本質において宙に浮いているという事実が我々に何時までも引っかかるわけで、曲がりなりにも実施される(無観客、徹底した感染予防策の下で)というなら、それはそれで君らが勝手にやればよいという程度の認知段階にある(何としても実施するというなら、それはあらゆる権益、利益を得る者たちの充足を保障するということにすぎない)。

 つまりIOCやらJOC、はたまた現行政権の政権維持と党派的肩入れ、東京都(知事)の成功譚願望等、内在する諸々の利権、権益、私欲が強烈に蠢く中、如何にこのコロナ禍で有為な結果を残すかという一点に全ては掛かっているというわけだ。一方国民にとってそれはなくもがなのことで、それによる功罪は甚だしく不明確だ(むしろ不利益だ)ということは別の由々しき問題となる。

 何故なら我々にとってはいずれにしろ五輪強行での、多くは故知らぬコロナ禍の感染拡大、拡散、重症化加速や後遺症等病態の一層の深刻化、内外からの移入者による市中感染的な無差別被害波及、変異種ウイルスの新たな蔓延、一般国民向けの、結果的に多岐にわたる明白な財政的損失など、これらが決して生じないということが保障されぬ限り(既に国民的被害は尋常を超えている)、何をかいわんや、オリンピックどころでない現状に変更はないのだ(復興アピール五輪というキャッチフレーズくらい現実にマッチしないものはないし、1964年時の戦後復興アピールともまるで次元が違う)。

 一方では、少なくとも安倍晋三という一国の宰相が世界に向けて大ウソをかました事実から、日本国が国家として民族として負うべき世界へ向けた精神的代償は、東京五輪開催権返上以外、今の自公政権下では到底払いきれない根深い棘としてある。それは結局そういう指導者を選んだ我々自身の問題となってツケが回ってくるのだ。

 全ては彼ら自公系右傾化グループが空しい願望として史実改竄し、修正し偽作する大日本帝国の罪としてある戦争時代のことに帰着する。そしてそれは恐らく戦争行為だけに限局した問題としてあるわけではない。また敗戦という事実にだけその結果的表象が集中することもない。我々は、我々自身の問題として、戦後のこの国の歩みが明らかに示している、恐らくは破滅と堕落への道に他ならなかったはずの日本の近代化の、その本質を、残酷に、我々の血肉から抉らねばならないということになる。

 何故この国には何時までも儒教的封建思想が根深く残存し続けるのか、男尊女卑、官尊民卑。延いてはアジア蔑視、対中対韓意識、国連勧告にある琉球民族ネグレクト、脱亜入欧、対欧米劣等意識。こうした複合心理は通常なら誰にでもあるありふれた作用と考えられるが、民族として国家として、あるいは権力者の通底心理としてあるものだとすれば、最早個人の問題を超えて公的に取り扱わねば済まない深刻なものだということになる。

 しかしながら我々は人種差別で事件が絶えない欧米の在り様にも同様のものを感じないわけにはいかない。ヒトラーは欧米人の根深い反ユダヤ心理に付け込んで彼の残虐な排他的優生思想を実行できたともいえる。一方、彼らの反ユダヤ心理は逆に言えばユダヤ人の選良性、あるいは優秀性、に対するかれらのコンプレクスが底にあるともいえる。これは例えば日本人の対中対韓意識にもみられることで、歴史的には日本の国としての生成、展開の過程には中国朝鮮なしには語れない経緯が大きく確実に横たわっている。言ってみれば大陸と半島の存在がなければ抑々日本という国は成り立たなかったはずなのだ。欧米の宗教的文化的歴史の根底にユダヤ教から出たキリスト教が関わらないわけがないというのも明らかに言える。更に言うなら、人類の根源はアフリカでありその祖はアフリカに発した類人猿に他ならない。言わば人類の母はアフリカ系人種のわけで、その人類的母胎を否定しこれを虐待する白人はおのれの出自を恥じるできそこないの餓鬼にすぎないわけだ。米国の黒人差別問題は、人類史的にはどうみても退化現象としか言えない。同様に日本の儒教的封建思想はまさに精神的後退事象というわけだ。

 それでも歴史は進む。その先に何があるかも知らないままに。しかし時間はどこまでも相対的であり、解決に時間がかかっても解決による真実の青天白日招来はこれを補って余りあろう。儒教的、ということは勿論儒教そのものではなく、それが醸す封建思想が問題となる。あらゆる不平等、不公平、なし崩しの現状維持、矛盾だらけの見切り発進、社会的不正義の不当な横行、などなど、全ては前時代の腐った残りかすであり、排除すべきはこいつらだ。(つづく)

 

 

 


詩の終わり コロナ禍という自然界の警告に対して人類が対応すること

2021年02月02日 07時55分19秒 | 政治論

 沖縄は2月1日時点で

入院中359人(国基準重症者39人、中等症143人)

入院・療養等調整中104人、宿泊施設療養中132人、自宅療養中164

療養中患者計759人 死亡退院90

累積感染者数7585人  (沖縄県発表)

 因みに本島北部名護市(の数値では

累積感染者数348人(解除者291人)、北部保健所管内では

累積感染者数122人(解除者111人)、那覇市では

累積感染者数2340人(解除者2182人)

 宮古島市では1月に入って27日までに168人の感染が確認されている。同市の26日までの直近1週間の新規感染者数は84人で、人口10万人当たりで151・11人に達した。都道府県別で全国1位の東京都は25日までの直近1週間で56・03人で、東京の約3倍に上っている。(琉球新報記事)

 我々には、この国でこの新型コロナが一体向後どうなっていくのかさっぱりわからないという状態にあり、第三波襲来以降いよいよ深甚な不安と恐懼、どっちつかず(国が発するメッセージの薄弱さのせいで)の不安定を甘受せざるを得ないような状況になってきている。医療崩壊、医療壊滅などという深刻な影響を醸す文言も飛び交う。今、国(や自治体)から出されている限定的緊急事態宣言は、様子見で2月7日を睨んでいるが、どうやら「掛け声ばっかり」で収束の目途も立たぬままずるずると延長される気配が濃厚らしい(検査数との比較にない感染者数の増減を無作為に出す報道も後を絶たない....東京都は偽収束傾向を演出してないか?)。

 飲食関係からの感染が、その感染者の家族への感染、家族の周辺接触者の感染、接触者からの感染拡大と数珠つなぎで起きており、又、無症状、軽症者の自宅療養における家族間感染、検査してない隠れ感染者の、活動経路における市中感染、市中感染による経路不明の感染拡大、そして変異性ウィルス感染者による市中感染など、今のこの国のコロナ対応社会体制の、ほぼダダ洩れ状態に置かれた感染実態が浮き彫りになり、自助共助公助(菅語録)などといういかにも単純に過ぎる言葉の羅列が、如何にこの国の度し難い真相を深刻にも覆い隠しているかがわかる。聞こえてくるのは、率先、事の処理に対応して適切にかつ真剣に動くべき代議員たちの、余りに真逆な言動の数々だ。我々は、いかにも苦境に立たされている我々自身の境遇に何とは知れず不平不満が募り、国会議員たちのほぼ満額で手にする歳費の半分でも国民に還元すべきと、思わずにいられない。「給料泥棒」などという侮言も出てくる始末であろう。

 公助から見られた自助(自ら助ける....「天は自ら助けるものを助ける」というが)というものは基本あり得ない(公というのは天でも神でもなく人であり、しかも主権者から見ればどこまでも従、公僕にほかならない)。公に対して言えば「自ら助ける」のはプライバシーの領域で、公はあくまで外側からこれを扶助、補助する立場に置かれる。つまり、菅の言う自助に始まる列言は、最初から明確な公助が厳然とあって成り立つべきもので、言ってみれば公助共助自助が正しい並べ方だ。しかし、アベスガイズムの目指すところからすると、彼の言っているところは、国民主権を排した「国家主義」そのものを言葉巧みに言い換えたものと解される(お前たちがおのれの分を弁えて大いに努力するなら我ら公は少しばかり助けてやらないでもない、と言っている)。

 「最終的には生活保護がある」という菅の放言は、残念ながら彼の本音であり、国民全員が厳しく制限された国営事業(生活保護法)により選別され、残余は「死刑」に近い放逐の対象となる。これが彼の「優生思想」であり、彼の対コロナ無為無策、あるいはGoToなどは巧まれた国家規模の国民選り分け作業の始まりだ。どう転んでもこのコロナ禍によりまずは中小零細企業の淘汰が事実上確実に進捗し、財閥、大企業、富裕層、保守系政治集合に利する企業だけが生き残る。勿論同時に高齢者・病弱者がコロナにより狙い通り弾かれ、無症状軽症者が多い(不逞な感染媒体そのものの)若年層が主体となって現行年齢形成構造体を逆転させる(自公政権を支持する世代層)。

 日本経済と社会保障に関して、人口減少社会少子高齢化社会における将来の社会保障の持続困難性を指摘したうえで、企業の生産性向上が絶対に必要であると繰り返し主張している。特に技術革新や海外展開に対応できる人材が乏しく、最新設備の導入にも限界がある、日本に過剰な数がある中小企業が生産性低下の大きな要因だとし、そのために最低賃金を引き上げて経営力と競争力がない中小企業を淘汰・統合するなどの政策を行うべきであると提言(デービッド・アトキンソン)....菅の心酔する理論

 恐ろしい話だが、冷静に見ているとそのように解釈できると、今の日本の国の在り方に納得するのだ。思えば安倍政権の長期の狂気じみた在り様は、かかるコロナ禍などのパニック媒体を利用してどさくさ紛れに私家政治を実現しようという流れだったとしか思えない(病気を隠れ蓑にコロナ禍の責任逃れで姿を消した)。菅に至っては、コロナ禍を勿怪の幸いに、弱者(中小零細企業、高齢者、病質者)淘汰による財閥復活、大企業を中心とした経済力と生産性向上により一気に(旧)大国日本を世界に覇する目論見だ(この宰相の冷酷な片言は決して答弁下手程度の話ではない)。

 序に言えば菅はポロっと「国民皆保険」の見直しという流れを口にした。もし皆保険でなくなれば貧者は的確な対症医療を受けることができなくなり、今なら生き延びうる生命がこぞって失われるという話だ。これも「優生思想」に通じるのであり、コロナに限らず、一切の治癒可能な病変に罹患する人々を確実に見殺しにすることだ。得体のしれない上層上流人種群が生き残り、ヒトラー・ナチス・ゲルマン優秀民族並みに第三帝国を現出し、辛うじて生き延びた弱者貧者下層下流人群を隷属させ、絶対的階級制度のもとに君臨統治する、これが彼らの目指す未来の日本国に他ならない。但し菅が狂熱的に国家主義を信奉し、ヒトラーに次ぐ近現代史上2人目の凶悪な独裁者ぶりを可能にすることなど俄には信じられない。世論調査は確実に菅を放逐する方向へ向かっているようだ。しかし、コロナが去ったらどうなるか?おのれに直接危難が降りかからぬ限りこの国の民は、「元の田沼恋し」並みにどっちに転ぶかわからない、というのが歴史的事実においてはっきりしている。つまり先の大戦の惨禍から学ぶことなく、戦後自公政権のような非民主的な政治媒体を無批判に受け入れ、今日の憂いを招いたところからもわかろう。

 現代資本主義社会の趨勢は、功利主義と優生思想により弱者淘汰、トリクルダウン的トップダウン方式のおこぼれ僥倖のみが民主主義の担保として付加された、完全な貴族社会ヒーラルキーを構築すべく雪崩を打って向かおうとしている。

 しかし、このコロナ禍は我々の前に体制側の本質的綻びを少しばかり開陳して見せている。そして黙っていればその災禍は我々自身に必ず残酷に確実に決定的に襲い掛かり(大震災豪雨被害原発事故の事をゆめ忘れるな)、全てを跡形もなく奪い去ることが明らかになりつつある。

 コロナ禍など、こうした自然災害、自然がその脅威を示し、手の付けられない猛威を振るったとき、人類はそれがほぼ大過なく過ぎ去ることを希いつつも確実に甚大な深い傷跡を残すことに呆然とする。しかしながら人類は、こうした深刻な災害を通して自然が教えている、深い哲学的な意味にはさほど関心を払わない。一方、天然痘撲滅などに成功した人類は、現代人の過半を有為に罹患させる悪性新生物に対して決定的な局面を迎えるには至ってなく、そしてこの度の新型コロナには一年近く有効打を打ちあぐんでいる(今のところ我々はこれが速やかに収束し元の生活が戻ることなど殆ど想像できてない)。疫学上の問題だけがあるのでなく、それに対する我々の生活形質が異常なほどゼロベースで回復可能性を減じて居るという現実が見えている。つまり、高まりつつあった未来志向型の生活形質が明確に原初的な改変を迫られたという経験だ。そこに依拠していたあらゆる生業が生命線を絶たれるという経験。国家規模で救済すべき実態に国家機構が全くと言っていいほど対処できず愚策に走り、愚劣で恥知らずな面貌をひけらかしたまま、「なるようにしかならない」とでも言いたげに責任放棄してやまないのだ。

 さて人類はこの期に及んで、与えられた精神の革命という契機に際し、どのようにしてその実際の着手に至るのだろうか?