沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩520 大衆 1

2014年05月01日 09時20分21秒 | 政治論

 ローマ帝国のユダヤ属領総督ポンティウス・ピラト(ピラトゥス)は過ぎ越し祭に因み慣例となっていた恩赦により罪人の一人を赦免することになった(全て伝説であり史実かどうかは一切不明だ)。この時その候補としてイエスとバラバが引き出されるが、バラバは言わば義賊に近い存在であり大衆的な人気があった(というより、イエスに反感を抱く祭司長たちの煽動もあったであろう)。ここで伝説(4福音書も所詮は伝説だ)は、ピラトの心理的な葛藤(後世のキリスト教界自体が持つ葛藤の反映でもあろう)を伝えているが、この有名な場面(この人の処刑については私に責めがないと言って手を洗う)は想像にすぎないとはいえ、イエス磔刑の常識的な疑問符に関連して、人民は何故イエスを死刑にしろと叫ぶのか、が古来不可思議な現象と捉えられていた証拠のようにも見える。

 上記伝承は単なる宗教的な事件としては多分に生々しい謎めいた世界を開陳している。ローマという完全な政治的存在性のなかにあって、属領の民であり明らかに「罪のない」(と、ピラトは思っている)一人の痩せ細った貧しげな伝道師がどういうわけか十字架上の被処刑人にされようとしている。ローマ的論理、というよりも単なる世俗的常識からすれば到底ありえない糾弾に晒されたイエスにピラトは問うが結局なんらの罪も見いだせない。残るのは何故民衆はイエスを死刑にしたがるのか、だが、ピラトの決断は言わば民衆の圧倒的な興奮に促されるかのように仕方なしに下されたように描かれる。

 大衆に「理論」がなければ単なる暴徒であり、それが一旦理論武装すれば忽ち一つの物理的な権力と化す、といったことなのかもしれない。(つづく)