沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩421 原爆と原発

2013年07月27日 09時25分26秒 | 政治論

 風化というのは、現広島市長(自公推薦平成23年以降)の、「原爆と原発(乃至原発事故)は違う」というような発言に、68年目の今にして出会わねばならない我々人民にとっては、まことに痛切な悔しさとともに感得せざるを得ないものがあるのだが、この市長を選んだのがほかならぬ広島市民である以上、こういう殆ど錯綜した意見というのがこの地域の一方の流れには顕著な思潮なのだとしか受け止めようがない。

 明らかにこの市長は誤った認識乃至認知状態に陥っているのだが、「ヒロシマ」の首長の言説、ということになると風化とか言っている場合でなく、そこに通底する邪悪な戦後的日本性が立ち現れるので、総じてこの種類の問題については小出裕章助教の「原発ムラ住民残らず刑務所にぶち込め」という心情発露にしか答えが見いだせないでいる。

 広島長崎の原爆投下は米国安全保障政策における、殺人兵器の大量人体実験にほかならず(勿論大戦終結のための必要条件であろうはずもない)、原発は無際涯の危険性と永久的に処理不能な害毒浸潤を準備する時限装置であり、と同時に、欧米はじめその追随国家が核兵器を持続的にかつ効率的に製造していくために、維持されなければならない軍事母胎であり、エネルギー問題そのものにさえなりえない人類滅亡手段である。

 世界中が狂っているのだ。かつて大陸間弾道弾のボタンを押すのは気違いだけだと言われたのだが、それが現に国家第一責任者近く存在する以上、狂った世界の後押しでいつでも「手元を狂わせる」事態は起こりうることだ。人類が滅亡しようが一地域が消滅しようが、「死すべき運命(mortal)」という人間にあっては当然の帰結にすぎないのだが、それをしも度外視してなお、彼らに対しては憤激せざるを得ない。(つづく)


詩420 gooニュース オリバー・ストーン監督

2013年07月26日 08時44分37秒 | 政治論

 オリバー・ストーン監督が、原爆使用に関し「使わなくとも戦争を終わらせられた」という政府内認識があったにもかかわらず、トルーマンの決断で投下実行された事実に言及している。詳細は知らないが(昨年カズニック准教授と共同でドキュメンタリーシリーズ「もうひとつのアメリカ史」全10本をものした)、恐らく事実はそのとおりだろう。これに関連して言えば、人類の戦争史上最大の激越な戦闘が繰り広げられたと言われる「沖縄戦」の惨禍は、「オキナワ」という代名詞が世界的に使用されるべき十分な理由を持ったのは当然だが、その近代史の通史において日本「ヤマト」と米国により、主に戦争にまつわる施策において、抑圧と蹂躙、差別と偏見に満ちた人権侵害、国家安全保障の名のもとに永続的確定的に、あらゆる「人民の声」を無視し続けている事実は、その同一国人に対する犯罪性の顕著な行為において、世界的に「オキナワ」の告発を取り上げてしかるべき実質を有するのであり、ストーン監督が沖縄広島長崎を訪問しようというのなら、それぞれの有識者利害関係人関係者こぞって彼に窮状を訴えるべきところだ。(つづく)


詩419 「おきなわ」における文学の必要性

2013年07月25日 22時14分57秒 | 政治論

 「おきなわ」の、総じて人間的な営為というものが何処に究極するか、ということは少しく興味の惹かれる事案ではある。

 それは、勿論それほど単純なものでないことは容易に推察できる。例えば怒りを表現するに笑いで報いるとか、悲しみを内包しながら優しさで応ずるとか、果てない憎悪をただ「怒」の一字に集約するとか、こうした表面上の情緒的晦渋さというのは、そのまま「おきなわ」の人間的な豊穣を暗示する一方、元々そうでなくてもよかったはずの、この地域のヤマトに関わる歴史的経緯を何となく浮き彫りにする。

 どちらかといえば琉歌の特異な哀調には「悲鳴」の響さえ聞き取れるのだが、一方では、真夏の海上の蒼穹や、透明に輝く海原に酔いしれる吐息とも聞こえる、というふうに、第三者的な耳目には不可触な繊細さとして受け取らざるを得ない対象としてある。

 琉舞の佇まいは、日本舞踊さえ知らないものにはやはり不思議な音響として、いつまでも余韻を残すが、この微かな震動のような足運びなど、同様に、琉球処分以来の「同化策」の機械的な野蛮さに曝されてさえ無慙にも生き残ったというものなのだろう。

 同一国人の意識は無反省にその歴史を無視してでも所有できるが、アメリカ合衆国の根源的な人種差別傾向(先頃の例の陪審員裁判での黒人差別にも見られる)からくる、沖縄琉球=ヤマトによる被抑圧民族認知が戦前から戦後一貫してあったのであり、軍事植民地として沖縄本島を我が物顔に使役している風情に影響されて、我が国の本土にある同一国人たちにおいて異族視心理を醸成したと見える。

 というよりも、米国軍事支配の圧倒的な専制力こそ、傀儡政府たる日本政府の沖縄犠牲容認と本土人の無頓着を、なんの顧慮も反省も改善意志発露もなく定着させたと言える。

 屡々牛耳っているのが外務防衛官僚たちと決め付けているが、所詮はこの国の本土人が持つ不人情、非人情、あるいは益々顕著となる青少年を蝕むリアルエゴイズムが因源であることに違いはない。

 動物的エゴイズムが、抑も戦後復興から高度な経済成長の末培養した獣化された行動基準によることは、「エコノミックアニマル」神話にみるように明白なのであって、彼らは例えば狼少年並みに、外交のイロハから教示しなければ容易に人間らしい対等な付き合い方のできない不具的状況にあり、勿論石原老人のような意味もない放言に終わる復古主義に陥るのであり、現政権の展望なき軍国主義、つまりは戦前の参謀本部並みの「やっつけ仕事」にイキガッテイルといったテイタラクだ。

 沖縄を救済するのは多分沖縄自身だが、究極する情念の形象化において「文学」は必須と言える。(つづく)


詩418 事態の正確な見方

2013年07月22日 11時54分03秒 | 政治論

 安部晋三内閣総理大臣以下、有象無象の「憲法改悪、再軍備、核武装、軍国主義復活」路線一列大行進(維新、みんな含め)は、全体主義の色調を色濃く見せながら、「国際紛争の解決手段として国家が戦争手段を採用でき」「若者が美しく死ねるような」「誇りある日本を取り戻す!!」と息巻いている。この集団の首魁安部晋三の脳裏には究極の美として特攻精神が過ぎっているに違いない。彼自身が特攻隊員として敵艦に捨て身の体当たりを敢行する可能性はゼロだが、政治家としてあらゆる諸外国の反発批難抗議に体当たりする可能性はなくもない。ただこの中途半端な軍国主義亜流は21世紀のヒトラーとしてどれほどのことができるのか、殆ど醜態をさらすこと必至の人物像を予感するのは、21世紀のヒトラーを想像する我々の中に、明らかに「独裁者」を揶揄したチャップリン的冷笑が漲っているからだが、その「裸の王様」的な滑稽さに関わらず、歴史事実の酷薄さにおいて、ゲットーのガス室に一民族全体が苦悶の引っかき傷を無数に残していた有様を、どこまでも否定し得ない現実に眼を凝らさねばなるまい。つまり人類はつい最近までこのような悪辣非道の行為も計画的に国家的にやってのけてきたのだ。アメリカ合衆国が如何にごまかして見せても、原子爆弾を子供や女性、老人の殺戮に利用した事実に向き合えば「その他の多くの人々を救った」と言いのけられる厚顔さを黙して赦すどんな度量も人民に要求できやしない。「全体主義」が個人の自由判断を暴力的に淘汰する20世紀的蛮行を、この21世紀に持ち込もうという、安部晋三以下軍国主義亜流どもに決して気違いじみた愚昧な独走(戦前の旧帝国陸軍のように)をさせてはならない。残りの棄権無効票が「物言わぬ」階層にあってしかも半数を占める事実に、現在の日本の世相を見なければならない。「政治的絶望」や「反権力」の意思を。(つづく)


詩417 愚痴

2013年07月21日 07時14分12秒 | 政治論

 日本人の特性である汎神論的ニヒリズム傾向からすれば、命さえ助かりゃあ其の余は知ったことじゃねえ。ところが巨大地震の確率が、今後も原発事故大津波を誘発する事態の避けられないことを告げている以上、「命が助かる」、といって日本国中どこを探してもそんな所ありゃしないんだ。この綱渡り人生が常態だとするなら、死ぬまで生きるだけのことで、遅かれ早かれ、例外なく個人の死を迎えねばならず、即死に始まって数10年後の病死あるいは自然死まで、皆さんお好きに死んでおくれ。わしゃネットゲームに興じて腐れ人生を費消するだけさあ。しかしだよ、このたびの参議院選がもう一度「田沼の濁り恋し」さながらに元の保守停滞主義に回帰するってえ話は恐ろしくリアルでむごたらしくてやりきれねえ。このような人性が当たり前なら人間ってえやつはまことに化け物じみてその性懲りもないはらわたの臭気を吐き気とともに味わうわれ等はいい面の皮だ。こりゃあ選挙制度が間違っている、いや、議会制民主主義も間接民主も現実的じゃあない。一部の金持ちと利権や、狂った自称「愛国者」、どもがこの世を牛耳っているに違いない。安部や石破や菅(またかん、か)の脂ぎった初老の「物知り」たちの顔を見たかい?おれらがいかに「馬鹿か」思い知らされているってえわけさあ。でも、選挙は勝負ではない。世相ってえことさ。あるいは我々自身を映す鏡?蓋を開けてみりゃあなんのことはない、自分で自分の首を絞める行為にわざわざ人民の「権利」を行使するってえことになる。で、これも一種の選挙運動?アイロニーと揶揄と自嘲まで、いやはや忙しいこと限りない。(つづく)


詩416 度し難いやつら

2013年07月18日 11時41分16秒 | 政治論

 広島長崎に落とされた原爆に対する当初の悲嘆、呪詛、に満ちた(これを投下し、戦争を始めた者たちへの)恨み、憎悪、が年を追う毎に次第に詠嘆に投げやられ、激昂する感情としては諦めに落ちていくさまが「日本原爆詩集」につぶさに見られ、最近の訪日米人が原爆資料館を見学してから「あれは、戦争を終わらせ、多くの民を救うために必要なことだった」と正当化発言する大方の傾向に徐々に妥協していくような、まさに本音のところしかたがないことだったという感想に堕する傾向へいった日本の原水爆禁止運動の実態を見ると、同じようにして、現状福島第一原発事故に関しても、もっと短時間に「元の木阿弥」に戻る傾向がこの安部政権下起こっていることは明らかなわけで、この事態の元凶である、とりわけこれを戦勝の最大かつ最有効な手段として実際に使用した人類史上最大の効率的犯罪性を帯びた国家、アメリカ合衆国の当然に複雑な精神状況を反映しているといえる。

 オバマが第一次大統領就任時に行った演説にこの複雑さは明らかな論理的矛盾として表れ、その後の彼の大統領としての事跡に影を落とす結果となったように思われる。最も単純な理念として彼は「核廃絶」を挙げ、現実政治上段階的な解消によることはやむを得ず、戦争も時と場合によっては手段として行使する選択はありえるとした。

 トルーマンが現実政治家として躊躇ったかどうかは知らないが、まさしくこの原爆投下責任者と同じ事をオバマは言ったのだ。「核廃絶」は掛け声ではない、絶対的な悲願であり必ずしなければならない人類的な義務だ。だから、核抑止力以外に使ってはならないしろものに違いはなく、この抑止力もその当事者たちが平和協定締結に努力する過程で意味のないものになる。

 そもそもブッシュが対テロ戦争を始めたために民族紛争に余計な過激性を添加し、「植民地的民主化」、「アラブの春」なんていうまがいものをでっちあげることになる、つまり「熱い戦争」状態を意図的に継続的に存在させた。全てアメリカの偽善と産軍複合体構造の冷戦後世界覇権行為によって生じたことにほかならない。今更このブッシュの愚行を握りつぶすことはできまいが、オバマの戦争は現実的ではないにしろ彼の中に仮想の敵が想定されていることは間違いない。対中防共というキーワードが一切の意味だ。(つづく)


詩415 排除すべき考え方

2013年07月15日 07時08分12秒 | 政治論

 何故、国家主義は否定されなければならないか。(主権を人民以外に置くことは、王制など世界史上の常識としては、恐らく今後徐々に解消されていくのであろう。)

 国家主義とは、主権を人民以外に考慮することであり、現代では屡々この考慮が欺瞞的に「国家の専権事項」という言い方で括られ、実質上、人民から主権を強奪する内容の国家主義的相貌を有している。

 国家対人民という対立軸は実際上はこの「考慮」においてのみ存在し、この「考慮」は「政府」乃至「国会議員」乃至「政治家」によって公的な性格を付して、公的な力学で我々の目前に示されるが、これが示されたとき既にそれは「専権」的に法的に決定づけられている。

 この公権力の圧倒的な行使は、人民のあらゆる「自由」に基づく権利行使ばかりか基本的な人権をさえ凌駕する。何故ならそれは国家の専権であり、「考慮」された方針は人民の意を超え、人民の知を打破し、勿論人民の情を淘汰する。

 つまり国家主義という「考慮」は、構成する人民の存在によって生じるにもかかわらず、政治家(もしくは国家主義者)の脳髄の中にしか生じない故に、もともと自然契約的には存在し得ない「幻想」であることが原則的に定義される。

 勿論人民が何らかの理由で幻想的にそれを望んだ場合にも同じことが言える。幻想が武器を生み軍隊を組織し戦争を起こすこと(人民が多方面からの強制的呪縛によって自ら銃を取るということもある)は不思議なことだが、これが経済的な要求と結託すれば自ずと頷けることだろう。これを産軍複合体というわけで、この両者の関係性は実に一筋にハガネのように強力な磁界を持っていて、幻想に過ぎない「仮想敵」に始まり、「利権」保存のためのあけすけな内政干渉、軍事力行使による傀儡政権のでっち上げなど、その例証は戦後及び冷戦終結後、アメリカ合衆国の覇権行為に顕著である。

 我々の国日本で、この米国と結んでいる安全保障条約は、まさしく「幻想」の産物であり、吉田茂という政治家の脳髄に下った、「経済復興と成長路線」のための米国軍事力依存「考慮」がそれだ。これは人間の営為が経済活動にある、という仮設に則って、専心これに注力するために、国防を他国の力に依存し、軽負担で走りきろうという考え方だが、事実は他国である米国の軍事的思惑に乗せられ、極東における防共最前線という西側陣営の一翼を担わされ、米ソの冷戦期を架空の「核の傘」に守護されながら、驚異的な戦後復興と経済成長を遂げたのだった。

 しかしその後バブルの崩壊、冷戦の終結、米軍再編、安保構造の変更、国威凋落にみるように、結局はバランスを欠いた国家主義的思考法が当然に招く、矛盾に満ちた国情を醸しだし、米国依存体質から抜け出せずに米国傀儡性を容易に許し、二大政党制やら政治主導、戦後体制からの脱却など、重大にして不可欠な政治改革さえ異国の思惑に牛耳られてこれを果たせず、安倍晋三のような中途半端な軍国主義亜流の勃興を許す羽目になった。(つづく)


詩414 日本原爆詩集

2013年07月14日 07時35分37秒 | 政治論

 日本原爆詩集

 アメリカ合衆国の残虐性の爪痕がここに記されている。いかなる効率主義もここには通用しない(戦争を終わらせるためにも)、ということに彼らが気づくことはないだろう。ここに論議は成り立たない。ここで感情を端折ることは決してしてならないことだ。己のしたことを具に見て、目をそらさずケロイドと黒焦げの死体と、垂れ下がった皮膚を凝視し、そこに神を見ようとせよ。

 われらの悪魔の手を人の手と勘違いした、われらの取り返しのつかない過ちを許しうるのはお前の国の神だけだ。おまえの言い訳と、「仕方のないこと」という端折りは決して許されない。誰もいない暗い部屋で涙を流せ。光が見えるならひたすら許しを乞え。そして戦後おまえらがおのれをごまかすために世界中に蔓延させた原子力平和利用という名の偽善に満ちた悪業が、加えてこれにより増産を加速する核兵器の世界的拡散が、地球の至るところで愚かしい、嘆かわしい、ありえない、目に見えない侵略を繰り返し、汚染し続けていることにつき悔い改めることをせよ。

 おまえの普段の祈りはなんの意味もない利己主義だ。おまえのした人類への罪に対してのみ許しを求めよ。更に言うなら、ブッシュが始めた収拾のつかない対テロ戦争によって死んでいく無数の子供、人々へ、彼らのために祈れ。リゾート気分と戦争で疲弊した兵士の癒しと、潤沢に提供される公金で天国を味わっている沖縄から出て行け。お前らの住むこの街には、おまえらを図々しい異国人としかみていない人たちが大勢いる。(つづく)


詩413 官僚力

2013年07月11日 11時53分09秒 | 政治論

 鳩山的政治的絶望の現実は、本来、最高最大、最優秀情報集積、分析総合能力を有する日本国の官僚機構が何故か陥った「保守停滞非理念性」の、殆ど頑迷固陋非向上性とでも言うべき戦後的性格によって、さながら国民、人民、民衆、にある希望、意思、嫌気、などに集約する所謂「民意」(それはある意味極めて脆く薄々たる傾向にある)から乖離した国家主義的、鎖国的現状維持政策の提言乃至強要に、政治家が全く対抗、抵抗、権威発現、「政治主導権」を欠いてしまい、その筋書きそのままに国政を決定していこうとするところに生じた、事実上あってはならない機能不全(官僚は民意において誤った非人間的対応を無反省に無作為に執るため)状態を続けているのだ。

 従って、安倍晋三が如何に彼の誤った政治的画策を数の論理で押し通そうとしても、恐らくは基本的に外交問題で大きく躓く結果となろう。それは政治が主導性を権力的に把持し得ない以上誰がやっても同じことなのだ。

 「小沢潰し」は彼の政治主導回帰の意志を、手を替え品を変えて現実政治から追放する当初の目的を達成したのだろうが、これを誘導した米国CIAやら諜報機関の陰謀は先頃暴露され今徐々にその全貌が解き明かされつつあるとは言え、未だに、今後共、米国介在の現状維持官僚主導の悪政がまかり通ることであろう。

 官僚を使いこなすだけでなく、保守停滞する悪策充満の現状に風穴を開けるには、米国依存鎖国的孤立への道を断ち、「開明」「開化」する意図のもとに外交的な自己確立と自己保存及び自己発展を筋立てる「おとな」の意識へ自己改変しなければならない。その役割を霞ヶ関の日本のブレインに自覚させる手立てはないものか。(つづく)


詩412 無意味な国政選挙

2013年07月10日 09時25分50秒 | 政治論

 自公政権安泰、過半数確保、憲法改悪可能議席の強奪、という筋書きの参議院選などなんの意味もない。

 当のアメリカさえ見限っている安倍政権など、高々「アベノミクス」なるまがいものをひけらかすくらいが関の山で、その実態は、堕落し、仕事をしない官僚が作り上げている保守停滞主義に牛耳られた、鎖国的孤立化への道がチラチラしているというものだ。

 歴史は繰り返さない、というが、敗戦という歴史的教訓をもたらした状況に対する、真摯な検証総括展望がもともとなってないこの国では、「同じ過ちを繰り返す」という本質に沿って、意匠を凝らし形を変えて、「旧大日本帝国」的「戦前体制」的全体主義あるいは、翼賛的国家主義を踏襲するという歴史を準備しつつある。

 保守停滞の悪弊は先ず原発再稼働論議に立ち現れる。この国はあのような震災カタストロフィーを目の当たりにしてさえ、自身の戦後的歩行が持っていた非民主的反人民的、あるいは完全な対米追随傀儡性にある国体の内容を検証せず、告発もせず断罪もしない国、であり、悪の根源としての「原発ムラ」の解体、その隠れなき罪障の追及、これを主導してきた自民党政権の解体という、当然な人間的改善行為を全くせずに、さも「なにごともなかったかのように」、従来の土俵で八百長相撲をやりきってしまおうとしているのである。

 殆ど、財界と一部の富裕層で占められた有権者の過半数をもって国政を安定させたら、当然に彼らの思惑通り、彼ら自身の金儲けのための政策で占められるに決まっている。それが安倍晋三のいう戦後レジームなら、ぶっ潰してしかるべきものと一応言えるが、残念ながら彼の思いは復古的軍国主義精神にほかならず、まさに「国際紛争解決の手段」に戦争を選ぶことも辞さないということだ。今後4年間日本国にはアベ旋風が吹き荒れるかもしれないがこの政権の、というよりこの国の鎖国的孤立によって事態は思わぬ大団円に終極するのかもしれない。(つづく)


詩411 開化しなかった文明としての日本

2013年07月08日 10時12分42秒 | 政治論

 この国の、とりわけ戦後、悪辣な状況で現状を保守停滞基調に落とし込み、現在も益々有効な自律的政策立案を打ち出そうとしない、堕落し驕慢にふんぞり返っている官僚たちは、例えば対米的に彼等の機嫌を損ねないように(沖縄問題などは特に障りのない非問題化画策をし)彼らの言うとおりに国土(とりわけ沖縄本島)を好きなように使ってもらい、殺人機オスプレイなど「どうぞ!どうぞ!」とばかり(沖縄はおろか本土を)縦横に飛翔させ、辺野古も高江も普天間も今までどおり「進展なき威圧感増大傾向」を放置したまま、無責任に、政治家にはSACO合意踏襲だけ金科玉条に言わせ続け、「負担軽減」を空疎に連呼させながらその場その場をごまかし続けている。

 戦後、彼らに運命的に欠けてしまった「国士」的熱情は、そのままこの国の理念的崩落を決定づけ、言ってみれば世界性の喪失という「鎖国」を江戸期よりはるかに不健全に無作為に、かつ無意味に準備してしまった。

 鳩山が潰れた地点(政治理念の実現を企図しながら脆くも潰え去ったこと)が、この国の戦後社会の原点回帰であり、この原点には一切の発展的希望的要素は皆無だ。だから急速に世界化しつつあるもうひとつの極、中国への対し方、見方、を間違える。

 韓国の方が現実には対中策を有効な国策として位置づけている。勿論軍事戦略だけを重視して総合的見地を欠いた日本の防衛省あたりの国策では戦前の二の舞にしかならず、外務省官僚の情報集積と分析力に期待しなければならないのに、こいつらは全く仕事をしなくなってしまった。

 「政治主導」を「決める政治」といってカッコつけたのは結構だが、間違った決定をして誤った方向へ導かれるより、官僚の保守停滞の方がまだましだ。かれらにある明確な絶望感がこの国の現状を言い得ている。彼らが希望的に理念的に国士的に蘇るなら「官僚主導政治」で大いに結構、といいたいところだが、事実は原発再稼働問題にみるとおり、あり得ない破滅的選択にさえ躊躇しない国情にあるということなのだ。(つづく)


詩410 日本国の第二の文明開化の必要性

2013年07月07日 19時39分45秒 | 政治論

 安倍晋三が、いかに彼のアナクロニズムについて彼自身の政治的エゴイズムを貫こうとしても、彼が幻想的日米関係の中で、アジア的にも世界的にも、いよいよ孤立的立場にはまり込むスパイラルから逃れようもないことは、多くの識者が指摘していることで、この参議院選結果で自公政権大勝、安定政権確保に沸きかえろうが余り政治的実質性はないことを国民は承知しておく必要がある。

 これはどういうことかというと、抑も反自公政権から生じた民主政権が無様に墜落し群小野党にばら撒かれたあと、本来望まれたはずの「政治主導」という正当性はどこに向かったか、なのだが、どこにもこれに見合った党派的表象がないという状態から、政治理念の喪失とその見返りとしての政治的ニヒリズムが大衆を覆っているという状態のわけで、この自動的に平準化した有権者の傾向は暫く如何ともしがたい状況で推移する。

 これを政治的不毛と捉えるのは早計であり、むしろ「官僚主導」とはこういうことなのであって、「官僚」が陥っている似非世界観の誤謬性を払拭しない限り、誰ひとりこの国の鎖国的孤立による国家的凋落傾向に歯止めを加えることはできやしない。対米も対中も対北も外交は全て間違っているし、第一にこの国の戦後レジームを形成した張本人たる日米同盟が、なんの意味もないからくりにあることさえ周知されてないのだから、あらゆるグローバリゼーション化した現代政治状況のなかでは「開化」は到底不可能なことは目に見えている。(つづく)


詩409 「自由か、しからずんば死を」ー沖縄の声

2013年07月06日 07時20分37秒 | 政治論

 高江で先頃完成した6個中一個のオスプレイヘリパッドに関し先行運用の可能性が沖縄防衛局から示唆されている。何時になるかは知れぬが、もし実際運用されるとなれば、高江地区住民は騒音爆音墜落危険性の精神的ストレスに否応なく叩き込まれ、当然またこれに加えて自然環境破壊傾向は一段とすさまじい勢いでこの「自然遺産」候補地を侵攻することになる。

 ここでは、勿論人間が理念として掲げうる精神性の価値ある表象などおよそ見いだせない、異国の軍隊によって土足で踏みにじられる辺境の人口希少地的運命があるだけだ。

 彼ら米軍兵士たちが気がつかない非人間的行為の国家的強行が、弱肉強食・優勝劣敗の野蛮であけすけな具現化として人類の歴史に刻まれることなど、畏れも危惧も悲しみもなく、単純な時間の経過としてしか受け止められていないはずだ。

 それはかつて、2個の原爆を躊躇いもなく市民の頭上に炸裂させたあの「鬼畜」行為に関し、「仕方のないこと」で片付けられる米国の「愛国的」国民性が、多かれ等しく共有する「全体主義」の無意識な自動機械として、このアメリカという国を形作っているという意味だ。

 参議院選は自公勢力の過半数突破は間違いないらしい。政策内容はともかく集票能力だけ突出した「数の論理」がまかり通り、憲法違反の選挙制度が道理を引っ込めて無理を通す強権政治の再来である。

 日米両国の劣化した軍事政治両面攻撃が、この国の住人を混迷の渦の中に自己喪失させる傾向へなだれ込もうとしている。「非暴力不服従」の大衆行動だけが、こうしたなし崩し的な国政の横暴に立ち向かえる唯一の手段であり、ここ沖縄県では普天間、辺野古、高江など、水際で国家権力に抵抗するごく当たり前な大衆運動が、連日炎天下老体に鞭打って継続されている。

 新潟県知事の東電に対する当然の、柏崎刈羽原発再稼働拒否の意思表示を他県の首長たちは自覚を持って見習わねばならない。君たちの主役は君たちの土地に住する人民以外にない。

 沖縄県知事、東村村長の高江ヘリパッド工事容認とオスプレイ配備反対の自己矛盾は直ちに解消せよ。要は沖縄にあっては「安保容認」こそ基地問題の真逆の反人民的姿勢にほかならず、「辺野古は時間がかかる」という知事の言い方は、むしろ敵に利する態度表明であり、県民は自身の県土を守護せんとするならこういう知事を選んではならない。

 日米両政府による選挙謀略が屡々反民主的な結果としてこの国の戦後史を作ってきた。これからもそうだろう。こんな国のどこに明るい希望や未来への確かな歩みを見いだせるか。奴隷の身分は「慣れてしまえば」どんな不都合も矛盾も長持ちするものだとは、古来言われてきたことだ。「自由か、しからずんば死を」。人間として言挙げするなら、そういうしかないのだろう。(つづく)


詩408 沖縄県国頭郡東村高江での米軍蛮行

2013年07月04日 09時46分04秒 | 政治論

 2007年7月以来沖縄県国頭郡東村高江では、米軍北部訓練場一部返還に伴う代替施設建設工事に抗議し反対する座り込み行動が始められ、今年で6年を経過した。この間、代替施設たるオスプレイヘリパッドは先頃6個中1個目が漸く完成したという状況にある(とにかく時間がかかる)。

 SACO合意(1996年)から17年後の時点で、国頭村と東村に広範囲に展開した訓練施設がほぼ国頭村南部と東村北部地域に集中する移設計画だが、内容は旧来の接収軍用地内旧施設を廃して新たに別の場所に軍事再編に見合った施設を建設しなおすだけの話で、ここにも米国軍事植民地政策の、欺瞞に満ちた国際司法上の犯罪的蛮行がまかり通っている実態を浮かび上がらせている(つまりSACO合意というのは普天間返還に見るごとく米軍再編計画の実質的強行謀略に過ぎず、日本国はこれにまんまと乗せられた、というよりはむしろ積極的に協力する姿勢を示している)。

 勿論これを積極的に許し、剰え進んで自国民の居住空間侵害行為に協力するという、非人間的な国家性格を醸している日本という堕落しきった国柄が見えてくる。

 この抗議行動に対し通行妨害行為として国が住民を訴えるという、所謂スラップ裁判の福岡高裁控訴審判決が出た。この国の司法権が捻じ曲げられている状況下、控訴棄却にならないわけがない。司法もまた国の意向に沿う内容でしか機能しないあきれ果てた実情にある、ということを国民は十二分に認知しておく必要があり、その大衆行動には国の監視の目が光っていることをお互いに確認しあわねばならない。

 どういうことかというと、自民党の憲法改悪草案の骨子には「国民の権利」を二の次に「国民の義務」を強固に確定する方針が打ち出され、この義務というのは、国民を「国に奉仕させる」という、非民主的強制の国家意思が反映されるということだ。つまり国民を国の下僕、奴隷、使役労務者とすることにほかならない。

 簡単に言えばまず国軍が創設されれば同時に徴兵制となり、国民等しく幼時より軍事教練を受けなければならず、次第に「軍国少年」となり、一朝ことあれば戦地に馳せ参じて「特攻」も辞さない精神を養うこととなる。

 国のために死ね、美しく死ね、ということだ。そう、まさしく戦前の日本人に回帰することにほかならない。これの先鋒を担わされているのが、沖縄県の理不尽な非民主的な、差別的不当米軍基地集中実態だ。そして戦後レジームからの脱却とは、戦前体制旧帝国軍人気質への復帰という意味でしかない。

 敗戦はこの国にとってなんの教訓にもなってないということを証明することになる。沖縄戦の体験者たる沖縄のおじいおばあは、安倍晋三の醜悪な正体を目の当たりにしたら度肝を抜かれるだろうが、コイツに好きなようにはさせない。(つづく)


詩407 日本の生き死に 23 意見書の下書き

2013年07月03日 16時41分59秒 | 政治論

 「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋め立て承認申請」に対する意見書を下書きしたもの

 私は沖縄県民であり、県土に住する限り何らかの形や内容で身体的精神的影響を被る立場にある以上、第一条件の、意見陳述資格を有する「利害関係人」であると自認するものである。

 従って以下はかかる利害関係人としての、上記事業自体に対する「反対意見」であり、同時に、いかに日米安保体制を是認すると言っても、ここまでずっと「県外への移設」を求めてきた県知事が、この期に及んで埋め立て承認に同意することは、かつて民主政権が天地逆転ほどの裏切りを見せたあの絶望的政治状況への回帰を意味するだけではなく、知事自身の政治生命も終焉を迎えることは、ほぼこの事案の歴史的経過からも断言できるし、この場合、県民の知事へのリコール請求再選挙さえ念頭に置かねばならないことは誰の目にも明らかなことだ。

 抑も普天間飛行場の返還は明らかに「負担軽減」が到達理念であり、その具現化は当然無条件の返還以外にありえないにもかかわらず、どうみても明らかな、同一県内軍事基地新設行為以外なにものでもない辺野古崎への移設という、民衆愚弄欺瞞案件である日米合作の国家犯罪的行為につき、厳しく指摘断罪即刻撤回をも求めるものである。

 当然「環境アセス」申請の段階で、これの事務的受領をさえ拒否すべき状況にあったのにも関わらず、さながら内容的に要件クリアしているかのようにさえ受け取られかねない政治的流れがあったことについては、今更ながら県の対応に疑問を覚えずにはいない。

 こうした事実上の既成路線に乗っかった、日米同盟及び地位協定に連動する一切の国家専権行為乃至外交行為は、実質的に憲法9条に違反又は違背する傾向にあることも言わずもがなではある。

 併せ自衛隊も同断であり、彼ら日米の合同演習も沖縄県内北部訓練場内米軍戦時想定訓練も、全てこれにあたると思われる。自国の憲法に違背している事柄について、米側に何の意見具申もできない日本政府は、米国の傀儡と謗られても仕方がなく、このような政府が、米国の思惑のまま自国民の意を汲むことなく、日米同盟最優先で実施している半ば以上沖縄県に特化している基地集中状況を、打開改善国土一律平均化するためにも、この辺野古崎移設に伴う公有水面埋め立て工事こそ、断固として不許可とすべきものと思料する。

 本質的な問題は基地公害そのものであり、騒音爆音墜落危険性へのストレス、また基地から発進する世界への米軍戦争行為が沖縄県民に与える心的罪過負担など、「基地撤去」を要望する具体的内容の莫大なること、今更言うまでもない。