老年にとって死は最も近接した事象には違いない。しかし多くの場合死は、それ程重大な懸案として念頭に置かれるような仕掛けにはなっていない。さながらPTSDのように、先取りされた運命として記憶から遠ざける生存機能が働くのかもしれない。死因が老衰の場合「天寿を全うした」と囁かれる。徐々に衰弱するという経験がない以上誰もそれが彼にとって天寿かどうかはわからない。ある種の苦痛も伴うだろうと思われる。アジアのある地方では「風葬」という末期の迎え方があるらしいが、文字通り風吹く野ざらしを身に受けて最後は「鳥葬」となって死肉を啄む野鳥の胃に収まる。野ガラスなどではやがてボロボロの羽根になりながら荒原に立ち尽くし風に吹き飛ばされて滅び去る、という死に方もある。それらは見ていて悲しくもなんともない。人は如何にジタバタしてもどの道死ぬのである。だが、半ばにして命脈を断つということは無残な話だ。近隣の30代の青年が交通事故死した話は耳の奥にいつまでも余韻を残す。チビチリガマ(読谷村集団自決があった壕)の生き残りが負っているものは、何年たっても消えない身の毛もよだつ地獄の光景だった。この時死は彼にとって後悔の生を準備しただけの、肉親、親族、隣人たちが半ばで断ち切った生の瞬間だった。だから彼の中に、それは決して消えることのないそのままの現実を凍結して保存してしまう。恐らくは彼の中だけに。(つづく)