沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩591 辺野古のこと 4

2015年04月29日 15時39分31秒 | 政治論

 先住民族琉球人の王国国土に武力で押し入りこれを服属させたのが江戸幕府の下命を受けた薩摩藩島津家久配下3000人(8艘の船)ばかりの軍勢だった。1609年2月以降のことだ。実際に沖縄本島に上陸したのは3月25日と言われる。奄美など南西諸島を順次北から制圧していった。この間戦闘らしい戦闘は殆どなく琉球王府もまた和睦要請以外に何一つ抵抗することなく、4月中には戦後処理が行われ、琉球王国は存続したがその地位は薩摩藩の属国間接統治、という沙汰となった。どういうわけか沖縄戦時の米軍のアイスバーグ作戦(3月から6月まで)と時季を同じくしている。

 この事件は「琉球征伐」(ウィキベディア)と呼称され、さながら蛮族征夷の感があるが、戦闘自体起こらないで征伐というのは形容矛盾としかいいようもない。実質的には明らかな侵略、侵攻、権威略奪行為にほかならない。

 その後琉球王国は日清両属状態で経移し専ら薩摩藩による朝貢貿易利権の収奪を受け、参勤交代(謝恩使、慶賀使の派遣義務.....王の代替わり、将軍の代替わり時)の義務を負わされ、通商技術の伝播義務をも課された。要するに体のいい横取り押しつけ服従強要である。何故王府が生き残ったかについては諸説あろうが僻遠の地であり、ほぼ無抵抗に済んだことなど概して平穏に事が運んだせいであろう。勿論、その通商ノウハウが眼目だったのは間違いない。このときからこの国は琉球の文化的卓越性を軽んじるわけにいかなくなった、と言える。つまり「目を付けた」のだ。琉球もとんだ輩に見込まれたものである。

 力で取り込んだ王国に対しては通常の感覚では「従ったもの」「いうことを聞く、聞かせられる者」という心理的優越性に認知動機を置くであろう。文化的卓越という非政治的要素を持つ(それは収奪者には価値の留保という絶対的なメリットを付与する)一方で、琉球王国は威圧的権力的に押さえつけられる王国、と認識したに違いない(現在の日本政府対応を、菅を安倍を見よ)。

 琉球民族は蛮族どころか高い文化的伝統を永く保っていた、しかも古代ヤマト文化と気脈を通じつつ固有な発展を遂げた独自性の高い民族的特徴を持つ、希少な存在だということは、現代日本の日本人が真摯に認めなければならずかつこれを大いに多方面で周知し尊重すべき義務がある。欠けているのは恐らくこうした認識の部分なのであって、国連人種差別撤廃委員会の勧告はその内容を徹底的に吟味して学識者、専門家の意見を徴し、異種民族に対する誠実な礼法に則って待遇改善の方策を練ることだ。その第一こそ、現在の安保体制と振興策リンク(アメトムチ)侮辱行為を廃し、安保体制自体の平準化、平等化を諮り、74%の基地を順次速やかに内地ヤマトゥに移駐させること。当然に現在の辺野古のことは白紙に戻すべきである。(つづく)