沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩393 日米平和友好条約へ

2012年09月28日 22時52分50秒 | 政治論
 日米安保条約とは何か。言わずと知れた日米間の軍事的同盟条約にほかならない。しかもその内容においては、到底双務的互恵関係になってない。つまり、「核の傘」という位置づけを、日本国が金を出してアメリカに依頼しているという形になっていて、これは、一方から見れば軍事的に、他方から見れば経済的に利益分担しているように思われがちだが、実は、軍事的には、決して実質的な利益を得ているわけではないのに、経済的恩恵に浴す方(アメリカ)は、実質上稀に見る詐欺的掻払いを可能にしているのだ。何故なら「核の傘」という状態表現が全く意味をなさないことは、現今国際情勢からも明らかであるし、同様に、「抑止力」という言い訳も付け焼刃の感を否めない。ここに働く力学というのは、アメリカの軍産共益経済体制からくる既得権益圧力が、強制的かつ人工的に加わっている状態の力学と言うべきであろう。日米安保の堅持持続は、この不自然な力学実質によってなされていると言って良いはずだ。これはアメリカの側の実像であり、これに対し、同様に堅持持続方針に一切変更のない日本国はというと。戦後処理の一環としてあった日本帝国国軍の解体没収から敷衍して、戦後日本国の再軍備防止策として考慮された、米軍の常時駐留という安保の先駆けであったが、この実質は、むしろ、アメリカ乃至西側陣営の対ソ軍略からくる軍事的必要性という観点から、事実上殆どその意味をなさなくなり、日本は言われるまま自衛隊という軍隊を違憲状態で保有するはめになったのであり、日米安保条約も彼らの都合、すなわち対ソ防共極東最前線という日本の位置づけから派生した、アメリカ側の軍事的論理によって成立したものにほかならないわけで、自動的に西側陣営の構造的枠組みに組み込まれた結果、自律的国防理念を不問に付す安易な軽負担国策の持続という「楽な道」を歩くことになったわけだ。この、国にとって楽な道がその民にあって決して楽でないことは、現在米軍基地負担を集中的に担わされている沖縄において顕著な事例を示していることは広く知られている事実だ。政府官僚にとって業務的に「楽な道」が、民の犠牲の上に立っているのなら、これを国策とは言わない。主権在民の原則放棄にすぎない。沖縄がここに生じる不公平を忌嫌し、「少なくとも」日本人一律平等負担を要求するというのは至極当たり前のことであり、政府が、少なくとも民の代理で国政を動かしているというのなら、これに呼応して、日本人一律平等負担の国策に方向転換するのが当然の責務だ。にもかかわらず、「世界一危険な軍事基地」という認識が世界の「常識」だという明確な保証がある場合に、それゆえにこそ持ち上がったはずの普天間飛行場返還事案にあっては、即時返還原状回復無条件撤退を促すのが、民によって付与された代理人としての政府の仕事のはずなのに、この仕事をどの政権も政治家も誠意努力してやり遂げなかったことはまさに民主国家として恥ずべき事態である。「沖縄の負担軽減」などとまやかしの言辞を弄して国民の目を欺き、沖縄において生じている一切の矛盾をさながら「ゆすりたかり」の県民性に発するとでも言い募る心算か(アメリカの国防外務関係官僚はそう思っているに違いない)。アメリカの世界戦略において、西太平洋の覇権構想からひねり出した海兵隊展開の自在的機動性の配置のために、旧式を廃して新型輸送機オスプレイを配備し、順次、訓練実戦可能段階へ踏み込もうという、その全国的訓練体系を日本全国に実施するのが今回の問題を生じさせた内容だが、基本的に、その発進基地を普天間にしたことは、「負担軽減」という名目に対しての、紛れもない米軍の欺瞞、日本政府の卑劣さ、の証明である。「軍隊論理は一般住民を守らない」原理から、指揮命令系統最上部への直訴以外には恐らく何の効果も期待できない、という事実は、およそ軍事にまつわる銃後と非戦闘員の悲劇としてしか現象せず、多くの場合流れ弾被弾という偶然と「軍民雑居」による「共生共死」状態の運命的必然性からの「戦場放置」、つまり「頭上を危険物が往来することの常態化」というこのオスプレイ現実が問答無用で強行されることである。日本国はこの、民の危機に差し掛かって「安保破棄」を切り札にアメリカと交渉する重大な責任を負っていると思わなければならない。そして代替案は日米平和友好条約の締結だが、この場合、所謂戦略的互恵関係の構築を日中友好条約と同質の意味において成立させること。そこにパワーバランスを見極める外交技術のノーハウを得ることだ(中断)

詩392 普天間飛来延期だって

2012年09月27日 23時43分42秒 | 政治論
 台風17号も然ることながら、ここ数日の、県民大会以来の激越な市民行動が、28日飛来予定オスプレイ沖縄侵略を食い止めた(延期)と捉えてもいいかもしれない(沖縄タイムス27日夜半の防衛省取材報道、外務省筋公表)。彼ら軍隊官僚の文言には前言を翻す一切の後退宣言はないのだが、事実上強行されてきた反人民的非民主的沖縄差別の軍隊論理はいつものように「民力」の前に出鼻をくじかれたのだ。これらの市民行動には一定の評価が与えられてもいい。尤も度々繰り返すように、軍隊は住民を守らないという経験則からしても、岩国駐機の状態でこのまま無策に推移するということはなく、10月に入って頃合を見て順次配備飛行を決行するのは間違いない。従って国家対人民の対決はそれが一つの「意味」を持つまで(あるいは回心成就するまで)今後いよいよ激しさを増すのであろう。何故なら、如何なる観点から見ても、この、住民にとって間違いなくあらゆる点で生死に直結すると予想される頭上の敵には合理的な民益の欠片もないと言わざるを得ないからだ。つまりこの、危険な飛行物体にして軍事目的にしか使用されない殺人予定兵器に関しては、アメリカ軍産機構と日本の安保信奉狂信グループだけしか、配備を望む人間はいないのだから。我々の見るところ日本政府さえこれを民衆の頭上に飛ばすことを危険視している気配がある。彼らの安全宣言も彼らの中の安全確保に過ぎず到底民衆自身の安心を担保し得ないのだが、日米安保体制上「アメリカのすること」として国民に対する国家の責任を回避しうる事案と見れば言い訳も立つというわけで、結局日本政府野田内閣はその凶状持ちの急ぎ旅を可能な限り利己的に打ち上げ花火のごとく生き延びようとしているにすぎない。この半ばプチニヒリズムに彩られた非情のライセンスが破滅と背腹にあることはいうまでもないが、そのあとの安倍政権も橋下閣下も胡散臭さには同様の絶望的な数年を予感させる。さて、阻止行動の今後を緊縮しなければならない。待ったなしの状況はいつも目の前にある。(中断)

詩391 アメリカの宣戦布告

2012年09月26日 20時39分02秒 | 政治論
 今月28日、順次岩国から移動、普天間着機するという通告、即ち民力に対する事実上の「宣戦布告」がこの国になされたということだ。折しも猛烈な台風17号がどういうわけか台湾付近からコースを北東に変えて那覇空港普天間飛行場方向へ向かい始めたのはさながら「蒙古襲来」の歴史的再現のようにも見えるが、当時の蒙古モンゴルと違い、この国の内部にこそ人民の敵がいるのでこの程度の嵐では総じてオスプレイを撃退するインパクトはないものと覚悟せねばなるまい。安倍晋三が捲土重来、満を持して軍国主義政権奪取のための保守代表に確定したので戦いの火の手は風雲急を告げる情勢と相成った。つまりこれは、戦後史のなかでもとりわけ明確な一つの大きな変容を表現する流れと見なければならない。いよいよこの国は、再軍備、核武装、憲法改悪という、「軍国主義路線」へ舵を切るきっかけを得たということだ。軍国主義、と言って不似合いなら「国際紛争の解決手段」としての「戦争」を憲法上「放棄」せずに、場合によっては大いに「駆使する」ということであって、なんということはない、軍国主義そのものであり、国民総背番号制を導入し個人情報の国家管理を可能にし有事には即時に「召集」できる実質的「徴兵制度」を確立していく。既に死に体の国体(天皇制国体としてのみ可能な抽象概念にすぎない)護持という専管事案を優先的に実施する法整備により、恐らくは奇妙奇天烈な教育方針のもと強制的に君が代を歌わされ(歌わなければ罰せられ)「お前の国は美しい神の国であるぞ」とばかり幼子に真顔で語る教師が国中に見られるのかな。我々は殆ど戦前を知らないし、体験者が口を揃えて「戦争の悲惨さ」を語る場面に幾度となく遭遇するのだが、こうした非体験耳学問の世代が、仮初にも戦争実験「やってみなきゃわからない」という太平洋戦争の参謀本部を模倣するものかわ。さて、米軍の襲来に沖縄はどう立ち向かうか。以下我々の戦いは続く(中断)

詩390 沖縄、高江からの切実なメッセ-ジ

2012年09月26日 16時03分16秒 | 政治論
「やんばる東村 高江の現状」「辺野古浜通信」(共に、オスプレイ沖縄配備計画の、ヘリパッド乃至飛行場建設に関わる地域に根差す有志ブログ)は連日のように、とりわけ前者にあっては時々刻々、ヘリパッド工事者と抵抗抗議住民有志との切羽詰った遣り取りが画像映像付きで報告されかつ、支援を広く全国に呼びかけている。自分に出来ることは何かをここで自問して欲しい。こうしたブログで開陳される情報を自身のブログで紹介するだけでもいい。既に日米政府は今月中の岩国駐機オスプレイ、沖縄普天間移動を公表し、仲井真知事、佐喜真宜野湾市長の直訴乃至配備断固拒否の宣言を軽視無視蹂躙し、その腐りきった「米国従属政治」を強行しようとしている。(これらの「言葉」には「意味」としてそのまま受け取ってしかるべき実質がある。決して「過激な」文言を「わざわざ」選んで何かを煽っているのではない)ここには日本人の一般的な、「沖縄だから」通用しうる無理強いの論理というものが歴然としてあるのだが、これを「差別」あるいは「人種差別(日本人と沖縄人を人種的に分別する学術的根拠はない)」と呼称することには少しも疑義を差し挟む余地がない。又、アメリカ軍事関係者には、太平洋戦争の沖縄戦で激越な戦闘の末分捕った土地、という占領地意識が根強く有り、かつ戦後間もなく帝国憲法上の大元帥つまりは「唯一の最高の」戦争責任者であった昭和天皇が国体護持を念願するあまり沖縄を永続的に日本の防共要塞化するべくアメリカに売り渡した事実がある。ここに市民性や主権在民、あるいは国際人権思潮に著しく齟齬する看過できない、実態が横たわっていると知るべきだ。アメリカには当然とりわけ沖縄に米軍基地を展開して損する謂れはなく、日本政府が国民の血税を「思いやり予算」で米軍に提供している限り「こんな安上がりの外国駐留基地はない」とほくそ笑むのも当たり前と言えば当たり前のことだ。つまりはその国の民を「思いやる」のをやめて軽負担戦後復興高度経済成長のために続けてきた当初の存在意義を喪失した安保体制の軍事的持続という「悪徳」から手を引き、民を「思いやる」政治に立ち戻るなら戦後の大方の官僚政治はその誤作動から回復するという希望もある。いずれにしろ、沖縄辺野古、高江、宜野湾、嘉手納等米軍基地所在行政地区では今や命懸けのオスプレイ配備反対抗議闘争が連日繰り返されていて、多くの人々の応援支援座り込み合流が求められている。時間等余裕のある方は是が非でも助力の手を差し伸べてください。(中断)

詩389 この国で9条が有効かどうかという検証

2012年09月25日 20時15分37秒 | 政治論
 日本の、国としての右傾化は、欧米が当然に懸念するほど突発的な軍国化を準備してないことは明白であろうが(9条の縛り)、例えば独島を巡る反日教育という、徹底した方針のもと国民をある一定方向へ誘導する韓国のように、日本が、むしろ戦後明かに冷え切った国家(国防)意識にあって、国民をある一定の方向へ向かわせる何らの必然性も持たないという事実のほうが、逆にある種の絶望感を齎しているようにさえ思われるのはどうしてか。
 しかしながらこれは、実は敗戦とともにこの国に訪れた非常に非精神的な実態(魂の抜け殻状態)と同一地平にあるといったほうがわかりやすい。
 既に国民は、この国が、外国である戦勝国アメリカによってその国策を決められていることに気がついているし、多くの政治的局面においてアメリカが介在し、その方針に一もにもなく従わされている自身の国民的運命にも気づかされている。彼らの中の有識者と言われる連中の大方は、それを少しばかりの自嘲とともに黙認是認し、精神的又は政治的に内容のない空疎な言葉の「右傾化」を弄んでいるってわけだ。
 実効性も実現性もないこれらの騒々しいから騒ぎは、メデアやマスコミに嫌というほど溢れているが、一方で、無力な精神に覆われた政治的主張から、実効性と実現性への限りない展望を開陳しようという所謂現場というものがあり、そこに繰り広げられる精神的政治的な「言葉」には現実があり、戦うべき相手があり、守るべき銃後があるという、真に望まれたコミュニテイの存在が見え隠れする。
 いつの時代も、とは言うまい。恐らく十把一からげに論じるには余りにこの国は病んでいる。この精神病態は明らかに現実化し、早晩重篤に陥ることが見えている。これで偶然に、間違って?アメリカから「自立」したら一体この国はどうなるのだろう。所謂国体護持方針という敗戦前後の究極した国家方針が、さながら亡霊のごとく彷徨い出て、現今政治状況すらひねり出している現状では、民衆は、到底この国にあっけらかんと追随できまい。
 ここでいう国体は明らかに天皇制国体であり「言葉」として既に有名無実化している。為政者の意識の中の不信に満ちたこの古い専権制が一人歩きしてこの国の内容のない「右傾化」が喧伝されているに過ぎないのだが、諸外国の受け止めは(欧米はじめ中国韓国でさえ)、言わば都知事の時代錯誤(対中侮蔑精神)にうっかり乗せられて政府が尖閣国有化宣言して醸し出したのは、どうやら「右傾化」し再軍備し、侵略的行為に移行するのでは、という根拠の薄弱な連想から生じた危惧それ自体でありはしないか。
 この国に軍国精神を蘇らせるだけのエネルギーはない。あるのはむしろ捻じ曲がった、反共的対米従属の冷え切った情念に宿る、偶発を利した謀略企図かと思われる。一方、米中韓にはれっきとした戦闘精神があり刺激すれば暴発さえ誘発する暴力装置そのものだ。ここに、この国日本の無力さがあり、それゆえに有力かもしれない憲法があり、民衆の可能的エネルギーが潜在する。と、一応結論しておく。(中断)

詩388 かくして反日反米、反中覇権主義となる

2012年09月25日 07時58分18秒 | 政治論
 仲井真沖縄県知事が森本や官房長官に「直訴」するのは当然のことだが、逆に言えば、彼ら政府人がアメリカ「戦争経済主義」を全面的に受容し、かつその「戦略的一方的最恵国待遇」外交姿勢を維持している限り、彼らの中の外交防衛思想の変更というのは基本的に有り得ないということもわかりきったことではあろうし、知事が、目を赤くして手にしたメモを読み上げている様は、いよいよ、切羽詰った自身の政治生命という難題に直面した瞬間を表していると思うが、一方、「直訴」とは行政府の長が為すべき業とは言えず、ここに俄かにこの国の中央集権実質を露わにしているとさえ言えそうで、彼には一体どんな目算があり、本心から配備撤回をやり遂げようとしているのかすら疑わしく、何故知事公室長辺に対米工作を任せている(NHKクローズアップ現代によると)か理解ならないと、誰かが不平を漏らしても不思議ではない。ここに来て、日本側からすれば急速に気色ばみはじめた日本国を巡る中韓米の絡み具合が、所謂「熱い戦争」を予感させる微量の気配さえ見せないのに拘らず、少なからぬ「緊張関係」を醸し出しているのは、マスコミが垂れ流す何らかの意図に基づく情報流布が国民感情を刺激しているということもさることながら、アメリカ世界戦略を軸に日米同盟米韓同盟と対中外交模索にあるアメリカの思惑がなにを目指しているかについて定見を見いだせないジレンマに落ちているからではある。しかし「恒常的に戦争状態」を継続させられている沖縄県民にとってはオスプレイは単なる危険的飛行物体であり、その配備強行行為は県民への「宣戦布告」としか受け止められてない。しかもこの戦争は、「侵略者」アメリカが、敗戦国日本の安保便乗軽負担安逸主義にのうのうと居座り、戦後全く変更なくきた属国関係にあっては当然の軍事的行為一般を指しているのであり、その功罪は当然に日米政府双方にあるのは見えている。つまりおためごかしはもとより、沖縄にとってアメリカも日本政府も同じ敵対関係者に過ぎず、これ以上琉球処分や沖縄返還、また遠くは島津侵寇の轍を踏む愚が許せるものか甚だ疑わしい。日沖関係はさながら現今日中、日韓関係と同断であり、その実質は「反日」状態に近いものがある。従って「反日」「反米」といくのだが、実は中国に対してもその急速に顕在化する覇権主義には真っ向から敵対する感情を抑えられない。総じて沖縄は「非戦」「不服従」姿勢を決して崩すことがないのである。それにしても憎むべきはオバマだ。(中断)

詩387 政治に抗議の声を上げるのは無力だが希望はある

2012年09月22日 08時56分38秒 | 政治論
 県民の90%が「いらない」といっている日米安全保障条約(日米軍事同盟)により、国内に展開する米軍の軍事基地から発進したB52戦略爆撃機が、ベトナムで無辜の民を無残に殺傷していた時代や、又東西冷戦の幕開けの朝鮮戦争からこんにちまで、沖縄はその基地の存在で彼らアメリカの戦争の片棒をいやでも担がされ、本土で他の日本人が「平和な時代」を謳歌しているとき、直に戦争における「殺し合い」の罪責まで担わされ、不如意な精神的負担を余儀なくされたうえに、激しい基地反対運動にあい本土を追われた海兵隊が、ここ沖縄に流れ着いて結局74%もの過重負担を押し付けられる状態にまで、偏頗に差別され続け、戦後間もなく占領軍である米軍によって県民の土地が「ブルドーザーと銃剣」で強引に基地化されたときから、本土のどこでも考えられない米軍基地負担、軍民雑居、戦場状態の県土に県民は住む羽目になった。そうさせられた。
 しかもこの状態は、それ以前の太平洋戦争時に、戦況末期敗色歴然たるとき、最後の激越な戦闘を繰り広げた「沖縄戦」が醸し出した「戦場」と、瓜二つの様相を呈しているということだ。
 この沖縄戦が県民に教えたのは、「軍隊は住民を守らない」、という事実だったが、その内容たるやまさしく現今日本国政府とアメリカが沖縄に対して実行しているあらゆる施策に如実に再現されているという、恐るべき話である。(少なくともマスコミマスメデアが「過剰な反応」の如く伝えている沖縄に関する反基地運動、非戦活動、沖縄の史実へのこだわりというのは、ここに住んで種々の学習を心がければ直ちに気がつく、正銘の、まともで正当な声なのである)
 このため沖縄では本土の日本人が経験した「戦後」というものはなかったし、逆に今まさに血腥い戦争状態(戦争準備訓練基地の存在と対外戦地への発進基地そのもの)が継続しているのだ。(ここを飛び立つ戦闘機が明日にはアフガンの人々を殺しているのは間違いないわけだ。)
 そこへ来て押し止められないアメリカ軍略行軍の様々な地元軋轢をこの国の政府と国民は少しも改善除去しようとしない。普天間という危険極まりない基地を撤去することさえできない。地元の執拗な捨て身の抗議行動で中座している辺野古のこともただただ呆然と放置しているだけだ。
 高江のオスプレイヘリパッド建設工事は今、地元民と活動家の必死の抵抗も効を奏さず隙を見ては現場突入しみっともない人民蹂躙工事に夜も日も明けない。嘉手納、普天間では恐るべき爆音を響かすジェット戦闘機の殺人的飛行に対し住民が怒りの抗議行動訴訟活動を繰り広げてるが一向に埒があかないのは、当の日本国政府がこれの敵側に回っているからだ。
 軍略的な論理的理由のない「安保堅持」は言い訳で、要は彼らは重大案件に対し「拙速」と「安易」さを追求するのみで苦労して切り開く政治的努力を完全に放棄しているのである。ともかくこういう現今政治に抗議の声を上げていくしかありませんよ。無力ではあるが希望がないわけではないので。(中断)

詩386 沖縄の苦衷に無関心な本土の日本人たちよ

2012年09月21日 11時52分07秒 | 政治論
 現在沖縄はまさしく戦場そのものであり、その直接の原因は、野田政権が、歴史的にも(将来に禍根を残す意味で)「無責任」に欠陥機オスプレイ「安全宣言」なる摩訶不思議な屈辱外交、民意無視の暴挙に打って出た所為で、これに対抗し如何にこれを阻止し撤回させるか苦闘を続けている地元にとっては、この地はまさに戦場にほかならないのであるが、言葉の実質上の意味においては「戦場そのもの」というのは、(本土の日本人もよーく考えて欲しいのだが)米軍基地国土展開の74%を、この狭い自然豊かな、しかもそれなりに人口密集地域でもある、普通の人間が普通に暮らす弓なりの小島に押し込んで、まさに戦争のための「人殺し」を業務とする訓練のために、連日連夜、早朝深夜も分たず、住民の生活的安寧を損なってさえ何一つこれを顧慮するわけでもなく(負担軽減とは名ばかりの実情がある)、彼ら自身の「戦争状態」を継続してやまないという状態と、これに対抗し抵抗して日夜「座り込み」による「非暴力不服従」運動を展開する沖縄住民が、本土の人間なら容易に回避できるはずの「基本的人権」侵害実態のど真ん中に投げ出されているという状態は、まさにそれこそ「戦場」そのものではないか。
 本来なら、「安保体制」維持のためにしか沖縄を使わない日本人に向かって、「お前たちのところに基地を全部持って行ってくれ」という話だが、「差別精神」と「対岸の火事」エゴイズムに凝り固まった彼らは「俺たちに火の粉をふりかけるな」と、言い放ってはばからないし、これを聞いて怒りをぶつけるべきなんらの決定機関もない沖縄の住民はまさに、軍隊と雑居させられている「戦争状態」にあるということになるのだよ。
 その理不尽な軍隊論理の強行から、日本並び極東、西太平洋の安全保障のため、沖縄は太平洋の要石だとして、いつの間にか既成事実をしつらえた(戦後最初からこういう立ち位置に沖縄がいたわけではない)この国とアメリカは、県民90%が忌避している日米軍事同盟をこの沖縄に展開して倦むところがないばかりか、今や確実に数年内に墜落し人を殺すであろう恐るべき欠陥機を日本国中に展開しようという、キチガイじみた話になっている。
 本土の日本人よ、もし米人の言う「精神年齢12歳」汚名(これは汚名かな?)を返上しようというのなら、今こそ大人になってこういう理不尽をこの国から排除するために大人の行動をしようじゃありませんか。(中断)

詩385 沖縄県知事はただちに命令系統トップのアメリカオバマに直言せよ

2012年09月20日 08時44分15秒 | 政治論
 強盗を目送する、ということをこの国と人民はしてやしないか。戦わずして盗人を「憎々しげに」見送っていないか。その内実に悔恨に満ちた「苛立たしさ」を抱え込んで、これからもそうした「絶望」や「あきらめ」に仮託して己の真情に背を向けてないか。沖縄県国頭郡東村高江地区(米軍北部訓練場がありオスプレイが頻繁に飛ぶ予定になっている)に住する160人の住民に対し例えば「ここに危険極まりないオスプレイを訓練飛行させるのでかくかくしかじかの土地へ移住していただきたい」なんて言ったことがこの国にはただの一度もないのだが、これはれっきとした国家による他国軍隊の殺人予定行為以外の何かなのだろうか。勿論普天間住民に対しても同様なことを繰り返しているが、「人殺し命令」しか知らない軍隊に口酸っぱくして叫んでみたところでどうにもならない。この軍隊のトップはオバマである。従って10月末なんて言ってないで早速知事はアメリカ本土に乗り込み、即刻オスプレイの計画中止と普天間無条件返還を言い募るべきだ。それができないなら沖縄県の知事である資格はない。(中断)

詩384 死に至る旅路

2012年09月20日 07時41分41秒 | 政治論
 沖縄県民に今あるのは何だろうか。遣りきれない悔しさ、煮えたぎる怒り、絶望的な思い、およそ軍隊、軍事、に関する一切が、とりわけ沖縄住民にとっては絶対的な敵でしかなかった現実への思い、地位協定という治外法権が繰り出す米兵犯罪の免罪化に血の涙を絞らされた過去及び現在未来、への恨(ハン)、「出て行け」と声を上げてもここから出て行かないよその国への軽蔑、?憎悪、(アメリカに向けた刃を返す手で)日本国がつまり日本という国、その国民、そして政府が沖縄に対してしてきたこと、していること、今後するだろうことへの呻きに似た嘆き、というふうに、たかだか6、7年住んだくらいで想像している者には到底思い及ばぬ何かがあるにちがいないのであり、今この国のある意味その生育環境、境遇、経験、知遇、交友関係、が特にいくらか大衆的な部分から選別された人達の手に委ねられた政治権力乃至政治決定権により、原子力に関しての国の運命を左右する意思決定に関与する行為やら、とりわけこの国の裁量にない国家安全保障についての外国の計画に基づく軍事行為が、この国の民に及ぼす甚大な影響に関する、人々の不安懸念苛立ちのことは殆ど無視したとしか言えない、オスプレイ「安全宣言」という、外交の、無責任な見切り的発信や、恐らくそういう様々な住民の不満鬱積の原因母体となって現在野田政権は多分「拙速」というワラジを履いて兇状旅を続けているのであろう。この政権は鬼っ子に違いなく、気を付けないと日本はとんでもない具合に道を踏み外すような気がされる。誰がいつこいつらを退治してくれるのか。(中断)

詩383 尖閣、オスプレイ、人民行動、辺野古

2012年09月18日 11時33分45秒 | 政治論
 The NewYork Timesの社説の「オスプレイ配備反対県民大会」に対する当然な反応(オスプレイを沖縄配備せず専ら沖縄の負担軽減に配慮せよという勧告?)は別として現今パネッタ、森本会談の所謂「安全宣言」にまつわる合意というのはこの先どこまでいくかという展望からすれば、ひとまず岩国周辺海域での試験飛行というもの、いかにも既成事実創成行為とみるが、このように着々と配備強行に向けて両国は遅滞なく前進している「かのように」印象づけようとしている。これを民衆欺瞞行為というが、一方基本的に軍隊にあってはむしろ当然の確定行為であって、「住民を守らない」性質そのままにどこまでも押していくものになる。恐らく森本がいうように「辺野古を是が非でも成功させる」方針の強行路線はいよいよ「公有水面埋め立て申請」へ移行していく時期に差し掛かったという事態だ(この既定の行動はオスプレイ配備計画と連動するとみる)。むしろ予定通りに来たのだ。野田のいう「決める政治」は内容如何に関係なく懸案事項を速やかに実行し「見た目解決する」ことに政治生命が賭けられているのであって、彼は「歴史に名を残そう」とするかのように次々と悪政を実現する手段に打って出たというわけだ。ある意味良識派の油断の隙を正面から攻撃したのだが、ここで重要なことは、例えば中国の反日デモ暴動が反政府実質に近い内容で進行する今の中国人民行動の本質というのが、言わば政府行為の無作為の是認となる傾向を手段を選ばず人民力の行使によって歯止めする、又は一種の物理的インパクトによって国勢を制御しようとする民衆行為(コザ騒動は似ているかもしれない)と捉え、これがこの場合オスプレイに関しどのように応用されるのかということについて思考する必要があるかもしれないということになる。単純に隣国の内紛とみるには少々切迫して感じるのは、尖閣のことに凝集して他を危機感をもって見ないために不安な「国家による人民攻撃」事態が差し迫っているという暗然たる実感が「我々」にはあるからなのだ。(中断)

詩382 事態は極めて深刻かもしれない。

2012年09月17日 12時05分46秒 | 政治論
 「軍隊は住民を守らない」という文言は、沖縄戦に関してしばしば析出される、軍事における特有の性格乃至本質として多分多くの識者の方々が言われてきたことであった。多くの沖縄研究者始め論者がこれを沖縄戦で見られた集団強制死(既に大江岩波裁判が結審している以上これは疑いのない軍の強制による集団での殺し合いだったといえる)、スパイ視による住民虐殺、あるいは壕からの追放、軍官民共生共死一体化精神、などの事例から導き出した、旧日本軍の、根本的な「沖縄差別」による住民軽視の傾向から言えることだと一応考えられるのだが、ここにあるように、これを沖縄戦に特定される傾向として見るのかどうかはまた別問題らしく(あらゆる軍官民雑居の所謂合囲地境状態での戦場一般にいえることかどうか、つまり本土でも同じことが起こるのかどうか)、少なくとも国内74%の米軍基地、及び自衛隊が集中的に配置された沖縄こそまさに戦争のための集中的発進基地として捉えられ(彼らの言う中露北朝鮮攻撃対象地点地域)、同時にさながら軍民雑居する「共生共死」の事実上の一体化が図られている島嶼として実態を特定しておくべきところである。つまり既に沖縄は知らぬ間に日本国において集中的に軍民総動員体制を実施している行政単位なのである。(しかも軍は異国人の戦闘部隊が中心であり自衛隊は軍事的にはともかく法的にはむしろ銃後となる付け足しの後方支援に過ぎないわけだ。)この事は、太平洋戦争にあって「捨石」とされ本土の防波堤にされた沖縄戦の本質そのままに同じ「住民軽視」傾向を再現している状態といえる。「地位協定」から治外法権的に優遇され横暴な法的格差を蔓延らせ住民の基本的人権を「泣き寝入り」させるこの行為は軍人の「住民を守らない」性質それ自身であり、このようにして沖縄県民に対しては、あの戦争が今も継続的に態様を変えて襲いかかってきているのだということになる。軍隊にしてみれば「お前たちを守るためにやっていることだ」という旧日本軍の言い訳そのままにオスプレイという欠陥機を我が物顔に飛ばそうというわけで、県民が10万人抗議に集おうがお構いなしで実戦配備に勤しんでいる。勿論将軍たちは机上作戦に夢中で西太平洋の覇権競争軍拡競争にしか興味がなく、折角大戦で苦労して分捕った占領地に「人間」が住んでいることなどとんと忘れ去りいかにして効率的に部隊展開するかを思案するのみだ。このような存在に対して、自身の生存と安定した生活空間を真剣に確保するには、一切軍関連行為に協力しないという決意すら必要になる。否、更に知恵を絞って、彼らの犠牲になってむざむざ死ぬのはごめんだという意識、彼らは決して「我々」の安否は考慮しないという認識からくる自助手段の模索、最後に彼らの手で戦場に放置され逃げ惑う自身を想像する、つまりこの国によって沖縄は人間として民として「見捨てられている」という状況確置、を決定的に保持する必要があろう。(中断)

詩381 軍隊は住民を守護しないという事実の、住民における確認の必要性

2012年09月15日 11時25分29秒 | 政治論
 米軍基地が沖縄県民の基地撤去意思に反してでも存続する理由は、所謂「太平洋のkeystone(要石)」とか言う米軍再編にあってただでしかも莫大な予算添加によりあてがわれている沖縄諸島という棚ぼたを、本国将軍どもが手放すはずもなく、言ってみれば己の種々の要求(そこには軍事以外の思惑もある)に基づく軍略上の意思により、「住民意思」とは何の関係もなくはびこっている、という現状にあるといえる。ここにも他国の軍隊ながら「人間よりも」軍事を優先する軍隊特有の論理がまかり通っているのだが、およそ軍隊が住民を守らない決定的な本質については、例えば現森本防衛相(元自衛隊勤務)が県知事や宜野湾市長にオスプレイ配備につき説明に来る今回のバッドタイミング(反対県民大会直後)などは「軍隊はおまえさんがたの言うことなんかききませんよ」という意思表明にほかならないわけで、こうした国家の軍事的行動が決して当事者たる住民を守らないことを住民は如何なる懐柔策にあっても決して忘れてはならない。このことは原発(これが核開発に寄与する物件であることを想起せよ)に関しても同断であろう。福井県知事の選挙対策言動がいかに将来的な危機を喚起するものなのかよくよく見定めなければならない。見よ、「フクシマ」の悲劇は、子孫に至る道筋に、人類汚点たる害毒を垂れ流す行為の是認という、県民の選択がもたらしたのだ。今沖縄で継続的に繰り返されている捨て身の「座り込み」闘争は、環境保全、生活権利行使はもちろん将来的な子孫の安寧を祈念する地元住民の真情の発露以外の何物でもない。何故県民は米軍自衛隊展開に抵抗抗議反発するかといえばほかならぬ沖縄戦で無残に体験させられた、軍隊の本質認識によることは言うまでもなかろう。例えば尖閣を巡る日中の確執からどんな謀略が企図されるかを我々は凝視する必要がある(かつて満州某重大事件があったじゃないか)。小平時代に不問に付す(棚上げする)政治的緊急避難を約定したはずの案件に都知事が着火した。今彼の言動の功罪を論うものでないが彼の行為が日本の右翼軍国主義思潮に一定の揺るぎない根拠を与えたことは間違いない。軍事的解決に至るのはほんの一歩である。沖縄が火の海になるのは目に見えている。この国は同じ過ちを何の反省もなく繰り返すということになる。こんな国のどこが「美しい」のかのう。(中断)

詩380 ジャーナルに意見具申しないと蔓延り始める右翼、という危険 

2012年09月15日 00時26分34秒 | 政治論
 ジャーナリズムとはジャーナルに事変に対応していくことに文民的果実を見出す作業ということだと思われるが、このジャーナル「日々」という意味の中には勿論「歴史的光源」が含まれるはずであり単純な時系列の一単位のみを指すわけではない。ところが「その日暮らし」の「右翼系ジャーナリズム」は、論理に基づく理論は勿論、歴史的視野も持ち合わせないので、日々所謂「左翼モグラたたき」や「揚げ足取り」に勤しんでいて、しばしば、さながらしつこい雑草の類のごとく「抜いても抜いても」毎日生えてくる非情なていたらくのわけさ。で、こういうやからに気を取られていると足元が見えなくなり、歴史の潮流から弾き出され、日常的忙殺の中に霞んでいくということになる。彼らがでっち上げる嘘、意味のない空論、論理性のない「議論のための議論」、扇情的に言い募る空疎なプロパガンダ、がとりわけネットジャーナリズム横溢する昨今急激にかつ脅威的に急迫する実情にあってはこれを屡々排撃しないわけにもいかないのだが、ところで日米安保の枠組みの中で「右傾化する」ということはどういうことかというと、ある論難から引用するなら、自衛隊を国軍化し憲法を改悪し集団的自衛権行使を可能にし、かつ原発使用済み核燃料の再利用、ウラン、プルトニウム抽出により核兵器開発可能な状態に据え置き(既に廃炉だろうがなんだろうが原発は核兵器のためには、いつでも再利用可能な貯蔵施設のはずだ)米軍の友軍、乃至補助軍として戦争のための実戦訓練強化により米軍行くところどこへでも直ちに出向しうる体制にするわけだ。この、核開発は、米軍「核の傘」関係からすると同盟効果の否定につながるが国内核実験の困難さやら膨大な費用の観点から恐らくは核資源輸出の方向に行くのだろう。で、このような体制作りのために安倍晋三、橋下徹、らを筆頭にこの国のおそらく少なくない数の知識人を巻き込んで、自虐史観の修正、歴史教科書記述変更等による旧軍悪弊隠蔽と同時に皇国「美しい国」への献身的犠牲の美化、つまりは国のために死して尽くすことが「愛国」であり、死を恐れないことにこの国の絶頂的歓喜を象徴化する企てに邁進するわけだ。今自民民主それに公明維新をくわえて、正当な理念的国家改造姿勢すら一切諦めたこの国の自称「憂国の士」どもが「我々」人民の生き延びる代(しろ)を奪い取って破滅への階段を上り始めている。かのオスプレイ配備を皮切りに蹴散らし蹴散らし、いったいどのような鐵の鉤十字を掲げるものやら。(中断)

詩379 愚昧な国家戦略ごっこから手を引くが良い

2012年09月12日 10時56分56秒 | 政治論
 沖縄県知事宜野湾市長と会談する生気のない森本御大の顔には、勿論余裕も何もないのが手に取るように見えるが(彼らの縛りは当然地位協定がらみだ)、「安全保障」、「安全保障」という割には、現実にその安全が脅かされている沖縄県民はもとより、関係自治体住民の「安全保障」がされてないオスプレイを、是が非でも配備したい日米軍事関係者たちの、矛盾に満ちた、「住民を守らない組織」たる軍隊論理(勿論論理というものではないただの情熱にすぎない)への意識拡張、拡大傾向を如何ともしがたく感じているジレンマさえ見えてくる。辺野古が一歩も進まないのと同様に「愚劣な」軍、民、押し合いへし合い闘争が無時間的に続けられるのかと、人間業ながらどうしようもない慨嘆を押し殺せないのであるが、いよいよ益々、国家が行おうとしている国家安全保障という事実上の戦争行為の、民性という本質がむき出しになってくる様を、化学実験室の試験管変化のようにはっきりと確認するような流れになっていく。「我々」にとって非暴力不服従はひとつの義務でさえある。何故なら彼らは「我々」の「敵」ではないが決して「味方」でもないのだから。とういうよりも決して味方にはなりえないのだから。従って戦後「我々」は「我々自身」を人権という台上に保全するために国家の戦争行為に加担することを一切止めたのであり、とりわけ明瞭に戦争のはらわたを見てしまった沖縄県民はお為ごかしでやってくる国家権力に対抗する民力を養う方向にのみ生きてきたのだ。そのまさに地元に、辻褄の合わない飛行物体を飛ばそうというのだから土台無理な話だ。日米政府関係者は、早々に自身の愚かさに気がついて、無理な軍拡から手を引いて立ち去る方が経済的だということさ。(中略)