沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩519 過去と現代 5

2014年04月30日 06時41分50秒 | 政治論

 大本営発表の大嘘が参謀本部の果敢なくもいじましい願望だったにしろ、既に戦局が決していた事実を熟知している立場にあってなお、玉砕精神を金科玉条のごとく「生きて虜囚の恥辱」を回避すべく訓告し、皇国皇土を死守せよと言い募ってやまないその天皇制国体護持絶対主義のもと、必然に沖縄戦と2発の原爆を自ら呼び込んだ彼ら、維新以来この国を牛耳ってきたし今後もいよいよ誤った国策に向かわせようという帝国官僚軍人と無責任政治家どもの永劫の罪過は、決して史上にその劫罰の無限忌避を許容しないものと覚悟せねばならない。

 現代、彼らが呼び込んだ罪の元凶である戦争に繋がる一切のなりわいと核利用に関し、この国は大方米国に言われた通り、沖縄戦で地獄を見せられた民衆の住する島々をこそ利して戦争のための基地の7割強を集中的に配置し、「平和利用」の美名のもと核(兵器)資源確保のための原発を54基辺地に造作し、そのひとつがまれにみる最悪の事故を起こして今なお被害を拡大しつつある現状さえ顧みずに、再稼働論議するこの気違いじみたありようを、一体どのように納得すれば日本人は日本人であることに安んずることができるのだろうか。(つづく)

 


詩519 過去と現代 4

2014年04月29日 18時24分10秒 | 政治論

 イオン名護店の一階通路に、「原爆と戦争展」と称して写真資料を開示した10メートルほどの両面パネルがあったので買い物がてら見たのだが、その中に、「沖縄戦はせずとも戦争は終わっていた」という、「長周新聞」なる関西系月決め新聞2004年9月分の記事があり、そこでは主に国の戦争目的を中心に沖縄戦の性格が論じられていて、当時、日本の参謀本部が言わば米軍の圧倒的な進撃により心理的策略的に「無謀な玉砕戦」への片道切符を握らされ、沖縄を本土決戦の防波堤、として最終的な持久戦へ流れていった経緯において、米国が如何に狡猾に残虐に世界制覇のとっかかりを得ようと準備し実践したか、なんとなく「そんなものなのだろう」と思わないわけにはいかないのだった。

 確かに米国側からすれば、解体した戦後日本を極東の防共最前線とし、かつその政府を米国の傀儡とすることは既に戦時中、のちのライシャワー駐日大使がルーズベルトに進言していたことであり、敗戦後の日本国の歩みは、米国主導の方針のもとに突き進んだ屈辱的な現代史そのものであることを、政治家官僚含め国民ははっきりと認識しておかねばならないのであろう。そして沖縄戦に叩き込まれた沖縄県民の、血塗られ、無駄死にされ尽くした境遇の燃えたぎる高炉が、現在の米軍基地に象徴的に反映残存していることに改めて思いを致さねばならないものと思う。(つづく)


詩519 過去と現代 3

2014年04月28日 15時49分26秒 | 政治論

 この地に住んで8年目になる。本土系のネット雀たちは、例えば沖縄市長選で自公支持候補の当選、というと直ちにそれじゃあオキナワの民意って少しも「オール」じゃないんじゃないか、と印象的に即断する傾向があるが、例えば昨年、自民党5議員の変節や自民県連の公約破棄など、全ては本土党執行部の恫喝、籠絡、傀儡化を如実に示していたことなど全く見えてないわけだ。その中央寄りの正体を巧みにカムフラージュしながら時期と環境が整うのを待って、人心も押し詰まった年末にあっけなく「辺野古埋立」を承認した仲井真などは、どうみても倫理的に劣る人品としか言いようもない。尤も政治家に倫理や道徳を追求しても仕方がないわけで、彼の政治姿勢が老獪な駆け引きに終始するならその先の政治的成果とやらを冷静に見据えておかねばなるまい。(つづく)


詩519 過去と現代 2

2014年04月28日 08時50分31秒 | 政治論

 4月28日、屈辱の日。サンフランシスコ講和条約締結の日。

 日本本土政府においては昨年、安倍晋三の大きな勘違いでこの日を主権回復の日とし米国占領体制からの独立を宣した日、とした。ハーグ陸戦協定違反事例に過ぎない米軍基地の沖縄展開を、国内7割分ここに集中させつつ、半端な主権実態も見逃して本土民の大方がノホホンと平和ボケに包まれ赤子、幼児、精神年齢12歳程度の意識で過ごした70年弱の戦後は、かくして間違いなく琉球沖縄をつんぼさじきに追いやって自分たちだけが良ければ、のエゴイズムにのめり込んでいた歴史である。

 本土の戦争体験者の人たちでさえ沖縄の戦争実態に触れればその恐ろしさに身を震わさずにいないという話をする。ある米側の映像には地べたに座り込んだ幼い子供がブルブルと震え怯えている姿があった。あれがこの島の普通の一般人の置かれた真相であり、象徴だ。ここではあの体験を語りたがらない人たちがいる。むしろその息も詰まるような瞬間を想起し言葉も出ない、ということであろう。これが琉球沖縄にとっては最初の決定的な出来事であり、肉声を伴った「非戦」の願いの根底であり、あらゆる基地反対闘争の動機そのものだ。本土の人間はこのことを含め、自分らが図らずもしてきたこの地に対する未必の故意事案を見逃してはならない。それは差別的にこの地を遇してきたあなたがたの責務だ。(つづく) 


詩519 過去と現代 1

2014年04月26日 15時41分38秒 | 政治論

 かつてドイツ連邦共和国大統領リヒャルト・フォン・ウ”ァイツゼッカーは1985年の議会演説で「過去に目を閉ざす者は未来にも盲目となる」と言った。外交官でナチスドイツ外務次官だった父エルンストが戦後戦犯として訴追されたニュルンベルグ裁判の弁護をした(エルンストへの判決は懲役5年のち釈放という結果であったが、その裁判の正当性が連合国からも疑問視された)のは息子のリヒャルトだったが、彼自身もポーランド侵攻作戦や対ソ戦に参戦した経験を持っていてほぼ直近の前線で兄の戦死に出くわしている。例のヒトラー暗殺計画の一端を認知していた形跡もある。彼のナチ犯罪認識は戦後のものだと思われるが、彼が言う過去とは当然に自国の有した第一次大戦後の歴史的経緯が示す、拭いようのない暴力的残虐行為をかつてなく組織的計画的具体的に実行した戦争犯罪、に究極する。

 ユダヤ人問題は西洋においてはイエス磔刑以来常に存在したものであり、故郷喪失の憂き目にあって主に欧州各地を彷徨う運命に落とされた彼らは、しかし人種的民族的に際立って特殊に選別される筋合いにはない。キリスト教的偏見が人種差別的特殊視を助長し、「侵入者」意識や存在性が醸し出す邪魔者扱いが延いてはヒトラーの「我が闘争」におけるユダヤ人排斥思潮となり、これと並行してアーリア人(この人種的観点も根拠は薄弱である)絶対優越主義に促された戦争外交主義(今の軍産複合体と大差ない)により第三の帝国をでっち上げようという、誇大妄想的な全体主義に突き進んだ。ユダヤ人、ジプシー(ロマ・シンテイ)、障害者、同性愛者、の絶滅と、更には戦争捕虜、政治犯、にも及ぶ殺戮の嵐である。

 現代の我々は、こうした過去に関わった具体的な経験はないし、実体験者の年齢も既に限界を超えて考慮されるべき時期に来ている。問題は「戦争責任」が我々にもついて回るのか、だが、それは実質上あり得ないと考えるのが一般的でわかりやすい。一方、「過去に目を閉ざす」ということは、見たくないものは見ない、ということで、逆に言えばそんなものあったことさえ認めない、という姿勢になる。これが史実の捻じ曲げであり歴史認識の改ざんにつながる。

 我々戦後世代が追究すべきは現代であり、現代という時代の海原に有無言わさずあるという感覚だ。我々が過去を見るとき、我々は同時に、現時点において過去は過去だという当たり前のことに気づかねばならないのである。つまりは我々の父祖たちが為した戦争時代の数々の行跡に我々が実質負うべき責任はない、というより責任の取りようがない。惟だ我々はこれらのことを限りなく想像することができる。この想像において我々は現代の自分が過去を追体験していると考える。(つづく)

 

 


詩518 環境破壊

2014年04月25日 23時05分18秒 | 政治論

 恐るべきは安倍晋三でもオバマでもなく、上意下達の機械的な執行系統があらゆる人間的な声を凌駕し速やかに、かつ確実に辺野古の海を埋め立て、オスプレイが飛び交うV字型滑走路を有する一大軍事基地を現出する、ということである。辺野古の海にも陸にも基地は作らせない、と稲嶺市長は言い切っている。世界の有識者は仲井真知事の埋め立て承認を、沖縄に永続的基地を容認する行為だとし、稲嶺市長を選んだ名護市民の良識を高く評価する、としている。先ごろは辺野古の海に海上パレードで反対派住民活動家の気勢を上げ従前のボーリング調査阻止行動の成功を再現すべく臨戦態勢にはいっているらしい。目下粛々と進行する防衛局の事務的機械的な業務転回は、まるで何事もなかったかのようにドンドン、先へ先へと、目立って速やかに繰り広げられている。あれらを見す見す見逃して、あたらうるわしいチュラウミに人工の爪跡を食い込ませてなるものか。(つづく)

 

 


詩517 首脳会談?怪談?

2014年04月25日 19時54分35秒 | 政治論

 日米の首脳が2日ばかりかけて対面会談したという歴史的な時間が日本国であったというのに、彼らの談話、声明の内容は現代世界の理念的な暗黒時代を示すように、我々の肚に響くような文言は一切なかったというべきであろう。琉球沖縄に関していえば、世界の名だたる有識者がこぞって論い発した「仲井真知事承認の歴史的過誤」と「名護市民の自覚に満ちた選択」に関するメッセージについては一言も口にしなかった、という、あきれたていたらくを演じて見せた。この一事だけとってみても安倍晋三とバラクオバマの首脳会談なんてものは米国からすれば「日本なんて」といったところであり、安倍晋三一人で「画期的」を自賛して悦に入っているだけの、まことに馬鹿馬鹿しい茶番としか言いようもない。(つづく)  


詩516 国家犯罪に手を染めないためには 3

2014年04月24日 10時44分25秒 | 政治論

 さて、普天間はじめ琉球沖縄問題の実質上最大の元凶、バラクオバマが高級店で寿司等喰らって「お・も・て・な・し」に悦に入っている図は、この鳴り物入りで登場し期待を一身に背負って有色人種に限らず人類最大の権力勢威の把捉に成功した人物にあってさえ、その実際にやっていることは歴代の白色人種大統領のしてきたことと大差ないばかりか、その「言葉」の持つ向上感、期待感に比して如何にもこれを裏切った、裏切りつつある、という評価に堕する気配だということは恐らくは当たらずとも遠くないに違いない。

 我々は部外者であり、彼の内情など知る由もない。政治は結果であり、結果が駄目なら失政と言わなければならない。米国民はじめ世界は大方むしろありきたりの失望感に包まれているだろうが、琉球沖縄は失望、裏切り、など日米政府関係者が繰り出す沖縄施策の数々において既に定番の感想であり、彼らに期待する内心というのはまことに報われないいじましいほどのものになっているのは言わずもがなであろう。

 最悪の原発事故に見舞われた日本国が、現在も進行中の放射能汚染環境にあってさえなお再稼働に前のめりになっているのは、バラクオバマ率いる米国の思惑に沿った原子力政策に拠っていることは周知の事実だが、原子核エネルギーが即兵器化される原資である以上、バラクオバマのプラハ「核廃絶演説」の詐欺的実態は明白だ。日米同盟強化とは、米側方針に追随してこれに肉薄するための国家主義国策を全力で具現化することにほかならず、安倍晋三の手の内で様々な国政断面にこれが色づけられ始めていることを人は知らねばならない。(つづく) 


詩516 国家犯罪に手を染めないためには 2

2014年04月23日 16時42分52秒 | 政治論

 罪とは、ある種の心根の発露を覆い隠し、捻じ曲げ踏みにじっている状態を言う。その結果を問わず、これを魂の自由という観点から罪の捕囚、執着、あるいは偏執と称し、ここに立ち現れる国家犯罪はイデオロギーの問題において存在するのでなく、国家を構成する人民において結果的に裁かれる。従って、国家あるいは政府、行政機関、が為すところを看過するのでなく、あるいは諦観したり黙認するのでなく(抹殺される前に)、これを必ずおのれらの身に置き換えて監視し検証し査察する必要がある。琉球沖縄における道州制論議の根本は、必要不可欠な人民における対国家監察機能の確保とその有効性の担保としての地方自治権保証にある。独立論の根本である異民族性の論議はアナクロニックにしか俎上に乗らない。あるいは学術的民俗学的見地から論究される、本来政治的な意味合いが希薄な問題と思われる。

 但し、独立論が喚起される唯一の政治的理由は必ず受動的な政治的不如意に拠っていた。即ち、先ずは敗戦後米軍統治に拠る日琉分離策が祖国復帰運動へ連繋し、この時に独立論が持ち出された。しかしこれは既に占領政策のうちに問題の胚種が内在し、加えて天皇メッセージがあり、必然醸成された「差別感」から直結する自在性の希求であった。この独立のモチーフは革命的に無政府的にしか現実化しない。道州制は琉球沖縄に関する限り独立志向の修正主義的な意味合いになる。返還後、独立論はその動機を「マグマ」という質で内在化、潜在化させた。何故コザ暴動は革命路線を形成しなかったか。(つづく)

 

 

  


詩516 国家犯罪に手を染めないためには

2014年04月22日 19時43分59秒 | 政治論

 誰でも、何らかの行動モチベーションを喚起する決定的な過去を持っているものと思われる。憚りながら筆者にそういう過去は余りない。あったとしても語るに足らぬものと心得ている。もしかするとある日、一人だけのノートにそっと自ら暴いて見せる、というようなことがあるかもしれないが、おそらくは「社会」とか「歴史」とかあるいは「人間」とかにおいてさえ、さながら行く川のさざ波に漂う木の葉のごとく、どこへ運ばれるのか知れない運命に翻弄され尽くすのである。それはしかし少しも口惜しいことではない。

 アウシュビッツ絶滅収容所を古来史上に見ない残虐さで括ることは多分大嘘になる。ナチスの「ユダヤ人問題最終解決」手段はチクロンBガスによる窒息死であった(この効率的な大量抹殺法以前には様々な殺傷法が試された)。しかし今我々の見るところそのおぞましい事実に比して、いかにも、600万ほどの人間群がホロコーストの憂き目に遭ったというのに、片や戦場に潰えた命やら原爆に消された未だ正確な数を把握しないヒロシマ長崎の人々、あるいは焼夷弾の餌食となって燃えつくした市民など、その死に方はともかく戦争の犠牲者であることに変わりはなく、等しくその戦争の概括的な犯罪性については目を背けることなくどこまでも追究していなければならないのは、事、ドイツ日本に限ったことではない。「おぞましい」殺戮の命令は総統から発したが、命令系統を辿ればそこに何人もの担当者が関わっていたことは間違いなく、彼らそれぞれその行為の責任については当然にこれを負わねばならない立場にあった。だからいかにアイヒマンが「上からの命令は絶対だった」という言い訳に逃げようとしても、いかに「身動きならぬ歯車の一つ」と言い張っても、彼がこうした行為に加担した事実は消去しきれない。彼の事後の生涯において更新していく事実関係が彼自身の内面に深く根をおろせばおろすほどに、彼が殺しに手を貸した同じ人間の内面を省みる責任は益々新たに発生していく。

 我々は如何に我々自身の行動と言論に正当な責めを負うべきか。我々自身の独立した認識と判断にその根拠を見出すしかない。それの正しさを担保するのは結局「良心」の声、ということになるのだろう。(つづく)

    


詩514 到底許し難い日米両国とその民 11

2014年04月21日 15時33分06秒 | 政治論

 琉球沖縄における主だった地域の首長選や議会議員選、あるいは県知事選、県議会議員選、更には国会議員選などにおいて、我々は我々の代議員を選挙投票数の多寡により選び取らされるわけだが、この間接民主制そのものがその後権力中枢の権力行使によってしばしば「民主制」を凌駕して非民主的施策を実行する結果民意に逆行する政治的経験を琉球沖縄では戦後ずっとしてきた為に、本土の半可通連中の心無い評言によってなにかにつけ「国家対人民」の対立軸が浮き彫りにされ、スポーツ競技並に勝敗の行方ばかり追われ、真の民意を隠ぺいしてしまう傾向が懸念されてきたのだった。少なくとも県知事の承認直後行われた地元選挙で反対候補が圧勝したのなら、この県知事承認が必ずしも民意を表さないと考えるのが自然である。にも拘らず国家は、沖縄防衛局は、業務に関する入札公告をその2日後には何食わぬ顔で公示したのである。現在この民意無視の反民主的行為は続々と粛々と事務的に繰り返されている。当然国は何も言わない。国会も問題にさえしない。いずれにしても自公政権はその国家主義的政治姿勢のために、琉球沖縄に関しいかなる顧慮もこれを省略することになんらの痛痒も感じてないのははっきりしている。

 上記理由から、沖縄においては現行選挙制度における「民主制」の実践がままならず、多くは国の、あるいは保守勢力の思惑によって方向方針が決する不如意に見舞われている。このたびの沖縄市市長選でも同様の喧伝によって「争点」なるまやかしが国家方針の民意のと論われてるが一度としてこの結果によって辺野古が回避されたことがあるか。(つづく)


詩514 到底許し難い日米両国とその民 10

2014年04月21日 09時06分55秒 | 政治論

 与那国島への自衛隊配備(陸上自衛隊沿岸監視部隊、150人規模2015年末配備)、という既に鈍麻した憲法感覚上の矛盾即合一事態は、住民意思など鼻にもひっかけず安倍政権国家主義路線のもと強行されることとなる。駐屯地、監視所、宿泊施設の配置からするとこの島がまさしく基地の島となることは一目瞭然である。一方那覇の空自基地ではE2C早期警戒機運用部隊の発足式が挙行された。

 彼らの軍事的な動きはその特定された敵、中国への牽制という意味合いになるが、同時に彼らの存在によって琉球沖縄島嶼がいやでも物騒な戦闘の導火線、局地的小競り合いの舞台、あるいは流れ弾被弾の象徴的現実化を促進することになる。単なる流れ弾でなく短距離弾道弾でないとは言えない。こうして、住民意思を蔑ろにした結果は「沖縄戦」の再現となる。これを黙って指をくわえて眺め自家に火の手が上がるのを看過できる人民はこの国にはいない。

 気が付いたら「ぼくの村は戦場だった」という、そういう成り行きがこの安倍政権下で加速的に感じられる。文民統制が信用できない状況(マスコミマスメデアジャーナリズムの腰砕けな体制順応論調)では、民衆は体を張って抗議反対抵抗活動を繰り返すしかない。(つづく)

  


詩514 到底許し難い日米両国とその民 9

2014年04月20日 08時51分09秒 | 政治論

 個人があり社会があり村があり島があり国はない。個人が抱える感情と理性の生活「苦」は一切から途絶されて孤独な日常と集団的思惑の狭間に揺れ動く。

 国、というと、本土という言葉が出てくる。ここ琉球沖縄には国というものはない。勿論政府もない。安倍晋三もいないし菅も下村もいない。国家主義なんて知ったことじゃない。それはナチスの代名詞みたいなものだ。ナチスはヒトラーという気違いが国民をだまくらかしてアーリア人絶対優越主義で有頂天にさせ、熱狂のうちに国家運営した先は地獄だった。地獄とはありていに申せば自分のしていることが殺戮、絶滅、殲滅、弱い者いじめ、効率的抹殺、絶滅計画のお先棒担ぎ、であってもそのことに気づかない状態を言う。与那国に勝手に自衛隊基地を持ってきたあの連中は、そこに住む人々の思惑など一顧だにしない連中だ。辺野古破壊の防衛局は、シロアリの様なものだ。彼らはおじいおばあが老体下げて抗議しても知らぬ存ぜぬの、ただの物体と化す。

 辺野古の海辺では海上抗議パレードが行われ、10年前の海底調査ボーリング阻止行動の再現事態に直面している今、いよいよ意気盛んに「非暴力で戦い抜く」シュプレヒコールを上げた。「怒ったら負け。平和的に抗議活動を続ける」としている。(つづく)


詩514 到底許し難い日米両国とその民 8

2014年04月19日 13時50分28秒 | 政治論

 余りに「本土対琉球沖縄」局面が多岐にわたるため大方の記憶は渾然と一体化し析出するのは一事に尽きる。それでそのことはさして重要なことではない。国家と米国が突き進んでいるのは、現実には北部訓練場過半返還代替ヘリパッド建設行為であり、手続き上は普天間飛行場返還(代替?)辺野古新基地建設行為である。前者については野生種保護、ノグチゲラ営巣期(3月~7月)の現在条例通り工事音はストップされている(2基目のパッドは完成されてないのに、ほぼ完成したと県の認識)。但し、例えば先日米軍ヘリが「誤って着陸した」とされた未必の故意事件があったように、いつ何時供用されてない一基目ヘリパッドを米軍が密かに使わないとも限らず監視の「座り込み」はその後も継続されている。一方、辺野古については調査設計に関し続々と入札公告が防衛局から出されていて、既に落札業者が決まったものもあって、先ごろその調査業務につき辺野古漁港使用許可申請が名護市に提出された。ところがその提出時書類について何の説明もなく余りに無礼でコソ泥まがいのやりかただったため、例の県提出「環境アセス書」事件並にうさんくささばかり際立って、稲嶺市長にあってはこの国とその手先どもの低劣なモラル性に辟易する思いがあったようだ。

 これとは別に八重山地区中学公民教科書選定を巡る文科省と竹富教委との確執は、傍らで見ていても極めておぞましい国家主義の横行を、この美しい島々に見なければならない不幸として、同じ県民には悲しくも腹立たしい経過を辿っているとしか思えないのである。いずれにしてもしつこいばかりの国家主義者下村文科相の脳天に鉄槌が下されんことを。(つづく) 


詩514 到底許し難い日米両国とその民 7

2014年04月17日 17時58分19秒 | 政治論

 この国の箍(たが)は外れている、それを直しに俺が生まれてきたとは・・・・(「ハムレット」父王の亡霊に誓えと言われ復讐を誓った彼が呟く一句)。「この土地に俺が来たのは、寒冷地に生を享け温暖な気候に憧れていたツレアイの意向に従ったまでだ。勿論この地が他国の軍隊の使役にズダズダにされていることは百も承知の話ではあった。暑熱と湿気に覆われる亜熱帯気候に属することも。そして那覇空港に降り立ってまず当てられたのはその独特の臭気、おそらくは浄化槽から漏れ出すし尿のにおいと潮風が運ぶ塩分の混じったねばつくようなそれ。そして甲高くワシワシとはじける蝉の声。」

 「移住して、まず初めに、高校歴史教科書検定意見撤回要求で10万人規模の県民大集合という事態に遭遇したのは、移住した翌年2007年9月のことだった。そこにはっきり透けて見えたのは本土政府がまぎれもなくこの地を差別している事実である。本土に住していたとき、このような民族集結の光景に出合ったことは当然にないし、県民総意ともいうべき要求が、政府に突き付けられるのを見るのもかつて経験したことはない。本土政府は間違いなく確信犯的に、琉球沖縄に無理難題吹っかけ、理不尽絵にかいたような施策の行使を意図している、と思った。大江、岩波裁判に関わる、この地で実際に起きてしまった軍、乃至国家の実際命令か暗黙の強制による「集団での自決」問題においても県民は集結した。そして度々事故を起こし「未亡人作り」とも揶揄されたMV22オスプレイ普天間配備においても。これら一連の「国家対沖縄県民」という、首をひねるような矛盾極まりない国政実態に直面し、本土に住していた時如何にこの地に対し無関心であったかを想起し、襟を正して向き合うべきことと心したのは、ようやく8年目を迎えた春先のことではあった。」(つづく)