沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

この国の終わり 東京オリパラに関するスガノミクスの超絶ハイリスク 

2021年06月19日 09時51分52秒 | 政治論

 安倍・菅路線においてはアベノミクスならぬスガノミクスがこの「嘘と金権にまみれた」東京オリパラ強行開催の単純なモチーフ(トリクルダウン)だが、コロナ禍で明らかに沈下低迷している国内国民情況に対し、ヒトラーの、「天の上」からまるで神のように降り立つ風情でbyオリパラ陽動作戦を実行しようという話だ。勿論国民を篭絡するためには美辞麗句、甘言、「安心安全」神話作りに余念がない。

 この国の安全保障、危機管理は国民を「幻想的に」安眠枕で眠らせ、有事には責任を取るべき連中が明らかな「敵前逃亡」も辞さない劣悪な組み立てになっている。

 内部留保等アベノミクスのトリクルダウンは事実上失敗している(富裕層厚遇は彼らの非倫理的なエゴにより、完全に貧困層を困窮のどん底に突き落として止まない)が、オリパラに関するスガノミクスは外国人記者の質問に対し「ノーでもプライドでも経済でもない」と薄ら笑いで応対できるほど単純な話ではない。安倍も菅も「馬鹿が付くほど」単純思考の持ち主でありながら、逆の視点からの単純思考については全く門外漢であり、その点では思考停止程度で評されて終わるものでなくはっきり言って「認知症」レベルの症状を呈していると言わざるを得ない。

 今日本とその国民は、為政者や既得権者あるいはposttruth現象下の世界的「神風」信奉の、恐るべき、戦前並み古色蒼然たる政治屋等の手に罹って、これから先どうあがいても取り返しのつかないコロナ地獄への道をまっしぐらに転げ落ちていく運命を引き受けねばならない。残念ながら現在の日本人誰もこの蛮行、暴走、玉砕路線を止めることはできないだろう。安部や菅のようなハイリスキーな政治家をさながらナチスヒトラーのように「やらせてみるか」程度の「他に適当な者がいないから」感覚で、本来就けるべきでない権力の座に何となく就けてしまったのは、ほかならぬ我々国民であることは言い逃れできない事実だ。

 

 

 


この国の終わり 死活問題でも拱手傍観する日本国民 

2021年06月15日 09時16分31秒 | 政治論

 先ず、コロナワクチンのことだが、厚労省の発表によれば令和3年2月17日から6月4日までで、コロナワクチン接種後に死亡した例は196件とされる。

 ワクチンは、そのものが予防効果や症状改善力を持つのでなく、人間に自然に備わっている免疫力を高め活性化させ「抗体」という新機能媒体を生じさせて病因に対し人体自身が抵抗力を持つという内容だ。従って人により何らかの原因で免疫力が極度に弱体化している(その他持病があるなど)ならば、ワクチン接種によってもこの改善が見られず、逆に体そのものが打ち負かされて急激に衰弱死亡するということも十分考えられる。

 厚労省は死亡例につきワクチンとの相関関係としては明確な判定を下してないが、少なくともワクチンが掛け値なく万人に有効なわけではなく、人によっては逆効果になるかもしれないという想定はしておく必要があろう。また当然ワクチンの主体(ウイルス種)が(デルタ株等)変異株のものに取って代わるなら、現行ワクチンが効果のないものになる可能性は残っている。つまりこうした変異株種のワクチンが早急に求められる事態はすぐにでも来るかもしれない。菅のいう東京オリパラに向けた現行ワクチン接種万能説は変異株に関してはかく説得力がない。しかもその変異株はアジアの各地で猛烈な勢いで感染爆発を起こしている。日本のそれもまもなくこれが現行コロナ事情に取って代わると言われている。オリパラどころの話ではない。この不可測ともいえるリスクに対する備えは今のところ日本では明確に示されてない。

インド型コロナ変異株の感染率、英国型に比べ60%高い=英専門家

 https://jp.reuters.com/article/health-coronavirus-britain-variant-idJPKCN2DM0D4

 一方、東京オリパラ開催・中止論争の動向は依然として明確ではないが、頑なに開催強行路線を突き進む一方の国家政府、菅政権、IOC、JOC、組織委員会等所謂オリパラマフィアのpost truth現象が顕著で、言ってみれば現代的世界的表徴の一つなのだろうと考えられる。それは結局世界的常識とか見識とか正論、あるいは科学的見地などというものに対する破壊的反逆としての反科学、論理破壊破棄、情念第一、狂熱扇情、といった、これまでむしろ社会的に禁忌とされ、抑制、否定されていた情動的公的活動の反倫理的でさえある企てがどういうわけか勢いに乗って、現行通常社会に我が物顔で押し出してきたという流れだ。元々あったそれがトランプや安倍政権の出現でいよいよ洪水並みに溢れだした、というのが実相であろうか。

 頑迷固陋というべきこの国の自公系政治屋たちの国家主義まがいの思考回路には、詐欺的目くらまし言辞においてのみ巧みに織り込まれた似非「民主」アイテムがパンデミックのようになって浸潤し、徐々にそのボデイブローが効き目を表し国民は戦時下のそれのように故知らず自ら頽れてオリパラGoの風潮を醸し出してきたらしい。

 post truth現象は基本的には「公」を「私」の内側に封じ込め「客観」を「主観」で凌駕し、「科学」を「情実」で言いくるめることで、事実上「公」の場と時間においてその本来衆目にさらせないはずの肉体をこれ見よがしにひけらかす、言わば「無恥」の形質を特徴とする。逆に言えばこれまで良識と言われ常識と思われた論理が通用しない、やけに巧妙な「悪だくみ」で出来上がっているため、例えば20世紀前半に立ち現れたファシズム、ナチズム、超国家主義などのように、いつの間にか熱狂を生み総動員体制を構築し、国家をとんでもない方向へ引っ張っていくということが容易に可能となるような時代的特徴を持つ。

 我々一般国民にとって、コロナ対策の功罪は常に直接「死活問題」となっている。安部側用人政治は愚策悪策で国民の嘲笑を買った。しかしながらGoToキャンペーン以前にはそれなりにコロナを封じ込めていたともいえるが、それが無理強いに始まるとあっという間に第三波第4波を引き起こし、医療従事者の負担を重圧化し死亡者を増やし続けた。この教訓に学ぼうとしない菅政権によって今度は緊急事態宣言下で、あるいは世界的パンデミック下で大規模イベントを是が非でも開催したいと、「普通はやらない」行為に邁進し、確実に想定できる人流増大の危険性を顧みず、奇妙な隔離状態での無観客状況で「やることはやる」以外の何らの理念性もないクーベルタンそこのけ国際愚行を断行しようとしている。つまり国民は自ら身を守ろうというなら絶対にさせてはならないこの「死活問題」直結事案こそ、猛反対で切り崩すべきものだといえる。しかしながらこの国の民は先の大戦同様徐々に国家趨勢に否応なく染められ、7月23日の天皇開会宣言を何気に聞く「物言わぬ民」に墜落するわけだ。度し難い。天皇に対する国民感情は著しく傷つけられるのだが、いずれにしろメデアマスコミジャーナリズムこぞって拱手傍観の低劣な「非民主的」国柄を世界にさらけ出すのだ。

 

 


この国の終わり 五輪問題では人間として当然のことを素直に実行すること

2021年06月01日 11時09分03秒 | 政治論

 既にこの東京オリパラに関する表・裏両面の真相は、硬軟織り交ぜ白日の下にさらされているといえるのだろう(世界各国から聞こえてくるのは中止を促すものばかりだ)。今世界の大前提は、人類史上稀有な、しかし絶えず起こりがちなこのパンデミック感染症コロナ禍が、世界中の人々を恐怖と不安の中に放り込み、これとの相克にいやが上にも総力を挙げなければならない、という状況にある(戦争中だ)という事実こそ、疑いなく誰の目にも明らかだ、ということだ。

 つまり今人類が第一に取り組み集中すべきは、可能な限り人流を抑制し濃厚接触を回避して感染拡大を阻止し、取り合えずワクチン接種を第一義として集団免疫状況を作り出し、現在の人間的通常営み疎外の現実を改変して、活動交流の自由を可及的早急に回復することだ。しかも自助努力だけでは決して可能とならない、通常性にできるだけ近い社会的営為の補償を、十全に国策的に緊急的超法規的に施し、人々が進んでこの日常的自由回復への協力努力をすべく仕向ける、国家的効果的メッセージと具体的効率的方策を実行することが求められる。

 周知のように世界は比較的に先進国が、主にワクチン接種の広範化にほぼ成功しこのコロナ禍閉塞状況から徐々に脱出する流れになっているのだが、その一方で途上国やアジアの小国などどちらかといえば変異株の猛威が予測不能な勢いで襲い掛かり、従前にも増して手の付けられないほどの惨状を呈し始めている実態がある。つまり変異株の新たな襲撃は先進各国のせっかく得始めている安定的収束を何時でも覆すような脅威を見せつけているといえる。ワクチンの齎す集団免疫さえどうかするとこの変異株には通用しないような徴も見えているというのだろう。

 このような予断のならない世界的状況を目の前にすればおのずと人が何をしなければならないか、何をしてはならないかがはっきりしてくる。かてて加えて東京オリパラ直前の日本国の場合、ワクチン接種率が途上国並み、慌てて接種率を上げても全国民等し並みに接種可能な結果を得るのは本年中にあり得ない話だということはわかりきっている。おまけにインド型変異株が英国型に取って代わろうとしているこのコロナウイルスの変化は現行ワクチン接種による予防効果や安全性すら脅かすと言われる。まさにコロナ禍は「戦争中」という非常事態を国内外を問わず表出しているとしか言えないのだ。

 トイレのないマンション並みの原発を引き合いに出すまでもなく、上記のごとく「やってみなきゃわからない」レベルにある東京オリパラ開催は文字通り一か八かの「賭け」そのものであり、その危険性は「一億火の玉となって」戦争への道を突き進んだ先の大戦時の日本国が有していた「神風信仰」に近い「やぶれかぶれ」の蛮行と言える。

 このように見てくると世界各国内外からの中止論評、科学的医学的根拠に基づく中止勧告、に背いてまでも開催せんとするこの国は、アベスガイズムに吞み込まれた滅亡まっしぐらのコロナ敗戦予定国家に落ちていくとしか言えない。SNS等批判非難など何かしら言挙げするが一向に機能しない「国民意思の実現」という谷間は、結局一人一人がおのれの心向きや考えに素直に従うというあたりまえのことができない国民性というところに逢着する。何故開催反対なら数万人規模で立ち上がって菅内閣政権放逐の大ムーブメントを起こそうとしないのだろう。この政権が欺瞞隠蔽ごまかしでたらめ嘘八百でできていると既にわかってしまったではないか。

 恐らくはこのまま敗戦国並みの身分へ落とし込んでも国には逆らわない国民性を地で行くことになろうて。そうしてコロナに苦しみ続け行き場のないいらいらで、ひとりまたひとりと悶死していくのが見えている。