沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩352 日本という国 16の6

2012年04月28日 12時46分16秒 | 政治論
 日米安保条約が両国法体系の充足ないし議会の正式な承認なしに発効しない仕組みになっていることは、なし崩しに軍事同盟化している現行欺瞞的解釈事情とは別に、現今米議会系の、効力ある「歯止め」グループが有する政府国防省関連への縛りが、沖縄の県民事情の正確な伝播次第で一定の緊急避難的役割くらいは果たせそうな具合らしい。しかしながら彼らのもっともらしい意見の本質は所詮沖縄にしか展開できないアメリカ世界覇権主義軍事行為の保守、という域を全く脱してはいないので、「辺野古は不可能」という判断が即、「普天間無条件返還」の文脈にないことははっきり把握しておかねばならない。ウエッブ、マケイン、レビン氏らはいかにも沖縄の味方のような発言を繰り返しているが彼らの論点は、圧倒的な県民反対意思から「辺野古不可能」を断じただけで、なお嘉手納統合案くらいにしか展望がないことは、むしろ袋小路的な植民地主義の実態を露呈したにすぎず、沖縄にあっては、米軍というガンはとてつもなく間断ない苦悶の種であることに変わりはない。そして特定の一地域に対するアメリカと日本政府の「迫害行為」は、国際司法的常識において「人道に対する罪」に該当する、きわめて許しがたい犯罪行為として糾弾しなければならない。然るに世界は、こうしたアメリカ一極集権構造に関して理念的検証を加えることもなく、(とりわけ安保がらみの日本国政府の従属性追随性無批判肯定主義は人間の行為として,言語道断な卑屈さと侮蔑すべき事態である)哲学的追究の努力を放棄し、深刻な人間疎外実態を放置している、人類史上まれな精神的暗黒時代を醸しだしている。言論の活発なダイナミズムが冷戦終結とともに途絶えたということは、自由主義陣営の勝利というのは結局怠慢と放恣、覇権国家の独走、向上しない価値観の弁証法的発展の欠如、という運動性のない凍りついた精神を準備しただけなのではないか。自由、民主主義というのは、発展向上するから価値なのであって、冷戦構造の崩壊後にあってなお北朝鮮、中国等共産陣営への手当たり次第の戦争準備思潮に覆われていると言う、手立てのない停滞する腐敗連鎖へ落ち込んでいくだけのように見える。つまりは戦争経済主義にほかならず、これを無批判に受容する日本政府の下にいる我々は、いつでもこの国の尻拭いにこき使われる状況にあると言うことだ。そして沖縄がその殆どの代償を払わされていると言う、まさに国家自身による「迫害」であろう。(中断)

詩352 日本という国 16の5

2012年04月27日 10時16分58秒 | 政治論
 沖縄県民に対する、この国が冒している犯罪の数々は、ここにいくらでも並べることができる。いくらでも、ということは本質的に差別的に対している限りは一切がこれに該当すると言うことであって、該当しない場合でも、こうしたこの国の本質が、陰に陽に見え隠れしていることには変わりがないと言うことである。犯罪、と言う場合、単に国法に触れるという意味もあるが、沖縄においては、戦後連合国が戦争犯罪のひとつに措定した「人道に対する罪」の平時版という当てはめ方で考えられる国際司法上の事案になる。「国家もしくは集団による、一般国民に対する、謀殺絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」と規定されたこの犯罪を沖縄に関して立証することは恐ろしく容易であろう。しかしながら国連同様国際司法の効力はなきにひとしい。ここでこの司法機関並みに日本という国を断罪するなら、きわめて理念的にしか対応できないと言う現実をまず直視することだ。国際刑事裁判所ローマ規定「政治的、人種的、国民的、民族的、文化的または宗教的理由ないし性的な理由その他の国際法違背と普遍的に認められる理由に基づく特定の集団または共同体に対する迫害」という文章には、沖縄に対する日本国政府並び一般的日本人が常態的に継続している行為と状況において明瞭に合致する内容を網羅しているではないか。世界一危険な軍事基地と、誰もが認めた(と、とるしかない)普天間飛行場に関し、いかなる理由があるにしろ現状改善のなんらの方策も実践しない政府は明らかにこの過ちを犯している。オスプレイ配備に関してはまさしく文字通りの犯罪的内実を醸している(アメリカの犯罪性はもちろん日本政府の黙認は許しがたい卑劣な行為だ)。岩国が拒否した海兵隊受け入れ未遂事件は、この国が沖縄に対して普段に有している差別的心情雰囲気に基づく、なんらの考慮もない即決性にみられる、許しがたい、極度に明白な差別政策傾向を如実に示した例である。これもまた誰が見ても明らかな事実である。全国知事会での千葉県知事の発言にはこうしたこの国の沖縄に対する偏見に満ちた実質的差別精神が代表的に語られた。曰く「我々の土地に火の粉を飛び火させるつもりか」この男の教養がどの程度か知らぬがおおかたその辺のヘッポコ雑誌から仕入れたろくでもない知識で埋まっていることだろう。要はこの程度の連中に権力を握らせているこの国の低劣な精神そのものに犯罪的堕落があるということになる。ところでこうした無自覚な、他者に対する犯罪傾向というものは、一体如何なる仕儀になっているのか、我々もよくよく反省しなければならないところがある。つまりは所謂「常民」と称すべき一般人民が、何事かにおいて巨大な「悪」を実践してしまうという、そのことにこんにちいわれる沖縄問題の本質があるからだ。常民の総体が国家であり、国家の決定は人民の総意とみなされる。しかるに沖縄県は、この常民の域に加入してない。常民にあらざる人民にほかならない。ここにこの国がローマ規定そのままに「特定の集団または共同体に対する迫害」を加えていると言う立件が可能になる根拠がある。数字的には74%という偏りに証拠がある。16年間放置された「普天間無条件返還」という「ふたんけいげん」偽善行為にもあきれた政治的怠慢による迫害事実がある。(中断)

詩352 日本という国 16の4

2012年04月26日 10時27分50秒 | 政治論
 都知事はじめ猪瀬副知事らはれっきとした戦後定番保革合同右傾化した知識人を代表する、甚だ旗幟不鮮明な折衷論者にすぎないが、彼らに賛同する取り巻きその他は完全な軍国主義者にほかならないことを、我々ははっきりと捉えて置く必要がある。類似するのは2.26事件だが、都知事の思潮に北一輝ほどの大日本改造論並の壮大なものは全く見当たらない。煽られている専ら共産主義脅威(あるいは侮蔑)に限定した論調を一言で言うならこの国が維新以来その中核に有していた汎アジア的な優位性優越感、東洋軽視、人種差別傾向に基づく覇権主義というべきであろう。これは沖縄県民の最大の敵に他ならない。まさに沖縄戦の悲劇はもとより、琉球処分以来この国が沖縄や対アジアにおいてしてきた数限りない侵略的差別的施策の延長線上にある犯罪的帝国主義的蛮行の導火線なのである。彼らの、みかけはやや消極的な領土防衛意思というものは、煎じ詰めれば彼らの下辺に蠢く核武装再軍備憲法改悪論者の好戦性を焚きつけ、ある一定の方向へ誤誘導するデマゴーグの域を出ない。こいつらはともかく、日本政府が腐りきっているので、沖縄が、またもや米軍垂直離着陸輸送機MVオスプレイ普天間配備の具体的実行段階に突入し、アメリカ殺人部隊に翻弄される、歴史的世界的暴虐事件の緒についた。一般住民が普通に暮らす140万県土に、この時代、かかる犯罪性の高い非理念的な軍事展開を許容する国家は悪そのものでしかないし、沖縄県民に対する「天」をも顧みない殺意に満ちたエゴイズムである。あの「大震災」はこういう国家エゴに対して天が示した啓示そのものだったのに。あきれかえって声にもならない。(中断)

詩352 日本という国 16の3

2012年04月18日 11時10分10秒 | 政治論
 沖縄の上空を覆っている「日本」という暗雲は、名状しがたい古風な矜持のようなものを母体とした「官僚」という選良、暫定的にしか機能しない、あるいはそれ以下の機能不全に陥った政治ないし政治家、及び官僚依存型内閣、そしてなによりも虎視眈々と復権を目論んでいる軍国主義亜流と核武装論者、再軍備確定論者、などに分析できるが、最大の敵は世界を席巻している現代精神病理としての「絶望」「不毛」にほかならない。それは、格差や不当な待遇、不平等な扱われ方、政治的無作為から派生する種々の生存生活上の不如意、貧困といわれる窮状、などが様々に影響して形成しつつある内心の不満の鬱積という、比較的一般的な政治的悪環境が醸しだした古典的な悪弊なのだが、すでにアメリカ合衆国が67年前に市民の頭上に炸裂させた2個の原子爆弾以来、平和利用という名の核開発、核物質造出、放射性廃棄物拡散危機、及び事実上の核兵器爆発実験による海水空気中拡散現状に加えて、現在もアメリカ主導で世界中に増加しつつある原子力発電施設による放射能脅威による実際上の病弊ストレス状況などは、戦争経済主義という、21世紀に新たな不可避の害毒思潮を内包した戦勝国(主に第二次大戦の)覇権国家が、文民統制弱体化にも託けて歯止めなく邁進する恐るべき人種的肉食征服蛮族の際限のない横行に加担して、哲学を度外視し、理念を喪失し、精神的価値を検証掌握する努力をかなぐり捨てて地獄的不毛へ転落したということになろう。世界は精神の暗黒時代を迎え人類は頻発する天災により滅亡の危機感を実感し始めた。我々は、モロッコで墜落したオスプレイを今秋にも普天間に配備しようという、アメリカ戦争気違いどもを追出さねばならない。必死的覚悟で阻止しなければならない。この憎むべき偽善者どもを決して許してはならない。沖縄は残念ながらこの時代とともに「絶望」し、「不毛」を嘆いている暇はないし、「絶望」と「不毛」の元凶たるアメリカ殺人部隊を放逐しなければ末代まで後悔するに違いない。それは結局自己自身の精神世界を確保するという重大な意味を持つ、ということだ。この闘い、運動が持つ精神的な価値を理解する必要がある。(中断)

詩352 日本という国 16の2

2012年04月17日 13時14分00秒 | 政治論
 我々の見るところ、人民住民の「頭越し」に彼らの国家エゴを完遂しようという、この国の政府官僚財界その他の既得権益絶対守護団体、組織、御用学者どもを粉砕するには、これを撃滅する迎撃ミサイル(PAC3じゃないよ)の命中精度をあげていくことに集中すればよいのだが、この野田政権になって以来こうした人民対国家の対立関係がますます鮮明になっていく(消費増税、原発再稼動)のは、つまり官僚主導国家に回帰したこの国の保守停滞政治の末期現象(政権支持率は最早危険水域らしい)とみなすべきところだろう。かつてソ連型社会主義の崩壊は官僚社会主義の末路を示したに過ぎなかったが、一方その後の旧左翼系知識人の「転向」が意味するのは、時代への洞察の欠如と事大主義的翼賛傾向にあるこの国の、知的選良部分の恥も外聞もない修正主義にほかならなかった(民主党がそれだ)。彼らは結局、根も葉もないグローバリズムという国際主義を信奉するあまり、世界を牛耳っていると目されたアメリカ覇権主義(国連の無力)への全面依存に傾き、これに追随しての憲法違背の核武装再軍備国民皆兵国家翼賛体制のぶち上げという、愚かな逆上を繰り返しているのだが、こうした局面には、相変わらず半可通なこの国の優等生たちの単純極まりない、戦略もくそもない場当たりな思考回路が示されている。とりわけ朝日新聞とNHKは、戦前の過誤を繰り返そうと言うマスコミの例示として特に注意しなければならない。やつらに理念などあってたまるか。この体制同調、政権支持メデアは人民に誤まった情報を確定的にぶち込み洗脳し、さながら良識ある知的良心のような思わせぶりでだまくらかし、国家のなし崩しの軍国化を助長し地域主権を恫喝的問答無用の方法で木っ端微塵に打ち砕いて、憎むべき警察国家を蔓延させようと言うのだ。今のところ彼ら自身の凡ミスで身内に飼い込んだ薄汚れた検察権力亡者ぶりを露呈したり、無様な能無しぶりを披露したりと、後退印象を醸しだしているが油断もすきもないのがこいつらで、軍拡といえば沖縄が真っ先に狙われ、ためつすがめつしてゆくりなく彼らの計略の種々の断面を既存事実化させようとする。沖縄県民よ、だまされてはいけない。あなたの街にやってくる自衛隊はじめ米軍は必ずあなたがたの住空間を占拠し福利厚生など意に介さずしたい放題に彼らの戦争経済主義を跋扈せしめるのです。こいつらの背後には沖縄戦で参謀本部といわれた「戦わざる」軍人もどきがうようよいるのだ。彼らに美食美酒を与えてはいけない。彼らは結局国家エゴという人民不在の幻想的空論に血道をあげている哀れな狂人たちに過ぎない。こいつらの手にかかって死んではいけない。(中断)

詩352 日本という国 16の1

2012年04月15日 23時29分17秒 | 政治論
 さて「日本という国」のことだが、こういう国になったのも全て第二次大戦の敗北による。人間、ある程度生きると大体おのれの来歴に照らして多くのことがアナロジーとして摘要できるものであり、その意味では、大概の人が味わっている「挫折」という経験こそこの国の戦後を眺望する媒体足りうる。一方、順風満帆な局面を経過した人々は日清日露の戦役に揚々として勝利を謳歌したあの時代を想定すればよい。いずれにしろ実感というのはその程度のことで、こうした経験体験歴史というものをひとつの「知」にまで昇華しなければ、恐らく何の意味もない単なる歴史的事実にすぎなくなり、所謂「思い出」の甘美な、あるいはほろ苦い記憶にとどまって、その後の一歩にはなにひとつ寄与しないことになる。現代日本の基本的出発点となった日本の近代化は、支配階級である武士階級のうちでも主に下級武士群と、専ら、陰の存在として一定の支配層を占めた公家の手によって、「維新」という名の改革を通じ始まった。こんにち明治維新の偉人たちはさながら人民の最も近しい味方といった扱われ方だが、元はと言えば、民百姓から収奪した年貢からの、俸禄で生活していた階級を出自としている無為徒食の人種であり、今にして言えばまさしく人民の最大の敵そのものにほかならない。ということは、当然知的財産も大方は独占していたのであり、理念形成や思想鍛錬もまさしく特権的に可能にしていたわけだ。したがって、こんにち言われる維新の偉人というのは、どうもそれほどほめられた素性のものとはいえない気がされる。現代でも学問学歴は経済的格差によって差別的に振り分けられると言われる。つまり教育も金次第ということになる。物事を根本的に考えるというとき、彼の出身階級が全く問題にならないことはありえない。しかも階級的相異ほど時間的空間的に影響力を有する因子は少ない。結果、日本史上明治維新というものは、民衆レベルの革命ではない「上からの改革」、あるいは生産階級の幼弱さを内包した、「頭でっかち」の偏頗な「近代化」、という評価に落着したのだったが問題は実はそのことにはないのかもしれない。しかし、驚くべき性急なる近代化は、階級的上層部の独占的優越を保存し、日本は絶えてアジアにはなかった急激な国家的成長を遂げ、いち早く世界の桧舞台へ駆け上がったという、本来ならペリー強要開国という屈辱的事実から日米開戦すら想定しても強ち間違ってない状況経過にあったはずのこの国が、なんらの抵抗も見せぬまま不平等な外交条約とともに欧米に同化しようとしていった時代を鳥瞰すると、吸収し学習する能力には頗る長けた日本人の中の「優等生」が、殖産興業富国強兵国策を通じ早くもこの国を指導的に牛耳っていこうという本質になって行くさまが見て取れる。官僚国家の誕生である。そして未曾有の人民的困難を醸した敗戦という憂き目に会ってさえなお、この敗戦という過誤を責めて死すべき階級は、執念く生き残り戦後の日本をも誤誘導した。敗戦とは何か。戦争に負けたことだが彼らには負けたという実感も認識もない。彼らは結局この国の近代化の爬行性を背負ったまま、生きんとして最悪な道へ諸共に突き進んでいく、地獄の使者と化したゾンビそのものとなりおうしたのである。(中断)

詩352 日本と言う国 15

2012年04月13日 13時10分55秒 | 政治論
 人は幻想の内に生き夢見ながら死ぬ。人知が神のみぞ知る限界にある以上しかたがない。全くのニヒリズムが精神生理学上不可能なことはパスカルの箴言を待つまでもなく了解されよう。したがって哲学は「愛知」の精神で人の世を「より良く」生きんがために自己規定の基準を見出そうとソクラテスの「汝自身を知れ」以来連綿とまさしく幻想を断ち夢から覚めんとして多くの複雑微妙な努力をしてきた。これはしかし現実の生存と生活においてはむしろ喫緊の課題である、と知るべきであろう。このたびの北朝鮮騒動は、どこかの誰かが何らかの目的を満たそうと画策した、ひとつの幻想ではなかったのかと、まず疑うべきだ。何故なら人工衛星ともミサイル?ともつかぬロケットが発射されたというが空中分解したという米側の報道だけが浮いているので、誰も真相は知らないと言うのが実態だし、西側想定の仮想の防共前線は抑止力もなにもない「張子の虎」であることもはっきりしたし、アメリカ、日本政府、朝日新聞、他マスコミ、及び同類の迎合的情報網が垂れ流すことがらは、胡散臭いものが感じられるということになる。事実そうだと断定する気はないが、錯綜する情報波動に目を凝らし真相を見極めようとすることは自分自身のためでもある。沖縄県民は、展開した迎撃ミサイルの速やかな撤去と、民間地に派遣した自衛隊の即刻退去を要求する。これらの一連の行動は全て憲法違背の事実上の犯罪行為であり、沖縄県民は体制におもねる行政府の長を除けば誰もこうした不気味な戦時色を歓迎しないし、むしろ厳重な基準に基づく住民説明を要求するところだ。もし国家の対応が上辺的通り一遍のものに終始するなら我々はこの国を今後も糾弾して止まないだろう。ことほどさようにこの国は、米国本土で民間住宅街に墜落したFA18戦闘機同型機のその後の普天間への飛来も黙認したし(その猛烈な爆音は到底人間が住する空間とは思えないもので小中学校の入学式を式辞が聞こえないので中断させたそうだ)、モロッコ展開のオスプレイが墜落死傷4人を出してさえ、今秋にも普天間配備予定米側に配備猶予を訴えることもなく、恐るべき人民乖離の亡国政治に落ち込んでいく。つまり黙っていればなし崩しになんでもありで強行するのがこの国の政治なのだ。いや、抗議してさえこれを無視しあるいはたくみに札びらきって懐柔しあまつさえ沖縄にいたっては他府県との完全な差別政策によって偏頗に国家施策を押し付け断行することを続けてきた。今回の沖縄の反応は差別された島だからこそある正常なものであり何も知らない本土の人間がつべこべ言って実情に合わないヘタレをするがものではない。(中断)

詩352 日本という国 14

2012年04月10日 22時54分42秒 | 政治論
 哲学には、浅学にして捗捗しい見解を持ち合わせないが、実存主義が有する現代的意味を考慮すると、例えば国家翼賛政策に乗せられた人民大衆というのは、ヒトラードイツの如く熱狂的昂揚の末に「あれは一体なんだったのだろう」とアウシュビッツの惨状に向き合わされる結果、ようやく自身の大勢迎合自己喪失状況に想到するといった具合で、隣の誰かがこういったから深く考えもせずに同調するという大衆的傾向においては、恐らく、戦争というものを経験しようがすまいが、何らかの「経験知」を自己産出しない限り、同じ過ちを繰り返す愚劣な性向に支配されているのであり、事象に対し、自身の感受思考判断する省察試行をいつでもどこでも実行する、絶え間ない悟性の労働を怠るとき、一般には人民の単独な趨勢にあっては、直ちに国家的翼賛政策が食い込んできてこれを誤誘導するという、先の大戦同様な結果となるということだ。我々はどう抗っても単独な個人である。決して連携しない実質にあり、同盟したと思ったときには自己喪失していると思ったほうがよい。だがこの最も単純にして現代的な「個人主義」の常識にもかかわらず、現今日本の動向では、再軍備核武装軍国礼賛の恐るべき謀略が大衆を呑み込もうとしているし、戦後民主主義の害毒を教育注入された多くの知的階層にあってさえ、いよいよ、こうした国の傾斜に便乗して時代錯誤な右傾化を醸している連中で埋め尽くされようとしている。人生如何に生きるべきか、や、人間如何にあるべきかという自問は、絶えずこの生身の人生から間なしに試練を与えられているわけではない。だが直面する現実は時に切迫した選択を強いることがある。かつて日本の思想界には「転向」という、重大な個人的だが一般的な倫理的問題があった。一般的にそれを論じるほどの知識はないが中野重治にあってこれが強いられたとき「村の家」という小説に彼は吐露する。「あそびじゃないじゃろいがして」という父に彼は「それでもやっぱり書いていこうと思います」という。つまり節操を失くした小説家なんぞだれがみとめるかという一般的な疑問に対し中野は、自己自身とキッパリ対決して、人がどう思おうと自分の道は作家以外にないと見極めたわけだ。これはどういうことかというと、「転向」という不倫な行為の本質は結局個人の内面の問題だということであり、作家という仕事こそまさに内面の掘り下げであり、仕事自体が、これを問題として、真に自己自身と向き合わせる場を提供するのだと。要はかように実もふたもないが、人は誤るし、修正もできる、それは本質であるものと対峙する勇気とかにも関わるが、人が自身の見たもの、聞いたもの、感じたものをいかに自身の言葉で語るかで、権力や圧力から自由に自己を解放し、錯誤して止まない国の趨勢から、人民をあるいは自己自身を実存可能なものに保存するという、一定の精神的効果を生むのだ。こういう意味で我々は、時代の局面を正確に捉え、時流に流されずに、正当な自己主張の方法を獲得しなければならない。現今日本という国はよく言えば試行錯誤、正確には逆行という状態にある。この国の「自己喪失」にあっては、一体誰がこれに気づいて本然を取り戻すというのか。(中断)

詩352 日本という国 13

2012年04月10日 08時32分48秒 | 政治論
 国威発揚は本来諸外国に対して行われる国家的ハッタリだが、この国は、とうとう日本国のなかの沖縄県という県土に、自衛隊軍事色を強行蔓延させることで「この国はいつでもおまえたちの住空間を占拠し、軍事展開できるのだぞ」と、同じ日本人の沖縄にハッタリをかますという、どうにも情けない国情を呈することとなった。これは即ち、「銃剣とブルドーザー」によって私有地を分捕っていった戦後まもなくの米軍と同じ行為であり、「俺たちは日本を守るために身を挺して戦争をするのだから四の五の言わずにここから出て行け」と、壕の中の避難民に言い放った旧日本軍そのものである。アメリカは戦後60年以上の長きにわたって休むことなく、戦闘機墜落の危険性(米本土で墜落したばかりじゃないか)、爆音による精神的圧迫(嘉手納訴訟普天間裁判)、教育環境の騒音による阻害状況造出、犯罪米兵の温存、といった人間業にない極悪な基地公害を撒き散らし続けて止むことがないが、これに輪をかけて、日本の軍隊組織たる自衛隊が、戦時色を醸しながら実弾訓練決行(銃所持認可)という、恐るべき蛮行に打って出たわけで、きゃつらが人民の普通の住空間にこうした軍民同居の卑劣きわまりない軍事行動を平然と実行する有様は、まさしく、あの忌まわしい沖縄戦の再現に違いないのだ。こうした反応は沖縄県民、とりわけ戦時体験者の口から直ちに聞かれるものであり、それらが沖縄オピニオンの総体となっていることが報道等で了解される。本土との温度差格差は天と地ほどある。そればかりではない。妻妾同居じゃないが本土の日本人と沖縄の日本人のこの莫大な差別性を軽々と無視してさながら、沖縄県民に「国防意識」がないかのようにかかる国家的強行軍拡行為を正当化する本土のあらゆる日本人は、結局「対岸の火事」「火の粉がふりかからぬ」おのれの安全さえ見通せれば同じ日本人の沖縄の悲嘆など顧みないのが当たり前になっているのである。こういう大人のポコポコ産み落とした子供たちがこれを真似て陰湿なイジメに奇妙な同朋意識と快楽を見出すのは故なきことではない。おまえさんがたはそういう実情の中にいるのだよ。国は沖縄県の行政府の長が容認したから沖縄自体が許容しているなど普天間同様勘違いするものではない。ハトヤマがたきつけたからこうなったという見方も正しくない。政治環境が沖縄認知度を少しだけ高めただけで、沖縄の反基地非戦意思というものは戦後少しも変わらずあったのであり今後も萎えることなく持続されるのであり、その意味でこのたびの自衛隊強行軍事行為は米軍同様沖縄の神経を逆なでして止まないのだ。(中断)

詩352 日本という国 12

2012年04月07日 15時47分21秒 | 政治論
 外務防衛官僚が、沖縄固執を続けているのは、彼らの中に「琉球脅威」があるということも、本質的には考慮しなければならない事実である。この脅威が、彼らの得意な「仮想敵」概念によっていることは直ちに了解されることだろう。「仮想敵」とは、ほかならぬ彼ら自身にとっての敵であり、それが軍事的か否かは問題ではないし、それが国外国内を問わず存在していると認識していることも想像できる上に、培養された、朝鮮文化の所謂恨(はん)の思潮を琉球に見ることは、これまた比較的容易いことだ。つまり、この日本のとりわけ外務防衛官僚たちは、現状下の沖縄に不公平不平等な国政レベルの歴史的継続的差別実質が存在していることを、恐らくは業務上他の誰よりも熟知している現実がある。歴史的に積み上げられ、醸成された情念の奔出がもたらす脅威を、仮想敵視するというのはありがちな話である。この国がこうした官僚たちの上部支配階層的事情のもとに、彼らの、「国体護持」を金科玉条として決行する政策立案の異常な偏頗性を、人民は見逃してならない。一体、戦後如何なる悲劇的な理由があって、屈辱的外交を戦勝国アメリカに対し取り続けるのか、と思うのだが、日米地位協定の治外法権性が最も露骨に問題になるのが沖縄だということは、沖縄が米軍支配から抜け出て琉球的復権を成し遂げたとして一番困るのがほかならぬ日本という国体そのものだということで、政治的目くらましは別として、官僚というこの国の実効支配勢力は、アメリカが、「用心棒」を依頼されて財政的にも有利な条件で東アジアを軍事的に睥睨する役得というのは、アメリカにとっても捨てられない「旨い話」なわけで、こういう不健全なバランスの上に、日米関係が保たれているという認識にあるといえる。現在、「普天間返還」は政治的外交的問題と思われ、15年以上現状維持している、この国のある意味成功している官僚の沖縄対策と思えば納得いくことだろう。彼らはそう容易く沖縄を解放したくないのだ。つまり拘っているのはどちらかといえば日本の実務レベルの官僚であり、アメリカはすでにこれに気づき「辺野古不可能」の方向へ舵を切り始めているといえる。現今矛盾する「負担軽減」の政治的意味は「真に負担軽減した結果沖縄が自由を得ることを、真に恐れている官僚政治」となる。時代の趨勢は「沖縄から米軍基地が撤退する」という文脈にあり、これに逆らってでも現状維持したい役人国家は、当然ながら代執行の敢行を念頭においているに違いない。こうなると理屈も理念もヘッタクリもないのであって、この国の保守政治が断行してきた強引な反人民的強行策が、良識を喪失した戦後文民の、しかるべき統制力もないままに客観的根拠のない国家エゴを完遂するであろう。ばかばかしい話だ。明治維新が行き着いたところは、戦争における敗北以外の何者でもない。しかし敗戦は人類史上いたるところで数限りなく起こった事象に過ぎず、この国が、かかる理念淘汰された概念としての「経験」知を獲得するには、「近代化」がこの国で持つ意味を洗いざらい検証する一定の空白期を設ける必要がある。拙速にかつ緊急避難的に取捨選択された戦後日本というものは、必ず特徴的な傾向へのめりかかっているに違いない。視点は飽くまで敗戦の一事であり、現実主義的一律肯定論ではなく矛盾を前提した分析と総合、一歩目はアウフヘーベンされ、憲法立案前段階の確認踏査、是認と否定の選択作業だ。で、実験的に沖縄においてこれを検証することを提案する。沖縄にとっての敗戦はきわめて複雑な、日本における特殊にして非日本的な実質で経験された。(中断)

詩352 日本という国  11

2012年04月06日 08時18分25秒 | 政治論
 この国が、沖縄琉球島嶼に対し持続的に行っている「沖縄含め日本列島の防護」という看板付き軍事展開は、沖縄現地で実行しようとしている軍事施設新増設の方針が放棄されない限り(沖縄での軍事的拡大方針の否定)、この国が沖縄に対して繰り返してきた歴史的蛮行(島津侵攻、琉球処分、沖縄捨石作戦)の基本的継続的実践以外の何者でもないことは、沖縄県民が広く知っていることであり、この意味で沖縄県民は、このたびの、北朝鮮人工衛星発射事案に対する軍事的想定に基づく自衛隊の迎撃模擬訓練=琉球弧への継続的配備アリバイつくりに対しては、各関係行政府の長が容認するなかでも決して許容しないのであり、北朝鮮がいかなる国かは別として、この日本という国が沖縄に対してしてきた、している、するだろう一切の、他府県との差別的特殊な国家施策を国家的な犯罪行為(人権侵害、憲法違反)と断じて憚らない意見に集結していることを表明する。沖縄は、二度と、太平洋戦争における「沖縄戦」が有する国家犯罪実質を再現させはしないし、「本土の防波堤」にも「捨石」にもなりようがないし、日米軍事同盟の有する基地展開が意味するあらゆる戦争準備、発進の実践行為を受容しない気組みとなっている。一方この国の為政者、でなく官僚が、おそらく琉球処分という行政措置以来連綿と繰り返してきた「沖縄差別」の本質は、ひとつには明治維新で成し遂げた「近代化」のアジア的優越性誇示、脱アジア入ヨーロッパ感性助長、といったエリート意識の偏頗な逆上の結果培うことになった人民乖離の基本思潮に基づく病的な民衆侮蔑本性にほかならない。我々は過大なヒロイズムを希求しないが、痩せ細ったガンジーの「非暴力不服従」に無限の信頼を寄せる。この国の官僚が近代化以降この国に齎した人民背反の錯誤に満ち満ちた一切の愚行を徹底的に検証糾弾し、彼らによって蒙った同じ被害民の轍を踏まないために強いられる覚悟を確認せざるを得ない。即ち、今回の自衛隊戦時業務命令行為の一切を、アメリカ、ブッシュのイラク「大量破壊兵器」詐欺軍事行為並に後付で言い訳させないためにも、これらを憲法9条違背行動と認定し広く公論に付し、もって国際司法的是正輿論を惹起する大規模な抗議行動を実践すべきと思量する。当然ながら当方はソクラテス的現実に直面している日本国の実情についても承知しているが、非力な人民の立場にあってはいかなる不明瞭な国家行為も決して憲法上の保証なしには認容できない「不可知論」状態であることを、為政者外務防衛各担当たちは認識しておく責任がある。(中断)

詩352 日本という国  10

2012年04月02日 20時20分33秒 | 政治論
 毎日新聞の記事4月2日付け。普天間第二小学校教室内騒音レベル100dbを超える(高架下電車通過時に匹敵する)、というもの(国の教育的配慮ではこの数値の半分程度だ)。外務防衛官僚どもがこんな記事程度でびくともするものか(防音対策においてさえ基準値を超えているのだが)。ある種の検証では何故全国の基地公害が抜本的に解決されないかというとどうやら公害を政治的に受け止める自治体の分断された意見集合実態に解決不能な本質があるということらしい。つまり地域振興策インフラ整備公共事業のバラマキなどで比較的潤沢になった財界が保守系政治家を押して反基地運動に拡散効果を加えるという状況にあり、現今議会制民主主義にあっては所詮数の論理がまかり通り本来的な実質的問題の先送り傾向を醸すべく所謂米軍基地経済主義なる不健全な政治思潮状態にある、ということだ。これはひとつには、国が日米軍事同盟温存のため地元政治集合を懐柔することに成功している(札びらきって)ということなのだが、一方では金のため盲目的に国策に従っている地方自治という現状が見て取れる。この構図は原発地元自治体のそれに同じい。かかる国の現実は、まさしく「理念なき政治」(ガンジーの7つの社会的大罪)を体現しているわけだが、小出裕章氏が指摘するまでもなくここには「労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、犠牲なき信仰」が詰っており、早晩その罪に対する劫罰が待っているだろう事は容易に予測できるものがある。普天間問題は間違いなく一種の差別的意思に基づいた国家規模の人権侵害事件であり、国の理念的怠慢はもとよりこれに乗じるアメリカ戦争経済主義の完全な国家エゴ、更には「不労所得」をもって労働倫理を喪失した地域経済の不健全性、微小なる経済効果を過大に喧伝する容認派の、体制に阿る地域エゴが、さながら滓のように沖縄県民の心身にへばりついているのである。我々は化学実験を試みているわけではないので、国家的不条理を是正する稀に見る特効薬の開発を待っているわけには行かないしそんなものあろうはずもない。既にこの国の堕落した本性は白日の下に晒されているので「非暴力不服従」闘争により彼らと如何なる点でも対峙する道に立たねばならないのだが、この国の政府は最終的には沖縄を愚弄し利用し捨てようとしている。最後にどこへ売り飛ばすのだろう。まさに人身売買奴隷国家の面目躍如だが、こういう目にあっているのは残念ながら沖縄県ただ一箇所である。そしてこの状況を作り出したのは旧大日本帝国官僚の残党どもでありこの真相を喝破して土性骨から根こそぎ覆してやろうという情熱に駆られたジャーナリズムの、根本的な欠如であり、失敗した近代化の功罪を洗いざらい検証する努力をやめたこの国の戦後民主主義の幼稚さであり、精神年齢の低俗さである。(中断)