沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 国政の犠牲者

2020年07月28日 18時03分11秒 | 政治論

 2006年12月沖縄本島北部(やんばると呼称する)名護市に移住、その後今帰仁村に定住してかれこれ13年になる。

 さて、コロナ禍はここやんばるでは4月中頃に名護市の感染者二人(いずれも北部以外の感染者からの感染)を数えたきり現在も含め一人も現れてない。沖縄県全体も4月30日(累積144人感染)から7月8日まで新たな感染例は皆無だった。

 7月8日の時点では福岡、鹿児島からの帰還者が夫々一人ずつ(中部保健所管内在住と石垣市在住)現地で感染したもの。その後、東京、埼玉からの来沖者が陽性、沖縄市のタクシー運転手が陽性(キャンプハンセン乗客から感染したらしい)、この辺から県外あるいは米軍基地関連での感染が頻出する。当然県外や米軍に関係しない県内発の感染者は未だ現れてない。

 7月28日現在沖縄県累計感染者数は235人(回復者145人、死者7人)、在沖米軍237人となっている。7月27日に判明した18人の感染者はいずれも那覇市、浦添市等中南部の在住者で感染経路は不明となっているが、県内原発のものはまだ確認されてない。那覇空港検温で37.5度の他県来沖者が詳細検査を拒んで逃走するという、前代未聞のあくどさを示したというが、高江で本土大阪の機動隊員が地元の運動家を「土人呼ばわり」したあの事件同様、ここにもこの国の民族乖離の現実(本土のどこにもこういう不逞を野放しにする自治体はないはず)が浮かび上がる。

 こうした沖縄に特徴的な現状(米軍関係と本土由来のコロナ禍)は、歴史的に琉球沖縄が置かれた境遇を今更ながら明瞭に物語っている。そして例によってこの場合も、この事実をめぐる本質的な問題点(地位協定、民族間乖離)について、この国と米国は今まで通り等閑に付す気でいる(米軍は基地をロックダウンしながら一部緩和しているという)。それが当該「沖縄問題」の根幹をなす国家政府の国政懈怠現状(基本的人権の無保障状態)であり、内国植民地扱いの恥知らずで野放しな露出を許す、日本国国家国民の醜い正体だ。

 尤もコロナ禍については事沖縄だけの問題ではない。東京都や関東周辺、あるいは大阪など感染者が急増している地域からの来県者等が、恐らくは、地元で地道に感染拡大を抑え込んでいる自治体の努力を水泡に帰すような事態に向かわせようとしている。GoToキャンペーンがまた愚劣にもこれを促進さえしている。国が、政治家や財界の利権がらみで国民生活を危殆に瀕するように動いているのだ、血税使って。

 東京オリンピックは来夏に延期という話だが、都市が開催するこのイベントは、当の東京都が周辺含め感染拡大している危機的状況下では最早ただのお遊びに過ぎず、それどころじゃないというのが実情で、アスリートの心情を慮るというなら競技会の名称でリモートで個別に記録を競い合うか、対面競技なら完全に収束後を目指し無期限延期(中止)とするがいい。

 今直面すべき問題は現状の正確な把捉以外にはなく(どう眺めてみてもこのコロナ禍を明確に解説できる専門的な意見は未だ世界中どこにも見当たらない)、見切り発車は国民の生命を軽んじる暴挙だと断じるところだ。

 いずれにしても、コロナ禍と一見無関係に見える、これまで出来している安部一派の不祥事(モリカケサクラ等)、一連の強行採決による法制化(従米路線と軍拡軍国化)、といった集合から明らかに染み出すアベイズムの反歴史的性格は、このコロナ対応施策の愚策悪策によってその生来の馬脚をいやが上にも現したわけだが、命に係わる状況下国民が国家政府による焦土化作戦(G0T0キャンペーン)を強いられ、戦時体制並みの生存形態に突き落とされているという話で、ここまでくると自分たちは今まで何をしてきたのか訝るという愚にもつかぬ反省に気もそぞろなのだ。(つづく)

 

  

 

 

 

 


詩の終わり 本土と米国由来のコロナ汚染で沖縄は

2020年07月18日 11時11分50秒 | 政治論

 411年前の島津侵攻(1609年3月~4月)、その実態は日本国の江戸幕藩体制下の一地方藩(薩摩藩)が、武力行使によって当時の琉球王国(尚寧王時代)に侵攻、その中継貿易による経済的権益の一部を奪取する(薩摩藩の付庸国)という暴挙をなしたもので、幕藩体制下の島津薩摩藩は江戸幕府の命を受け日本との一種の朝貢関係を王府に強制したというもの。当時明(のち清)に朝貢していた琉球はこれにより二つの国に従わされたという形だ。形質は「君臨すれど統治せず」だったと一応言えるが、日本国によって一つの独立国がその干渉、介入、権益掠奪を被ったという事実に変わりはない。

 それより前豊臣秀吉が朝鮮半島(李氏朝鮮)を侵犯し(文禄慶長の役1592、1597年)貪欲な領土的拡大を図ったように、日本国の野蛮な対外思潮はこの時期に既に常態化していた。同時に、特に支配者の脳髄の中には近隣アジア諸国に対する思いあがった侮蔑的心理が芽生えていただろうこと、想像に難くない。明治維新後、帝国日本の脱亜入欧が際立つのだが、かの15年戦争の帝国主義的覇権主義的性向は遥かに400年以上前の為政者の脳漿に既に宿っていたというべきであろう。但し、欧米の覇権的植民地主義と明らかに異なる新興「持たざる国」の悲哀がそこには介在している。(島津侵攻もこの藩の置かれた生中な窮状に由来していたとも言えなくない)。

 いずれにしろこの島津侵攻から、琉球王国に対する日本国の不当な干渉介入侵犯が始まったということは疑義のない歴史的な事実だ。それが結果的にのちのち琉球処分、琉球侵略に至った(伊波 普猷の「琉球の近代化」という解釈は、彼の郷土愛に根差した琉球側からの歴史的価値観を示すものであろう)。如何に日本の歴史家が、日本寄りに解釈的に糊塗しようとも本質において改変できない事実である。現行、日本国による沖縄施策はほぼこの本質(植民地化)の敷衍に過ぎず、明らかに統治者の脳内ゲームそのもの(実態を見ずに机上で巧まれた施策)であろう。言葉の綾に過ぎないが日本側からすると「琉球征伐」「琉球処分」となり、本質論的には「島津侵攻」「琉球侵略」となる。この関係を忘れてはならない。

 この二つの出来事は日琉の間にある民族弑逆の禍々しい象徴として絶えず振り返るべきものであり、現代の日本人乃至大和民族が、他民族(琉球民族)を今もって植民地的に服属させていると言える、決定的な端緒と見る必要がある。

 米国の沖縄占領はニミッツ布告以下昭和天皇メッセージによって決した変わらぬ戦勝者意識に基づいており、明らかなハーグ陸戦協定違反実態にあり、日米政府が両加担する国際的反民主主義的行為継続の恥知らずな露出だ。それは1972年の沖縄返還以後もその軍事基地の継続使用によって引き続く。しかも日米安保体制は米国米軍の地位を治外法権的実質において運用し、なおかつ米軍によって訓練に関する基本的運用ルール(夜間10時以降の飛行等)さえしばしば破られている(それも常態化している)。

 住民から起こされた基地公害に関する訴訟(普天間爆音訴訟等)にあっては悉くこの治外法権実質が優先援用され、日本国憲法における基本的人権さえ沖縄県民にはその受容権を保障されてないといえる。

 辺野古のことは今更言わずともわかるだろう。

 ここにきて、コロナ禍にある日本国現政府対応の拙劣さにより、Gotoなんちゃらが愚劣にも始動するにあたり、観光立県たる沖縄はまさにその被害をもろに被る最先端の地となろうとしている。

 おまけに米国から配属される新任兵士がダダ洩れ状態の米軍基地コロナ汚染は130人を超える感染者を出しつつあるのだ。彼らが市中に出回って折から独立記念どんちゃん騒ぎの挙句にクラスタを引き起こし、当然市中感染も徐々に確実に起こっており、日米相俟って繰り返される沖縄蹂躙の国際犯罪が現実に露出する恐るべき実態が示されてきた。

 観光立県の沖縄が再び観光客を呼び戻したいのは当然だが、水際での汚染防御体制(全来県者の空港港湾でのPCR検査)なしには到底一般県民の安心は保証できない。政府方針など知ったことじゃなく、何よりも安全性の確保が優先されるのは当然だ。それは他の多くの国民が同じように考えるはずの事だろう。(つづく)

 

 

 


詩の終わり 現代日本の救済?

2020年07月12日 09時31分44秒 | 政治論

 森友事件は、安倍晋三が国会で不用意に発した戯言(口から出まかせ、心にもない大見得)「私や妻が関わっていたら議員辞職も辞さない」から、官邸人事に左右される官僚の、信じがたいほどに低劣な自己防御保存心理によって、佐川何某等高官が号令して安倍晋三・安部昭恵救出のための公文書隠蔽改ざん破棄を省庁挙げて行った事件といえる(最もまともな職員の一人は誠実な自己反省の挙句に暴露的遺書を残し抗議の意味での自裁に至った)。勿論、国民向けの鮮明な解決には全く至ってない。

 この事件は国民の目からは次のような印象として残っている、例えば佐川の無罪放免、国税庁長官就任という結論から、あれはこの国では大した犯罪ではなかったのだな、ということ。上層部の雲の上の政治は(毎晩数万円の豪華料理を食す)彼らの私腹を肥やすためにだけ機能している、ということ。まさに封建時代の「お主も悪よのう」というドラマ仕立てを地で行く仕上げだ。

 かかる官僚たちのなした虞犯行為は、正直な国民の目からは明らかに非常識な不正行為、国家公務員がしてはならない不倫不義行為、であり、腐りきった検察や司法が出来レースでどう裁こうと決して見逃しようもない、国民に対する恐るべき背信行為に他ならない。この国の検察司法に全く信が置けなくなってきている国民の正直な感想からして、森友事件は、安倍晋三という劣悪な政治家への国を挙げての魔訶不思議な「よいしょ」、上司(官邸)に対する(官僚の)無節操で低劣な忖度、ヒトラー時代並みの人民の静かな黙過黙認、現代的ネトウヨ的狂熱、弾劾されるべき為政者への、国民の無言の白紙委任状、という、戦後日本の民主主義の馬鹿げた総括的解答を明示している。この国の民主主義はここまで堕落した、というわけだ。しかしながら戦後日本史をまともに眺めればある意味それは当然の帰結だったとも言える。

 続く加計事件は、安倍晋三がその盟友?に対する不埒な身びいきによって一地方自治体の特定の大学に獣医学部を新設許認可したという話。これに関し検察司法は何一つ立件できてないしする気もない。森友加計事案は野党が国会や公開ヒヤリングで桜の会事案に付随する格好で追及していたが、桜ともども相変わらず内閣、閣僚、省庁官僚がこれ見よがしの対応で国会、国民を官尊民卑的に煙に巻いたという形で終始した。つまり国民の印象は、安倍晋三個人、安倍晋三内閣、政権、官僚、省庁、財界、が一蓮托生で、国民愚弄の富裕層向け国政に明け暮れている、ということになる。アベノミクス、トリクルダウンは悉く失敗している。自民改憲草案通り、国家優先似非国家主義まがいが今この国を史上最低国情に落とし込んだ。

 「森・かけ・桜・防衛省等事件」とひとくくりにして、ここまでこの悪代官安倍晋三は支持率4割を切ることもなく、完全なまっくろくろすけにも拘らず、分立できない検察司法により闇に葬られた、不問に付されたという形だ。ある意味国民にとってこういう不祥事はどうやら「我々にはトンとかかわりのないこってす」、といったものでしかない。だから支持率に影響することその場限りでいつの間にか元の木阿弥という形勢だ。

 しかしながら、冷静に見るならば、実質支持率に関し選挙結果に見る限り、あらゆる条件等加味してみた場合、自民党支持層の有権者総数に占める割合は2割強に過ぎない。つまり無関心層などみると過半が投票に行かない現状では、この政党に有為の支持者が多数いるとは到底言えないわけで、こういうノンポリ的国情を生んだ自縄自縛の本質的病理をどう考えるべきか、まともな検証こそ必要とされる。

 一方、ここのところ重大な危機的状況を呈するコロナ禍とは何か?

 予測不能のパンデミック、果てしのない脅威と不安の坩堝。しかも無症状者、軽症者もかなりの割合で存在するために、高齢者や持病もち、その他ハンデのある状態の患者の重症化、死亡例が例外的にさえ語られる方面もないではない。このコロナ禍で安倍政権政府は、その政府対応において本来の馬脚(危機管理能力の欠如、国民向け思考回路の欠損)を現した格好だが、それでも支持率は3割を下回ることもなく、不思議な現象の権力持続性ばかり印象されて、結局多くの国民は詐欺被害的な意味でどうにも損ばかりしているとしか言いようもない状況だ。ある意味不作為の命の危険にさらされ続けていると言っても過言ではないのだが、にもかかわらずこの稀代の悪辣政権にやりたい放題を許している。

 どうしてこうなってしまったのか?

 いずれにしても現行保守政治は、完全に、保守すべきものを有してないといえる。川端康成が「美しい日本と私」と銘打ってノーベル賞受賞者演説に述べたところの「守るべき日本」は、どう見ても「汚れちまった悲しみ」に縁どられている。三島由紀夫が市ヶ谷で叫んだ「絶望」がすべてだ。日本会議の見ている日本は滅び去るべき日本にほかならず、ゾンビが蔓延る現代日本は墓場の運動会を真昼にやろうとしている。見ているほうがおぞ気だっている。

 戦後日本が守ってきたのは戦勝国米国に有無言わずに従わされる形質の敗戦国縛りにある日本に過ぎない。敵国条項の中に封じ込められた長すぎる敗戦国待遇、これが国際社会での日本の在り様だ。そして「永遠平和のために」あらゆる戦闘手段を放棄して「理想実現のために」孤高の道を選んだのが誇り高き大和民族の、本来のあるべき姿だった。闘いはこういう日本の真の救済のための闘いにほかならず、今や米国一強に偏して、到底国際間協定などあり得ない現行国際社会に追随することには、救いの道は一切ないといえる。

 問題はあくまで精神の問題であり、哲学の課題であり、現代日本の文学が死に物で追及すべき「言葉」の問題だ。政治が暗礁に乗り上げた以上、技術的解決ではなく、「近代化」の洗い直し、「天皇制」の検証、国民性への省察、といったところに目を向けなければならない。(つづく)