沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩315 その12

2011年04月30日 18時26分15秒 | 政治論
 我々は知らない、懐疑する主体を懐疑することはないが、根本的懐疑とは常に革命的であらんとすることと同義だという、ことを。徹底的な懐疑は結局現体制の痛烈な批判主体にしかならないと。だから、あらゆる右翼は勿論革新的保守もまた更には従来左翼と称したあらゆる過激派も等しく中途で妥協した不徹底な懐疑者にすぎないと。何故ならこのグローバル資本主義なる食わせ物は真っ先に血祭りに挙げねば成らないまがい物だということを彼らは知らないし、易々と見逃して平気でいる。現代を覆う不愉快極まりないこうした十把一絡げの奇妙な視点はどこから忍び込んできたのか。我々は知らないし知ろうとも思わない。ただこうした途方もない幻覚じみた全体主義的視点に対し、単なる一個体として抵抗する道を選びたい。

詩315 その11

2011年04月30日 09時11分39秒 | 政治論
 アジアで特異で欧米文化もそれなりに消化吸収したかのような日本文化はある意味複雑多岐にわたりさながら百科事典のごとき様相を呈していると浅学ながら感得するが、「鎖国」がかなわぬことなら一切の国際基準から国内基準を抜き取り、取り敢えず「鎖国」的独自路線を確保するという方向がなんとなくこの国の絶望的境遇?を独善的に解消する方法とみえる。この先世界は凋落気味の欧米に取って代わる中国インドブラジルに任せ、ストレスの多い国際基準遵守精神から国民を解放し、安保を破棄し、憲法を見直し、日本独自の憲法を国民会議にかけ決定する、ということだ。核の平和利用も結構だがこの危険極まりない文明遺産については「見切り発進」を絶対にしないこと、完全な安全機能を発明開発しない限り今後原発は稼動停止廃炉とし、従来の「不便」なる薄明かりの時代に復帰し、享楽的資本主義精神から「清貧」的精神を奪還し、国際連合という第二次大戦戦勝国主体の理屈だけが通用するグローバルスタンダードの欺瞞に対し中立的批判的立場を確保すること。(中断)

詩315 その10

2011年04月29日 21時12分51秒 | 政治論
 当初この国の戦後政治のていたらくは近代化錯誤がその因源かと思われたが、その見方にも若干疑念がある。鎖国において貧すれば鈍すこともなく独特の日本文化を育んだ事実からすれば黒船来航開国強制の文化的衝撃が示した「国際社会の中の一国家」という状況下での周章狼狽はその後のこの国の歩みが持つ不健全さ人為的拙劣さ偏頗性が蓋し合理性で測れない運命的な特徴を顕示している「かのように」も思われる。我々の脳髄の中に江戸文化は翳んでいる。代わって欧米の無批判な受容により浸潤した異国カルチャーが「心臓」とは別に蠢いている。「様々なる意匠」を凝らした本来性のないイデオロギー、思潮、が脈絡もなく渦巻いている。そういう実感は結局近代化という世界史的概念が大潮流として襲来して以来絶えずアジアにはあっただろうと想像するが、個人にしろ国家にしろ漱石が神経衰弱と胃痛に苛まれるほどに苦闘したこの煮え切らない「異物感」をなんとも易々と飲み下したものだと感心する。(中断)

詩315 その9

2011年04月28日 13時03分42秒 | 政治論
 「近代的開明」という視点からすれば、アジアはヨーロッパによってその頑迷な封建的根性の惰眠から叩き起こされ、無理やり、広い世界史の中の近代的展開と革新的変貌の必要性につき覚醒を促され、混乱、錯綜、自覚、行動、という段階を経てその歴史的転換に辿り着いたことになる。だがこれは欧米史観であり都合のよい弁明にすぎないので、世界史の最も正確な定義を追究するならアジアは欧米列強の帝国主義的侵略に対する抵抗闘争脱却の人民的展開の末、彼らから国土と民族を奪取しこれら一切の闘争を通じて自らの近代的脱皮に成功したのである。しかしながら日本はたった数年間のすったもんだの末黒船の脅威に気圧されながら開国し、下級ながら支配階級だった若い武士たちによって出身階級の解体運動に奔走大政奉還させ王政復古するという、アジアにあっては特殊な近代化の道を辿り始めた。この王政復古という、岩倉らの政治的「大号令」宣言が実質的効力として王権を復活させたわけでないのは当然だが、例えば幕府が黒船来航時に国家としての外交的主体を朝廷に依拠した事実は、時の権力者の本質的主体性又は自律性が所詮他力本願であることを示し、この精神構造は結局責任回避にのみ長けた日本の国家権力の正体を意味しているような気がされる。つまりはこの国の実質的権力主体が国民の手にない、歴史的には民衆の手を経ない近代化の弊害が不気味な危険性の浸潤を惹起しているということだ。東日本大震災及び原発事故における国家的狼狽はこの辺からも想像できよう。ある意味この国が独裁者を排除する基本的消極的心情性格を古来から有しながら一方で大事における勇断の気力に欠け、衆愚的に混乱愚策に走るという、国民が一身を託すには余りに不甲斐ない実態にあるというしかない。先の大戦を総括するにこの戦争は決して民主主義対全体主義ではなく(ナチスドイツの国家的集団犯罪とは意味が違う)政治的無責任国家対普通の近代国家という括りだ。日本はその近代化において決定的に錯誤した。(中断)

詩315 その8

2011年04月27日 10時11分15秒 | 政治論
 世界史がファシズム対民主主義からコミュニズム対カソリシズムへ、更に現代的にはどこに対立軸をみるかということになる。しかしながら残念なことに近現代史においてこうした対立的歴史観を単純に措定しても少しも判然しない複相的要素が至る所に散見され、高校教科書的分類のいかに機械的かを思い知らされる。専らゲルマンドイツを巡る二つの大戦がさながら枢軸国日独伊の画策された謀略のごとくファシズムに括られた欧米史観はまさに都合のよい原理主義であり、ふたつの軍事裁判の内実は到底世界史的意義のある理念的価値観を示さなかった。ここを見誤ってはいけない。日本は国際社会のなかで欺瞞に満ちた連合国の「提携」により形成された戦後体制により単なる「敗戦国」としてのみ出発させられ、敗戦総括も覚束ぬままアメリカ世界制覇計画と軍事費捻出の片棒を担がされその圧倒的支配下におかれ戦後66年を過ごしたのだ。今後日米軍事同盟が解かれない限り日本は永久に「敗戦国」の憂き目だけを味わうことになる。それは欧米主体の世界史においては彼らの思う壺なのだが、ただ多くのアジアの独立国が欧米侵略の歴史に楔を打ち戦後次々とかかる支配力から脱出していったのをみると希望はただ、アジア東洋の世界史観を打ち立てたときには同じアジアの日本にも可能性が残されているかもしれないということだ。これはしかし戦後政治が陥った功利的国策的官僚主導の誤った非理念的な「自由民主主義」ではだめなのだ。十分に検証され試行され確認された確固とした理念、に基づく国民の国民による国民のための政治を実現しない限り救われない。(中断)

詩315 その7

2011年04月26日 09時20分31秒 | 政治論
 結論が要は本土と沖縄とで皇民化教育の質が相異した結果沖縄戦乃至「集団強制死」の悲劇的結末を生んだというだけだ。そして戦後のとりわけ沖縄基地負担の偏重は益々本土と沖縄を乖離させ特異な一地方を形成する不公平不平等な非民主的な永続的状況を造出している。これは繰り返せば「憲法違反」な基本的人権無視の悪政であり琉球処分以来の対沖縄施策の根底にある差別主義が未だに日本人の中に巣食っている証拠であろう。21世紀にある現代人として恥ずべきしこりであり到底世界的評価に耐えない一種の人種差別、しかも許しがたい禍根を日本史上に刻印した愚劣にして卑劣極まりない政治的犯罪行為だ。今更死せる昭和天皇の墓穴を敲く意味はないがもし彼が一片の同情心でも持ち合わせていたら彼に従った多くの権力者にも多少のためらいはあっただろうに。沖縄に対する昭和天皇の罪は国民が(常民が)その一点で彼に疑念を持つ謂われとなる。この疑念こそ「人間天皇」の生身の日本人を指しているし、敷衍する常民の非常民化を助長する。沖縄からみたときこの国の国民(常民)は残念ながら一般性を失い憎むべきあるいは軽蔑すべき非常民となる。等しく沖縄の仇敵となる。不倶戴天の敵、許すべからざる親の仇となる。(中断)

詩315 その6

2011年04月25日 21時36分06秒 | 政治論
 当然のことながら沖縄には琉球王朝があり琉球処分は概念的には王統府の排除-封建的階級の階級的撤廃ということになる(ここでも旧王統は華族に列し残存する)。明治政府はこの処分により沖縄を一つの藩とみなし王を藩主として廃藩置県し伝統的王統を一大名並みに扱った。つまり日本史上天皇を戴かなかった唯一の地域にあった支配主体に対する顧慮はなく、なし崩しに明治政府の政治的支配下においた。それは同時に恐らく沖縄にとっては本土の「天皇」により支配者が単純に取って代わられたという事実を目の当たりにしたにすぎなかった。昭和天皇の沖縄に対する冷淡さは罪が深いが日本人が沖縄人に持っている差別的感情からすれば少しも特殊でない。寄ってたかって沖縄を冷遇したのだ。民衆の王族または王に対する感情の民俗学的な検証は浅学で知見しないが、少なくとも本土の「天皇」同様に、ある種微妙な関係性にあっただろうことは想像できる。いずれにしろ沖縄の近代化は封建的支配構造を排除したとはいえ新たに「天皇」の支配下に入ることで極めて特異な事情の内に大きな中央集権体制へ組み込まれていった歴史だ。肝心の近代化はほぼ四半世紀の遅れで本土並みに近代法制度の実施に至ったが、皇民化政策はあらゆる方面にわたって本土以上に徹底的に行われ、所謂「同化策」と相俟っていよいよ異常なる天皇絶対化「現人神」がまさにマインドコントロールの極みに達したわけだ。単純に謂えば沖縄戦の悲惨な悲劇的現象は本土ではなかっただろう惨たらしい内容で歴史に深く刻印されたがその大元は沖縄の近代史に異常に関わった皇民化教育の罪過そのものだった。つまりは「集団強制死」の本質が琉球処分に始まる大日本帝国の沖縄に対する苛烈で特殊な差別的施策にあることは間違いない。何故ならもし又彼らの「自決命令」を出さなかったという証言が事実ならあの痛ましい自動的自決行為は帝国が沖縄に対し実行した皇民化教育の催眠的効果を明瞭に裏付けるではないか。(中断)

詩315 その5

2011年04月24日 18時58分04秒 | 政治論
 沖縄戦の本質は「天皇問題」ということになる。「天皇問題」の本質は民俗学的問題であり、「天皇」が民衆にとっていかなる存在かを問うことだ。この場合民衆側の視点は「天皇」が皇居におわす特殊な日本人ということにあるのでなく「神のように」有難く常に心理周辺に漂うようなある超日本人的性格の「いわしの頭だがいわしでないもの」として認識されるものかどうかだ。彼はアメリカ人始めヨーロッパがキリスト教の「愛」を言う傍ら人殺し是認戦争をする矛盾を矛盾としない現実主義とは何かと考える。これはつまり「目には目を」の現実主義、復讐のためには手段を選ばない「対テロ戦争」であり心理学的には単なる逆上だが、国家がする明瞭な「平和に対する罪」の一種だ。彼らは自身の罪過を決して認めない。そして相変わらず「神」に祈る。人を殺した同じ手で。かれらの天衣無縫な楽天主義を日本人は決して受け入れられまい。恐らくは日本人の生活感覚が彼らよりもはるかに微妙に働くからだ。したがって天皇に関しても「いわく謂いがたい」何かによって微妙に関わっているのであろう。歴史的には(史料的には)1500年程度の間変わらずあった天皇という存在は近代化においても英国風立憲君主並みに生き続けたと謂えば誰でもそのレーゾンデートルを検証したくなろう。そういうものなのだが、近代個人主義はこうした微妙な存在に対しても微妙にバランスを取って対応する知恵を身に付けようとした。何故そうなったかといえばかかる微妙なアンタッチャブルな存在は一旦国家的に利用されると途端に機械的になし崩しに強制的に国民を心理的圧迫と脅迫的概念へ導く存在に変貌し最早あらゆる合理的思考を停止させる結果となるからだ。最もこれは一般的には戦後的理性だ。戦前も戦中も多くの国民は半ば無反省にこの存在の政治的欺瞞を盲目に受け入れた。(中断)

詩315 その4

2011年04月24日 09時45分32秒 | 政治論
 問題を整理すると、明治維新が持つ致命的性格である「旧支配階級-武士階級の下層部分-による上からの改革」と「王政復古という名のアナクロニズム」(権力実体のない権力媒体の絶対的成立)から出発した「近代日本」は「封建制」の持つ弊害の打破(四民平等、身分制廃止、職業選択の自由、等)を通じて徐々にその改革の実を挙げながらも、一方で「欧化」という欧米同化策が「伝統」文化思潮の衰退消滅を加速し、例えば夏目漱石の文学に追究された「個人」と「国家」の相克にみる自己矛盾分裂破綻という精神の闇を助長し(啄木の所謂「時代閉塞」)、「理性の無力」という悲劇的自己批判に潰えた芥川龍之介に至って、時代は「富国強兵」「殖産興業」が当然に帰結するところの戦争へとひた走る。東京裁判は「文民統制」が機能しなかった政府の罪過につきただ一人文官から広田弘毅に絞首刑を宣告した。吼える獅子キーナンでさえこれを量刑間違いと指摘しているが外交官であり外務大臣経験もある彼が首相時に軍部の独走を回避できなかった無力さは万死に値するという評もあるにはある。彼の弁明が一切なかったために逆に国家非常時の文官の責任の所在が後世に教示されなかったという禍根はあるようだ。但し彼の思潮に右翼的傾向がなかったわけでなくむしろ「黙認」という安全地帯の軍拡推進者だったかもしれない。いずれにしろシビリアンコントロールは機能せずに軍部は独走し内閣の一角を占めるにいたり、日本は打ちてし止まんの戦時体制一色となっていく。当然ながら軍隊は平和使節ではないし相手を殺すことが職務である。この思潮を突き詰めれば人類滅亡を企図するということになる。何のために?原爆に手を染めた人類は「平和利用」という名の核生き残りを図った結果原子力に関わる致命的な事故を頻発しやがて自分の首を絞めることにも見切り発進することになろう。世界史におけるシビリアンコントロールは残念ながら多くの欺瞞に満ちた内実の、アメリカ主導のコジツケでしかなく、到底評価できないものがある。こういう、決して本質的に連携しない世界の動向にグローバリズムと称して国際派を気取って見せても袈裟の下の鎧は誰でも見透かされている。物量と人的資源に任せて強行されてきたアメリカ世界制覇計画は自国の財政危機と共に縮減せざるを得まい。
 さていきなり天皇問題だが「いわしの頭も信心から」の伝でいけば日本人の信仰心における「無神論」的「汎神論」のひとつの伝統的な表現形態に偶然現れた神輿として主に上流階級の思潮にあった建国神話観から発祥したらしい天皇氏族にまつわる神話的伝承文化が専ら貴族的放恣に依拠する実質で日本史の内に根付いたのだった。民衆は恐らく基本的には「汎神論」に近く自然神崇拝の延長上に偶像崇拝せず固定化しない一種の信仰生活を育んだものと思われる。仏教もキリスト教も勿論決定的な影響力はなかった。時の権力者がこれらを利用し弾圧した歴史は少なくとも近代以前は民衆に深く関わることもなかった(勿論例外はある)。ところで皇民化教育の成果とはいえマインドコントロールされた日本人が「天皇神格化」に加担し表面的にはあらゆる「天皇のため」的行為を率先実行した近代史が戦争そのものの元凶かどうかはわからない。封建的滅私奉公の心理と「忠心」の奨励乃至美化は王政復古というアナクロニズムの罪過であり爬行的近代化の証明だ。しかしながら特攻隊員の真情を慮るとき彼らが「天皇陛下万歳」を叫ぶことはなかったという事実から、国策としてあった「天皇絶対崇拝」の強権的押し付けは一種の脅迫概念としてのみあったのであろう。沖縄戦での「集団強制死」は本土でも起こりえたかという疑念がある。ここに沖縄の近代化の特殊性は見えるが「天皇問題」は沖縄戦では決定的だったというしかない。(中断)

詩315 その3

2011年04月21日 10時16分39秒 | 政治論
 ここでこの国が主に戦勝国アメリカによって戦後を様々な偶然的かつ意図的手段により半ば強制的に選ばされたという認識に立てば当事国アメリカ批判なしには何事も語れまい。しかしながら先に見たとおり維新という精神の方向性には、真逆な王政復古を前提した歴史が、支配階級たる武士身分のうちの下級に属する一団から始まり遂行し完成した日本の近代化の幼弱さと相俟って一種複雑で矛盾に満ちた実質を内包したことは、皇民化教育の功罪に見る歴史的証明にも帰着するので一概に反米理論の単一な要素として戦後史評価が確定するわけではない。だからここではアメリカ批判が常に日本の純一な個別性に依拠することを考慮すべきだ。論理展開のバランスからいうと立場としての中立はないが力学的均衡は意識されることになる。東京裁判が著しく近代法精神に反したという事実の追求は措くとして国家間の外交バランスは、一方に敗戦国の再軍備抑制を準備しながら他方協力国同盟国というニュアンスの「自衛隊」が戦勝国の放恣な傾向からレゾンデートルを得たと思われるにもかかわらず法治国家の存立を脅かす「憲法」問題においてついに日米関係の従属的性向を瞥見することになったのは皮肉な話だ。勿論敗戦という負のジョーカーを握る日本がGHQの占領統治を通してなしくずしに支配被支配の構造的戦後を形成した事情は国民共通の認識としてあり、恐らく独立国家としての日本の真情は「お手上げ」といったところであろう。しかしながら戦後66年の現今日米関係が「腐れ縁」に似た安保偏重の、敗戦国自虐抑制傾向にあることを自覚しなければ成らない。ナチス犯罪追及を中断しないドイツの徹底した「反戦性」にみる確固たる国家責任負担精神こそ必要な要求される外交的自己表明なのであり、自虐的怠惰は国家の執るべき内容ではないことを国民自身が認識しかつ自国の歴史的検証を真摯に徹底的にすべきと思われる。彼の知る限り沖縄基地問題と今次原発重大事故はその因源が日米関係にあることは日を見るより明らかだ。「問題」の捕らえ方として、一地域とはいえ日本国民の居住スペースが人為的危険に曝される異状を放置するこの国が自虐的と称されてもしかたがあるまい、ということは、ここにあるのが「敗戦国」という負のジョーカーをつかんで離さない奇妙な政治的傾向にある証左だ。今や半世紀以上経過した戦後66年の時点でこのような国家の在り方に終始し改善しない不毛の政治環境を見せられると誰でもやりきれない絶望感に支配されるだろう。それは大震災での政府の機能不全な実情にも如実に現れている。政治への絶望とは何か。代議制の多数決論理の戦後「民主主義」が日本的に座礁したのだ。由々しき事態だ。言葉もない.....(中断)

詩315 その2

2011年04月20日 10時08分33秒 | 政治論
 日本人が素通りしているのは近代日本の国家的国際的検証の1点だ。明治維新が徳川封建体制を瓦解させ日本が国家としていうところの近代化に成功したことは歴史学的にも評価されるし維新の偉人たちにけちを付けるが物ではない。問題は王政復古という実質が真に日本人の内に存在したのかどうかだが、例えば中国は最後の西太后をもって旧権力の一切を放逐し、と同時に外民族支配から脱却し、更に欧米列強の侵略干渉を徐々に打ち破り人民の共和国をともかく打ち立てた。その後の歩みを十全に許容する気はないが、この場合比較近代化評価という1点からいうと日本の近代化は王政復古なる旧権力実質の復活という時代錯誤を犯したのではないか、もしくはここにも従属的精神傾向を見るのは早計か、このことは徳川幕府が所謂陽尊陰卑(表面上尊重するが実質は傀儡)をもって扱った京都公家勢力という事実からも伺えるように、日本人の悪癖とでも言おうか、少なくとも先の大戦がもたらした(とりわけ沖縄戦に如実に現れた)皇民化教育の罪過の因源となったことは事実であろう。そして国際慣習常識に照らしたとき国民主権の実質的実現が天皇制によって明瞭に疎外された歴史的事実を隠蔽した東京裁判は明らかに日本人の精神的錯綜を助長したといえる。一方天皇制という制度としてではなく(「象徴」などという曖昧なものとしてではなく)法文化しない日本人における天皇の存在意義の実質的評価をすることは意外に重要な事案である。東京裁判が極めて政治的で「見せしめ」的で報復的なことはすでに多くの証言から明らかだが、この裁判をもってして日本が自身で本質的に近代日本を検証したことにはならないと戦後の日本人は自覚しなければならない。とりわけ若い世代を中心にこのことを徹底的に掘り下げなければ日本の真の未来は開かれないのだ。戦後66年の時間経過は近代日本の総ざらえという精神的文化的オーバーホ-ルが受容できる(国際的対外的に)ものと受け取るべきだ。(中断)

詩315

2011年04月19日 23時04分42秒 | 政治論
 彼は戦争を、戦後焼け跡を、戦後のドサクサを、知らない。戦後5年して早くも勃発した朝鮮戦争など戦後が決して劇的に別の世界に変貌したわけでないことを彼は認識する。日本は敗戦で平和憲法により戦争のない国に生まれ変わろうとしたらしいが世界は米ソ対立冷戦時代を迎えていた。日本史観と世界史観の間に「戦勝国」と「敗戦国」のギャップが生じているとき日本人は当然「敗戦国」としての世界史観と再生日本なる日本史観の両方を具有する運命にあった。「敗戦国」としての世界観とは戦争以前の日本史を含めた日本人の、世界におけるアイデンティテの検証を伴って形成される。しかしながら「敗戦」は戦争裁判による国際司法の評価判断だけでは到底解決し得ない多くの問題を抱えているという事実がとりわけてあの東京裁判の検証から数多く浮かび上がり、現代史の一面にはこの戦後の出発点を素通りしては本質を見失う危険がひそんでいたことを今や十分に認識する必要があると日本人は思っている。この歴史評価は正しい。欠けていたのは戦争全般に対する本質的考察であり東京裁判がはからずも条例化した(実際はニュルンベルク)「平和に対する罪」「人道に対する罪」は広くあらゆる「戦争行為」に対して厳格に適用されることで世界史にその前例となりえたのだが残念ながら「復讐裁判」は決して敗戦国の国際社会における地位的保証を許容しなかったということだ。つまり日本国にとって「敗戦」は、戦後の国際社会における運命的な枷でありそれは単に再軍備脅威の可能性遮断という意味だけでなく敗残者の自虐的抑制歩行を強制していた。この不健全な戦後日本の歩みから生じた戦後民主主義は当然現実主義的に雲散霧消し、唯一の理念的独自性から放逐された格好で21世紀の価値観喪失時代へ突入した。そこでもう一度敗戦後を眺めると日本人にはその歴史的絶望と精神的未解決の果てしない荒野だけがあったのであり、いわばそこから一歩も踏み出さなかった本質があった。日本人はただ経済的に潤っただけなのでその精神の闇は途轍もなく暗い。この度し難い暗黒に追い討ちをかけたのがこの大災害であった。記憶も薄れた阪神淡路震災がその端緒である。何も規模の大きさで「かのような」危機感を煽るわけではない、というよりもこうした不可抗力の災害が起きる以前に日本はある種壊滅的なダメージを受けていたのだ。最後の砦、その戦後経済の実質的破綻と国としての凋落だ。功利主義の選択が国防を戦勝国に肩代わりさせた奇妙で狡猾な国策において当初の達成目的たる国家の軽負担復興を成功させたのはいかにも他国を利した巧妙なる外交的勝利のように喧伝するが、事実は大国アメリカの言いたい放題したい放題を許している完全な従属的実質を体現している。つまりはこの国幹ともいうべき国防国土保全国民主権における精神的従属性が今この国を本当に揺るがしているのだ。誇り高き大和民族の真の「復興」は精神的従属性という一人歩きする病弊が、主にいかなる病理的治療を要求するかを知らずには始まらない。(中断)

詩314

2011年04月16日 17時11分03秒 | 政治論
 彼は勿論抽象論にしか興味がない。一方政治が生(なま)の現実に向き合うことをやめたら形容矛盾であろう。政治は抽象論でなくまさに具体的な事象に関する具体的な対応を執行し是認される具体的な結果を示すことにその機能的評価が下される。単純にいうなら「貧乏人には腹を満たすだけの麦を」供給する政府が最低限の政治機能を有するといえる。そこに金銭的懸念を抱かさせる政治はその時点で失格だ。貧乏人がこれを美味と思うかどうかは別問題である。
 菅君が風評被害という事象に対応してイチゴを食って見せたのは間違いではないしなにもしないよりましなのだが、これで人々が「安心」という心理状態に置かれたかどうかはどうやら疑問なしとしないらしい。何故なら今や莫大な量の情報が錯綜している「ネット社会」では収束しない福島原発の更なる拡大さえ懸念される情報に満ちているし、君の「対米追随」理念?から想像するに米政府の「原発推進」方針に則って繰り出されるあらゆる「かのような」政治的パフォーマンスは実に胡散臭く到底信用ならないということがすでに国民には刷り込まれてしまっているからだ。こんな明白なる政治不信状況さえ菅君の周辺には伝える取り巻きがいないのかと首をかしげる。当然のことながら、例のタイガーマスクではないが待望されているのは今や義賊という実質の超法規的現金投げ込み行為にほかならない。だからこのときとばかり「ばら撒き」をしなけりゃいけないのに頭が悪いのか少しも具体的な徳政が行われないところをみると、つまりはアメリカ押し付け付け焼刃の「民主主義」が日本人をあらゆるヒロイズム又は慈善行為から精神的に放逐したということだろう。有名人が国家的な額の寄付をするのはみたところ有名税じみていささか引いてしまうがそれでもしないよりしたほうがいい。但し多くの日本財界から気の利いた「投げ込み」がないのは実に日本資本主義の偏頗性を見る気がする。おまえさんがたの利益はその商品を買う国民に支えられていたんじゃないのか。いずれにしろ東日本大震災は未来に向かって少しも開かれない政治状況にある。国民はこうした国の機能不全によって徐々に戦後日本というものを完全否定する方向に向かうかもしれない。無論それは正解である。正解だが少しも愉快でないのは当然だ。代議制と多数決を原理とする少数切捨て「民主主義」が持続される限り人民は永久に救われまい。それ以前にすでに明治以降日本が歩いた近代現代の軌跡は後悔に満ちた結果を露呈している。(中断)

詩313

2011年04月15日 09時27分48秒 | 政治論
 復興会議なんぞ立ち上げたらしいがどう転んでもどの道「上から目線」のおざなり手抜き計画しか想像できないのはこの国が各地で物議を醸している様々な問題からして当然の感想なのだ。「天」がこういう日本人の戦後の国策精神の本質を看破し都知事のいう「天罰」を下したと考えるのは決して異常な反応ではない。何故それがわからないのか。「民主主義」だ「自由」だというが「烏合の衆」(国が選んだ有識者)のありきたりで愚策に近い「多数決」結論を押し付け実情に添わない方針にむりやり従わされる一般国民はストレスばかりたまる不健康な精神状態に陥っている。とりわけこの国が近代化以来いつも「秀才」と「事務屋」に牛耳られ彼らの偏頗な、過ちに満ちた判断力によってどれだけひどい目にあったかどこまで懲りないのだろう。このたびのこの東日本の不具合は「彼ら」の無策無能を天下に知らしめたではないか。治国平天下の基本は民が鼓腹撃壌することだ。そのことを最も知っているのは瓦礫の中互いに扶助し合うあの人たち、普通の一般人だ。地域コミュニティから発進したこうした人々の声を最優先に汲み取り、これを100%国策に生かすという最も当然の作業がなければすべては砂上の楼閣だ。しかもこのたびの国難こそこの国がまっとうに再生できるかどうかを問われる史上最大の機会といっていい。それをおざなりの愚劣な「有識者会議」に収束し本来性を失えば今度こそ日本沈没は免れまい。必要なのは当事者たる国民による人民会議だ。政府も政治も政治家も官僚も財界も誰も信用ならないと悟ったのだし、この国の本当の未来は「上から目線」でない瓦礫の中から立ち上がる民衆の手によってしか開かれない。

詩312

2011年04月14日 09時39分14秒 | 政治論
 平成23年(2011年)3月11日午後2時ごろ東北地方を襲った大地震はやがて巨大津波を引き起こし三陸宮城福島北関東の東海岸に山となって押し寄せ忽ち日本中を恐怖と悲しみと苦痛のどん底に突き落とした。今なお被災地には本震並みの余震が断続的に起こり人々の心臓と血管を痛撃して止まない。「神も仏もあるものか」どうして「天」はいつも権力のとりでにはさしたる被害を及ぼさないのだろうか。何故弱者にのみ決定的徹底的に現象するのだろうか。生活の基盤を根こそぎ奪われ、今後の保証は一切なく瓦礫の中に呆然と立ち尽くす哀れな境涯を誰が救えるのか。あまつさえ大津波に破壊された福島の原子力発電所はいつ収束するとも知れない無際限の恐怖を世界中にばら撒き、福島は無論のこと北関東の農漁民の活計の手段を奪い取り、今後益々競りあがる危険性との直面を余儀なくされている。今更こうした惨状の責任を問うたところで「神」も政府も資本家も何も決して応えることはないのだが、腹の底には怒りのマグマが沸々と煮えたぎっており、地団太踏む思いを如何ともしがたい。人間にとって忘れたころにやってくる天災を憎悪する気にはなれないが最愛の肉親をムザムザ奪われ係累を殺される人々にとっては怒りとも憎しみとも後悔ともつかぬ複雑だがはっきりした悲しみだけはいやでもついてくるに違いない。しかしながら湧き上がり抑えようもない感情のなかにはささやかながらもいくつかの笑いや扶助し合う心地よさもないわけではない。掛け値なしのこうしたコミュニティの持つ本来的な全人性は元々人間が群落のなかで培ったであろういわく言いがたい「人の手のぬくもり」なのかもしれない。そうだ、ここからしか動かない人間の生活というものがある。ここにだけあったフル回転の人生というものを、図らずも大災害が揺り起こそうとしている。「神」は一体何を企図してこの惨たらしい地獄絵に人々を引きずり落としたのか。今、宇宙や世界は人間に何を伝えようとしているのか。精神や霊魂が存在するのなら今まさに命がけでこうした問いに向き合うべきではないか。とはいえ日々の暮らしの生々しいヤリクリ、苦労、不足がちな物資食料、をなんとかしなけりゃ、生きた心地もしないのだ。