沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩531 考察 8

2014年05月21日 20時54分39秒 | 政治論

 仲井真知事の最大の罪過が、訪米中の稲嶺名護市長の「辺野古反対」プロパガンダ活動を足払いし、壁を分厚くし、米国政府関係者に本来必要のなかった「推進やむなし気運」を掻き立てている。この意味でもこの知事の反人民的為政者行為には許しがたいものがある。それは全身で憎悪すべき歴史的背信だ。

 この政府は司法判断さえ容易く凌駕して突き進むものらしい。大飯原発運転差し止め命令が福井地裁から出されても、菅官房長官に言わせれば「粛々と」再稼働する気でいるということだ。判決内容は常識的判断であるが、今この国はその常識が覆される方向へまっしぐらに行っているので、この常識の厳密な検証を急がねばなるまい。(つづく)

 

 


詩531 考察 7

2014年05月21日 11時08分13秒 | 政治論

 人は、衝撃的な場面に遭遇しても、よくあるように暫くは余韻の中にあるが、徐々にショックが遠のいて忘却の彼方に微かに残像を感じる程度にまで印象を薄める、といった通常の感覚的機能に身をゆだねてしまうものだ。その結果ある種の為政者がほくそ笑む、責任性を帯びた政治的過失の罪過から遠ざかる自然作用を人間のうちに作り出してしまう(大震災から3年を経た現在を顧みよ、阪神震災は誰も思い出そうともしない。)。だから問題は、歴史的教訓というものの役割は認識と経験の深い意味を確認することから始まり、残像のように揺らめいている記憶の曖昧さから身を引いて、言葉として生きているものの持つ掛け替えのなさにおいて、ひとつの歴史的体験を確かにこの身に個人として受け止める作業がどうしても必要になるのであろう。これを追体験というが、それの現実味の度合いは共有できない。だから、個人の自由が求められる。言わば、沖縄戦に関する一行の「非戦意思」というのは、個々に醸成した一語一語によって成り立ち、それらは決して同じ顔をしていない群れの集合であり、それが光、だったり、叫びであったりしながらこれを取り巻く周辺に新たなメッセージを告げようとする。

 1995年の米兵による少女暴行事件とその後の県民大集会は、日米関係者に一定の衝撃を加えたが、18年経って県民が目にしているものは、その同じ県内に新たな米軍基地を建設しようという彼らの、事件に何も学ばずその逆の意味になる企図にのめり込んだ官製愚行そのものだ。これを歴史的失政と言わずに済むものであろうか。彼らは間違っている。しかもこれは言わば、正確には為政者の勇気ある撤退に踏み切れない状態と捉えられるのである。(つづく)


詩531 考察 6

2014年05月21日 07時23分45秒 | 政治論

 何度でも繰り返すが、辺野古の海にも陸にも新しい米軍基地は造らせない、ということは、戦争準備発進の為の施設を、沖縄島のどこにも受け入れない、ということであって、例えば敵が攻めてきても無抵抗にやられるがまま、という発想に対してイエスと言っているのではなく、米軍基地があるおかげで沖縄は守られている、という「言いがかり」は大嘘であり(戦場になるのは沖縄だ)、既にここに米軍の基地がある必然性も必要性も一切皆無だという事実は明白なことで、従って、日本政府がここになんらかの軍事的アプローチを仕掛ける理由は「くみし易し」「切り崩す持久戦に耐える不作為の地方自治」という不遜な思考対象に沖縄が据え置かれているからであり、彼らの怯惰な官僚的自堕落を我々は心の底から憎悪しているのだ。(つづく)