人は、衝撃的な場面に遭遇しても、よくあるように暫くは余韻の中にあるが、徐々にショックが遠のいて忘却の彼方に微かに残像を感じる程度にまで印象を薄める、といった通常の感覚的機能に身をゆだねてしまうものだ。その結果ある種の為政者がほくそ笑む、責任性を帯びた政治的過失の罪過から遠ざかる自然作用を人間のうちに作り出してしまう(大震災から3年を経た現在を顧みよ、阪神震災は誰も思い出そうともしない。)。だから問題は、歴史的教訓というものの役割は認識と経験の深い意味を確認することから始まり、残像のように揺らめいている記憶の曖昧さから身を引いて、言葉として生きているものの持つ掛け替えのなさにおいて、ひとつの歴史的体験を確かにこの身に個人として受け止める作業がどうしても必要になるのであろう。これを追体験というが、それの現実味の度合いは共有できない。だから、個人の自由が求められる。言わば、沖縄戦に関する一行の「非戦意思」というのは、個々に醸成した一語一語によって成り立ち、それらは決して同じ顔をしていない群れの集合であり、それが光、だったり、叫びであったりしながらこれを取り巻く周辺に新たなメッセージを告げようとする。
1995年の米兵による少女暴行事件とその後の県民大集会は、日米関係者に一定の衝撃を加えたが、18年経って県民が目にしているものは、その同じ県内に新たな米軍基地を建設しようという彼らの、事件に何も学ばずその逆の意味になる企図にのめり込んだ官製愚行そのものだ。これを歴史的失政と言わずに済むものであろうか。彼らは間違っている。しかもこれは言わば、正確には為政者の勇気ある撤退に踏み切れない状態と捉えられるのである。(つづく)