沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 2

2020年12月24日 15時30分23秒 | 政治論

 現行自公維系政治権力集団が醸し出している政治上の問題(コロナ禍に適宜対応できてない機能不全状態、乃至安全保障思潮の決定的不備、モリカケサクラ等安倍案件と菅関係に顕現した人格的道義的退廃及び法的無責任実態)の中で考えてみると、我々はここ数年のアベ・スガイズム、あるいは世界的現象であるpost truthも含めトランプ旋風などに対して、それらの劣悪な形質(論理性、倫理性、理念性における明らかな劣化)に対して過分で不相応な(それらに対し必然必要のない)関心と、過剰ともいえる批判や非難を継続して繰り返してきたように思われる(勿論その過剰は安倍・菅体制自体の過剰な悪辣さ狡猾さに由来する)。

 当然に他の重要案件に対する実質的な言及、追究不足を懸念する声も聞こえてくる。しかし「万機公論に決すべし」という議会民主主義の原則からすれば、何事も軽重問わず稟議を尽くすのが本来的な在り方だ。

 さて、それらの形質は、今や世界や日本国民共通に近い内容でわかられてきているかもしれない(安倍の敵前逃亡、菅政権支持率激減やトランプの失墜、海外メデアのまっとうな政権批判などはそういう印象を与える)。但し分析・総合に係って確たるアベ・スガイズム等否定の決定版をぶち上げたのかと言えば、やはり依然何となく心許ない在り様でしか示されてない(コロナ禍で益々見えにくくなり始めている?)。

 こういう感覚は、アベ・スガイズム等の有する常識を超えた自己保存習性(我執)、執念深い権勢維持本能(政治エゴ)に我々が辟易させられているという苦々しい思いが関わっている。一方では、これに加担するかのように、有権者の政治意識や時流感応力が低下しつつあるようだ(しかしこれもこの国の国民性と関係している)。

 我々はモリカケサクラ事件といった安倍晋三案件やこれへの菅義偉の関係性を、残念ながら勧善懲悪や決定的断罪という範疇では扱えない、何か奇天烈な時代背景の中に埋もれるようなものとしてしか処理できないように予感してしまう。だから、時の権力に取り込まれて国家運営上分立できてない(分立を阻害されている)司法権の驚くべき脆弱さに絶望的な現状を悲嘆するという結果に終わるのだ(安倍晋三一人立件できない司法は、最早この国の終焉すら印象させる)。

 尤も我々は、20世紀初頭から数十年にわたり世界に吹き荒れたファシズムやナチズムに対するハンナ・アレント的解釈を何となく踏襲して、それらをいかにもありふれた劣性の表象(モブ化)として身近に引き寄せ捉えるべきだと安易に考えていた節がある。つまり我々はアベ・スガイズム等を20世紀的劣悪現象の敷衍という線上で何となくあいまいに転がしていたに過ぎないということ(いずれは遠からず滅亡し消え去るだろうと)。だが安倍・菅は果たして目に見えてステレオタイプな悪の権化であろうか、多分そうではない。彼らはその権力に対する執念深さで悪存在と言えるが、しばしば暴露される劣性的な正体において「小物」であり、「小悪党」であり、歴史に良くも悪くも深く刻まれる何者かであることはないと。

 (世界の放縦ともいえるネット的環境の中では情報の錯綜と同時に我々の脳髄の中も意外にケアレスミス的な混とんを囲い込んでいるかもしれない)。

 さて、1981年以来日本人の死亡原因のトップは癌である(約3割)。また3人に2人は生涯のうち何らかの癌に罹患するとも言われる。だが癌の発生メカニズムは依然杳としてつかめてないのが現状だ。これに上乗せするように、今、変異性感染症コロナウイルスが俄かに世界を震撼させて止まない。そしてその防御方策を世界中が躍起になって探しているが一向に画期的なものを示しえてないし、ワクチンとはいえ予防でなく、せいぜいが症状緩和、重症化抑制しかできないものだといわれる。ある意味、コロナはひと頃の癌に対するのと同様な運命を歩き始めている。つまりこれに罹患した瞬間、恐怖と絶望の淵に落とされる等、禁忌的扱いにまで落ちるという非現代的なミステリー化けしている。

 日本国民にとってかかる死病とつきあうに現行自公政権のような政治媒体を選択したのは大いなる不幸であったし、現に奈落に落ちる思いを味合わされているのは間違いない。まして嘘と隠蔽、ごまかし、政権維持能力以外の脳を持たない安倍・菅体制の恐るべき長期存続を許したのは返す返すも残念なことだった。

 トランプ出現に見る戦後世界体制の中の米国のイデア的凋落は見るから悲惨なものがあり、パクスアメリカーナの没落は時を置かず現実のものになりつつある。恐らくはこの落ち気味の強国に追随し手を結び、併存以外の道を模索しない日本国もまた、近い将来に無残な結果を用意していることは疑いない。

 例えば沖縄における日本国の誤った施策の数々が何らかの代償を払わされるだろうと危惧されるのだが、それは専ら、この国の戦後体制の思考停止した在り様からの当然の帰結であって、今更後悔しても始まらないし、辺野古などは恐らく前代未聞の国策誤謬として「国恥」の代表になり了すであろう。現在辺野古大浦湾の埋め立てに伴う環境破壊は、此処を含む奄美琉球島嶼一帯が自然遺産登録を目指すという真逆の企てに対して、正当な何らの理念的解答も持たぬまま、人間的愚かしさという既定路線を突き進んで止まない。これも近代日本がむしろ運命的に背負った国家的民族的な宿痾のなせる業であり、今アベスガイズムの場当たりな従米主義ばかりが突出しているように見えるだけで、実際は歴史的に不可逆なこの国の民族的性向そのものが因となっているのだ。

 いずれにしろ今喫緊の重大な支障はコロナ禍にほかならず、ここを死地と捉えて死活問題とし、生きるか死ぬか、生き延びるのか、成り行きに任せるのか、最終的には個人の問題に究極する。当然我々の人生の最終局面として如何に生き、死を迎えるかということにすべては収斂する。

 パスカルは神の存在の有無は我々自身の賭けの問題だとした。「全体と虚無の中間存在」で、永遠に浮遊し震撼する脆弱で儚い葦のような我々は、さながら葦のようにうそうそと「考える」だけのものでしかなく、しかも考えることにおいてのみ霊長類たる人間である存在性が見える。デカルトも同じことを述べる。ここに立つなら、この神の前の小さき者は「知られざる者」「知りえないもの」として我々の生と死を見つめることになろう。

 我々が超えるのは、生きるためにほかならず、此処に留まることが意味のないことだからであり、我々の思考、行動、認識が生きる運動の中にしか意味としてあり得ないからであり、「不安と臆病」に苛まれて出発できない愚を拒否するが故だ。生はかくして死を超え、運動体として永遠に神の場と時において人間であり続ける。 

 

 


詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 1

2020年12月13日 14時57分46秒 | 政治論

 このかつてない規模の、第三波襲来中のコロナ禍は、国(菅政権)の不適切で時宜を得ない対応の、無理筋な継続(失政を認めない、分科会の提言を無視する、自治体任せ、無責任発言)である天下の悪策愚策?GoToキャンペーン(や持続化給付金等休業補償などの制度設計不備)などにより、感染症対策も経済もいよいよ収拾の付かない大パンデミック事件(一種の戦争状態)となり、国民を戦後かつて経験したことのない奈落の底へ引きずって行くのが目に見えてハッキリしてきたと言えるだろう。軽く言えば、第三波も程なく乗り切れるだろうというのが国家政府の基本姿勢だ。

 この事実を日本国民は若年層から高齢者まで等しく共有して、待ったなしの自己保存、自律的手立てを早急に実行すべき時機に来ている(それは勿論今までやってきた自粛やステイホームばかりでなく、コロナの被害がよもや自身に及ばぬような徹底した手立てを講じるという意味だ)。自治体は既に国を見限り自律的独自対応へ向け始動した、というよりしないわけにいかなくなった。医療体制の逼迫は深刻度を増し、医療崩壊というべき事態が刻々と迫ってきている。

 現行国家政府はあってないようなものに成り下がった。むしろ存在悪でさえある(未だに5割近い支持率を献上している若年層の無知な対政権現状支持など問題外だ)。今やこの無能政権に牙をむいていつも通り安倍以来の政治批判をしている気さえ起こらない(あいつらはいずれ闇の彼方にいつの間にか消え失せているだろう)。

 政治機能不全実態は確実に、その災禍の現場たる医療従事者、医療関係者に特化して現れているし、GoToで菌がまき散らされる市中感染空間に、無下に放置されている国民生活のストレスもいや増している。また、無症状軽症者が多数を占める少年青年壮年層の、放縦と言っていい無作為の活動を抑制できずに、結果として、彼らが立ち戻る場所にいる高齢者弱者の感染、重症化、死亡者数を増幅拡大化しているという実態がある。(これには、国が国民向けに危機的状況の警鐘的メッセージを発しないという、国家機能不全状態が根底に要因としてある。こういう事態を招いた自公政権や安倍、菅内閣の責任はあらゆる意味で重い。言ってみれば後々戦犯として扱われる成り行きとさえ言えるのだろう)。

 (検察立件対象にあふれた、利権既得権エゴイズム塗れの)現行菅内閣が動く契機は当然に己らの権力保全や利得に関わること以外ないことなど最早自明の事とわかられている。GoToどころの話ではない。そんなものにかまけているのは一部の富裕層、暇人、高給取りばかりで、一般国民は最初からステイホーム、不要不急の外出自粛をしているわけで、それの経済効果は明らかに偏頗でたかが知れているばかりか、理屈から言えばやらないほうがずっとましという結果になっているわけだ。

 両是論的な二兎追い政策はいずれにしろ愚劣だ。そこに巧まれた政治的技術など全く見当たらない。しかも両是論さえ成り立たない(経済優先施策、感染症対策の希薄)。分科会提言の軽視は結局国民の命の軽視、結果するところ明らかな戦犯事案と言える。現自公政権の在り様は戦前の参謀本部のそれと相似ている。但し、当時翼賛する世情から現状の正しい認識は阻害され、今は逆に著しい情報氾濫とともに様々な見方を生み、翼賛自体を不可能にしているし結果国民はみな、ばらばらの状態で何となく自助努力だけが有効な生き方となりつつある。しかしそれは菅の言う自助とは全く意味が違う。

 つまり現在、日本人は孤独な一個人としての、精神的自律的試練を自ら自身に課す以外、生き延びる道筋が見つからないという土壇場に置かれているということ。極端に言えば「死地」に追いやられているわけだ。そこで「活路」を見出すには「死の恐怖」の超克以外ない。

 

 


詩の終わり 戦前政治の復刻版で国民は死地へ追いやられる

2020年12月01日 18時14分26秒 | 政治論

 沖縄はいつの間にか、この北部の地域にも100人を超えるコロナ感染者が見られ、現在20人の療養者を数えるようになった。今玉城デニー知事は病気療養中だが、観光立県の沖縄がGoTo除外となることを望まぬ旨既に公言している。確かに県外来県者に起因するコロナはごく少数で、むしろ県内での多人数飲食等会食や家庭内感染、職場クラスタの方が際立ち、一方で感染経路不明の市中感染リスクが高まっている。当然県民は自粛的に不急不要の外出は極力避け、集団的な県内移動も多くは認められない、しかしながら。

沖縄県におけるコロナウイルス感染症陽性者の状況(2020年11月30日現在沖縄県発表)

療養中患者数403人

累積感染者数4326人

入院中219人(重症者22人、中等症65人)

  入院療養等調整中40人、宿泊施設療養中69人、

  自宅療養中75人、死亡退院69人

 何度も言うが実質こういう数値は、いずれも7月以降あるいはGoTo開始以降、爆発的に増加していることを如実に示している。

 その他本土都道府県の惨状は目を覆うばかりであることは国民皆等しく知っている事実だ。

 にもかかわらず政府はおのれらの失政を糊塗するために、そのGoToとの関連性を過少に評価しようとしているが、国民のだれもそんなことは信じない。

 同時に、明らかにこの国の政府は「何もしない」で、国民の自助努力(あるいは共助)だけを言いつのり、彼ら(公助)の発する公的な発言発表が、国民の生活生存に関わる行動に対して必ずどっちつかずの曖昧なメッセージを繰り返し出していることなど、事実上等閑に付している。

 はっきり言ってGoToは、二足の草鞋とか両是論、二兎を追うなどの譬えで、政治の機能性を素人並みのレベルで扱っているとしか言えないものがある。そこに、目に見えて行き届いた政治技術(行政手腕)などまるで見当たらず、最後は都合のいい数値を並べて「神のみぞ知る(西村担当)」あたりの学級委員会決済で済ましている。

 アベイズム・スガイズムの性格は、どう見てもその程度のレベルで事を収斂するように図らっている、という政治姿勢にしか見えてこない。

 安倍晋三の嘘つき政治は史上まれにみる犯罪事案として歴史的に糾弾されるべきであり、菅義偉の日本学術会議に対する「知」の否定という、(高レベルな専門性を度外視した)分を知らない弾圧行為は、やはり歴史的に裁かれるべきものなのだが、現行自公政権による亡国的愚昧政治、低レベルで国民不在の利権・既得権政治は、即刻退場を迫るべき重大案件だ。国民にとってそれは死活問題であり、敗戦に至る戦前政治の再現としてあの未曽有の地獄をまたぞろ味わいたいのかという話になろう。(つづく)