沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩249

2010年11月30日 12時28分50秒 | 政治論
 特措法という国家的暴力装置に対抗するのは民衆蜂起という暴力しかない。ガンジーの無抵抗不服従ではこの国は動かない。しかしながら沖縄の大同団結の実績はこと基地問題に関しては目を見張るものがあった。問題はその結果として国が大転換をしたことは一度もないという事実だ。すべてが灰色状態でむしろ真っ黒状態で事は処理された。異国人占領統治、返還、普天間そのすべてにおいて戦後民主主義は無力な実態を露呈した。国家権力が暴力的に国民を実効支配しようというときには国民は鋤鎌斧を持って戦うしかないのだ。同じ日本人ながらかくも愚かな喧嘩に血道を上げるのかといささか微妙な心境だが、生存権の主張を通すためには四の五の言っている場合ではない。それにしても戦後の重大問題を扱うのに官僚という超エリートたちの愚策失敗策誤策の結果が現在の政治経済安保の弊害を生んだという事実はこの国の知的選良たちがいかに頭が悪いかという証明である。

詩248

2010年11月30日 12時00分52秒 | 政治論
 県外移設対普天間固定化、を解決するのは安保破棄以外には現在の日本ではあり得ない。グズグズの交渉で懐柔されるのが落ちだ。アメリカと交渉する気のない菅政権では懐柔か強行突破しか方途はない。しかし強行は強烈な抵抗の中14年間できなかったのだし今後人民を殺してでもそれをするかどうか。逃げ菅でいくか、先送りか。いずれにしろ日本政府は政治の王道を進めず史上に愚昧内閣の汚名を残すしかない。もう一つは国内他県に活路を見出すかだが、他県の知事に国家100年の大計を望むのは楽天的すぎる。彼らが日米安保を根幹から論じる度量も見識もないことは、先の全国知事会が証明した。経済振興策が一部大企業や本土企業に吸い取られ地元には微小な恩恵すらもたらさなかったことを本土の連中は知らない。基地負担はどこまでいっても沖縄を苦痛のどん底に突き落としているのさ。懐柔は最早不可能かもしれない。どっちにしろ仲井真君の政治家としての最低の行為、裏切りさえしなければ、暫くはああでもないこうでもない、結局現状維持という情けない非政治時代をすごす事になる。

詩247

2010年11月29日 21時12分20秒 | 政治論
 NHKクローズアップ現代は県知事選と普天間問題を少しもクローズアップしてないし、はっきり誤ったメッセージを国民に発信していた。もう内容は忘れちまったが、公共放送のいい加減さは如実に現れていた。政治家はその言において嘘をついたら立ち行かないということを歴史が証明しているにかかわらずこの民主党も初っ端から沖縄に大嘘をついた。案の定その後の支持率曲線は大波打って転落していく。仲井真君も今は「県外移設」と宣言しているが、この公約を捻じ曲げたら間違いなくリコールされるだろう。再選挙伊波氏復活は見えている。解説委員が「アメリカは辺野古移設か普天間固定か択一だといって譲らない」と断定した。彼がどれくらい取材し情報収集し結論付けたか知らないが、通り一遍の意見なら少し慎重に言うべきだろう。これはアメリカの植民地支配の実態(脅迫と恫喝)を示しているに過ぎず(米政府要人でもあるまいし)、もう一つの選択肢、安保破棄を加えない落ち度があるし、この程度がこの国の公共放送のレベルかと大変がっかりしたのはまあ予想通りだったのだが、一方これから4年間又無駄な時間が流れるのかと暗澹たる気持ちでいるわけだ。それにしても尖閣、北朝鮮砲撃とものの見事にタイミングを合わせたものだが、こういううそ寒い心理戦もあったのだろうか。アメリカがそのどちらにも実戦モードに至らなかったのは(米韓軍事演習など後の祭りだ)どうやら安保の実態が実証されたようで、よくよく監視しないと暫くは危険を孕んだ状態が続く。沖縄の基地(九州、岩国も)が狙われ、住民被害は想像を絶した規模になりやがて本土一般市街にミサイルが飛ぶといったことも考えられないことはないのだ。にもかかわらずどうしてこの国の民はアメリカの軍事力に惜しみない依存心を示すのだろう。自分が弾丸を受けないとわからないのはまあしかたがないが、アメリカはこの国の民を決して守らないのにこのまま爆弾の餌食になってもいいのだろうか。

詩246

2010年11月28日 23時14分18秒 | 政治論
 田原君が「敗戦の総括と戦後日本の検証がされてない」といってもパネリストの誰も論及しないテレ朝朝生の無駄な論議は朝日新聞系列ジャーナリズムの愚昧さを露呈している。緊急性も緊迫感も感じないこれらの日本論壇の堕落振りには絶望感しか残らなかった。森本敏氏が唯一戦前生まれ(1941年)だが他は全て戦後生まれ、田原氏は敗戦時11歳だ。本土における敗戦の受け止めはその体験内容で様々であるし一概に言えないが戦後65年の受け止めに大きな差ができていることはまちがいない。戦後世代に戦争を語らせても少しも説得力がないのは彼らが戦争を知らないからであり、敗戦の事実を体験的に受け止め得ないためだ。そのいわゆる戦無派時代に手かせ足かせとなっている日米安保とは一体何か。彼らは成長の初期の段階ですでに安保体制という枠組みの中に組み込まれていた。しかも彼らの成長段階において安保がその実質を明白に示したことなど一度もなかったろう。いわばあって当然の状態で安保は戦無派の内に根を下ろしたのだ。しかし沖縄は同じ日本でありながら彼らの体験と真逆の環境に置かれ、安保はまさに沖縄を食い破った。米軍基地がふんぞり返った本島はその初期にはまさに銃剣とブルドーザーが住民を蹴散らし私有地を分捕り次々と基地を建設し、その殺人部隊は悪逆非道な植民主義的犯罪集団と化し、住民を陵辱しひき殺して憚らなかった。こうした実情は沖縄県民の歴史的抱懐として内地の日本人には殆ど伝わっていない。従って長じて文献から過去の事件として垣間見た人が殆どだ。その後もさして画期的な変化もなく戦後65年は、米軍機墜落事故米兵犯罪の繰り返しであり、基地被害公害は不断に沖縄を痛めつけた。その日常的脅威危険性につき県民がいかに声を嗄らして訴えても目に見える改善は一向になされていない。かくして沖縄は普天間危険性除去というプラス展開を辺野古代替施設建設というまったくマイナスの暴力で脅迫する日米政府にノーを突きつけた。この10数年にわたる沖縄闘争辺野古編には沖縄のいわば戦後65年の抑圧の政治と琉球史における侵略の実態に対する憤怒の念がこめられているといっても過言ではなかろう。

詩245

2010年11月26日 11時25分47秒 | 政治論
 他国脅威論というのは政治家乃至軍関係文民文官がなんらかの政策的妥当性に漠然とした空気感を漂わせるためにでっち上げた根も葉もないデマなのだが、古来デマゴーグは衆愚政治の常道であり悪しき先例の多々ある腐敗政治の根源といわれる。しかしながら、脅威論を煽る結果一方を追い詰め進退窮まる状況へ追い込んだとき、窮鼠猫のごとく無謀な自滅的反撃に打って出る例が実に先の大戦における日本政府であったろう。経済封鎖やその他の圧力が実質宣戦布告に近似するといわれた。真珠湾を巡る微妙なカラクリは周知の事実だ。今やこうした藪を突っつく必要も興味もない。テロが戦争定義化されて以来、あらゆる他国脅威論の花盛りだ。ブッシュの作った歴史的悪策を現今の世界が否定しきらない状況ではアメリカの一極集中軍事体制の馬鹿げた横暴こそ脅威だと思うが、彼らもさすがに財政逼迫し海外米軍基地も漸次退去を迫られ始めた。他国脅威よりも諸国民が横並びに連携するという幻想こそあらゆる欺瞞の最たるものであろう。世界の警察から手を引いてもアメリカの覇権は世界を凌駕する。古代ローマ帝国的支配が続くのだ。奴隷的にこの状態に甘んじて生き永らえることを潔しとしないなら、国家は自律性を求めて何らかのアクションを起こさねばならない。しかしもともと国家とは国民から成り立つのだから、国家の自律性とは国民の自律性であるし、個々人の自律性であろう。それも精神的な自律性のはずだ。個人における自律性は何によってその実質を評価するか。内なる規範だ。規範であると同時に自由を自ら保証しなければならない。規範と自由は一体であり不可分不即不離な関係性にある。どちらかが一方に偏するときは自律性が損なわれる。国家においてもこのことはいえる。国の規範、憲法は個人の自由と権利を保証し、本来的な義務を負わせる。国家が憲法を遵守しないか憲法解釈を誤るかまたは悪用するなら国民はその国家を機能不全として拒否すべきであろう。何よりも政治家が大嘘をつく事態を目の当たりにしているときそれが少なくとも彼らの政治理念として措定されているらしく認識されているならこの契約違反は国家的犯罪行為だといえる。殊更正論をまくし立てるわけではない。問題は国家優先専権事項などという「国家全体の視点」は同様に国民主体の視点からは絶えず検証される立場にあるということ。先住民征服思想としかいえない南西諸島安保軍事基地化の暴挙を一体どこのどいつが「日本全体の平和のために」と言えるのか。「日本全体のために」どこのどいつが「沖縄負担を各県で分担しましょう」と言ったか。性懲りもなく相変わらない昭和天皇メッセージ的反共思想を後生大事に守護している君たちが間違っている。(中断)

詩244

2010年11月23日 11時48分29秒 | 政治論
 わかるかい?日本列島の最南西端を弧状に並んだ島嶼、を軍事基地にしようというこの国の思惑は、同時にそこの住民を銃剣と手榴弾で追い出した旧日本軍同様に帝国主義であり、土着の民を戦争の脅威に曝し、懐柔と偽善とごまかしに金をばら撒く殖民主義であり、前近代的な非民主的な思考法であり、残虐で無慚な国家主義であり、そこに住む人間の基本的人権を阻害し財産権を侵蝕し生存権を無視する国家的横暴であり憲法違反であることは間違いないのだよ。無知蒙昧のやからが国内他県には沖縄の基地を受け入れるところがないなどという愚劣であきれ果てた主張を本気でのたまうとき、この国は最低の国、無様で情けない国民、というレッテルを貼るしかない。「現実主義」って、おいおい、君らはいつから政府の回し者になったのかい。前原君よ、おまえさんの師匠たる高坂氏は草葉の陰で泣いてるぜ。理念のない政治は現実主義でもなんでもない、ただの保守主義現状維持停滞是認主義というのだよ。現実主義という主義があるならそれは最初に確固たる理念理想信念がありしかるのち歴史と現実に真摯に向き合い、最善の現実的政策立案するという手続きに過ぎない。勘違いするな。この政治レベルの低さは、度し難い。

詩243

2010年11月22日 13時15分50秒 | 政治論
 アメリカの反戦運動を記した翻訳本を読みながら、その種の運動の在り様について一考を要するように思えた。アメリカの反戦運動はすでに独立戦争時に始まっていてその根本はキリスト教である。「よい戦争」いわゆる「正義の戦争」という位置づけを得た戦争における反戦思想は絶対平和主義と名づけられる。この思想はあらゆる戦争における国家的要請が国民に向けられたとき、一切の戦時的行為の参加を拒否するという行為態度に徹底する。従って場合によっては不服従による収監も覚悟される。後方支援や非戦闘的戦時協力に当たり、その主義により公機関から指定された者の反戦運動もある。更にベトナム反戦のように「悪い戦争?」と位置づけられた戦争における反戦思想は、どちらかというと人道主義にもとづくものだ。但し、第二次大戦におけるアメリカ反戦運動においてはそれが民主主義対ファシズムという「大義ある戦争」と位置づけられながら広島長崎に投下された2個の原爆や、各地で繰り広げられた凄惨な残虐な掃討戦に対し、必ずしも「よい戦争」とはいえないことを告発する形のものもある。内村鑑三の反戦もキリスト教思想によるが、日本的な反戦思想はまずその戦争がいかなる戦争かという定義づけから入る必要があろう。つまり政治批判である。この時点ですでに戦争に対する個人の在り様が問われる。自由と民主主義を標榜する国である以上国家対個人の対決は平時の政治批判からすでに始まっているのであり、日本においては日米安保に対しての個人の判断がまず問われる。もっと言えば、君は人を殺せるかという問いに始まる根本的な在り様だ。勿論殺されることもある。戦時殺人行為は極東裁判(報復裁判?)では場合によっては戦争犯罪に問われるという前例を作った。その善し悪しは問うまい。いずれにしろ戦争は個人にはある種の覚悟を強いる。(第一次大戦のころには兵士の発砲も空に向けてしたという話もある)。反戦とは宙に浮いた空論でなく単なる理想主義でもなくいわば日常の個人の在り様を問うことだ。沖縄戦という体験は個人における最大の事件だった以上、ここから発した反戦思想は何にも換えがたい。だから沖縄戦はその全容を何度でも繰り返し思い起こし語り継ぎ、話題にし問題提起しなければならない。念願された「二度と戦争はしたくないしてはならない」という訴えをいつでもどこでも繰り返し表現しなければならない。当然ながらもしこの国が恐るべき軍国化を成し遂げたとして沖縄はたとえ収監されても差別され非国民視されても絶対に徴兵を拒否すべきであろう。勿論又尖閣やら周辺有事の火種となる国の動きには常時監視の目を絶やしてはならない。戦争をしないのは当たり前で仕掛けられない外交努力は一層怠ってはならない。日常的にこれらの国家的動向を批判的に注視すること。政治批判を普通に徹底的に続けること。(中断)

詩242

2010年11月21日 10時27分48秒 | 政治論
 国防、軍事戦略、安保に関する国対国民の対立という図式は最も自然な民主的基本形態の一であり、ここに国民の主権在民に関する基本的確認の手段が赤裸に表現される。今沖縄県知事選は事実上、こうした意味での国内唯一の国家対国民という対立軸が鮮明になった、民主的必然性として位置づけられ、選挙結果が必ずしも国家的有利性を保証しない、珍しく正当なまともな選挙として評価される。民主政権は国家の代表として独自候補を擁立し得ず、事実上敗北宣言したのであり、もっと穿って言えば沖縄県民民意を無視する国家日本国という無様な本質を露呈したのだ。戦後65年の圧政の歴史はその矛盾実態をすでに広く証明済みだがここに来て日米安保そのもののレーゾンデートルがかつてない厳しい審判の場に引き出されている。一方知事選を狙ったかのように発生した愚劣極まりない尖閣イベントにより、安保の「中国脅威論」がにわかに現実性を帯び、北方領土でもロシアの不穏な動きがクローズアップされ、右翼右派ナショナリズムを刺激し、軍国的昂揚を煽っている。これが日米安保体制強化論につながるのは目に見えているが、根本的欠陥乃至アメリカ世界戦略の採算性の問題等からすればどうやら単純な衆愚制を予感させ、話にならない、相変わらず論理性に欠けた感情論を相手にしている暇は沖縄にはない。いずれにしろ精神的病態の日米の国家的現状につき早々に本質的論議を開始しなければ日本の未来はないだろう。

詩241

2010年11月20日 11時39分24秒 | 政治論
 北沢長島軍拡コンビ及び参謀本部の妄想と危険思想はシビリアンコントロールの直接の対象に認定しなければならない。こういう戦争マニアを放置しておくと図に乗ってどこまでも旧日本軍予備軍組織化を図るあらゆる工作を続けるだろう。尤も政治理念を喪失した民主政権が黙認追認する可能性も大いにあり得るので油断ならない。そもそも防衛大綱とはいったいなんだ?米軍一極支配の軍事的傀儡組織をいくらいじってもただの傭兵部隊じゃないか。その士気たるや国防精神のカスほども了解してないしろうと軍団であるし到底国民を守護する力量はない。要は税金の大変な無駄遣い、国民の怒りを買ってしかるべき体制だ。日米安保体制は植民地日本の自律的国防体制を阻害し有事の際泥沼化するべく予定不調和された体制だ。しかも本体である米軍は国防軍としては米国国防軍であり二番煎じの日本国民は沖縄戦さながらミサイル核砲弾の雨の中に放置されるがおちだ。日本国民の豪胆な精神は驚くべきものがある。戦後体制がいかに懐柔し教育しだまくらかしたかがわかる。いずれにしても空想上の戦争、仮想敵国、いわゆる空想的有事に対する国費を使った軍事的行為は生命保険のようにそのおどろくべき無駄につき認識しないと国民が損するばかりだ。戦争を学ぶということは先の大戦沖縄戦イラク戦争ベトナムアフガン等様々ありそれらのどこに視点を定めるかで一切が決着する。なによりも戦争の惨禍に叩き込まれるのは国民である。この、武器を持たず軍事知識もなく戦うすべを知らない丸腰の存在が必ず無残に殺されていくのが戦争だ。だから国民は絶対に国の軍事的強制や統制に与してはならない。翼賛する国家的動向を注視し警戒し、今や理念化した平和憲法にへばりついてでも国民皆兵を拒否しろ。

詩240

2010年11月20日 01時01分19秒 | 政治論
 政治に纏わる文章というものがかくも審美感に反するかと文学者でもないのにがっかりしているが、逆に言えば政治の世界がいかに泥沼かという反証だ。民主党政権も鳩山、菅、小沢も彼らがいかに性、悪だとしてもかくも意に沿わない政治的流転をたどるとは思わなかっただろう。彼らに同情はない。政治家は結果責任だけ追及し追究される。解散衆議院選が徐々に見えてきたとして、一体国民はこの政権にいかなる評価を内包しているのか。ある情報により一方へ流れる国民感情というものがある。支持率というのは大方こうした背景のもとに形成されるので多数決同様ある種の矛盾点を抱えている。つまりは純粋理性的には感性の気まぐれな転回によりいかようにも落着する現象界の逐一を追いかける愚は冒すわけには行かない。尖閣も中国の脅威も北の核実験も北方領土も生活者の目線でのみ論じるべきでそこに軍事や国防や政治思惑がからむと忽ちきな臭い話に転化する。今回ある一方の旗印を除外するなら概ね偏頗なナショナリズムは沸き起こらず外交的にはうやむやで終わるのかもしれないが、軍拡や軍国化の端緒を掠め取って独走する防衛大臣副大臣他自衛隊参謀などの好戦家には注意しなければならない。とりわけ沖縄はこいつらの自由自在な勝手放題を助長する情けない国体に取り込まれているのでいよいよ厳重に警戒しなければならない。

詩239

2010年11月18日 16時15分53秒 | 政治論
 安保体制及び集中米軍基地は、沖縄県民守護のためではない(在日米国民救出が彼らの任務だ)ことが明白な以上「普天間代替施設県内移設」の沖縄説得が徒労に終わることは当然の結果であり、むしろこの集中米軍基地のために戦時における沖縄の壊滅的被害の可能性も火を見るより明らかで、かつ現今米軍基地がその戦略的軍事的訓練展開により沖縄140万県民が絶えず命の危険に曝されている実態からすれば、いかなる経済振興策も沖縄特区待遇も到底基地受け入れ条件足り得ないことは誰が見ても明らかだ。しかしてかかる真実の普遍妥当性にかかわらず日本政府民主政権民主党はためらいもなく「日米同盟堅持」を謳い、日米合意踏襲を嘯き、辺野古になんとしてでも「普天間代替施設」を移設しようとしているこの事態は、主権在民の大原則を根本から否定する稀に見る国家的暴挙であることは間違いない。にもかかわらず何故この国は直ちに現状を打破し、国民(沖縄県民)のために日米合意を撤回し辺野古移設を中止しないのか。これは沖縄差別とかいう問題ではない。民主政治の怠慢、政治家の無力、政治哲学の欠如、政治理念の欠落、議員報酬泥棒、詐欺、人倫に悖る行為、気概のなさ、腰抜け、といったところの政治家の基本的資質の問題である。こういう低レベルの連中を選ばなければならない国民に同情する。(中断)

詩238

2010年11月17日 11時53分08秒 | 政治論
 オバマも菅も偽者の指導者だということは一連の彼らの発言演説動向政治情勢経済状況を眺めれば一目瞭然だが、事はそんな慨嘆では済まされない意味を持ってくることが沖縄では由々しき事態なのだ。彼らが眼高手低を標榜するなら当然ながら彼らの手低部分は国民(県民)へ開示され説明責任を必要とされる前提にある。しかし彼らのいかなる言動発言からもその意思を垣間見れない以上、彼らの現今の言動発言は彼らの眼高と値踏みしていいわけだ。つまり日米安保の深化とは沖縄過重負担の継続と更なる負担の上乗せ強化を意味する。そしてその実行に当たっては懐柔と機密費ばら撒き弾圧強行言論抑制情報誘導その他実現有効手段の一切を駆使して、国民(県民)意思を無視し、辺野古に核兵器貯蔵施設兼戦争発進飛行基地を建設する暴挙に打って出るわけだ。このアメリカの世界戦略の沖縄展開を世界のヘッポコ評論家どもは指をくわえて眺めているに過ぎない。若い学者識者あらゆる公人である言論界一切、君らはこうしたアメリカの誤った世界軍事独占非文民統制状況を何故もっと激しく行動的にしかも有効な方法で打ち崩し改変しようと潤筆をふるわないのか。世界は最早すっかり人間の本源の普遍真理追求精神を喪失し去ったのか。子供らが心から夢見るような、理想追求の希望を担う大人の、健全で明瞭な、万人が拍手する感動を呼び覚ます正当な行動を見せてくれ。まあ無理か。この、アメリカの肉食人種に鉄槌を食らわすのは巨大津波や大地震しかないのか。

詩237

2010年11月16日 12時32分55秒 | 政治論
 琉球王国の歴史、薩摩侵攻、琉球処分、皇民化教育、同化策、沖縄戦、占領統治、沖縄返還、核密約、米兵犯罪、少女暴行事件、普天間返還、辺野古、こうした事歴に関し日本人が何らかの知識を共通に持っているかというとまず沖縄の真の歴史について教科書以外の文献に触れない限り、かつ多少の好奇心を発揮しない限り、あらゆる日本人は大人も子供も全くといっていいほど沖縄を知らないということになろうが、彼らの沖縄を知るきっかけは殆ど旅情報観光知識としてであり、従ってその知識は観光化された摩文仁、ひめゆり、に代表される美化され過去化された戦争であり、他は推して知るべしだろう。こうした本土の風潮そのものが政府の沖縄政策となって実情真情にそぐわぬ結果を生んでいるということだ。これが現今の民主主義の矛盾といっても過言ではなく沖縄に関する衆愚政治といえるし、奴隷制度時代の貴族文化的発想とでもいうべき甚だしい時代錯誤を犯しているわけだ。まず人種差別民族異端視、こういう視点を現代精神が有しているということが前近代的なのだ。但し、一般の日本人がこうした視点で沖縄を見ているわけではない。これはどちらかというと人種差別の国アメリカの視点だと思われる。つまり日米安保体制とでもいうべき現今のアメリカ主導の全面的戦略に盲目に追随する日本国がこうした錯誤を自ら造出したのだ。しかもそのことを自覚しないがために負担軽減などという自家撞着を繰り返し、沖縄に関する有効な結実を見ない、消化不良な状況を脱し損ねている。しかも菅のいう沖縄独立の必然性は、安保さえなければとうに解決していることだし、沖縄の基地負担でもっている安保さえなければ独立などというナショナリズムとも縁がないのだ。諸悪の根源、それがこと沖縄に関してはまさに日米安保の真の姿だ。そして沖縄においてはこの事実が致命的な絶望的状況を示している。この傷は驚くほど深い。辺野古移設反対などというシュプレヒコールは最低限の主張に過ぎない。それさえ聞く耳を持たないこいつらは人間じゃない。犬畜生並み、それ以下だ。

詩 236

2010年11月15日 11時29分48秒 | 政治論
 ツイッターと化したこのブログの最後のつぶやきは以下の通り。
 現知事が再選されても、辺野古も県内も移設はノーとすでに確定的に県民総意として内外に示した以上、そうした事実を無視して単に県知事選の結果一つで県内ありという結論は出はしない。従って知事もこのままなし崩しに容認に転ずる可能性はないものと期待するが、一方裏切りの政治というあり得ない世界を何度も味わっている沖縄県民がそういう期待さえ信用ならぬと思うのは当然だ。本質的問題は日米政府の理念的人道的本源に立ち返った本来的な政治のあり方に思いを巡らせ、最も理想的な決着というものを心がけること、人間に戻ることだ。

詩235

2010年11月15日 11時16分13秒 | 政治論
 現実とは何か。その前では人は忍従を強いられるものか。所詮鳩山の独りよがりを真に受けてこれが沖縄の再生の機会とばかり辺野古移設反対とした多くの有志の期待と希望は結局中央政府と利権的癒着を望む保守勢力によって押し切られへこまされるというわけだ。ところで現実に辺野古実施はあり得るのか。現知事優位の選挙戦から再選を予測したとして、彼は公有水面埋め立て許可に判を押すだろうか。いずれにしろ多数決の原理というある種の暴力は民主主義の矛盾なので、これに対しては民主主義という理念から少数意見の正当性の主張以外には何一つ有効な手段はない。それにしても民主党政権が最低限望んだ現知事再選は果たしていかなる出来レースを展開するものか。今後の官房機密費多用によりまがいものの勝利を手にしたところで、「正義の戦争」という舞台では歴史的評価の一端が窺えるわけで、こと沖縄に関しては最早誤魔化しが効かないと思われるが......