沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本 12

2011年10月27日 22時16分53秒 | 政治論
 筆者はここ沖縄に移住して5年にしかならないし、しかも大変に不勉強なので自分の居住地が如何なる土地なのかにつき、恐らく多くの移住者に比しても無知の部類に属すると自負?する。まず知ろうと努力したこともないが、ウチナーグチという沖縄の方言についても全くお手上げ状態である。これを自由に操る沖縄人には殆ど敬意さえ表したい。
 沖縄は何に付けいたって平穏無事だ。ちゅらうみをみると、ここに満杯のアメリカ戦艦が集結したとは想像すら覚束無い程だ。あの戦争が現代によみがえることは沖縄の魂にとって堪え難いことであろう。
 しかるにこの国とアメリカは仮想の脅威を煽ることで無闇に神経を刺激し、思い出したくもない悲惨な戦争記憶を繰り返しほじくり出させる。つまり沖縄にとって軍事とは、安全の保障でも確保でもなくただただ一般の民衆を惨たらしく葬り去ったあの史上最悪の戦争を連想させるだけなのだ。
 しかも本土の老若男女一切合切、その(沖縄戦で実際に体験したあの戦争の)凄まじい残虐さについて、殆ど無知である。だから心にもない感謝だとか謝罪だとかいう、一辺倒な、半可通な言葉や態度で一件落着して終わる。「そうなのですがしかし日本全体の安全のためには」....この文言のなんという残酷さ。沖縄が頑迷に拒否と拒絶と反対を続けているとしか見ない。
 確実に言えるのは、この国は原発政策で決定的に亡国的錯誤を犯した、その結果ひとつの県土を殆ど永久に使用不能に陥らせ多くの「故郷を失った」民を路頭に迷わせている。これを国家的犯罪行為という。
 同じことが沖縄で66年前に参謀本部のでたらめによって引き起された。ことほどさように現今普天間問題で彼らはバカの一つ覚えを繰り返している。国家は間違える、しかも決して間違ってはならない立場にありながら「無責任ケセラセラ政治」権力はこの国を絶えず誤った方向に誘ったのだ。
 そこで琉球人民は、さすがに同じ惨苦を味合わないよう偽物情報を見破り破棄し、この日本という国家と完全に対立する道を選ぶことにした。???まだ選んではいないが。国家と対立するということはどういうことかというと、人民が憲法による人権の保証をする環境で自己実現の自由を得たということだ。つまり人民の意思が国家を凌駕し得るという意味になる。
 特措法の根拠は、明らかに誤った事態を打開するという国家意思になるが、普天間の場合、多くの年数をかけて確定的に屹立した県民意思を凌駕する国家意思はないという情勢になりつつあり、それでも強行される国家行為こそ反民主民的暴挙といえるのだ。(中断)

詩349 沖縄と日本 11

2011年10月27日 20時38分03秒 | 政治論
 よろしい。では君たちの言うこの国の安全とは一体何だ。アメリカの言うアジアの安定した安全保障とは一体誰のためのものなのか。彼らがいう仮想された敵とは当然中国と北朝鮮であり、更に想定されたテロ集団である。最初に言っておくが、君たちはアメリカがイラクやアフガン、リビアで実際に実行している戦争が現実にどういう状況を呈しているかについて知っているのだろうか。有事、有事というが例えば中国が仮に宣戦布告して開戦した場合彼らの標的、使用武器は何かと言えば当然アメリカ軍であり弾道ミサイルであろう。西太平洋の覇権を争うとすれば中国は第一に在沖米軍を狙うに決まっているが「沖縄県民」は、まっ先に「在沖米軍家族」を救出する米軍を指をくわえて眺めているしかないのだ。よーく考えてくれ。どんな戦争でも必ず軍事基地のある場所に近いほど確実に死地であることを。沖縄県民がボランテア精神で本土の唐変木どもの盾になろうというのならそれもいいだろう。日本国民の代表として立派に死んでいきますといえば君たちは満足なのだろう。軍事専門家でもないくせに日本の安全中国脅威北朝鮮の危険性などアータラコータラ抜かす連中にはほとほとあきれはてるが、そういう本土のウスラトンカチのいるおかげで沖縄が煮え湯を飲まされ割を食った歴史が日本の国家としての近代化の実態なのだよ。つまり君たちの沖縄県民に対する政府の御用聞き的な責め句は「差別」と「侮辱」と己の「無知」と人々への「無神経」という意味にしかとられないと思え。(中断)

詩349 沖縄と日本 10

2011年10月26日 17時06分47秒 | 政治論
 国会は代議士によって成り立ち、代議士は民選によって代議的に国政に関与する。この実質は結局、「民主主義」の効用を実現するために予め憲法が規定した制限措置である。
 代議士は特権階級だがその権力は憲法によって制限され、彼らは決定的に、民意の代弁者でなければならないと言える。民意の頂点は住民投票かもしれないが、それらは数次の実績を累積して、確定的に総括されたものである必要がある。
 実績的に確定された民意に基づき、国に示された普天間飛行場辺野古移設反対意見は、「国内問題」としてはあらゆる特措法の上位に置かれなければ民主的とはいえない。何故なら、民選された代議士が法案化するはずの特措法は、代議士の制限された権利(民意の代弁者としての権利)においてのみ成立可能な意味に置かれたはずなのだから。
 かくして沖縄県における県知事の許認可に集約する最高自治権は、あらゆる国家専権案件(国家の立法機関たる国会が、民意の代弁者としての権利行使に限定して、その権限が発揮される代議員のもとにあるので)に優位する。
 他の場合(突発的短期的問題)とは違うのだ(勿論この「非常事態」に対する事後的な国民意見は最大限尊重されるべきだ)。もしここで政府が、独断で知事許認可権を剥奪したなら立派な憲法違反であり、確実に際限のない国内泥沼闘争に落ち込む。沖縄を底なしの基地ストレス状態に叩き込むということだ。
 現に今「フクシマ」においてこの国は放射能問題につきダラダラと対処することで、福島県民のみならず近県各所のすべての人々を、見えざる不幸の予感のなかに突き落とそうとしている。
 アメリカのやり方は少なくとも現在のところ、日本「国内問題」として「沖縄問題」を回避しようとしているが、彼らの米国「国内問題」たる議会対策など知ったことじゃあないのだよ。ふざけるな。しかしながら己の実質を「民主的」と勘違いし、窮迫して繰り出す諸策を苦渋の決断と言い逃れ、結果的に最悪の方向を選びとるこの国の最高責任者というのは何時の場合も歴史的にしか断罪できないものか。残念ながら我々無力な人民は「非暴力」という抵抗によってしかおのれの立ち位置を選べないのだ。(中断)

詩349 沖縄と日本 9

2011年10月26日 09時45分48秒 | 政治論
 我々の立っているこの国土は、私有地も含め全て国の所有物である。それで我々は、私有地に関し固定資産税という借地料を国に支払っていると考えられるが、この原理からして、国家が専権的に有する(と言われるが法文化されてない)安全保障に関する決定権?により、必要となる土地を接収するという行為は必ずしも不当ではない。従って国家が、辺野古に米軍のための新基地を作ろうが作るまいが専権的に強制的に実行することは不可能ではないのだが、にも拘らず、公有水面である大浦湾を埋め立てる工事については当該県知事仲井真君の許認可を必要とするわけで、言わば地方自治権がハンコひとつで国家の上位に立ちうる立場に置かれるという、非常に民主的な法内容になっている。この事実に立脚すると、政府官僚が仲井真君を口説き落とせば(許認可印を押させれば)、事実上、日米合意案に沿って粛々とことが運べると考えるのは当然である。(但し、国民主権が基本である憲法理念からすれば、当該民意にあって同意が担保されなければ、同じく憲法理念の範疇にある戦争手段の放棄という国是に反する日米軍事同盟の遂行は、明らかに否定されるべき性質にある)
 完全な県内移設反対者だった伊波君を破って、同じく反対の公約をした仲井真君が知事に当選したとき、彼がかつて容認派だった経緯からこれなら落とせると踏んだであろう官僚たちが、ここにきてゴーサインを出したのは、米国防長官来日と日米首脳会談見込みを強迫的キッカケとしたにすぎない。
 空手形になることは間違いないが、彼らのしていることは「アメリカの機嫌を損ねないためには沖縄県民の反発は度外視する」という意味になる(対米施策が日本国憲法の上位にあるということ)。仲井真君の再任以来の発言態度から1年近く手が出せなかった官僚共が、ここにきて俄に色めき立つ様子は手に取るようにわかるが、そこには主権国家の威厳など微塵も見られない。
 これは黒船以来のこの国の「無責任ケセラセラ権力」実態が未だに殻をつけたひよこ並みによちよち歩きを繰り返していることを物語っている。まさか天皇にお伺いを立てるわけにもいかずこの度はアメリカ天皇様におすがりしてなんとかこの場を乗り切ろうというわけだ。ふざけたやつらだ。(中断)

詩349 沖縄と日本 8

2011年10月25日 10時06分32秒 | 政治論
 沖縄県民が普天間飛行場県内移設反対一色に染まっているなどと誰も信じてはいない。只専ら容認派の多くが利益誘導型でありしかも過去の事例から利益は必ずしも誘導されてない実態に多くの県民が気づいていることは事実であろう。
 沖縄が基地やら振興策やらで潤沢になったというならどうして未だに抜きん出て全国最低所得最低時給最低学力なのか不思議に思わないか。そして実しやかに喧伝される「抑止力」「地政学」などちょっと考えればすぐにも見破れる嘘で「理解説得」が本当に可能だと思っているのか。
 高速ジェットの時代に「地政学」云々を殊更言うにはあきれ果てたものだ。まして「抑止力」など、根も葉もないでっち上げなのは鳩山が本音を漏らしたことでも明らかではないか。彼らアメリカは間違いなく辺野古に核を持っているのだよ。だからだまされるなというのだ。そして「銃剣とブルドーザー」で「人の土地」を無理やり奪い取っていった結果としての現今米軍基地は即刻持ち主に原状回復処置をしてから返還すべきであり、それさえ遅々として進行しない状況にありながら「盗人猛々しく」辺野古に新基地を作らせろやと言っているのがこの「普天間条件付き返還」の彼らの馬鹿げたタカリ根性なのだよ。
 本土にいては決して人性的に関心も向かないこの種の問題は、結局あらゆる本土的意見の見え透いた心底が露骨に反映され、沖縄人でなければ知り得ない事柄に関する「対岸の火事」状況に左右されるという馬鹿馬鹿しさだ。ましてや東洋アジアにつき対米的に、「アジアのことはアジアに」という極めて当たり前な大見得が、為政者にはどうして切れないのか。
 イラク、アフガン、リビアの人民の恐るべき惨状を、めちゃくちゃになった生活の場を、もっと徹底的に世界中に見せなければならない。彼ら欧米覇権主義者のやっていることの実情を何よりも先に喧伝、報道していかねばならない。彼らの軍事的優位性だけを宣伝する内実のメデアジャーナリズムは大間抜けだ。益々アメリカ軍事力物量権勢を煽るだけじゃないか。「大本営発表」そのものだ。
 それにしても欧米列国の厚顔無恥は感心するくらいご立派だが、日本人は「バカとハサミ」よろしく、そろそろこいつらをもっとうまく料理する知恵やら叡智を身に付けねばなるまい。「自虐史観」とかいってる連中はどう見ても「マイナス思考」に犯された脆弱な戦後民主主義申し子たちで、彼らの奇妙な「愛国心」ではこの国をせいぜい三等国に貶める程度の、愚かしい時代錯誤に嵌るばかりである。
 沖縄は、米軍が沖縄を守護するなどという倒錯した言い分など信じちゃいないし、沖縄が本土の防波堤になることなど軍事理論的にも不可能だと知っているし、本土からおしつけてきた海兵隊がやったことは、愚連隊どもの低劣な感情に基づく犯罪の数々であり、世界中の戦争発進拠点として、沖縄人の不作為の意識において人殺しの片棒を担がせることであったし、沖縄はその事実において反戦、反軍事基地を倫理的に培養したのであり、この戦後66年の長きにわたって、数々の体験学習認識内省を繰り返し、現今過半の「県内移設反対」という民意に至ったのだ。
 それは単純な多数決ではない。民主主義ルールの遵守という愚直な誠実な対応において得た結論であり「理解説得」のレベルにない。こういう沖縄認知がないために、この国の歴代の為政者たちは頑迷というしかない、沖縄に関する対米施策に陥っているのである。根本は、戦後日本の総括的省察を真剣に実行しなかった我々国民自身が怠慢だったのであり、安保を破棄し、憲法を深く吟味しその理念性を再確認し、今後とも平和憲法に生きるかどうか(戦争手段を放棄することで永世的中立性を守り)万機公論に決し、国土防衛の自律的手段を選択すること。(中断)

詩349 沖縄と日本 7

2011年10月24日 11時05分51秒 | 政治論
 喧伝事実(新聞報道メデア情報によるが)だけ何となく追うと、パネッタ国防長官の来日は日米首脳会談の布石とみられるが、記事字面に、「沖縄県民も同意しなければならない」旨の発言が見え、朝日新聞が一種筆圧を加速したとしても、彼が所詮一川氏並みに若干専門外の気味から、本国政府に言わされた部分が勝っているだけ彼の発言の濃度はやや希少だと思われる。
 NHK報道も、数日前の7時のニュースのトップ報道で「がなりたてた」強迫性を、県民は当然アメリカ寄りの報道姿勢として受け止めるのであり、こうしたアメリカの言い分は、彼らの、日本「国内の問題」宣言に言質を取るなら、完全な内政干渉なのであり、報道はかかる微妙な問題性について報道的追究の筆勢を矯めてはならないのである。
 繰り返せば現今普天間問題の問題性は、かかって人民対国家という対立軸にあり、両者は概念上決して相容れない関係にあり、人民は国家施策を決して犠牲的に盲目に引き受けてはならないのであり、闘争は必ず自己保存原理に従い、人民は間違いなく「命懸け」になるわけだ。
 つまりパネッタの何気ない発言は、国家権力という、人民の生き血も死に血も吸い取ってはばからない、実体のない観念(国家、国策)の実行が、如何にあからさまな残虐性を帯びているかを予想させるのだ。
 所で仲井真知事の一連の政府要人との会談内容、というより言い回しに過ぎないが、気になるものを感じたのは「強行できますか」という反問である。この言い方は、知事が政府に「彼なら口説き落とせる」期待感を多少でも与えていると思わなければならないのだが、いっかな彼は真っ向から県内移設に反対していないという自己の来歴を公言しているので、どうやら「裏切りの構図」は追い込み漁並みにジワジワきそうだという感触だ。(中断)

詩349 沖縄と日本 6

2011年10月22日 09時43分27秒 | 政治論
 沖縄の本音と意気込み、真骨頂は富村順一君の著書でようやく腑に落ちた。彼の来歴を知らないが、彼が専ら言おうとしていることは、素っ破抜きといっても至極当たり前のことで、もともと文化的異域である琉球と日本が、正当にして公平な待遇の下、共生することなど不可能であり、所詮征服侵略者たる薩摩以来のヤマトウが優越して沖縄支配に地道を上げた近代があり、同様に世界の征服侵略者たるアメリカがこれに替わって戦後の沖縄は勿論日本までも囲い込んでいるわけだ。
 つまりは沖縄の悲劇的歴史の大部分が明らかにヤマトウとアメリカによってもたらされ、どちらかと言えば中国・朝鮮・台湾に文化的風土を馴染ませている沖縄琉球にとって、大戦における(琉球ははるかに薩摩侵攻まで遡るが)被侵略者の仲間として数えるべき実質にあると言える。
 アメリカが沖縄読谷村岸上陸と同時に占領府を設けたことにも彼らの「分捕った」という意識は如実に現れているし、その戦果意識は戦後沖縄施策を現在に至るまで貫いている。(辺野古固執はそればかりでなくここに核兵器貯蔵事実が隠されている事情にもよるのだが)普天間問題はこうしたアメリカの単なる軍事用不動産処分という位置づけにより「人間の住む島」から「人間」を度外視し「生活空間」を軍事演習用途に替え。中国北朝鮮が恰も攻撃してくる「かのように」見せ掛けた、所謂対仮想敵「抑止力」「地政学」を論い、もし一旦戦闘体制に入れば間違いなく沖縄島嶼が、まっ先にそのミサイル等攻撃対象になる恐るべき事実を伏せおき、沖縄県民をだまくらかして、いってみれば大戦の再現を味あわせようとする自身の予定犯罪すら等閑視して、現在に至ったのだ。
 沖縄県民よ騙されるな。フセイン、ビンラデン、カダフィ等はアメリカ報復人殺し似非クリスチャン共が己の復讐心を満足させるためだけに血祭りに挙げたのであって、世界の反米憎悪心はこうした一連の欧米制服者行為によりいよいよ益々膨張するだけなのだ。。つまり彼らアメリカの世界制覇企画者どもは、かくして戦争を拡大する口実作り(つまりは軍産複合体として)にこれを利用している。イラク国内をめちゃくちゃにし、アフガンを一触即発の危険地帯にし、次には中国北朝鮮をターゲットに日本沖縄を巻き添えに(おのれの本土は安全無事なまま)金が掛からぬ寄食者用心棒まがいに、日本政府から多額の金品権利(地位協定、思いやり予算、グアム移転費)を引き出して戦争準備に勤しんでいるってわけだ。ふざけた話だ。(中断)

詩349 沖縄と日本 5

2011年10月19日 12時40分28秒 | 政治論
 何が引き起こされるかわからない日本グータラ政治環境のなか、野田政権がここにきて繰り出す沖縄施策は沖縄県民の神経を逆撫でし、彼らに対する、何をするかわからない「暴力団」を見るような不信感はいよいよ最高潮に達する気配だ。相変わらず朝日も毎日も中加減な政府寄り社説を掲げているが、他党に期待感がない以上この国の舵取りをオッカナビックリ任している実情では筆鋒も鈍化する一方ではある。民主主義を多数決原理で諦観するジャーナリズムは必ず事大主義に陥る。反対する塊を「社会党だ、共産党だ」といって揶揄していた時代にはまだ政治に微小な期待感もあったのだがここにきてあらゆる左翼的言辞や塊を木っ端微塵に打ち砕いたこの国の公明党並みの宙ぶらりんインテリジェンスからすれば保守右傾化とばかり断じる気力も失せる。一億総右翼たる日本人に何を求めるのか。筋道も論理も義はもちろん人情さえないこいつらに沖縄は全国最低所得最低時給最低学力を引っさげて優勝劣敗の荒波に抗して生き馬の目を抜く世間を見ながら琉球の華を愛でる以外方途はないのです。さもあらん、明らかに愚弄しているヤマトウの遣り方をためつすがめつしてみても琉球の果てしない受難の歴史はいよよ益々顕在化するではないかいな。アメリカに媚び諂い主体外交を実践できない日本人が、自力で己の安全も守れない腰抜けが「アメリカとおいらで決めたから従って頂戴」といえた身分か。思い余った名護市長はこうなったら沖縄の政治力を結集してアメリカ政府に直談判しようじゃないかと提言したというが果たしてどうか。外務防衛官僚が「まだ沖縄に甘い顔を見せるな」とオバマに言ったらしいがこいつらの頭の中はどうなっているんだろう。まさかていのいい政治パフォーマンスを画策してるんじゃあるまいし、どうせ密約まみれの条件付き妥結なんてところと思われるがいずれにしろ人馬鹿にした話だ。やってられない。県知事仲井真君はイタチの最後っ屁をひり出して逃げ了す手はずじゃあるまいな。それとも「苦渋の決断」よろしく眉間に皺を作って「政府のゴリ押しに負けました」とでもいうのかな。リコールして伊波君かつぎ上げ今度こそ徹底的に沖縄県政真骨頂を見せてくれまいか。仲井真君がどうやら足元見透かされ切り崩し可能とやつらが踏んでる様子なので、こういう筋書きを考えたくなる。どっちにしろ愉快なことではない。(中断)

詩349 沖縄と日本 4

2011年10月18日 10時59分49秒 | 政治論
 民主党の外交べたは国内沖縄県に対しても同断である。アメリカに追い詰められた政治家が外務防衛官僚のいうままに沖縄詣でを繰り広げている。彼らが期限を切って実行しようとしたことで沖縄を実質動かした事例は一度としてない。彼らは「言うだけ」なのだ。少なくとも普天間移設が辺野古に受け入れられる可能性は理念上からも有り得ない。戦後占領者アメリカが「銃剣とブルドーザー」で民間人の土地を我が物顔に収用していったときには彼らの犯罪的強要にどうしようもなく服従させられたが今や地方分権地方自治が喧伝され剰え民主主義を標榜する国家群にあって地元の梃子でも動かぬ民意に逆行してまで植民支配思想を伝播しようとしている米帝国主義などなんらの「義」も立たぬことは本土の無神経でなくとも火を見るより明らかではないか。にも拘らず「人の土地」に勝手に入り込んで強盗並みに「普天間固定化」なんぞと恫喝するヤクザ国家指導者連中に沖縄を蹂躙されてたまるか。すでに環境問題、財政危機、沖縄自律機能確立等あらゆる文民レベルで拒否断罪追放の民意が示されているにも拘わらずのさばりかえっている海兵隊犯罪助長集団は永久に地上から消えてくれ。こうしている間にも統制の効かない在日米軍基地公害垂れ流し現状は民間の土地を浸潤し使用可能期間を含めれば返還してさえ数十年は死んだ土地になることは「フクシマ」と同じだ。アメリカが日本を汚した張本人であり住民を土埃とともに蹴散らしたのも彼らである。ヒトラーのホロコーストより残忍なのは彼らが自身の犯罪に気づかないという事実である。剰えオバマに至っては「正義の戦争」の正当化による戦争の正当化を喧伝し自己正当化しかつ自身を「正義」とし数多の不当行為については目をつぶる。オバマの不人気は大馬鹿ブッシュより根が深い。彼は「核廃絶」を唱えたその足で広島に行き慰霊塔の前にひれ伏すべきだった。同時に沖縄「平和の礎」に額づき自分の先達が原因を作った国際法に反する戦後の行為を謝罪すべきだった。いずれにしろ普天間移設が沖縄県に実施されるのは沖縄のアイデンティティはおろか人間性すら捨て去る意味となる。その証拠には沖縄県知事が公有水面埋め立て許可に判をつかぬ限り彼らはこれを実行できないのだ。しかもすでに沖縄県民総意が原則基地反対普天間県外追放国外放逐軍事基地撤去の理念に結束している以上、最高国家専権事案の合理性を開陳したうえで経済振興策で札びらきるのでなく軍事優先意義をもって住民保護自然保護の完全なる国家方針を示さなければならない。しかしながらこの国がこうした政策を本気で法案化する可能性は少なくとも沖縄に関しては絶対的に有り得ない。従って彼らの言う説得とはその時々の首長たちの渋々の条件付き妥協を引き出しただけで恐らく現在前原北沢らがしていることにも明らかなように住民説得でなく前任者糾合という愚劣極まりない低レベルにして卑劣な裏工作に堕したと言える。日米政府が最終手段を講じたとき世界中が格差是正金権政治撤廃を叫ぶのに呼応して沖縄中が暴動と混乱、無政府状態に陥るだろうがそれは単に戦後日本の総括的メス入れの序章にすぎない。(中断引き続き)

詩349 沖縄と日本 3

2011年10月14日 09時40分00秒 | 政治論
 智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。
 知情意活動である人の世の不如意を慨嘆し身の置きどころなく窮迫した挙句は詩や絵にレーゾンデートルを醸し出すという漱石の草枕は勿論奇妙奇天烈な「義」なんてものには一顧だに与えはしない。外国人講師をして学生中ただ一人モラルバックボーンを持つと言わしめた漱石の生来の道徳的高踏さは彼の意思とは関係なく彼の人生も文学も「国民作家」たらしめる肉体に裏打ちしたのだった。
 追い求めず語られもしない「義」とは漱石において何だったのか、風流に遊び詩歌に興ずるだけのものならば「則天去私」はいらなかったろう。「門」の前に佇んで日暮れるのを待つ者が「私」を捨てる道理はない。「こころ」の先生は明治に殉じるにしろ若い世代がこれを是とするはずがないと自問する。一時代に極限して生死をつぎ込むという当たり前のことがわからなくなっている。
 「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可也」は、道学者先生の単なる覚悟の意気込みだけではあるまい。「義」は重い。丁度この身に係る重力分だけ重いのだ。
 政治的時代ははからずもあらゆる価値を淘汰した結果「義」を析出した。しかしヤクザでさえ「義理と人情」の義理の方を取る。このドマグレ連中が、裏街道において一文の得にもならぬ「義理」を押し立てる理由は歴然としている。裏切りとハッタリだけがまかり通る「命がいくつあっても足りない」ヤクザ社会で、全てを淘汰した先に見えた唯一の価値?が「義理」だった。
 しかしながら我々の社会はむしろ信用、信頼、共依存の関係でつながっている。だから極論された「無私」の境地というのは門内(出家)にしかないと誰もが思う。
 沖縄にある「共生」の意思は共死とも通底し、本土で考えられるところの「無私」が、ここでは共同体(ユイマール)において実現される。集団強制死は恐らくその実質を無残にも実証した実例として見られる。勿論皇国美談でもなんでもない。天皇乃至天皇制があってもなくともそれは起こり得た。但しその死は間違いなく日本軍の存在によって社会的に顕現したのであり、住民意思によって単独では決して起こり得なかったものだ。勘違いするな。
 漱石に戻ると、彼が時代的に差し掛かった近代日本の精神的拠り所を個人主義というものに求めたのは間違いないだろうが、晩年の境地たる「則天去私」はその昇華と見ていいかというといささか疑問なしとしない。彼の個人主義は多分「私」主義でなくむしろ福沢諭吉の「独立自尊」に近い。つまり「則天」の私は初めから淘汰され捨てられた私であり、個人主義は同じく私を捨てた実質としての個人、つまりは社会的人格についての思潮媒体と言える。では漱石の「私」とは何か。
 「自由」であろう。とすれば、「去私」における捨てられた「自由」が憧憬する対象である「天」とはなにか。後世の解釈はこれを文人としての漱石に極限しているらしい。あるいは「天」を自然天然とする。もし自由に解釈できるなら例えば「天下」としてもいいわけだがまさか「天皇」ではあるまい。あるいは老荘的な境地かもしれない。
 いずれにしろ「天」は「私」に対峙しこの世ならぬもの(精神)を暗示する。「神」かもしれない。超越的価値。関係それ自身に関係する関係。
 三島が天皇に仮託したとき彼は「いわく言い難いもの」を「天皇」に回避した(と思われる)。但しそれが日本人の国民的心性に合致しているとしても恐らく民衆には無縁である(民俗学は天皇を学的対象とはしなかった)。あらゆる政治的プロパガンダというものは、この「名付け得ざるもの」を、現実的に具象するものには仮託すべきでないと何となく思う。戦後教育は結果的にあらゆる復古主義に警鐘を鳴らす方向へ人を導いた。だから三島由紀夫の「義」は「虚」としてのみ有り得た。不如意ではなく不条理でもなく、不可能という「虚」である。(中断)

詩349 沖縄と日本 2

2011年10月07日 10時07分47秒 | 政治論
 歴史認識としての日本(日本本土、ヤマトウ)と沖縄が同一地平にないという通観から「日本と沖縄」という場合どうしても「日本国と沖縄琉球」という対立概念を想定せざるを得ないことは多少でも沖縄を知る者には了解出来る話と思料する。この時47都道府県の残り46箇所において自分の地域が、あらゆる観点から、沖縄と同一な日本人感覚にあるとは夢にも思わないほうが良い。そしてここが重要なのだが、日本史上数限りなくあった「差別」の被害実例の多くは「アイヌ」を除けば同一民族的問題に収束しないこともないことは歴史が証明している(問題、ハンセン病)。つまり歴史経過上に生じた、なくともいい愚劣にして卑小な人間的業(ごう)に属する大規模な感覚感情的集団イジメこそ沖縄問題の根源なのだ。そこには薩摩の侵攻により服属させた歴史的成果感覚、江戸幕府幕藩体制に後発で組み込んだという異民族意識、そして琉球処分により軽視された文化的独立性が日本における沖縄問題の根幹といえる。彼ら(為政者)は沖縄認知において決定的な本質的無関心から一歩も出ない。何故なら彼らにあるのは全県同一地平上の沖縄県でありその線上にない一切について度外視する傾向にあることは間違いない。しかも同一地平にない沖縄琉球こそ沖縄の真姿でありここを欠けば実体のない行政単位をずっと相手にしてきた日本政府並びに日本人(ヤマトウ)がいたという有様だ。沖縄戦は何度も言われるように日本帝国が国家として引き起こした戦争(それは言い訳ならぬ侵略的覇権主義に基づく東亜施策に依ってアジアを凌駕しようとしたことから派生して欧米列国特にアメリカを刺激し同時にアメリカの国情に基づいた陥穽構図に嵌められ、神州幻想錯誤をもってこの国を誘導した最高戦争責任者たちにより雪崩のように自滅行為に走った結果である)、即ち日本(ヤマトウ)が勝手に始めた愚劣きわまりないイクサに巻き込まれた国民的被害の代表であり、もし負の遺産というものがあるのなら東南アジア、中国、朝鮮同様に沖縄もまたこの国が後世まで負うべき負の遺産、そのものに違いない。如何に歴史改竄の企てを彼ら性懲りもない右翼連中がしようとしても現に被害実例が脈々と息づき語られている以上消しようのない実態にあることを認めるほうが潔い。それとも精神的価値としての「ヤマト魂」を持っているというならば、生き続けるなら贖罪を、そうでなければ自死すべき事態であろう。いずれにしても歴史的真実をねじ曲げようと画策しても所詮悪あがきにすぎず本質的問題解決には決してなりはしない。一方「天皇制」だが、総論的にいえば沖縄でもヤマトウでも天皇は、日本の近代化を当初において歪めた実質であり、未曾有の国難(敗戦)を誘発した最大の張本人であり現代日本にとって全く必要とされない制度、機関、理念、支柱、国家的役割である。因みに天皇家について直接的遺恨をたたきつけた沖縄の思潮も過激にして真っ当な真情が溢れているが、「天皇制」に否定的でも「天皇」という個人または一人間につきその首を刎よという意見は僅少かなと思われる。その間の詳しい実態は知らない。大宅壮一の「動物的忠誠心」は彼一流の単純化だがどうも実際はもう少し複雑で琉球本来の共同体思想とニライカナイ信仰がからみ、強制されたにしろその「死」はむしろ「生」同様すでに昇華された精神的価値として贖われており、残余はそれを第三者がどう評価するかにかかり例えば歴史捏造集団がこれを「英霊」死、「皇国美談」化するようなことだけは忌避すべきものと思われる(そこにある琉球精神への差別行為を見逃すな)。(中断)

詩349 沖縄と日本

2011年10月05日 10時15分55秒 | 政治論
 自殺した芥川龍之介の我子らに当てた遺書に人生は死に至る闘いでありこれに敗れたなら父のように死ねという箇条があるが、人生に敗れるとはどういうことかと考えるに例えば敗北とは敗北感のことだとかいう小林秀雄の評言も気になるが敗戦当時日本人は一体国が戦争に負け己のよって立つ地表が必ずしも法的保証のもとに置かれない状態で「国の敗北」をどの程度自覚していたのだろうか、あるいは如何に自己深化する内容で敗戦を受容したのか、天皇制国家の国家が勝手にはじめ勝手にこけた戦争がまるで無関係な外的境遇のように見られたのかもしれないとしても皇民化教育の所為で制御され操られた体験として覚醒したとしてもそれだけでこの国の敗戦が何事もなかったかのように過ぎ去るようなことは国としても個人としてもないのだし10年、15年かけて通常以上の大飛躍を為し遂げた経済大国はそのことによって「成功者」面しそこからいくらか、重大な、国家としての敗北を薄く帳消しにした戦後日本の日本人の「お調子者」的浮薄傾向を見るというのは必ずしも不当ではあるまい。我々戦後世代は少なからず自己認識的に例えば明治の精神なんてものを想定し上述した芥川の言辞などから遠く精神的乖離を遂げた結果いかにも堕落した又は人間としての値打ちを下げたという意識がないこともない。例えば芥川の自殺を「敗北の文学」と評して断裁した宮本顕治において我々は自殺を敗北とししかも誰にもついぞ正確には理解されない理由で死に得る文化人というものがあることを象徴的に垣間見たとき(こじつけとでも言うしかない論評は数あるが)カフカのいう「この世には精神の世界しかない」事実に思い至り命より重い価値があるのじゃないかと考えるほどに今次大戦の「敗北」の重大さをあらためて受け止め直す気にさえなるのではあった。生き残るべきでない、「敗北したら滅びるべき国」がやまとだましいを論う資格はないし朝鮮民族が今更に反日言行を繰り返しても言い返す背景はないし、大震災にうろたえてろくな施策も打ち出せない政府の実態もなんとなく当然の体たらくと思えるし、アメリカの言いなりに半独立国体制で戦後少しも自律的精神に裏打ちされた目覚しい改変もこれなく経過した理由もさもありなんという感じであるし、沖縄が被っている琉球処分以来の近代日本における情けない仕打ちもまた戦後少しも改善されたことはなく、中空に吊り下げられてフラフラ風まかせに揺さぶられ続けている現状は、この国自身の情けない内情そのものの露骨な反映としてしか見られないのである。滅びてこそ価値のあるものがあるとすればあらゆる粉飾を取り払ってこの国を振り返るならそこに「敗北」し得るほどの価値として自身見出すべきものを見るのではないかとあらためて眺めるとむしろ空虚しか広がらない絶望感だけが残る。馬鹿に付ける薬はない。笛吹けど踊らず。馬鹿は死ななきゃ治らない。折角神が多大な犠牲を払って手を下した恐ろしい事態に直面したのにこの国は公務員宿舎建設にさえ机を叩いて「バカを言うんじゃない」と建設中止売却決定判を即断で突けない。福島県民と周辺住民を恐怖のど真ん中に放置してさえ愚にもつかぬ区域解除で収束に向かっている「かのように」めくらます、こういう官僚的事務的思考法がまかり通るこの国の土性骨も見えてくる。この先この国はこの「滅びるべき」実質とどう向き合いうるのか、暗澹たる思いに心胆寒からしむ以外方途はない。(中断)